「八幡さん、八幡さん、そろそろ起きる時間ですよ」
「ん………おう、優里奈か、起こしてくれてありがとうな」
「いえいえ、こちらこそごちそうさまでした」
優里奈は笑顔でそう言い、八幡は首を傾げた。
「……ん、何がだ?」
「いえ、寝顔がその、かわいかったので」
「ああ、そういう事か、俺はてっきり寝てる間に俺が突然動き出して、
お前に食事か何かを奢ったのかと………あれ」
最初はそちらにばかり目を向けていた八幡は、この時優里奈の言葉の意味に気づき、
少し気まずそうな顔で優里奈にこう尋ねた。
「ええと……俺の寝顔、どこかおかしかったりしたか?」
「大丈夫ですよ、まったく普通でしたから」
「そ、そうか……」
八幡は何ともいえない気分になったが、
優里奈に寝顔を見られるのはいつもの事だし、そのまま流す事にした。
優里奈は優里奈で、無防備に、とてもリラックスして寝ている八幡の顔を見て、
自分の事をそれだけ信頼してくれているのだと思って嬉しくなった事や、
少し寝汗をかいていた八幡の顔をそっとタオルでぬぐった事は黙っておいた。
八幡の寝顔をいつでも鑑賞出来る特権を、万が一にも手放す事は出来なかったからだ。
優里奈は今の自分の生活が充実しており、とても幸せだと感じていた為、
この生活を壊すような事は極力控え、更には一歩踏み込んで、
この生活を壊そうとする者とは、徹底的に戦う覚悟を決めていたのだった。
そんな事はそうそうあるものではないが、無いという保証はまったく無く、
往々にしてそういったトラブルは突然訪れる。
優里奈はその事をきちんと理解しており、細やかに神経を使い、
問題になりそうな事がないか、注意深く観察を続け、日々のチェックを怠らない。
この事が、この部屋を訪れる者達にとって、
常に快適な環境が維持されるという恩恵にもなっているのだった。
「そういえば、詩乃ちゃんが必死で八幡さんの事を探してましたよ」
「うぇ、ま、まさかここに来たのか?」
「いいえ、問い合わせがあっただけですけど、
八幡さんが寝る前に、詩乃ちゃんにここにいる事を教えるなって言われてましたから、
申し訳ないなと思いつつも、上手く誤魔化しておきました」
「そ、そうか、無理を言って悪かったな」
「いえ、詩乃ちゃんには後で謝っておきますから」
「そうしてくれ」
そして八幡は時計を見て、あと一時間ほどで千佳とかおりの仕事も終わるなと考え、
出かける準備を先に済ませてしまう事にした。
「それじゃあ俺はちょっとシャワーを浴びて、夜出かける準備をしちまうわ」
「それじゃあ私は八幡さんがシャワーを浴びている間に、
洗濯物を回収して洗濯しちゃいますね、ついでに着替えも出しておきますから」
「いつもすまないな、宜しく頼む」
その時八幡は、優里奈が後ろ手に洗濯カゴを手にしている事に気がついた。
「………優里奈、その手に持っているのは?」
「あ、今寝室で、志乃さんと茉莉さんが寝てて、その洗濯物です。
どうやら今日はかなり疲れたみたいで、
二人は八幡さんを起こさないようにそっとシャワーを浴びて、そのまま寝ちゃいました。
一体何があったのか、八幡さんはご存知ですか?」
「ああ、飛行機から何度も飛び降りたんだよ、空挺降下って奴だ」
「くうていこうか、ですか?」
その子供のような優里奈の言い方を微笑ましく思った八幡は、
優里奈に空挺降下の説明をし、シャワーに向かおうとして、
たまたま優里奈の持つ洗濯カゴの中身を見てぎょっとした。
そこには特大サイズのブラがチラリと姿を覗かせており、
八幡は思わず口に出してこう言った。
「さ、さすがは栗林さんと言うべきか……」
「え?あ、もう、八幡さん、駄目ですよ」
優里奈は洗濯カゴを後ろに隠し、子供を叱るような口調でそう言った。
「お、おう、すまん、ちょっとその大きさにびっくりしちまったもんでな」
「あ、えっとですね……これは志乃さんのじゃなくて、ええと……」
優里奈はもじもじしながらそう言い、八幡はそれで、その持ち主が誰なのかを理解した。
「ま、まさかそれ、優里奈の…………なのか?」
「もう、八幡さんのえっち!」
そう言って優里奈は八幡をぽかぽかと叩いた。八幡は慌てて優里奈に謝ると、
そのままシャワー室に駆け込もうとして、ある事に気がつき、再び止まった。
「え?あれ、ま、待てよ、って事は、俺の洗濯物と優里奈達の洗濯物を、一緒に洗うのか?」
その問いに、優里奈は呆れた顔をしてこう答えた。
「今更ですか?ずっと前からそうですよ」
「まじか、いや、でもあいつらが嫌がったりしないのか?」
「むしろ一緒でいいって皆さん言ってますよ」
「そ、それじゃあ今寝てるあの二人は?」
「普段からそういう生活をしてるから、正直もう慣れてるからどうでもいいみたいです」
「ああ、言われてみれば確かにな……」
そして八幡は、先ほど見た優里奈のブラと、自分の下着が並んで干してある光景を想像し、
ぶんぶんと頭を振ってその映像を消すと、何も考えないようにシャワー室へ消えていった。
「それじゃあちょっと行ってくる」
「はい、五分後くらいに洗濯物を取りに入って、代わりの着替えを置いておきますからね」
「いつも悪いな」
八幡はこの時気づいていなかったが、そもそも八幡の下着は優里奈が管理している。
それは一緒に洗濯をする事よりもよほど大きな問題のはずなのだが、
八幡はその事にはもう慣れてしまっているのか、感覚が麻痺しているのか、
その事にはまったく気づかなかった。こういう所は抜けている八幡である。
「それじゃあ行ってくるわ、留守の事は任せたぞ、
今日は折本を家まで送ってそのまま家に帰るから、
あの二人が起きたらいい物でも食わせてやってくれ」
「はい、分かりました」
そして八幡は再びソレイユへと向かい、優里奈は笑顔でそれを見送った。
端から見ると、まるで新婚夫婦のようなのだが、
明日奈が何も言わない事もあり、その事には誰も突っ込まなかった。
むしろ明日奈は優里奈をいいお手本として、
いずれ必ず来る八幡との新婚生活に備える事が出来ており、
今のところ、この関係は誰にとってもウィンウィンな状態となっているようだった。
「あっ、比企谷く~ん!」
「おう八幡、詩乃が凄い剣幕で八幡の事を探してたぞ」
千佳と和人の二人が仕事をしている場所へと向かった八幡は、
和人にそう報告され、渋い顔をしてこう答えた。
「ああ、知ってる知ってる、とりあえず今度フォローしておくわ」
「何があったんだよ……」
「直接は俺のせいじゃない、ただ今日のバイトの内容を教えなかっただけだ」
「バイトの?今日のメニューは何だったんだ?」
「空挺降下だ」
和人は咄嗟にそれが何か分からず考えて込んだが、
その言葉の意味を理解した瞬間に、驚いた顔で八幡に言った。
「くっ……空挺……?マ、マジで?」
「ああ、大マジだ、あいつ、Cー1輸送機から見事に飛び降りてたぞ」
「うはぁ、詩乃の奴、度胸があるなぁ……
でもそれを内緒にされてたのなら、八幡に文句の一つも言いたくなるわ……」
「でもあいつ、いつもアルゴには文句を言わないんだぞ、不公平だよな」
「比企谷君、女心ってのはそういうもんだよ」
「そ、そうか……」
千佳にそう諭され、八幡は理不尽だと思いつつも、
そういうものなんだろうなと無理やり自分を納得させた。
「仲町さん、仕事の調子はどうだ?」
「後はこのフロアで終わりだから、もう少しかな、
それでその、また今日もお願いしてもいいかな?」
「ああ、もちろんだ、シャワールームは自由に使ってくれていい」
「うん、ありがとう!」
やはり千佳も年頃の女の子なのである、今日はちゃんと着替えも持ってきており、
しかもいつもよりも気合いの入った準備をしてきていた。
八幡と和人はそのまま社食に向かい、雑談をしながら千佳が戻ってくるのを待っていた。
和人は、この後どうするかは決めておらず、
八幡に誘われればそのまま付いていくつもりだったのだが、
案の定八幡が誘ってきた為、そのまま行動を共にするつもりであった。
だが戻ってきた千佳の姿を見て、これは別行動をとった方がいいのではないかと考えた。
ちなみにいつもの和人は、こういう場合は別行動をとる。何故なら空気の読める男だからだ。
和人は千佳が、八幡と一緒の時間を楽しみにしている事を知っており、
普段千佳と一緒にいる事で、千佳がそのレベルで満足している事も知っていたので、
何か問題が発生するとも思えず、内心千佳が楽しい時間を過ごせればいいなと思ってもいた。
和人は、今日はかおりも一緒と聞いていたので、
逆に俺もいた方がバランスがとれていいかもしれないと思って残っていたのだが、
今日は多分、かおりとの兼ね合いで何かあるんだろうなと感じ、
八幡に断って帰ろうと席を立とうとした。だがそんな和人を千佳が視線で止めた。
(和人君、今日は残って)
(オッケー、事情は分からないがそうする)
この辺りは何度もバイトで一緒に行動している事が幸いしたのだろう、
和人は千佳の視線の意味を正確に理解し、椅子から浮かせかけていた腰を戻した。
そして千佳の気合いの入ったおめかしっぷりを見た八幡は、おどおどしながら言った。
「あれ、仲町さん、今日は何というか、ええと、あ、あれだ、その服装、凄く似合ってるな。
あ、いや、普段が似合ってないとかそういう事じゃなく、
今日は特にって意味で言ったつもりなんだが」
「うん、ありがとう比企谷君」
千佳はそんな八幡の姿を微笑ましく思いながら、素直にそうお礼を言った。
「さて、そろそろ折本の準備も整う頃だな、受付に顔を出しに行こう」
「うん、そうだね」
「そうするか」
そして受付へと向かう道中で、和人はそっと千佳に尋ねた。
「仲町さん、今日は何かあるのか?」
「実はね、今日はかおりが、比企谷君に何とか名前で呼んでもらえるようになろうと、
頑張ってみるつもりらしいの、で、おめかししてくるみたいだから、
バランスをとろうと思って私もこんな格好をね」
「バランスねぇ……」
その和人の言い方で、千佳は、あ、これは自分も便乗してそうしてもらおうとしてる事が、
和人に確実にバレてるなと感じた。
「じゃあ俺も頑張って二人を手伝うよ」
千佳はその言葉にやっぱりなと思いつつも、少し赤い顔で、それでもとぼけながら、
和人に対してこうお礼を言った。
「うん、かおりの事、宜しくね」
「ああ、二人の為に出来るだけの事はするよ」
千佳はそう言われ、赤くなって下を向き、
和人はそんな千佳にも心の中でエールを送ったのだった。
「折本」
「あ、比企谷、丁度ついさっき準備が出来たところだよ」
「そうか、それは丁度良かったな」
そしてかおりと話していた受付の女の子が、かおりに何か囁き、
かおりは顔を赤くしながら、何か気合いを入れている姿が見え、
八幡は何だろうと思ったが、かおりの格好も、千佳と同じく気合いの入ったものだったので、
服装について、同僚に褒めてもらったんだろうかなどとのんきな事を考えながら、
先ほど千佳にしたのと同じように、かおりの服装を褒めた。
「今日は折本もおしゃれしてるんだな、凄く似合ってていいと思うぞ」
「うん、ありがとう!」
「って事は、地味なのは和人だけか」
「俺は普通だよ!というか俺を引き合いに出すなよ!」
「仕方ないだろう、他にいじる奴が周りにいないんだから」
「くっ……ま、まあいいや、さっさと行こうぜ八幡」
「そうだな、それじゃあ行くか」
こうしてかおりと千佳の決意を秘めた戦いが始まったのだが、
結果的にはその決意は空回りする事となる。