シノンこと朝田詩乃は、幼い頃の事件の影響で、
中学を卒業した後は、祖父母に引き取られるような形になっていた。
詩乃は中学を卒業後、就職する事を希望したのだが、祖父母の強い願いにより、
過去の影響が少ない東京で進学する事となり、高校では一人暮らしをしていたのだが、
引っ越してきた当初は当然友達もいなく、学校にもなじめなかった。
そんな詩乃に声を掛けた女子の三人グループがあった。リーダーの名前は遠藤という。
詩乃はそのグループに入り、しばらくは普通の女子高生らしい生活を送っていたのだが、
ある時その状況は一変した。遠藤達は、詩乃が一人暮らしだと知り、
詩乃の家をたまり場として利用する為に近付いただけだった。
そしてある日、自分の家の中から、遠藤達以外に知らない男の声が聞こえた瞬間、
詩乃は自分の家に知らない男がいる光景を想像し、その事で耐え難い気持ち悪さを覚えた。
そして詩乃は、直後に遠藤達と手を切ったのだが、
それ以来詩乃は、よく遠藤達に金銭をせびられるようになっていた。
どうやって調べたのか、詩乃が幼い頃に人を撃ち殺した事があると知った遠藤は、
詩乃のトラウマの元となっている銃のモデルガンを入手し、
それを見せられた詩乃は、世界史の授業中に教室で吐く事になった。
すぐにその元となる出来事もクラスメート達に伝わり、詩乃は教室で完全に孤立した。
その事があってから、そのモデルガンが詩乃の弱点になると確信した遠藤達は、
事あるごとに詩乃に金銭をせびるようになっていた。
だが詩乃は、まだ一度も遠藤達に金銭を渡すような事はしていなかった。
(こんな奴らには絶対に負けない、そしてお爺ちゃんお婆ちゃんの為にも、
絶対にこの学校をやめたりはしない)
詩乃はそう考え、歯を食いしばって学校に通い続けた。
そんな詩乃は、その日の授業中、ずっとそわそわしていた。
(ああ、もうすぐ放課後だわ……どうしよう、
シャナは学校には黒いスポーツカーで迎えに来るって言ってたけど、
そんな所を見られたら、またあいつらが何を言ってくるか……
今から待ち合わせ場所を変えてもらう?でも連絡手段が無い……
ああもう、何で私、この学校の名前を口にしちゃったんだろ)
前日の別れ際、シャナはシノンにこう言った。
「そうだシノン、明日なんだけどな、明日はお前の学校まで、
俺が一人で黒いスポーツカーで迎えに行くから、お前の学校の名前を教えてくれないか?」
先ほどまでの熱狂のせいで、少し浮かれていた詩乃は、その問いにあっさりと答えた。
詩乃は学校名を口にした後、あっと思い、慌てて自分の口を塞いだが、後の祭りだった。
シャナはニヤリとすると、詩乃の学校名を口にし、そのままログアウトしていった。
そして授業終了のチャイムが鳴り、詩乃はガチガチに緊張しながら教室を出た。
昇降口で靴を履き替えた詩乃は、重い足を引きずりながら、そのまま校門へと向かった。
校門前には多くの生徒達がいたが、その一角に、妙に女子生徒の多い場所があった。
詩乃が何だろうと思って近付くと、その中心には一台の黒いスポーツカーが止まっており、
そこにもたれかかった一人の男性に、どうやら女子生徒達が群がっているようであった。
(あれってガルウィングって言うんだっけ?すごいなぁ、あの車、いくらするんだろ。
まさかあれがシャナ?いやいや、いくらシャナでもあそこまで格好いい訳が無いわよね)
詩乃がそう評する通りその青年は、いかにも高そうで、
それでいてセンスのいい小奇麗なジャケットを着て、
困ったような顔で女子生徒達の相手をしていた。
まだ大人になりきれていないその風貌は、詩乃の好みにとても合っていた。
(あれがシャナだったらな……いやいや、そんな訳ないじゃない、
どう見てもあれは、すごく大きな会社の御曹司とか、そういった感じの人よね。
私が想像するシャナのイメージとは、似ても似つかない……のかな……
私が想像してたシャナの理想の姿って、ああいう人じゃなかったかな……
いやいや、うん、さすがにそれは無い。
さて、遠藤達に気付かれないうちにさっさとシャナを探そっと)
そう考えながら、その車の横を黙って通り過ぎようとした詩乃に、
声を掛けてくる者がいた。それは何と、女子生徒達に囲まれていたあの青年であった。
「おい朝田、どこに行くんだよ、こっちだこっち」
「……え?」
詩乃が慌てて振り向くと、そこには女子生徒達が横によけたせいか、道が出来ており、
その中心にいるあの青年が、こちらに向かって手を振っているのが見えた。
詩乃は少しそちらに近付くと、おずおずとその青年に言った。
「あ、あの……人違い……じゃ……?」
「ん?別に違わないだろ。俺が待ってたのは、確かにお前、朝田詩乃だ」
「そ、その喋り方……まさか……」
その青年の喋り方は詩乃にとって、とても馴染みのある喋り方だった。
詩乃は、シャナ、と言い掛けて、慌ててそれを止めた。
他人をハンドルネームで呼ぶ事が躊躇われたからだ。
詩乃は驚きのあまり、腰を抜かしたようにその場に蹲った。
その青年はそんな詩乃に近付くと、詩乃の耳元で耳を疑うような事を言った。
「おい朝田、お前の心配事を一つ減らしてやる。遠藤ってのはどいつだ?」
詩乃はその言葉に頭が真っ白になった。そして無意識に遠藤の事を指差していた。
「分かった、すぐ起こしてやるから、ちょっとそこで待っててくれな」
そう言うとその青年は遠藤に話し掛け、その耳元で何事かを囁いた。
それに対する遠藤の反応は激烈だった。遠藤は、最初は嬉しそうにしていたのだが、
その青年に何かを囁かれると、恐怖のこもった視線で詩乃を一瞥し、
そのまま取り巻き達と一緒にどこかへと走り去っていった。
それを見たその青年は満足そうに頷くと、再び詩乃の下へと歩み寄り、
まだ立つ事が出来ない詩乃を、お姫様抱っこの形で抱き上げた。
「あ、あの……」
困惑しつつも恥ずかしくなった詩乃は、その青年に声を掛けようとした。
だがその青年は、それを遮ると、とても優しい口調で詩乃に囁いた。
「まだ立てそうにないだろ?いいから俺が車まで運んでやるよ、朝田」
「わああ、いいなあ!」
「朝田さん、羨ましい!」
「きゃああああ」
周囲から女子生徒達の黄色い声が上がったが、その青年は特に気にした様子も無く、
詩乃を抱き上げたまま助手席側に回り込み、唐突に車に向かって話し掛けた。
「キット、助手席のドアを開けてくれ」
『分かりました、八幡』
(八幡ってのが、もしかしてシャナの名前なのかな……って、あれ?今誰が返事をしたの?)
詩乃はそう考え、車の中を見たのだが、そこには誰もいない。
そして青年は再び車へと話し掛けた。
「キット、少し乗せにくいな、助手席をもう少し倒してくれ」
『分かりました、このくらいでいいですか?八幡』
「ん~、もう少し倒してくれ」
『はい、それではこのくらいで』
「それでいい」
そしてその青年、八幡は、詩乃の体を気遣うように、そっと詩乃を助手席に下ろした。
それと同時に周囲から驚きの声が上がった。
「い、今、車が喋ってなかった?」
「す、すげえ……これ、いくらするんだろ」
「俺もいつか、こんな車が欲しい」
そして困惑する詩乃の隣に座った八幡は、ドアを閉め、再び車に話し掛けた。
「キット、周りの生徒達に、危ないから下がるように言ってくれ」
そしてその言葉通り、キットは生徒達に注意をし、
生徒達が下がったのを確認した八幡は車をスタートさせ、どこかへ向かって走り出した。
「驚かせちまってすまないな、朝田。俺はシャナこと比企谷八幡だ、宜しくな」
「あ、うん、私は朝田詩乃……です、初めまして……って違う、ああもう、何がなんだか」
「ははっ、聞きたい事が沢山あるんだろ?全部ちゃんと答えてやるよ、朝田」
「私の事は詩乃でいい……ですよ。もう全部バレてるみたいですしね。
それじゃあ順番に聞きますね、まず、どこで私の顔と名前を知ったんですか?」
「それじゃあ詩乃で。え~っと詩乃、それに関しては謝らないといけないよな。
勝手に詩乃の事を調べたりして、本当にすまなかった」
八幡は詩乃にそう謝った後、今回の経緯について説明を始めた。
「お前も知っての通り、俺には色々としがらみが多いんだよ。
自分で言うのもなんだが、俺の影響力はかなり大きい。
具体的にはまあ、六千人プラス、その家族の分だな」
「確かにそれは分かる……ります」
詩乃はその八幡の言葉を正確に理解した。
確かに八幡が何か発言したら、彼に助けられた六千人のプレイヤーとその家族は、
無条件に彼の言う事に賛成してくれるのだろう。
「でな、今回知り合ったエル……あ~っと、ピトフーイと詩乃の周囲に、
変な勢力がいないかどうか、一応調べたんだよ。詩乃の顔と名前はその過程で知った。
具体的には聞きたくも無いだろうが、過去に詩乃が遭遇したっていう事件から調べた」
「別にいい……ですよ、そっか、そういう事ね」
「でな、一応と思って、学校での詩乃の事も調べさせたんだが、
それで詩乃に纏わりつく、羽虫どもの存在を知ってな」
「羽虫?それって、遠藤達の事……ですか?」
「そうだ、それでな、お節介かなとも思ったが、
大切な仲間がつらい目にあってるのを見て見ぬフリは、俺には出来なかったんでな、
あの遠藤って奴を、潰す事にした」
詩乃はその言葉を聞き、焦ったように、いつものゲーム内での口調で八幡に言った。
「ちょ、ちょっと、それって犯罪じゃないでしょうね」
「さあ、どうかな」
「そうよ、それよ、ねえあんた、遠藤に何を言ったの?」
「ん~そうだな、俺は、あの遠藤って奴にこう言ったんだ。
『おい遠藤、お前最近、俺の大切な恋人の詩乃にちょっかいを出してるらしいな。
ところで話は変わるが、お前の父親の勤めてる会社は、
俺が社長に就任する予定の会社と関係があってな、
お前、家に帰ったら、解雇されそうになって焦る父親に思い切り怒られるから、
今日は覚悟して父親の帰りを待てよ』ってな」
「たっ……大切な恋人?」
八幡は驚く詩乃に素直に謝った。
「それに関しては勘弁してくれよ、今回は話に信憑性を持たせる為に、仕方なくだな」
「恋人……恋人ね、ふふっ、それはまあ勘弁してあげるわ」
「ところで詩乃、お前さっきから、いつもの口調に戻ってきたみたいだな」
詩乃に釣られて、八幡もいつしか詩乃の事を普通にお前呼ばわりしていたのだが、
詩乃はその事はまったく気にならなかった。
「そりゃ、これだけとんでもない事が続けばね、多少は耐性も出来るわよ」
「そうか、まあお前の印象は、ゲームの中よりもお淑やかに見えるし、
普段はそういう喋り方なのかもしれないけどな、
本当のお前はいつもみたいに砕けた話し方をするんじゃないのか?
もしそうなら、そっちの方が断然いいと思うぞ。何より親しみやすいのがいい」
「そ、そう……」
「ああ、そうだ」
詩乃はその八幡の言葉に素直に嬉しさを感じていた。
そして改めて八幡の整った顔を見た詩乃は、先ほど自分が考えていた事を思い出した。
(私が想像してたシャナの理想の姿って、ああいう人じゃなかったかな……)
それを思い出した詩乃は、頬が熱くなるのを自覚したが、
それを誤魔化す為に、詩乃は次の質問をした。
「えっと、さっき言ってた社長云々って、ギャグか何か?」
「あ~、それな。お前、ソレイユ・コーポレーションって会社、知ってるか?」
「ああ、えっと、アルヴなんとかってゲームを運営してる会社よね?」
「それだ。まあ、他にも色々手を出してるみたいだけどな」
「そうね、急成長してる会社だって聞いてるわ」
「まあそこなんだが、俺はそこの次期社長に、どうやら内定してるらしい」
「はぁ?」
詩乃は思わず、その八幡の言葉に、思いっきり疑いの篭った口調でそう言った。
しかし八幡が何も言わない為、詩乃はまさかと思い、恐る恐る八幡に尋ねた。
「えっと……本当に?」
「お前に嘘を言ってどうするよ、全部本当の話だ」
「あっ……そういえば昨日ピトが、ゆっこと遥って人の話をした時、
そんな事を言ってた気がする」
「そう、あれはこの事だ。全部事実だな」
「そ、そうなんだ……じゃあ遠藤の父親に圧力を掛けたっていうのも?」
「ああ、全部本当の事だぞ。実際に俺が圧力を掛けた」
「うわぁ……」
詩乃はその八幡の言葉を聞き、ただただ呆れる事しか出来なかった。
しかし同時におかしさもこみ上げてきた。
「ふふっ、ふふふふっ、あんたやっぱ頭がおかしいわ」
それを聞いた八幡は、少し嬉しそうに言った。
「そうか、俺は正直言うとな、自分が他人から褒められる事にまったく慣れてないんだが、
最近は皆が俺を褒めてばかりだったから、内心ではかなり参ってたんだよ。
だからそう言ってもらえると、何か安心するわ」
「何よそれ、やっぱりあんた変」
「そんなに褒めるなよ、慣れてないって言ってるだろ」
「あはっ、あははははっ、まったく褒めてないって」
詩乃は久しぶりに、心の底から笑った。
八幡達と出会ってから、ゲームの中で笑う事は増えたが、
リアルで笑うのは、詩乃にとっては本当に久しぶりの事だったのだ。
「それじゃあ次の質問ね、さっきこの車に話し掛けて、車がそれに答えてた気がしたけど」
『今私を呼びましたか?私の名前はキットと言います、初めまして、詩乃』
「うわっ、びっくりした……」
『すみません、驚かせてしまいましたね』
そのキットの言葉を聞いた詩乃は、その人間臭さに、ただひたすら感嘆した。
今日八幡に会ってからの詩乃は、とにかく驚いたり感嘆したりととても忙しかった。
「すごい、本当に車が喋るんだ……」
「まあ、キットは特別製だからな」
『お褒めに預かり光栄です』
「すごく人間っぽいよね……」
『ありがとうございます、詩乃。ところでそろそろ詩乃の家に到着します』
「えっ、うちに?」
慌てて詩乃が周りを見回すと、そこは確かに自分のアパートのすぐ近くだった。
「私服に着替えたいだろうと思ってな、ここに向かってたんだよ。
俺はここでいくらでも待ってるから、気にしないでゆっくり行って来いよ。
女性が支度に時間がかかるのは、当然の事なんだからな」
「あんた、私の家も調べてたんだね」
その詩乃の言葉に、八幡は慌てた。
「す、すまん、そういえば何も考えずにここに向かってたわ。
そうだよな、家まで知られてるとかさすがに気持ち悪いよな、本当にすまなかった」
「え?別にそんな事、まったく思ってないわよ?
せっかくだから、上がってお茶でも飲んでいきなさいよ」
そう言いながら詩乃は、自分の変化に驚いていた。
(あれ、私は確か、知らない男が自分の部屋にいるのが気持ち悪くて、
遠藤達と手を切ったんじゃ……ま、いいか、
八幡が家にいても、全然気持ち悪いとか思わないし)
詩乃はそう考えていたのだが、八幡は、さすがにまずいとそれを固辞した。
「いや、それはあれだ、男が一人暮らしの女の子の家に上がり込むってのはな……」
「いいからさっさと来なさいよ。もし来ないんだったら、今すぐ悲鳴を上げるわよ」
「マジかよ……はぁ……それじゃあ上がらせてもらうわ」
「うん、分かればよろしい」
そう言って詩乃は、嬉しそうに微笑んだのだった。
蛇足ではあるが、部屋の中で起こったお約束を最後に記しておく。
前の日に洗濯物をしまうのを忘れていた詩乃は、
部屋に八幡を入れた瞬間、八幡が凍りつくのを目にし、
何かあったかなと思い、八幡の視線の先を目で追った。
そしてそこに自分の下着があるのを見つけた詩乃は、
思わず悲鳴を上げそうになったのだが、神反応を示した八幡に口を抑えられ、
辛うじて八幡が、周囲の住人に通報されずに済んだという事案が発生した。
この事を、二人はさすがに明日奈の前で喋る事は出来ず、
ここに二人の共犯関係が成立したのであった。
こうして多少のトラブルはあったものの、無事に着替え終わった詩乃は、
じろっと八幡を睨みながら言った。
「ところで八幡、あんた絶対に見たわよね、見たんでしょ?」
「あ~、えっと……ゲームの中のお前の髪の色と一緒なのな」
「ちょっ、あんた、殴るわよ!ちゃんと責任取りなさいよね!」
「って、痛ってぇよ、殴るわよってそのまんまの意味かよ!普通待つだろ!」
「あんたが余計な事を言うからよ!」
そんなお約束を経て、詩乃は八幡と共に予約していた店へと向かう事となった。
そして店に着いた詩乃は、再び驚愕する事となる。