「ん………」
詩乃はGGOからログアウトし、自宅のベッドの上で覚醒した。
だが直ぐに目を開ける事は出来なかった。
目を開けた瞬間に、目の前に知らない人がいる事を恐れたせいだ。
だが気配を探ってみても、他人の息遣いや物音は聞こえない。
だが代わりに腹部に違和感を感じ、詩乃は恐る恐るそちらに手を伸ばした。
むにゅっ、という手応えと共に、何か丸い物が手に触れ、
同時に聞き慣れた声が、詩乃の鼓膜を震わせた。
「おいこら詩乃、壊れるから俺の頭を握るんじゃない」
「はちまんくん!」
その声を聞いて安心した詩乃は、やっと目を開ける事が出来た。
そこは日頃から見慣れた自分の部屋であり、
正式な部屋の住人たる詩乃とはちまんくん以外の者の姿はどこにも見えなかった。
ちなみにはちまんくんは、詩乃のお腹を枕にして横たわっているところだった。
そしてはちまんくんは、ぴょこっと手を上げ、詩乃にこう言った。
「よっ、お疲れ」
「………良かった」
「ん、何がだ?」
そう無表情で聞き返してくるはちまんくんに、詩乃はこう尋ねた。
「はちまんくん、私がここに横たわっている間、何も無かった?」
「何も、とは?」
「例えば誰かがこの部屋に侵入しようとして、ドアの鍵をガチャガチャしてたとか」
「この俺が留守番をしているんだ、もちろん何も無いぞ。
もしそんな事をする奴がいたら、即通報してブタ箱行きだ」
「ならいいのよ」
そう言いながら、詩乃はほっとした様子で、
ベッドの脇に置いておいたペットボトルの水を飲んだ。
その瞬間にドアのチャイムが鳴り、詩乃はビクリと体を固くした。
そして詩乃は深呼吸をした後、インターホンに向けて尋ねた。
「はい……えっと、どちら様?」
『あ、朝田さん?僕、新川だけど、突然ごめんね。
朝田さんがBoBで優勝したのを見て、居ても立ってもいられなくて、
昔の友達に住所を聞いて尋ねてきちゃったよ、
あ、お土産も持ってきたよ、つまらない物だけど』
「新川君?何だ、良かったぁ……」
詩乃はこの時、妙に恭二の口数が多い事に気が付かなかった。
嘘をつく人間は、大体饒舌になるものなのだ。
『ん、何かあった?』
「ううん、こっちの事。待ってて、今ドアの鍵を開けるわ」
詩乃は相手が知り合いだった事に安堵し、深く考えずにそう返事をしてしまった。
詩乃の精神状態は、不安によって、この時確実に冷静さを欠いていた。
よく考えたら、恭二がここに到着するのが早すぎると警戒くらいしたであろう。
更に八幡以外の男を家に上げる事に躊躇をしただろう。
だが潜在的な不安さが、詩乃のガードを緩くした。
あるいはこの時先に携帯を確認していれば、八幡からのメッセージに気付けたのだが、
今の詩乃にはそこまでの余裕は無く、ただ救いを求めるように、
知り合いの存在に縋ってしまっていた。
…………それが救いとはまったく逆の存在だとは気付かずに。
「ハイ新川君、いきなりだったから驚いちゃった」
「ごめん、どうしても直接お祝いの言葉を伝えたくってさ。
勝手に住所を調べて押しかけちゃってごめんね」
「ううん、いいのよ、ありがとう」
この時はちまんくんは、相手が見知らぬ相手であった為、人形のフリに徹していた。
「あ、これ、つまらない物だけど……ケーキを」
「本当に?ありがとう、今お茶を入れてくるから待ってて」
「あ、いいよいいよ、それよりも朝田さんに話があるんだ」
「そう?それじゃあとりあえずこれを冷蔵庫に入れてくるね」
「うん」
そして詩乃は台所に行き、恭二は緊張したように辺りを見回した。
そして机の上に箱のような物を見付け、
そこに書かれた銃の名前を見てドキリとした後、内心でほくそ笑んだ。
(これは……そうか、前回の……)
丁度そこに詩乃が戻ってきた。詩乃は恭二の話を聞こうと再びその場に腰掛け、
何となくはちまんくんを膝の上に乗せた。
「で、話って?」
「うん、先ずは優勝おめでとう、やっぱりシノンは凄いね、
最初会った時から、シノンは絶対に強くなるって思ってたよ」
「あ、あは……優勝の仕方はあまり褒められたものじゃなかったけどね」
「それでも凄いよ、僕も大会に出場出来てたらな……」
「外せない用事があったんでしょ?仕方ないわよ」
「うん、まあね。ところでその箱の中身って……」
恭二はさりげない風を装って、詩乃にそう尋ねた。
「あ、これ?………例のアレのモデルガン」
「やっぱり……名前を見てそうかなって思ったんだ。
朝田さんから見えないように、ちょっと見てみてもいい?」
「別にいいわよ」
そう言って詩乃は、恭二にその箱を差し出した。
「それじゃあちょっとだけ」
恭二は箱を少しだけ開けて中を覗きこみ、それが確かに黒星だという事を確認した。
「それで本題なんだけど……」
「あ、うん」
そして恭二は、少し緊張した様子で詩乃にこう言った。
「朝田さん、僕と付き合ってくれないかな?」
「えっ?」
詩乃はそんな事を言われるとは予想すらしておらず、とても驚いた。
同時にどう断ろうかと考え、困ったような顔をした。
そんな詩乃の表情を見て、恭二は下を向いた。
「…………やっぱりね」
「えっと…………ごめん新川君、私…………」
「シャナさん……だろ?」
「え?あ、う、うん……」
「そうだよね、はぁ、これでスッキリしたよ」
恭二は顔を上げ、思ったよりも晴れやかそうな顔で言った。
そしてその手には黒星が握られており、その銃口は詩乃へと向けられていた。
それを見た瞬間、詩乃の心臓がドクンと脈を打った。
「い、一体何を……」
「さっき言っただろ?スッキリしたんだよ。
これはうぬぼれかもしれないけど、多分朝田さんは、シャナさんと出会っていなかったら、
僕と付き合っていた可能性がかなり高かった、違う?」
「それは…………そうかもだけど」
GGOを始めてしばらくした後、確かに詩乃はそう考えた事があった。
だがそれは恋愛感情ではなく、シュピーゲルから向けられる好意に対して、
こんな自分が何か報いる方法は無いかと考えた時、彼の好意をそのまま受け入れて、
もし告白されたらこの身を差し出すべきではないのかという、
ある意味自虐的な考えからだった。
だがシノンはシャナと出会い、詩乃は八幡と出会ってしまった。
今はもうそんな事は、考える事すら無い。
「それにその人形……それってシャナさんだよね?」
「えっ?ど、どうしてそれを?」
「僕、シャナさんの顔を見た事があるからね」
「ど、どこで?」
「ここで」
詩乃はその言葉にぞくりとした。
(ここで?ここでってどういう事?まさかそんな…………)
「も、もしかして、私達の事、見てたの……?」
「うん、ここの住所の事は早い段階から知ってたし、
朝田さんを守ろうと思って、この部屋の前の道の角から、よく見てたよ」
「なっ…………」
「まあその甲斐も無く、朝田さんの純潔はシャナさんに奪われてしまった訳だけど」
「えっ?」
どうやら恭二は二人の関係を、勘違いしたままだったようだ。
そして恭二はそれ以上聞きたくないという風に、唐突に話題を変えた。
「それにしても、この銃を見てもあまり怖がらないんだね、
それもシャナさんのおかげなのかな?それじゃあこれはどうかな」
そう言い放つなり、恭二は懐から何かを取り出し、素早い動作で詩乃の胸に押し付けると、
とても気持ち悪い笑顔を浮かべた。
そのはずみではちまんくんは横にころがり、詩乃の携帯の近くに転がった。
「これはね、こう見えて注射器なんだよね。
そしてこの中身が朝田さんの体に入ると、朝田さんの心臓や他の臓器は、
ゆっくりとその動きを止めるんだよ」
「ひっ…………」
(これはまずいな、俺だけじゃ詩乃を守りきれる自信が無い、ここは一つ本体に期待するか)
そう考えたはちまんくんは、こっそりと詩乃の携帯を操作し、八幡に電話を掛けた。
『もしもし、詩乃か?おい、大丈夫なのか?』
電話の向こうからそんな八幡の声がしたが、
はちまんくんはその声が漏れないようにしっかりとその部分をおさえつつ、
マイク部分をトントンと叩き始めた。モールス信号である。
『おい、おい!ん、これは……お前、もしかして俺か?』
それで我が意を得たりと思ったはちまんくんは、
我慢強く八幡に同じモールス信号を送り続けた。
『し、の、き、け、ん、は、や、く、こ、い』
『分かった、正確に五分で着く、それまでお前は時間を稼げ!
時計を合わせるぞ、五、四、三、二、一、五分前!』
そこで電話は切れ、はちまんくんは、時間を稼ぐ為に慎重に二人の様子を観察し、
自分が介入するタイミングを計り始めた。
明日は直接この続きの話ではなく、アキバの模様を中継でお伝えします。