「今何か冷たいものを用意するわ、ちょっと待っててね」
そう言って詩乃はキッチンへと消えていった。
八幡は先ほどの会話を聞いていた為、一応警戒していたのだが、
詩乃は自然な態度で飲み物を持ってくると、そのまま八幡の隣に腰掛けた。
隣というのが少し気になったが、八幡は何かあったら直ぐに逃げ出せるように、
微妙に緊張した状態で詩乃のもてなしを受ける事となった。
「で、あれは誰?」
「お、おう、キリトだな」
「だから誰?」
「ん?もしかしてお前、キリトとはまだ面識が無かったんだったか?」
「あ、やっぱりヴァルハラの人とかだった?」
「そうだ、キリトは黒の剣士だ」
「く、黒の剣士!?」
詩乃は、思いもよらぬ大物の名前が出てきたと少し驚いた。
「そうか、個々の名前じゃなくそっちの名前で覚えてたんだな」
「あ、う、うん、そっちはインパクトがあるからね」
八幡が詩乃の前でキリトの名前を出したのは実はこれが初めてだった。
なので覚えていないのは当然なのだが、問題はそこではない。
何故この時期に正式に紹介されるでもなく不意打ちのような形でキリトが参戦してきたのか、
その事が詩乃はとても気になっていた。
(さて、人が死んでる事をどのタイミングで伝えるか、判断に迷うな……)
八幡は、この場でその事を話すつもりでいたが、
そのタイミングについては慎重に判断するつもりでいた。
「で、キリト君に正体を隠す理由は何?」
「正直あいつがGGOに来るのは予想外でな、
俺が殺人ギルドの奴らを独断で調べていた事がバレたら、その……」
言い淀む八幡を見て、詩乃はいたずらめいた表情で言った。
「怒られるから?」
「お、おう、まあそうだ」
「だったら最初から秘密にしなければ良かったのに」
「……あの時は、他の奴を危険な目に遭わせる訳にはいかないって思ってたんだよ」
その言い方でピンときた詩乃は、八幡の顔を下から覗き込みながら言った。
「じゃあ今は?」
「今でも変わってないさ、でも俺だけが危険な目に遭ったら、
多分怒られるだけじゃ済まないだろうなって気はするな」
「でも今はまだ正体を明かす気は無い、そうよね?」
「まあそうだな」
「折を見てちゃんと話しなさいよ」
「……やっぱりそうだよな」
詩乃はそんな八幡の様子を伺い、これはチャンスだと思ったのか、
八幡の顔にずずっと自分の顔を近付けながら言った。
「大切な友達なんでしょ?」
「ああ、俺の一番の親友だ」
「じゃあやっぱりいつかは打ち明けないとね」
そう言って詩乃は、そっと八幡の背中に寄り添った。
八幡はその事に気付かないまま、ぼそっとこう答えた。
「だな」
そして八幡は、そろそろ頃合いかと考え、
詩乃に既に犠牲者が出ている事をきちんと伝える事にした。
「でな、詩乃にも教えておかないといけない事があるんだよ」
そう言って八幡は顔を上げた。だが先ほどまで横にいたはずの詩乃の姿が無い。
その代わり背中にやわらかい物が当たる気配を感じ、八幡は慌てて振り返った。
「ん、どうしたの?」
「……お前、いつの間にそこに?」
「まったく普通に近付いて、まったく普通に背中にくっついたんだけど」
「くっ……心の隙を突かれたか……」
そして八幡は、じりじりと詩乃から離れ始めた。
だが詩乃も負けじとじりじりと距離を詰めていく。
「しまった、こうなる前に手を打つはずが……」
「ふっ、この私相手にそんな隙を見せたあなたの負けよ」
「ちっ、こうなったら奥の手を……」
そして八幡は詩乃にぐっと顔を近付けた。
「な、何よ」
「それがお前の自然な感じの適度な露出とほんの少しのアピールか?」
「なっ、何でそれを……」
その瞬間に八幡は身を躍らせ、テーブルの反対側に着地した。
「しまった!」
「まだまだだな、精神の鍛錬が甘い」
「くっ、八幡、どこでそれを?」
「キリトの行動は安全の為に全てモニターされていてな、俺もそのモニターを見てたんだよ」
八幡はその言葉に詩乃が悔しがるかと思っていたのだが、
その予想に反して詩乃は顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに下を向いた。
「も、もしかして質問から全部聞いてたの?」
「あ、ああ」
「そ、そう……」
詩乃はそれ以上何も言わず、そのまま下を向き続けた。
八幡はやりすぎたかと反省し、どうしようかと考え始めたが、そこに救いの主が現れた。
「お前ら何を夫婦漫才みたいな事をやってるんだよ」
「……お前か」
「よぉ俺、あんまりうちの詩乃をからかうなよ、
こいつはこう見えてうぶだからな、守りに入ると弱いんだよ」
「それは知ってる」
そしてはちまんくんは詩乃に近寄ると、ぽんぽんとそのおしりを叩いた。
本当なら肩を叩くところだが、はちまんくんの身長だとそれが限界なのだ。
詩乃は慣れているのか特に抗議もせず、顔を上げてはちまんくんの方を見た。
「お前も押すばかりじゃなく、いい加減に引く事も覚えろよ」
「うぅ……」
「そこらへんは椎奈辺りが抜群に上手いから、今度教えてもらうといい。
ほら、八幡が何かお前に言いたいみたいだぞ、ちゃんと話を聞いてやれ」
「う、うん」
そして詩乃は八幡の正面に座り、何故か正座をした。
その膝の上にはちまんくんがちょこんと座り、
八幡も全て話そうと思い、その場で居住まいを正した。
「さあ、いつでもいいわよ」
「おう、ちょっと衝撃的な話かもしれないから、覚悟だけはしておいてくれよ」
そして八幡は、自分のスマホに例の死人が出た時の死銃の動画を映し出し、詩乃に見せた。
「こいつは?」
「死銃と名乗っているという事以外、詳しい事は分からない。
だが一つハッキリしてるのは、この回線落ちしたプレイヤー、
こいつはこの直後に死亡が確認されたらしい」
「えっ?それってまさか、ゲームの中で撃たれたせいで死んだって事?」
「そんな事は百パーセントありえない、だがこいつは実際に死んだ。
どうやらキリトはその事件の調査の為にGGOに来たらしい」
「そういう事だったんだ……でもキリト君は、どうしてBoBなんかに出場を?」
「どうやら手っ取り早く名前を売って、死銃に目を付けられた上で、
実際にその銃で撃たれてみるつもりらしい」
その言葉に詩乃は仰天した。
「そ、それって危ないんじゃないの?」
「いや、色々検討はしたが、ゲーム内で銃で撃たれるだけではリアルでは絶対に死なない。
だから何か起こるのかどうか確かめる意味合いが強い。
だが一応安全に配慮して、キリトは政府の施設からログインし、
現役自衛官がその様子をモニターしながら護衛に付いている」
「モニター……あ、そうか、メイクイーン・ニャンニャンにあったあれを使って……」
「そうだ、別にその為に作った訳じゃないんだが、それを利用しているのは確かだ」
「そっか、なるほどね……」
詩乃は納得したように頷いた。そんな詩乃に八幡は厳しい顔で言った。
「もし死銃っぽい奴に出会ったら、お前は絶対に相手をするなよ。
お前のログイン環境はキリトと違って安全が確保されている訳じゃないんだからな」
「う、うん、分かった」
「いいか、絶対にだ、絶対にだぞ」
「分かったってば、そんなに私の事が心配なの?」
「当たり前だろ、本当はキリトにだってそんな事はさせたくないんだ」
その言葉でピンときた詩乃は、心配そうな顔で八幡に言った。
「…………自分で銃弾を受けるのもやめてよね」
「そうだぞ、もし何かあったら詩乃が悲しむから、絶対にやるなよ、俺」
「…………おう」
八幡は気まずそうな顔でそう答えた。
その八幡の顔を見た詩乃は、もしその時が訪れたら八幡は絶対に、
その身で銃弾を受けようとするだろうと確信した。
「……本当に?」
「お、おう」
「嘘よね?」
「ん、いや、嘘じゃねえよ」
「どうせ自分じゃ受けるつもりは無かったけど、
結果的にそうなっちまったとか言うつもりなんでしょ」
「いや、それは……」
そして詩乃は突然はちまんくんを抱えて立ち上がり、こう言った。
「はちまんくん、もし八幡が死ぬような事があったら、私を殺して」
「お前、いきなり何言ってんだよ……」
「それが詩乃の望みか?」
「お前も何言ってんだよ、正気か?」
「俺は人間じゃないからな、常に正気に決まってるだろ」
そう八幡に答えたはちまんくんは、詩乃を見上げながら言った。
「分かった、その願い、俺が確かに聞き届けよう」
「おい!」
「ありがとうはちまんくん」
そして詩乃は晴れやかな顔で八幡に言った。
「これでもう絶対に死ねなくなったわね、八幡」
「お前な、安易にそういう事をこいつに言うなよ……」
「詩乃の命令は絶対だからな、もう諦めろよ俺」
「ちっ……」
そして八幡は、お手上げだという風に詩乃に言った。
「分かった分かった、約束する、約束するから」
「ならよろしい」
詩乃は満足そうにそれに頷いた。
「ちなみにキリトが銃弾を受けるのは、止められるか自信はないぞ、
あっちは万全の体制をとっているんだからな」
「まあそれはね。私も八幡がキリト君と同じ環境でログインするなら、
銃弾を受けるのを許可しないでもないわよ」
「いいのかよ!」
八幡はその詩乃の言葉に思わず突っ込んだ。
「私が嫌なのは、あんたが行き当たりばったりでそういう決断をする事だもの。
準備に準備を重ねて試す分にはそんな感情論だけで反対しないわよ。
そんなの、重い女だって思われるだけじゃない」
「いや、現時点でもかなり重いと思うが……」
「力持ちなんだから、それくらいは支えなさい」
そう言って詩乃は、八幡の顔めがけてはちまんくんをぽんっと放った。
「おわっ」
はちまんくんは、落ちないように八幡の顔にしがみつき、
その隙を突いて詩乃は再び八幡の背後に回りこむと、そのまま八幡に抱き付いた。
「お前な……」
八幡は何とかはちまんくんを顔から引き剥がすと、詩乃から離れようとした。
だが八幡は、詩乃が震えている事に気が付き、慌てて詩乃に言った。
「大丈夫だって、約束しただろ?無茶な事はしないって」
「違うの、今の話を聞いて思い出した事があるの」
「ん、何だ?」
「もしかして、ゼクシードが落ちたのって……」
「……ああ、その話か」
八幡はその話もしておくべきかと思い、続けて詩乃に言った。
「俺もそれが気になってな、知り合いの政府の人に尋ねたんだが、
あの時刻にそういう状況で死んだって奴はいないらしい」
「そっか」
「だがゼクシードも死銃に撃たれたのは間違いないらしい。
だからゼクシードがどうなったのか、今調査してもらってる所なんだ」
「えっ、やっぱりゼクシードも撃たれてたの?」
「ああ、音声だけアップしてた奴がいてな」
「そうだったんだ……」
そして八幡は比較の為に、二つの動画を続けて再生した。
「確かに同じ人みたいね」
八幡の背中越しにそれを見ていた詩乃が、いきなりビクッとした。
「どうした?」
「まさか……い……」
「い?」
「嫌……嫌……」
「どうした?」
八幡は慌てて振り返ったが、その目に飛び込んできた詩乃の顔は真っ青だった。
「どうした?おい詩乃、大丈夫か?」
詩乃は顔面蒼白になりながら、震える指で八幡のスマホを指差した。
「死銃の持ってるその銃……」
「この銃がどうかしたのか?いや、まさか……」
八幡は詩乃がこれだけ怯える銃の名前に一つだけ心当たりがあった。
「黒星か」
「う、うん……」
八幡はそれを聞いてスマホの動画を消し、詩乃の背中を優しくさすった。
「ごめん、もう大丈夫だから……」
「悪い、銃の種類までは詳しく見てなかったわ」
「ううん、私も最初は気付かなかったから……でも意識しちゃうとやっぱりまだ無理みたい」
「とりあえず横になってた方がいい」
八幡はそう言って詩乃を寝かせた。詩乃がその手を握ってきた為、
八幡はそのまま詩乃の好きにさせておいた。
(これは偶然か?偶然にしちゃ出来すぎている気もするが……)
八幡はそう考えたが、いくら考えても答えが出るはずもない。
「おい、お前タオルか何かがしまってある場所が分かるか?」
八幡は、はちまんくんにそう尋ねた。
「おう、分かるぞ」
「それじゃあそれと、新しい服を何か持ってきてやってくれ、詩乃が汗びっしょりだからな」
「任せろ」
はちまんくんは直ぐに言われた通りの物を用意し、八幡は詩乃の顔をタオルで拭くと、
そのタオルと新しい服を詩乃に手渡しながら言った。
「俺は後ろを向いてるから、とりあえず着替えた方がいいな」
「うん、分かった」
「言っておくが、着替え終わってないのに着替え終わったとか言うのは無しだぞ」
「ちぇっ、読まれてた」
「それだけ元気なら、とりあえずは大丈夫そうだな」
「うん、ちょっと待っててね」
そして詩乃は汗を拭きながら着替え始めた。
八幡はその間、詩乃のこの症状をどうすればいいか考えていた。
(以前蒔いた種を使うか、丁度キリトもGGOに来てくれた事だしな、
さて、うまく暗示がかかってくれればいいんだが……)
「オーケー、もういいわよ」
「おう」
八幡は一応警戒し、そっと振り向いた。詩乃はちゃんと服を着ており、八幡は安堵した。
「大丈夫そうだな」
「うん、心配かけてごめんなさい」
「なぁ詩乃、俺が前にその症状について言った事を覚えてるか?」
「いつか私がこれだと思うプレイヤーと出会ったら、その時その人に事情を話してみろ。
そしてその出会いによって、私はきっとその呪縛から解放されるって、八幡が断言した奴?」
「おう、覚えてたみたいだな、そのプレイヤーってのが、今日会ったキリトだ。
機会があったらあいつにその事を話してみろ、
あいつはお前の悩みなんか、力ずくで簡単にぶっ飛ばしてくれるだろう」
「力ずくなんだ」
詩乃は面白そうにそう言った。
「ああ、俺が断言するんだ、お前はもう何も心配するな、
俺とキリトがお前を必ず助けてやるからな」
「うん、分かった、信じる」
詩乃は何の疑問も持たずにそう言った。八幡が断言するのだから必ずそうなる。
詩乃はそう信じ込む事で、ある意味自分で自分に暗示を掛けていたのだが、
そこまではさすがに考えが及ばなかった。
「よし、それじゃあ今日は帰るとするか、
詩乃もBoBに向けてしっかり体調を整えておくんだぞ」
「うん、分かった」
そして八幡は詩乃の家を後にし、詩乃はそれを見送った。
外に出た時八幡は、一瞬嫌な視線を感じたような気がした為、最後に詩乃に念を押した。
「戸締りはしっかりしておけよ、あと可能なら夜は一人では出歩くな、
暖かくなってきたせいで、変な奴が沸いてるかもしれないからな」
「ふふっ、過保護なのね」
「それくらいが丁度いいんだよ、それじゃあまたな、詩乃」
「うん、またね」
詩乃は心配された事が嬉しいのか、上気した顔で八幡を見送った。
「朝田さん、着替えたんだ……しかもあんな赤い顔で……」
その光景を見ていた恭二は、悔しそうにそう言った。
恭二は八幡と詩乃の様子を見て、つまりそういう事なのだと勝手に誤解した。
だがその顔には、ショックの色はそれほど見えなかった。
「まあいいや、どうせ朝田さんは僕と永遠の時を過ごす事になるんだ、
今がどうだろうとそんなのは関係ないや、
多分その直前に、僕と朝田さんも結ばれる事になるだろうしね」
そう言うと恭二は、さすがに時間も遅い為、そのまま自宅へと戻っていった。
八幡は家に帰ると、電話でアルゴに一つの依頼をした。
それは詩乃にとって、最後の一押しとなる依頼である。
そして電話を切った直後に菊岡から着信があった。
「もしもし、どうしました?」
「こんな時間にごめんね、どうしても急ぎの用があってさ」
「大丈夫です、今帰ってきた所なんで」
「そうか、で、早速用件だけどね、ゼクシードって子、見つかったよ」
「本当ですか!?あいつは生きてましたか?」
「うん、それなんだけどね……」