「…………姉さん、母さん、一体何をしているのかしら」
その声を聞いた瞬間に理事長と陽乃はビクッとし、慌ててその声の主を見た。
そこには雪乃が腕組みをして仁王立ちしており、二人は焦りながら雪乃に言った。
「ゆ、雪乃……どうしてここに?」
「今からここに会社の書類を持ってくると、さっき連絡しておいたはずなのだけれど」
「しまったわ、八幡君が来てくれた事で舞い上がって忘れてたわ……」
「それよりも、これは一体どういう状況なのかしら」
その雪乃の迫力に押され、陽乃は慌ててこう言い訳しようとした。
「ち、違うの雪乃ちゃん、これはあれよ、ちょっと八幡君とスキンシップというか、
えっとその……ね?分かるでしょ?」
「分からないわ、とりあえず二人とも、言い訳をする前にさっさと彼から離れなさい」
「は、はい……」
「雪乃ちゃんが怖い……」
そして二人が離れた為、やっと拘束状態から解放された八幡は、心から雪乃に感謝した。
「や、やっと自由を手に入れた……」
「八幡君大丈夫?何もされなかったのかしら?」
「何もされないとまではいかないが、アウトかセーフかで言ったらギリギリセーフだな、
助かったぞ、雪乃」
「そう、間に合ったのなら本当に良かったわ」
そう言いながら雪乃は、今まさに逃げ出そうとしていた理事長と陽乃を捕まえ、
首根っこを掴んでこちらに引き戻すと、その場に正座させた。
「で、これは一体どういう事なのかしら?姉さん、母さん」
「あ、あは……」
「えっと……八幡君成分の補給?」
「……いい大人が何を非科学的な事を言っているの?そんな物存在する訳ないでしょう?」
(いいぞいいぞ雪乃!行け行け雪乃!頑張れ頑張れ雪乃!)
八幡は迂闊に声を出して応援する訳にもいかず、心の中で雪乃を応援していた。
そしてその雪乃の言葉に、理事長と陽乃は激しく抵抗した。
「八幡君成分は実在するわ!」
(馬鹿姉はそれで押すつもりか……)
「するわけないでしょう?」
(まあとにかく否定して、そのまま説教まで持っていけば問題ないはずだが……)
「するの!」
(理事長、さすがにそれは無理筋です)
「しないわ」
「雪乃、そこまで言うなら無い事を証明してみなさい、出来るの?出来ないわよね?」
「そうよそうよ!」
(うお、理事長が逆に煽ってきやがった……何か嫌な予感が……)
「悪魔の証明を求めるなんて卑怯だとは思わないのかしら。
あるというなら先ずそちらが証明してみせなさい」
(あっ、やべっ、やっぱり雪乃の悪い癖が出やがった)
この場合雪乃は、とにかく攻めて攻めて攻めまくるだけで勝利する事が出来たのだが、
若さ故の過ちと言うべきか、昔からの雪乃の悪い癖なのだが、
正論に拘ったせいでうっかり相手にボールを渡してしまった為に、
相手に付け入る隙を与えてしまう事になった。
この隙を、百戦錬磨のこの二人が見逃すはずもなかった。
「しょ、証明なんか別にいいだろ、無いものは無いんだから」
八幡は慌ててそう介入しようとしたのだが、雪乃は首を振って八幡を制した。
「非科学的な事を自分達で証明してみせると言うのだから、
好きなだけやらせてみればいいのではないかしら」
その瞬間に理事長と陽乃は視線を交わし、ニヤリとした。
(やばい、やばいやばいやばい!)
「い、いや、そんな無駄な事をさせなくても……」
こういった事に関しては、雪乃よりも八幡の方が清濁併せ持つ分得意であり、
そんな八幡の危機察知能力が、この瞬間に激しく警鐘を鳴らしていた。
(ど、どうする俺、ここで打てる手は…………そうか、逃げの一手!)
八幡は、今自分が自由な身である事を思い出し、即座に部屋から出ていこうとした。
だがそれは一歩遅かった。八幡が逃げようとする気配を察した理事長が、
素早く八幡に抱き付いて、その体を拘束したのだった。
「あらあら駄目よ八幡君、もし八幡君がいなくなっちゃったら、
さすがの私達も八幡君成分の存在証明なんか出来ないに決まっているものね」
「く、くっそ、何であんたはそんなに早く動けるんだよ!」
「ふふっ、あまり女の秘密を詮索するものではなくてよ、八幡君」
「は、離せ!」
「いいから黙って証明に協力しなさい」
そして陽乃も先ほどのように八幡の頭の上に胸を乗せ、
八幡は再び同じ体制で拘束される事となった。
「何故こうなった……」
だがその八幡のセリフはフェイクだった。
実は八幡は、内心でこれは確実に逃げ出すチャンスがくると確信していた。
何故なら今、陽乃は胸の大きさをアピールしている。ならば必ず雪乃がキレるに違いない、
なのでその機に乗じて二人の隙を突き、そのまま上手く逃げ出せば何も問題は無い。
八幡はそう冷静に考え、期待のこもった目で雪乃を見つめた。
果たして雪乃は、その陽乃の行動を見てイラっとしたような顔をし、
そのまま立ち上がろうと腰を浮かせかけた。
(いいぞいいぞ雪乃!行け行け雪乃!頑張れ頑張れ雪乃!)
八幡は再び心の中で雪乃を応援した。だが八幡はここで気付くべきだった。
雪乃の事をよく知る陽乃が、安易にそんな軽率な行動をとるはずがないという事を。
そして陽乃は、雪乃が立ち上がりかけるのを見た瞬間、雪乃にこう声を掛けた。
「雪乃ちゃん知ってる?実は八幡君成分には、胸を大きくする効果もあるのよ」
「…………何ですって!?」
「きっ、汚…………うぐっ」
汚ねえ!騙されるなよ雪乃!と叫ぼうとした八幡の口を、理事長がその手で咄嗟に塞いだ。
「あら悪い口ね、今何を言おうとしたのかしらね」
「ふははいほ、ははへ!」
(汚いぞ、離せ!)
「うふふ、私に抱き付かれて幸せだなんて、嬉しい事を言ってくれるじゃない」
「ほっはほほふっへへへ!はほふほふひほ!」
(そんな事言ってねえ!頼むぞ雪乃!)
だがそんな八幡の期待も空しく、雪乃はゆらりと立ち上がると、
そのままストンと八幡の隣に座った。
「ふひほ!?」
(雪乃!?)
そして陽乃が、いかにも大事な事を伝えるような口調でで雪乃に言った。
「雪乃ちゃん、実は八幡君成分が一番沢山出ているのは、彼の手の平なのよ……」
「ほひひひひ!」
(おいいいい!)
「手の平……」
そして雪乃はじっと八幡の手を見つめると、そっとその手をとり、
自分の胸へと徐々に近付けていった。
「ふひほ、はへほ!へほははへ!」
(雪乃、やめろ!目を覚ませ!)
だがこうなった雪乃の耳にはもう、どんな言葉も入らない。
そして八幡の手が雪乃の胸に押し当てられそうになった瞬間、
突然理事長室のドアが誰かノックされ、そのままガチャリと開いた。
八幡は一瞬薔薇が戻ってきたのかと思ったが、そこにいたのは意外にも和人だった。
「理事長失礼します、八幡がここにいると聞いて来たんですが!
あれ、雪乃と陽乃さん?一体どうし………えっ?あ…………
ど、どどどどうやらお取り込み中のようなので、し、失礼します!」
「あ」
「あら」
「は、はへはふほ!」
(ま、待て和人!)
「か、和人君!?あっ……わ、私は一体何を……ち、違……」
そして雪乃はそれで我に返ったのか、呆然とそう呟いた後、慌てて立ち上がった。
「ち、違うの和人君、これは誤解なの!」
そう叫んだ後、雪乃は全力で和人を追い、首尾よく和人を捕まえると、
そのまま和人と共に理事長室へと戻ってきた。
理事長と陽乃は、既に八幡から離れて素知らぬ顔でソファーに座っており、
八幡はぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、もうこれで安心だと脱力していた。
「は、八幡……」
「お、おう和人、まじで助かったわ……」
「一体何があったんだよ」
「それが、全ては八幡君成分とやらのせいでな……」
「あ、あれっ?」
それを聞いた瞬間、和人が何かを思い出したようにそう声を上げた。
「何か知ってるのか?和人」
「い、いや、まさかな……」
口ごもる和人の顔を見て、理事長が思い出したようにこう言った。
「あ、そういえば、私がその事を聞いたのは和人君からだった気が……」
理事長のその言葉を聞いた瞬間、逃げだそうとした和人の首を、八幡がガッと掴んだ。
「くっ……」
「どうした和人、せっかく来たんだから、まあゆっくりしていけよ」
「い、いや、八幡がいるって聞いたから、飯でも一緒に食おうと思って誘いに来たんだが、
ちょっと用事を思い出したから、それはまた次の機会に……」
丁度その時、陽乃も思い出したようにこう言った。
「あっ、そういえば私がそれを聞いたのも、ALOで和人君からだった気が……」
それを聞いた和人は、焦ったようにこう言った。
「ち、違う、誤解だ八幡!」
「そうか、俺はお前を信じるぞ、和人。とりあえず一体何があったのか説明してみてくれ」
「ああ、実は……」
そして和人が語ったのはこんな内容だった。先日和人は、
里香達が肌の具合について話しているのを聞き、何気なくこんな事を言ったらしい。
「そういえば八幡はあんなに忙しそうなのに、いつも肌が綺麗な気がするよな」
更にこんな事も言ったようだ。
「理事長とか陽乃さんや雪乃も肌が綺麗だよな、もしかしてあの一家には、
肌を綺麗に保つ独自の技術でもあるのかね」
その言葉に興味を持った里香の依頼で、和人はたまたま理事長と陽乃に会った時、
その事を尋ねてみたらしい。その時にどうやら八幡の肌の話題も出たようだ。
そして和人はその時、冗談めかしてこう付け加えたそうだ。
「もしかして八幡から、何か特殊な成分が出てるのかもな」
その話を聞いた八幡は前言をひるがえし、ぷるぷると震えながら和人に言った。
「お前のせいかあああああああああ!」
「さ、さっきは俺を信じるって言ってくれたじゃないかよ!」
「信じるも何も、誤解の余地すらなくお前のせいじゃないか!」
「ぐっ…………」
そして理事長と陽乃に加え、和人までもが雪乃と八幡に延々と説教をくらう事となった。
だが八幡はこの日、よほど貞操の危機を覚えたのだろう、それだけでは気が済まず、
後日和人は八幡と、ついでに雪乃に高い食事を奢る事となり、
そのせいで一気に金欠状態に陥った。
「はぁ……金が無え」
和人は八幡にバイトを紹介してもらえば良かったのだが、
奢った直後にそんな事を頼むのはさすがの和人も気が引けたようで、
たまたま最初にいきあった菊岡に、いいバイトがないか尋ねてみた。
「菊岡さん、多少危険でもいいんで、何かガッツリ稼げるバイトとか無いですかね」
「う~ん、ガッツリではないけど、一応バイトならあるよ、やる?」
「あ、それじゃあそれでいいんでとりあえずお願いします!」
菊岡の紹介してくれたバイトは普通のデータ整理であったが、今の和人には有難かった。
そしてそこそこ手持ちの資金を戻した和人は、菊岡にこう言った。
「また何かあったら俺に教えて下さい、本当に何でもいいんで」
「うん、それじゃあまた何かあったらね」
こうしてその流れで、和人は数ヶ月後、菊岡の依頼で多少危険なバイトをする事となった