詩乃は恭二に迫られ、総毛立つ程気持ち悪さを覚えていたが、
この状況で抵抗する手段は詩乃には無かった。何せ相手の持つ注射器らしき物が、
どの程度の力加減でその機能を発揮するのか分からないのだ。
ちなみに恭二が持っているのは無針注射器であり、
医療機器に詳しくない詩乃にはまったく未知の物体だった。
「ど、どうしてこんな事を……?」
「だって朝田さんは、もうシャナさんの物になっちゃったじゃない、
そうなったら僕に出来る事は、力ずくで奪い返す事くらいでしょ?」
「いや、だからそれは……」
「ああ、説明してくれなくていいよ、別に聞きたくないし」
「違うの、そもそもそれが勘違いなの、私とシャナは別にそんな関係じゃ……」
「ああ、もう黙ってよ、聞きたくないって言ってるでしょ!」
そう言って恭二は、黒星のモデルガンを放り出すと、
詩乃をそのまま突き飛ばしてベッドに横たわらせた。
詩乃はスカートがめくれそうになった為、それを必死で直すと、
もう恭二の顔は見たくないという風に横を向いていた。
「こっちを見てよ、朝田さん」
恭二は注射器を再び詩乃のわき腹に押し当てながらそう言った。
詩乃は悔しさに塗れながら、言われた通りに恭二の顔を見た。
「ああ、いい顔になったね、まさかあの強気の朝田さんの、
こんな表情が見られるなんて……」
恭二は恍惚とした表情でそう言った。
詩乃はもう恭二とは話したくないのか無言だった。
「急に静かになったね、まあおかしな事をしたら、
この注射器によって死ぬだけだから、さすがの朝田さんも何も出来ないか」
その言葉に詩乃は急に悲しくなり、ぽろぽろと涙を流した。
それを見た恭二は、さすがに少し動揺したように詩乃にこう尋ねた。
「い、いきなりどうしたの?朝田さん」
「……こんな人を大切な友達だと思っていた自分が、急に情けなくなったのよ。
もういいから私をあなたの好きにしなさいよ!」
その詩乃の強い言葉に、恭二は多少はたじろぐかと思いきや、
一転して嬉しそうな表情を見せた。
「好きにしていいの?まあそういう事なら、
シャナさんとの行為を僕が上書きするのに都合がいいから助かるけどね。
女の子を強引にものにするのは好きじゃないんだ」
どうやら恭二には詩乃の言葉の都合のいい部分しか聞こえないようで、
更に言っている事とやっている事が真逆だった。
「だからそんな関係じゃないって言ってるでしょ!
ううん、もういいわ、今更何を言っても、どうせ聞いてくれないんでしょ?
やるならさっさとしなさいよ、それとも自分で裸になればいいの?」
詩乃は投げやりな気持ちでそう言った。
確かに恭二と知り合った事は、詩乃にとっては有り難かった。
だがその出会いは、詩乃にとっては決して救いをもたらすものではなかったのも事実なのだ。
詩乃は恭二と出会う事でトラウマを克服しようとし、
シノンはシュピーゲルと共にいる事で、自分は確かに生きていると実感する事が出来た。
だがひとたび学校に行けば、その実感はあっさりと霧散してしまう、
なので詩乃は恭二に感謝こそすれ、恋愛感情を抱いた事は一度も無かった。
だが詩乃が恭二の気持ちに何となく気付いていたのも確かである。
だからこそ、恭二に感謝の気持ちを示す為にも、
詩乃はキッパリと恭二を振っておくべきだったのだ。
客観的に見れば、詩乃は中途半端なまま恭二を放置して、
八幡が現れた途端にそちらに乗り換えたように見えるかもしれない。
これでは恨まれても仕方がないと、詩乃は思い始めていた。
もちろん何もかも自分が悪いとは思わないが、
これは友達選びを失敗した自分に対する罰なのだ、だから甘んじて受けよう、
詩乃はそんな気持ちで、もはや抵抗する気をまったく無くしていた。
「えっ、いいの?それなら話が早いや、やっぱり朝田さんは僕の事が好きだったんだね、
こんなふつつかな僕だけど、今後とも宜しくお願いします」
その予想外の返事に詩乃は心底気持ち悪さを覚えた。
覚悟を決めたとはいえ、こういった嫌悪感はどうしようもないのだ。
(私、こんな人に汚されちゃうんだ……)
今ここで汚されてしまう自分は、もう八幡に会う資格も失ってしまうと思い、
詩乃は無性に悲しくなった。
せめて最後に一目会いたかった……詩乃はそう思いながら、
せめて行為の最中には、まぶたの裏で八幡の姿を想像しようと目を瞑った。
その時どこからか、今まさに聞きたくて仕方なかった声が聞こえた。
「らしくないな、戦況が不利でも最後まで戦う、お前はそんな女だろ?」
「あっ……」
「だ、誰だ!」
恭二は、そのどこかシャナに似た声の持ち主を探そうときょろきょろしたが、
部屋の中にはもちろん誰もいない。
「俺だよシュピーゲル」
はちまんくんは、詩乃から聞いていた為、
知識としてだけはシュピーゲルの存在を知っており、
ことさらに煽るような感じでそう言いながら、
ちょこちょこと詩乃と恭二の間に割って入った。それを見た恭二は仰天した。
「な、何だこいつ!?」
「何だと言われてもな、俺ははちまんくんだ、宜しくな」
「に、人形がひとりでに歩いた上に、勝手に喋った!?」
さすがに予備知識無しでいきなりそんな事が起こった為、
恭二は詩乃の体から注射器を離し、わずかに後ずさった。
それによって詩乃に、何かしら行動する事が可能になる余地が生まれた。
(あと三分か……)
「このご時勢に、そんなに驚く事か?世の中には既にAIが搭載された製品が溢れてる、
俺はその中の一つに過ぎない」
「な、何なんだよお前……」
「ん?さっき自己紹介しただろ?俺ははちまんくん、お前の恋敵のコピーのような存在だ。
自分で言うのもアレだが、かなりの高性能だと自負している」
「その喋り方……まさかお前、シャナさんの人格のコピーなのか?」
「コピーという表現は正確じゃないな、俺はまあ、過去ログみたいなもんだ」
「過去ログ……」
「その言い方も微妙だがな、まあただ一つだけ確実に言える事がある、
俺はお前の敵だ、俺は詩乃を泣かせたお前を絶対に許さない、絶対にだ。
もちろん本物のシャナも、同じ事をお前に言うと断言しよう」
(あと二分……)
「な、泣かせっぱなしにするつもりなんかない、
何故なら今ここで僕と結ばれる朝田さんを、僕が必ず幸せにするからだ!」
「はぁ?何でお前と一緒になって、幸せになれるんだ?何か根拠はあるのか?」
「そ、それは……あ、愛の力で……」
「愛だぁ?もっと具体的に何か無いのか?収入は?将来性は?それにルックスは?
俺が言うのもなんだが、シャナはあの年で既に年収は一千万を超え、
将来はソレイユの社長、さらに見た目はお前が知る通りの、とんだ優良物件だぞ?
ちなみに詩乃が抱えた問題もあいつが解決した。
それに比べてお前には何か、他人に誇れるような事はあるのか?」
「あ、あるさ!」
恭二は完璧に、はちまんくんのペースに乗せられていた。
同時にはちまんくんは、詩乃を落ち着かせようと詩乃の膝を優しくさすっていた。
それによって詩乃は、多少の冷静さを取り戻し、
恭二とはちまんくんがお互いに会話に集中している事で、
周りを観察する余裕も生まれていた。
(何か武器になるものは……)
だが生憎、手の届く範囲にあるのは黒星のモデルガンだけであり、
それに触れるにはかなりの勇気を必要とする。
(あれを投げつければ……でも……)
詩乃は葛藤し、そんな詩乃にまだ早いと言いたいのか、
はちまんくんは詩乃の膝をぽんぽんと叩いた。
「ほほうどんな人に誇れる事があるんだ?」
はちまんくんのその言葉に、恭二は声を詰まらせた。
改めて長所は何かと尋ねられると、子供の頃は案外素直に答えられるが、
ある程度の年齢を過ぎると、大抵の人は困ってしまうものなのだ。
「ええと……」
「まあここは俺が代わりに答えてやろう、お前の長所はその優しさだ。
確かにその気の弱さ故か、学校はやめる事になっちまったかもしれないが、
それは決してお前の責任じゃない、むしろ怖かっただろうに、
落ち込む詩乃に町で声を掛けたり、少し前までのお前は確かに優しさを備えたいい男だった。
だがいかんせん、もっと優しい男が現れてしまった、俺のモデルになった男だ。
お前はその男を前にして、何も出来なかった。
あるいはもっと詩乃と分かり合おうとしていれば、案外詩乃はお前を選んだかもしれない、
だがそうはならなかった、それは何故か。
お前のその優しさが、実は自分に対する優しさだったからだ。
お前の優しさは、自分本位な我が侭の裏返しにすぎない、だから詩乃は別の男を選んだ」
(あと一分)
「ち、違う」
「いや、違わない、お前は自分の事しか考えていない、
だから詩乃の言葉に耳を傾けようともしない、お前は究極の自己愛の権化だよ」
「そ、それは朝田さんが、嘘をついて誤魔化そうとするから……」
恭二の言葉は尻すぼみになり、この時初めて恭二は下を向いた。
その瞬間にはちまんくんは叫んだ。
「おいこら詩乃、あいつに会いたいんだろ?過去と未来、どっちが大事なんだ?
あいつとの未来を望むなら、根性を見せてみろ!」
「なっ……」
それを聞いた恭二は慌てて顔を上げた。その目の前には、
決死の覚悟で恭二の前に立ち塞がるはちまんくんの姿があった。
そしてはちまんくんは、いきなり自分の右手を引きちぎり、
それによってむき出しになった電極を恭二に押し付けながら詩乃に言った。
「詩乃、立て!立って走れ!そしてあいつの下に行け!」
「う、うん!」
その言葉に詩乃は力を振り絞って立ち上がり、
夢中で黒星を握り締めると、しっかりと手に掴んだそれを恭二目掛けて投げつけた。
モデルガンとはいえそれなりの重量がある為、恭二は咄嗟に顔を手でガードした。
それによって恭二は、一瞬目を瞑ってしまった。
その瞬間に詩乃は立ち上がり、恭二の横を走って擦り抜けようとした。
「さ、させるか!」
恭二はやみくもに手を伸ばし、その手が運よく詩乃の足を掴んだ。
その瞬間に、はちまんくんがスパークした。
「させないのはこっちだ」
「うわあっ!」
はちまんくんに蓄えられていた電力は、大した物ではなかったが、
それを一気に放出した事で、恭二に対してそれなりにダメージを与える事が出来たようだ。
恭二は反射的に詩乃の足から手を引き、詩乃はそのまま前のめりに倒れたが、
恭二もまた直ぐに動く事は出来なかった。ここからはもう、ヨーイドンの世界である。
「くっ……」
「くそっ……」
だが先に立ち上がったのは恭二の方だった、男女の体力差が出たのであろう。
「朝田さん、逃がさない!」
「だが既に手遅れだ、お前はもう詰んでいる。残りあと十秒」
「は?お前まだ喋れ……」
その瞬間に、恭二の顔を横を何かが擦り抜けた。
「これをやると、手が元に戻らなくなるんだよな、まあ奥の手ってやつだ」
どうやらはちまんくんが、残った左手の手首を射出したらしく、
左腕の先からワイヤーが伸びており、射出された手がドアの鍵を握っていた。
「ゼロ、だ……」
そう言ってはちまんくんは、最後の力を振り絞ってドアの鍵を開けるのと同時に、
どっとその場に倒れ伏した。その瞬間に誰かの足音が聞こえ、
ドアが乱暴に開けられた。そして誰かが中に飛び込んで来たかと思うと、
恭二と詩乃の間に立ちはだかった。
「よぉ俺、時間ピッタリだな」
「悪い、待たせた」
「いや、間に合ったんだからいいさ、後は任せた…………詩乃、王子様が来てくれたぞ」
「は、はちまんくん!」
そう最後の言葉を残してはちまんくんは、その機能を停止した。
「よくやったぞはちまん、そして詩乃、よく耐えたな。
もう大丈夫だ、ここからは俺がお前を守…………あ?」
「八幡、八幡!」
詩乃は確かに嬉しそうに八幡に抱き付いたのだが、八幡はその詩乃の顔に涙の跡を見た為、
怒りに震え、最後まで言葉を続けられなかった。
そして八幡は、詩乃を恭二から庇いながら言った。
「シュピーゲル、てめえ……俺の大事な詩乃を泣かせやがったな、絶対に許さん、絶対にだ」
「えっ、あっ……」
詩乃は『俺の大事な詩乃』と言われた事で歓喜に震え、
恭二はよろよろと立ち上がると、八幡を恨めしそうな目で睨んだ。
「シャナさん……来ちゃったんですね」
「来るに決まってるだろ」
「くそ、もう少しだったのに……」
「はぁ?俺とはちまんがいる限り、お前が詩乃に触れる機会はこの先も永遠に無えよ」
「でもまだ終わってはいないんですよ!」
そう言いながら恭二は、右手に握った注射器を振り上げ、八幡目掛けて振り下ろした。
八幡がそれを左手の平で受けようとした為、
恭二はしめたとほくそ笑み、詩乃は顔を青くした。
「それじゃあ駄目なんですよ、シャナさん!」
「は?駄目?お前は何を言ってるんだ?もう終わりだぞ?」
例え手の平でも、押し付けて注射器のトリガーを引きさえすれば、それで形勢逆転だ、
そう思った瞬間に、恭二の持つ注射器は、カツンという音と共に何か固い物に阻まれた。
「えっ?」
「だから言っただろ、もうとっくに終わってるんだよ」
直後に顎に凄まじい衝撃を受け、そのあまりの痛みに悶絶し、
恭二はその場にどっと倒れた。その瞬間に注射器が、八幡によって手首ごと踏み折られ、
手首に耐えがたい激痛が襲ってきた恭二は、身動き一つ出来なくなった。
恭二は何が起こったのか分からず、痛みを堪えながら悔しそうに八幡の方を見た。
その八幡の左手には、懐中時計であろうか、銀色の丸い物体が握られており、
どうやら注射器は、それによって防がれたらしい。
そして八幡の右手には警棒が握られており、恭二はそれによって、
自分の顎が攻撃されたのだと漠然と理解した。
「くっそ……やっぱり強いや……」
その直後に入り口からどたどたと足音がして、体の大きな人物が部屋の中に入ってきた。
「参謀!ご無事ですか?」
「おう、問題ない、ゴドフリー、こいつの事を頼む」
「ふむ、こいつが犯人ですか、おい小僧、相手が悪かったな」
そう言ってその男、相模自由は、どうやらそれだけは持ってきたらしく、
凶真と違って本物の手錠を恭二の腕にはめた。
「こ、こんな事って……」
「残念ながらこれが現実だ、シュピーゲル」
八幡は詩乃を抱き上げながら、冷たい目でそう言った。
そして八幡は左手に握っていた物を詩乃に見せながら謝った。
「悪い詩乃、せっかくのお前からのクリスマスプレゼントを、こんな事に使っちまった」
「う、ううん、私のプレゼントが八幡を救ってくれたんだもの、
贈り主としては逆に誇らしいわ」
「そうか」
「ねぇ八幡、私を下ろして」
「おう」
詩乃が自分の足で立つ事を望んだ為、八幡は優しく詩乃を床に下ろした。
詩乃は少しよろけたが、それを支えようとした八幡の手が詩乃の胸に触れた。
詩乃は恥ずかしさに顔を赤くしたが、もちろん嫌悪感をまったく覚える事はなく、
相手によって、こんなにも自分の反応が変わるものなのかと少し驚いた。
(もうこの人じゃないと、私はきっと駄目なんだ)
そして詩乃は、恭二につかつかと歩み寄り、その頬に平手打ちをした。
「新川君、あなた最低ね!」
「ご、ごめん……」
恭二は反射的に謝り、詩乃はそんな恭二を泣きながら怒鳴りつけた。
「謝るくらいなら、最初からやるんじゃないわよ!」
「…………」
恭二は何も言い返す事が出来ず、その場にうな垂れていた。
奇しくも恭二が手錠をはめられたのは、兄である昌一が捕まったのと同時刻であった。
これによって、事件の首謀者のうち、二人が捕まる事となり、
ここに死銃事件は終結する事となったのだった。
詩乃が八幡に懐中時計をプレゼントしたのは、第272話『最初で最高のクリスマス』での事になります。