哀歌   作:ニコフ

9 / 28
5話 マーキング 後編

 

 その夜。夕食も食べ終わり、穏やかな時間と紅茶の香りが漂う阿笠宅。せっせと洗い物をする博士に、ダイニングで食後の一服を堪能する灰原。伊吹はリビングのソファで脚を組みアメリカからの輸入物である雑誌を眺めていた。

 じっくりと文字を追うでもなく、軽快にページをめくっていた伊吹の指がピタリと止まった。そこには金髪碧眼のグラマラスな美女が水着姿でポーズを決め、こちらを色っぽい目で見てくる。伊吹が目を細めてそれを見つめているのは、写っている女性が好みだとかいう理由ではなく、その女性の明るい金髪と青い眼にベルモットの事を思い出したからだ。

 彼女と仕事をした昨夜の事を思い返す伊吹。そこで彼女に詰問されたこと、自分が敵を射殺できなかったこと、そしてあの時一瞬頭によぎった灰原の悲しげな顔が頭の片隅に蘇る。

 

「信用を勝ち取れ……判断を間違えるな」

 

 無意識に、ぼそっと零すように呟く伊吹。「潜入任務に自分は不適格かもしれない」と、グラビアのページをぼーっと眺めながら考えていた。

 伊吹が背後に気配を感じハッと振り返ると、そこには冷めた半眼で伊吹を見つめながら立つ灰原の姿が。伊吹は昨夜の事を思い出して物思いに耽っていた訳だが、灰原からは“セクシーなブロンド美人の水着姿に鼻の下を伸ばしている”ようにしか見えない。彼女が何を思っているのか、その氷のような目から察する伊吹。

 

「どうしたの、続けなさい」

「いや、違う。そういうのじゃなくて」

 

 彼女の軽蔑するような視線と底冷えするような声に、慌てて誤解を解こうとする伊吹。そんな彼の言葉を無視するようにそっぽを向いて視線を外し、不機嫌そうな力強い足音と共に自室へ戻ろうとする灰原。伊吹が雑誌を片手にその後を追う。

 

「いや、多分誤解してる。哀が考えてるようなのじゃなくて、ベルモットのこととか思い出してて」

「……っ!!」

 

 その一言に鋭く目尻を吊り上がらせて、憤怒に染まった怒りの顔で振り向く灰原。「あ、違っ」と、あたふたする彼の手に掴まれた女の写真が視界に入る。伊吹を一度睨んだ灰原は、一言も言葉を発することなく部屋へと入り、投げつけるように目一杯の力で扉を閉めた。伊吹はその不機嫌さを表したような大きな音に思わず目を瞑り、風圧に前髪がそよぐ。

 

「あのー……」

「……」

 

 恐る恐る発せられる彼の力ない声に、彼女の返事は返ってこなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後の休日のこと。青い空に緩やかな風が吹くお昼前の時刻。人気のない河原には阿笠博士と少年探偵団が集まっていた。それぞれの手には各家から持ち寄ったと思われる古い新聞や雑誌がある。

 

「焼き芋するには季節外れじゃねえか?」

 

 コナンが呆れたような声で、今回メンバーの招集をかけた灰原へと尋ねる。

 

「いいのよ。博士の発明の実験が目的なんだから」

「焼き芋、楽しみだねっ!」

「おう! 食うぞー!」

「元太くんは、食べ物のことになると特にパワフルですね……」

 

 阿笠博士が研究中の発明品とは、ものを燃やした際に発生する“煙の流れを制御する”というもの。その実験を兼ねて、せっかくならということで、子供たちを集め焼き芋をすることにしたのだ。

 

「みんなの家から燃えそうな古新聞なんかのゴミを持ち寄ってね。うちにもちょうど燃やせそうなゴミがあったから」

 

 灰原が淡々と話しながら持ってきた雑誌の束をドスンと置く。その態度にはいつもよりも不機嫌さが見えていた。

 博士がキャンプ道具を使い慣れた手つきで焚き火を起こすと、小さな煙が立ち上る。

 

「ようし、それじゃあみんな、持ってきた燃えるものを入れていくぞい」

「「はーい!」」

 

 火が安定したところで博士がアルミと牛乳パックにくるんだ芋をセットし、子供たちがはしゃぎながらそれぞれが持ち寄った雑誌や新聞などをばらして投げ込む。

 そんな中、不機嫌そうな半眼の灰原が広げた雑誌の山に全員の視線が集まった。それは紛れもなく伊吹の部屋にあったものであり、その中には先日の夜の雑誌も含まれている。雑誌には決して18禁となるようなものは含まれていないが、表紙や中のグラビアにはきわどい水着を着た金髪のセクシーな外国人女性の写真が多数掲載されていた。

 その雑誌をどこから持って来たのか知っている博士と、すぐに察しのついたコナンは苦笑いを浮かべ、子供たちは思わず顔が赤らむ。

 

「……」

 

 一言も発することなく、無表情のまま灰原が黙々と雑誌を火にくべていく。次々に入れられる雑誌に焚き火は勢いを増し、大きく膨らむ。しかし冷え切った彼女の顔を溶かすことはできない。

 全ての雑誌を火に投げ入れた灰原が木の棒を片手にしゃがみこみ、変わらぬ無表情と冷め切った目で焚き火をつつく灰原。棒を頻繁に動かして突き刺すその動作は芋の焼き上がりを待つというよりは、ゴミに対して「さっさと燃えろ」と言っているかのようだ。

 

「哀ちゃん、怖い……」

 

 思わず呟く歩美の言葉に一同が頷いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おー、ここでやってたんだ」

 

 ゴミも一通り燃え尽き焼き芋が出来上がった頃、煙の匂いに釣られるように土手沿いの道から買い物袋を片手に持った伊吹が現れた。博士とコナンの苦笑いが彼を迎え、灰原はどこかスッキリしたような満足気な顔で両腕を組み燃えカスを見下ろしている。伊吹の登場で先ほどの雑誌を思い出したのか、子供たちは思わず顔を赤らめる。場のおかしな雰囲気を察するも、全く身に覚えのない伊吹に歩美が詰め寄る。

 

「伊吹お兄さんさいてー!」

 

 伊吹の顔を見て先ほどの雑誌の写真をより鮮明に思い出したのか、顔をさらに赤く染めた歩美が伊吹の心を抉り、フンっとそっぽを向く。

 

「ええ、なに、どしてっ?」

 

 現状を把握できずおろおろと両手を動かしなが困っている伊吹に「可哀想に」と同情するコナン。

 

「あ、ほら、ジュース買ってきたよ、うぇっ、げほっ」

 

 物で釣ろうと袋の中を漁る彼に、焚き火の煙が襲いかかった。緩やかな風に乗って漂うところを見るに、博士の発明は失敗したようだ。

 しばらく燃え続けた焚き火の跡から転がすように焼き芋をほじくり出し、素手でも持てる程度に冷ましてから灰原へと差し出す伊吹。

 

「ほれ、ホクホクに焼けてるぞ」

「要らないわ、焼き芋が目的じゃないから」

「え、じゃあなんで焼き芋してんの? 季節外れじゃね?」

「……博士の発明品のテストよ」

「へー」

 

 まぶたを閉じて腕を組んでいた灰原はチラリと伊吹の顔を見つめ、「ゴミを燃やすため」という言葉は飲み込んだ。

 その日の夜、暇つぶしに雑誌でも読もうとした伊吹だったが、自室を探しても一冊も見当たらない。「あれー?」と頭を抱えながらリビングへ顔を出し、灰原に雑誌の所在を尋ねた。しかし彼女はソファの上でうつ伏せに寝転がり、肘をついて雑誌を見ながら「知らないわ」と言うばかり。パタパタと足を動かしながら、いつものつまらなさそうな顔に薄らと満足そうな笑みが浮かんでいたことを伊吹は知らない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 深夜2時、街は静まり返る丑三つ時。虫の声も聞こえない静寂の中で伊吹は真っ黒なスーツに着替えていた。音で同居人を起こさないように細心の注意を払いながら自室のドアを閉める。チラリとリビングの方に目を配ると、室内に薄暗い明かりが灯されていることに気がついた。足音を殺してそっとリビングへ入ると、そこには寝巻き姿で眠たそうに目をこする灰原が水を飲んでいた。

 

「起きてたんだ」

「……トイレにね」

「ちょっと出かけてくる」

 

 彼の言葉と着込んだスーツ、こんな時間にこそこそと出ていこうとする様に、外出の目的と密会するであろう相手に見当を付ける灰原。玄関で黒光りする革靴を履く彼に「ちょっと待って」と呼び止め、パタパタと駆け足気味に自室へ戻る。1分と待たずに戻ってきた彼女の手には、なにかの液体が入った小瓶が握られている。真剣な顔つきでそれを伊吹へと吹き付けると、辺りは爽やかな柑橘系の香りに包まれていく。どうやら彼女の香水のようだ。

 

「こんなにかけるものなの?」

「ええ」

 

 この手のことに疎い伊吹でも「かけすぎでは?」と疑問に思うほど、灰原は香水をプッシュして伊吹に浴びせる。

 自分についた香りを嗅ぎながら困惑したような表情を浮かべる伊吹。香水を吹きかけただけでは安心できないのか、灰原の顔は晴れない。彼女は不安そうに少し眉を垂らし、何か言いたげな顔で伊吹を見上げる。灰原は指先でそっと伊吹の裾をつまんで引っ張り「しゃがんで」と小さく囁く。伊吹がゆっくり腰を下ろし、その場にしゃがみこんで灰原と目線を合わせる。すると彼女は糸が切れた人形のように力なく、倒れこむように伊吹へもたれかかった。それをビクともせずに軽々と支える伊吹。

 腕を伊吹の後ろに回すことはなくダラリと垂らしたまま、伊吹の右肩に自分の口元を当て、その体温を楽しむ。

 そっと頭を動かして顔を上げる灰原。揺れた髪と彼女の吐息がくすぐったいと思ったのも束の間、伊吹は首元にチクリとした痛みを感じた。灰原の唇が伊吹の首元に吸い付いている。彼女の暖かい口と濡れた舌が伊吹の首から離されると、そこに真っ赤な“マーキング”が施されていた。

 彼の体をぐっと押すようにして、自分の足で立つ灰原。その両手は伊吹の厚い胸板に触れたまま、彼を上目遣いに見上げる。恥ずかしげに薄らと頬を朱に染め、目は満足そうにキラキラと光り、口角は楽しそうに吊り上がっている。照れたような、勝ち誇ったような、いたずらっぽい表情を浮かべ、珍しく感情をクールに隠しきれずに溢れ出しているようだ。

 

「いってらっしゃい」

「い……いってきます」

 

 首元を押さえてキョトンとする伊吹だったが、普段見せない灰原の感情豊かな顔に思わず心がドキリとして暖かくなるのを感じた。思わず口篭ってしまう。

 満足そうな笑みを浮かべて手を振る彼女に、伊吹は思わず手を振り返してぼーっとした表情のまま阿笠宅を後にした。

 彼を見送った灰原はドアの鍵をかけ、玄関の電気を消す。もう一度寝ようかとも思うが、自分でも意外だった自身の行動に驚き、目は完全に覚めてしまった。微かに熱を感じる頬に右手を当て、瞳を閉じて自分を落ち着かせるように一息吐く。しかし鼻をくすぐる爽やかな柑橘の香りに気づくと、彼から移されたものだという事実に先ほどのことが更に鮮明に思い出され、頬の熱は一層に増す。彼とお揃いの香りだということと、その香りに包まれて首に赤い印のついた伊吹を見たときの“あの女”の顔を考えると、思わずニヤつきそうになる。

 そんな自分の頬を両手で包み、吊り上がりそうになる顔を落ち着かせるようにマッサージしながら、リビングのソファに座り込む灰原。今の自分の顔は彼にも、誰にも見せられないと思いながら、落ち着くまでリビングで頭を冷やすことにした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 午前3時頃、先日と同じ港沿いの道を1人歩いている伊吹。眠りについた街は静まり返り、信号は赤く点滅している。

 伊吹は先ほどの灰原との出来事にぼーっとする頭を冷やすよう深呼吸を繰り返す。静かな街に自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえた。ベルモットに会う前にスイッチを切り替えなければと、ざわつく心を落ち着かせる。誰もいない歩道に1人立ち尽くし、しばらく俯いていた伊吹がゆっくりと顔を上げたとき、その顔は無機質な“Coke”のものへと変わっていた。

 

「Hi,Coke! 今日も時間ピッタリね」

「どうも」

「あら……?」

 

 先日と同じ港のコンテナ横で落ち合った伊吹とベルモット。前と同じように暗闇が辺りを包み、オレンジの照明だけが辺りを照らしている。ベルモットは今日もボディラインが強調されたライダースーツを着込み、後ろにはハーレーが停まっている。足元にはまだ1本も吸殻は落ちていない。

 音もなく港に入って来た伊吹に気がついた彼女が、変わらぬ甘い声で呼びかける。タバコを投げ捨てて彼を見ると、すぐにその首元に赤いマーキングがあることを目ざとく見つける。

 どこか気に食わないような顔でニヤつきながら、しなやかな足取りで伊吹へと近づく。1m程の距離まで近づいたベルモットが両足を広げて堂々と立ち、腰に両手を当ててお辞儀するように体を曲げる。伊吹の首元や顔を下から覗き込むように見上げる。

 

「ふーん……、……あら?」

「……」

 

 目を細め広角が上がってはいるものの、ベルモットの表情は愉快そうなものではない。彼の首の痣を見ていた彼女が何かに気づいたように鼻をヒクつかせる。もう半歩近づき、伊吹の腰辺りから首元まで顔を滑らせながら匂いを嗅ぐ。先程までのニヤついた笑顔は消え、彼女の眉間にシワが寄る。隠す気もない不快そうな顔はまるで不機嫌な犬か狼のようだ。

 

「あなた……すごく臭いわよ?」

「え……、そうですか」

 

 思わず自分の匂いを嗅ぐ伊吹。すっかり自分の鼻は慣れてしまっているが、やはり香水を付け過ぎなのではと心配になる。

 そんな伊吹に目を細めて小さく微笑むベルモット。どこか挑戦的な表情が伊吹の顔を捉える。正確には彼の香りの向こうにいる女の影に、その目は向けられているようだ。

 舐めるように見つめてくる彼女の瞳にどこか気まずさのような、居心地の悪さを感じる伊吹だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ちょっと走らせてくれない?」

「ええ、いいですけど」

 

 今夜の取引では前回のようなトラブルもなく、滞りなく終了した。取引相手もベルモットの色香に、気持ちだらしのない顔をしていた。しかし表情にこそ出さなかったが、今夜の取引中ベルモットはやけに不機嫌に見えた。いつもの余裕の微笑みも、目は深く冷たい深海のようだった。

 仕事を終えた2人が颯爽とバイクに跨り、夜の帳へと消えていく。伊吹が運転をし、ベルモットとタンデムで車通りの少ない海岸線を猛スピードで駆け抜けていく。真っ直ぐ最初の港へと戻ろうとバイクを走らせる伊吹に、メット内のマイク越しに囁くベルモット。仕事終わりにそのまま軽くツーリングというのも珍しいことではなく、伊吹は慣れたことのようにエンジンを力強く回転させた。

 身も心も冷やすような深夜の海風に、ベルモットはさらに腕に力を込めて伊吹を抱きしめた。それは誘惑するような触れ合いではなく、愛する者を包容するような優しい手つきだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そうだ、あなたに渡すものがあるのよ」

「……またですか?」

 

 ベルモットが満足するまでバイクを走らせたあと、例の港まで戻ってきた2人。メットを外し、彼女を見送ろうと少し離れて手を組んで待機している伊吹に、この前と同じように声をかけるベルモット。見透かすような青い瞳を挑発的に細め、口元は小さく微笑んでいる。前回の夜のことを思い返して、思わず伊吹はベルモットの艶やかな唇に目を奪われた。

 色気のあふれる目で、人差し指を曲げながら自分を呼びつける彼女に警戒心を見せる伊吹。ゆっくりと彼女へ歩み寄る。ベルモットは彼の手を掴むと自身へと引き寄せ、この間の夜のように顔を近づけていく。伊吹は思わず体に力を入れて踏ん張ってしまう。そんな彼の反応に楽しそうに悪戯な笑みを浮かべるベルモット。

 

「ふふっ、冗談よ。渡したいのはこれ」

 

 伊吹を引き寄せる力を緩め、掴んだままの彼の右手に小さな小瓶を乗せる。辺りのオレンジの光を乱反射するガラスの瓶は、薄暗い港の中でもやけに輝いて見える。中には透き通った薄紫の液体が揺れていた。

 

「やっぱりあなた、酷い匂いがするわ。今度来るときはそれを付けてきなさい」

 

 キョトンとした顔で手元のガラス瓶を眺める伊吹に、楽しそうな笑顔を浮かべたまま命令するベルモット。手渡したのは彼女が愛用している甘い香りの香水のようだ。「はあ……」と生返事をする伊吹へウインクを残して、ベルモットは愛用のハーレーに跨り颯爽と港を去っていった。

 1人残された伊吹は手元の香水を珍しそうにしばらく眺めたあと、ポケットへと仕舞い帰路へとつく。街灯に照らされた薄暗い帰り道で、伊吹は深い深呼吸を繰り返しスイッチを切り替える。途端に自分を包む柑橘系の香りと、まだ熱い気がする首元に意識が持っていかれる。熱を冷ますように首をさすりながら空を見上げると、夜明けの近い蒼い空に白い半月だけが煌々と輝いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 遠くの方で太陽が重い腰を上げようとしている午前5時頃。途中で買った缶コーヒーを片手に阿笠宅まで帰って来た伊吹。音を立てないようにそっとドアを開けてこそこそと帰宅する。玄関に灰原が待ち構えていないことにほっと胸を撫で下ろし、ネクタイをほどきながらリビングのドアを開ける。すると薄ぼんやりと照らされるソファと、その上でうたた寝するように丸まっている灰原を見つけた。彼女の体はテレビの画面に照らされ、世界の天気予報と一緒に流れてくるクラシックの音楽が心地いいのか、穏やかな笑みを浮かべている。

 

「風邪引くよ……」

「……」

 

 伊吹が小さく声をかけるも、灰原は全く起きる気配を見せない。ジャケットとネクタイを脱いだ伊吹が、彼女を起こさないようにそっと抱き上げベッドへと運んでいく。彼に抱かれた瞬間、一瞬彼女の顔が歪められたような気がした。

 数時間後、カーテンの隙間から差し込む日の光に、顔をしかめて起きる灰原。目を覚ました彼女はまだ眠り足りなさそうにまどろみ、なんとか重たいまぶたを持ち上げる。ベッドの上で女の子座りのまま何もない空間をぼーっと見上げ、意識を覚醒させていく。確か昨日は彼を待っていてそのままうたた寝を……、と頭が冴えていくのと同時に自分の昨夜の行動が思い返される。左手で布団を口元まで持ち上げ、右手で頭を押さえる。薄らと頬を染めながら目を閉じて困ったようにため息を吐く。不安と焦りと対抗心に駆られて、思わず衝動的な行動をしてしまったことを反省する。

 いつもの澄まし顔へ戻すように手で両頬を叩く。パチパチと小さな音をたてながら、彼女は思わず鼻をヒクつかせた。自分の体を包む柑橘系の香りの中に、微かに甘ったるい別の匂いが混じっていることに気がついた。ハッとした彼女が慌てた様子は見せないものの、早足気味に伊吹の部屋へと向かった。

 

「んん……ぁぁ……」

「……」

 

 ベッドの上では伊吹が寝言に口をむずむずと動かしながら、間の抜けた顔で寝息を立てていた。そんな彼の枕元に立ち腕を組んで呆れたような目で見下ろす灰原。小さなため息をついて彼の体に鼻先を近づけ、気配に彼が起きないよう注意しながら匂いを嗅ぐ。帰宅した際にシャワーを浴びたのか漂うのは微かな石鹸の香りだけだった。

 伊吹から顔を離した灰原は不思議そうな表情を浮かべている。彼女が部屋に入った時から確かに感じる嫌な匂い、原因は伊吹かとも思ったがどうやら違うようだ。部屋の中をぐるりと見回す灰原の視線が、ハンガーにかけられているスーツで止まる。

 疑うようなジトっとした目で睨みながらスーツへと近づいていく。伊吹のスーツを抱きしめるように持ち上げ匂いを嗅ぐ。自分の行動に「変態では……」と苦笑いしながらも、しっかりと服の香りを確認する。自分が昨夜吹きかけた柑橘系の匂いの中に確かに別の匂いがし、灰原は思わず顔をしかめた。

 日は完全に登りきり、カーテンの色を透かすように強い日差しが差し込むも、伊吹は未だ起きる気配を見せない。小さくため息を吐いた灰原は彼を起こすことなく、スーツを抱えて脱衣所の方へと姿を消した。先日と変わらない流れるような早い動きで洗濯機の中へスーツを叩き込む灰原。すると、コトンと何か硬いものがスーツのポケットから床へ転がり落ちた。「なにかしら」とその瓶を拾い上げる。脱衣所の照明を反射してきらめくガラス瓶の中には薄紫の綺麗な液体が揺れていた。彼女がそれを香水だと理解するのに数秒とはかからず、そっと鼻を近づけて嗅いだその甘い香りに、それが誰のものなのかも理解する。

 灰原の顔からスッと表情が抜け落ち、細められた目は冷たく手元の香水を見下ろしている。ひび割れそうなほどに力強くガラス瓶を握り締めていた。

 伊吹は未だ、間の抜けた顔で惰眠を貪っている。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 時計の短針が12を回った頃、伊吹が腹を掻きながらリビングへと顔を出した。ぼんやりする頭には寝癖がついており、眠たそうに目をこすっている。

 開いた窓からは今日も爽やかな柔らかい風が吹き込み、部屋に心地よい緑の香りを連れてくる。なびくカーテンは日差しに照らされ白く輝き、部屋は心地よい涼しさに満たされている。

 

「あれ、……スーツが干してる。哀が洗ってくれたの?」

「ええ」

「あー……ポケットになにか入ってなかった?

「何もなかったわ」

 

 ソファに腰掛け脚を組み、リモコンを片手にニュースを眺めている灰原。昨夜の“贈り物”を思い出した伊吹が、スーツを洗濯したという彼女にその所在を尋ねるも、間髪いれずに知らないと拒絶される。

 寝ぼける頭をかきながら「おかしいなあ」と首を傾げる伊吹。その場で目を閉じてボーっと立ち尽くし、しばらく考え込んだあと「まあいいか」とどうでもいいかのように彼は忘れることにした。

 チラリと後ろの伊吹の様子を窺っていた灰原だったが、彼のその“贈り物を重要視していない”どうでもよさげな態度に小さく口元を綻ばせた。

 

「こっちにいらっしゃい、寝癖がひどいわよ」

「うぃ」

 

 沸いているコーヒーをカップに注いでいる伊吹に、灰原が空いている自分の右隣をぽんぽんと手で叩きながら招く。伊吹はその言葉に引っ張られるように、コーヒーをすすりながら隣に腰掛ける。

 寝ぼけ眼でぼんやりとしている彼の頭に腕を伸ばし、手櫛で髪をといていく。まるで猫のように、心地よさそうに目を細める彼の顔に思わず笑みが零れる灰原。子供をあやすかのような優しい瞳と、いざという時とのギャップに呆れたような小さなため息を零す。寝癖をとく手ぐしの動きはその内、彼の頭を撫でるものへと変わっていた。

 

「あ、そうだ」

「ん?」

 

 彼女が忘れていたというように声を上げ、テーブルに置いていた真新しいガラスの小瓶に手を伸ばす。オレンジがかった綺麗な液体が入ったそれは、先日彼女が伊吹に吹きかけていた香水と同じ物のようだ。

 

「これ、あげるわ。使いなさい」

「あぁ、ありがとう。……そんなに臭い?」

「いえ、今は大丈夫よ。ただ……外に出るときは付けるといいわ」

「んー、わかった。じゃあ試しに」

 

 伊吹の大きな手のひらにちょこんと乗っかる可愛らしい小瓶。伊吹がその新品の香水を開け、爽やかな柑橘系の香りを楽しむ。両の手首にすりつけ、首元にもこすりつける。

 ソファの手すりに肘をかけて頬杖を突きながら満足そうにこちらを見つめていた灰原に、「どう?」と首と手を差し出してみせる伊吹。「いいんじゃない?」と興味なさそうにしながらも思わず口角が吊り上がり笑みが零れる灰原。そんな彼女の反応に伊吹も満足したように笑い、小瓶を興味深そうに眺める。

 香りに釣られるように彼の首元に目をやった灰原が、昨夜自分が付けた赤黒い痕跡に気がついた。慌てて目をそらし、テレビへと視線を振る。思わず泳ぎそうになる視線を画面へと縛り付け、火照りそうになる頬を頬杖で隠す。そんな彼女に気がついた伊吹が、不思議そうに声をかけた。

 

「どしたの、哀」

「……何でもないわ」

「熱でもあるの」

「いいえ、平気よ。気にしないで」

「ほんとに?」

「え、ええ……」

 

 心配そうに灰原の顔を覗き込む伊吹。急に視界いっぱいに彼の姿が広がり、首元の痣が目の前に来る。さっと目を逸らした灰原。特に体調が悪い様子もない灰原に「ならいいけど」と伊吹は優しく微笑み彼女の頭に手を置く。

 その暖かい手のひらと優しい笑顔、そしてほのかに漂うお揃いの爽やかな香りに、更に顔に熱が集まるのを感じる灰原。咄嗟に顔を伏せ、頬についていた手を額に当て、その顔を見られないように隠す。

 

「おいおい、ほんとに大丈夫か?」

「大丈夫だから」

「んー、そう?」

「大丈夫だから、ほんとに」

 

 未だカーテンを揺らし部屋を吹き抜けるお昼の爽やかな風。微笑みながら灰原を見つめる伊吹と、顔を見られまいと必死に俯き隠す灰原。のどかな午後の室内は暖かい空気に包まれている。

 

「……見ないで……」

「ん?」

 

 消え入りそうな彼女の小さな呟きは、窓の外から聞こえる葉擦れの音にもかき消されそうだった。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。