ハチマンくんとアスナさん   作:大和昭

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第515話 また明日ね

「今日はここにしようと思う」

「なるほど、鰻か……」

「ああ、暑いからちょっとでも元気になってもらおうと思ってな」

「あたし、鰻って大好物なんだよね、でも食べるのは久しぶりかも」

「そういえば最近食べてなかったなぁ」

 

 八幡のチョイスは、三人に好意的に迎えられた。

ちなみに今日のチョイスは千佳の好みをリサーチした結果である。

 

「すみません、予約してあった比企谷ですが」

「あ、はい、ようこそいらっしゃいました、こちらへどうぞ」

 

 その店は、カウンターの脇にテーブルがあるタイプの店ではあったが、

別に個室も用意されているようで、四人はそちらへと案内された。

だが心憎い事に、個室の方にも鰻のいい香りが漂ってくる作りとなっており、

千佳はお腹が鳴りそうになるのを、女の意地で抑えていた。

 

「さて、それじゃあ好きな物を注文してくれ」

「あ、うん、メニューメニューっと」

「それじゃああたしも遠慮なく………って、これ……」

「ん、どうかしたか?」

「ううん、何でもないよねかおり、ほら、待てだよ、待て」

「千佳、私を犬扱いしないで!」

 

 そんな二人を見て、八幡は面白そうに笑った。

 

「そんなにそわそわしなくても鰻は逃げないぞ、まあゆっくり決めるといい」

「う、うん、そうさせてもらうね」

「その前に俺はちょっとトイレに……」

「う、うん、行ってらっしゃい」

 

 そして八幡がいないうちに、三人は円卓会議を始めた。

もっとのここのテーブルは円卓ではないのだが。

 

「かおり、比企谷君と月一で食事をしてきた先輩からのアドバイスよ、

比企谷君とこういったお出かけをした場合は、値段の欄は決して見ない事、

それが精神衛生的にもっともかしこい選択よ」

「わ、分かりました先輩……」

「俺からも忠告だ、下手に気を遣って安い物を注文すると、

逆にあいつが気を遣って、こっちの方がいいんじゃないかとか言ってくる事が多い、

代わりがない物なら大丈夫だが、そうじゃない場合、黙って一番高い物を選択するといい」

「う、うん、ありがとう和人君……」

 

 そこで和人は何かに気がついたように、あれっという顔で首を傾げた。

 

「………なぁ、二人は今日、八幡に名前で呼んでもらえるようになろうとしてるんだよな?

で、出来れば自分達もあいつの事を名前で呼びたいと……」

「あ、うん、そ、そうだね」

「それがどうかしたの?」

「何で俺の事は名前で呼んでるんだ?……いつからだっけ?」

「あ、あれ?」

「そういえば……」

 

 二人も首を傾げ、和人とどうやって出会ったのか思い出そうとした。

そして千佳がある事に気がついた。

 

「最初は確かに桐ヶ谷君って呼んでたと思うんだよね」

「確かにそのはずなんだよな」

「多分だけど、比企谷君と和人君って、ソレイユだと基本セットじゃない?、

で、比企谷君は常に和人って呼んでるから、

長く同席していると、桐ヶ谷君って呼び続けるのって難しくない?

どうしても他人の影響を受けるから、うっかり移っちゃったり……」

「あ、それある!」

「言われてみれば確かにそうだな」

「なるほどね、それで知らないうちにって事ね、ウケるし」

「でもさ、だったらかおりは何で他人の影響を受けてないのかな?」

 

 その当然の疑問に、かおりはこう答えた。

 

「ほら、受付にいるとさ、比企谷の事を名前で呼ぶ人より、苗字で呼ぶ人の方が多いんだよ、

で、会社の他の人も、私の事は基本折本さんって呼ぶから、その例だとまあ、そういう事」

 

 そしてかおりは直後に、二人に聞こえない音量でボソリと呟いた。

 

(もちろん中学の頃の苦い思い出のせいで、あたしが萎縮しちゃうってのもあると思うけど)

 

「ああ、逆にそうなのか、なるほどなるほど」

「この環境は、自分じゃどうしようもないのよね、なので今日は覚悟を決めないと」

 

 かおりはそう言って気合いを入れ直した。そして和人は二人に言った。

 

「そしたら俺も、八幡が二人の呼び方を変えた後は、

それに習って呼び方を変えた方がいいのかな」

「あ~、そうかもね」

「私達が名前で呼んでるんだから、確かに今のままだと変だよねぇ」

「でも何て呼べばいいんだろうか」

「そのまんま、かおりと千佳でいいんじゃない?」

 

 そう提案された和人は、迷うような表情でこう言った。

 

「それでもいいんだけど、実は俺、二人より一つ年下なんだよな……」

「あ、そうだったんだ」

「それじゃあ慣れるまでは、適当にさんとかちゃんとか付ければいいよ、

付けても付けなくても、あたし達はそこまで細かく気にしたりしないけどね」

「だね、それがいいと思う」

「それじゃあそうさせてもらうか、とりあえず今日は頑張って二人の事を名前で呼んでみて、

それで八幡を上手く釣ってみる努力をしてみるよ」

「本当に?ありがとう!」

「それは効果が期待出来るかもしれないね」

 

 三人の話はそれでまとまり、話は元に戻った。

 

「それで注文の話だけど」

「そうだったそうだった、という訳で俺は、何も考えずに特上を頼む事にする」

「あ、それじゃあ私も……」

「あたしもそうする、あまり考える余地も無いしね」

 

 三人はそう決断し、八幡が戻ってくると、三人とも同じ物にすると伝えた。

 

「そうか、それじゃあ俺もそうするか」

 

 そして八幡が注文を済ませ、四人は料理が来るまで雑談に移った。

 

「そういえば仲町さん、お店の経営の方は最近どうなんだ?」

「うん、経営は順調だよ、今は私が店長だから、ある程度好きに出来るしね」

「えっ、千佳、そうだったの?」

「凄いな千佳さん」

「ふふん、ソレイユの仕事を請けた時の功績で、出世しました!」

 

 和人はそこで初めて試しに千佳を名前で呼び、密かに八幡の様子を観察したが、

八幡は何の反応も示さなかった。

 

(気づいてないのか、あるいは気にしてないのかよく分からないな)

 

 当然他の二人もその事に気付き、期待のこもった目で八幡の方を見たのだが、

八幡は何の反応も示さずに、かおりに向かって言った。

 

「そういえば仲町さんの好みに合わせてこの店を選んでみたんだが、

折本は鰻は平気だったのか?」

 

 かおりは内心ガッカリしつつも、笑顔で八幡に答えた。

 

「うん、平気平気、むしろ大好物だし」

「そうか、それなら良かった、ちなみに和人は嫌いな物でも黙って食えよ」

「その扱いの差は何だよ!たまには俺にも気を遣えよ!」

「気を遣っているからこそ誘ってやったんじゃないか」

「そ、それはそうかもだけど……」

 

 そして八幡は、ニヤニヤしながら和人に言った。

 

「という訳でピーマンでも追加で頼むか?」

「何でお前は俺の嫌いな物を知ってるんだよ!」

「直葉から教えてもらった。ああそうか、もしくは鯖の味噌煮でもいいぞ」

「それもスグに聞いたのか?」

「いや、里香に聞いた」

「俺の周りは敵ばっかかよ!」

「好き嫌いを無くして欲しいという、あいつらの愛に対して、ひどい事を言うんだなお前は」

「ぐっ、畜生、口じゃ八幡には敵わない……」

 

 かおりと千佳はその会話に爆笑し、丁度その時注文の品が運ばれてきた。

 

「さて、それじゃあ頂くとするか」

「うわぁ、美味しそうだね」

「いただきます!」

「いただきます」

「ってこれ美味しい!」

「やばい、やばいって」

「細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているね!」

「大げさだな、グルメ番組じゃないんだから……」

 

 八幡は呆れながらも、三人が嬉しそうなのを見て心を和ませた。

そして食後のお茶を飲みながら、とりとめのない話をしていた四人であったが、

かおりは八幡の事を名前で呼ぶキッカケが中々掴めずに焦っていた。

 

(ど、どうしよう千佳)

(何かそれっぽい話題でもあればねぇ)

 

 二人は目でそう会話をしながら、和人に期待のこもった目を向けた。

和人はこの時ばかりは空気を読まない事にし、

チャンスがあればガンガン突っ込もうと密かに心に誓っていた。

そのチャンスとは、要するに八幡が二人のうちどちらかの苗字を呼ぶ事だったのだが、

八幡は今は三人全員に向かって何となく話題を振っているだけであり、

名前を呼ぶような特定の話題はまったく出てこなかった。

 

(こうなったら仕方がない、もしかしたら八幡だけじゃなく、二人も嫌がるかもしれないが、

禁断の中学もしくは高校の時の話題を振るしかないか……)

 

 和人はそう決意し、思い切って八幡にこう言った。

 

「そういえば八幡はかおりさんとは中学から一緒だったんだよな、

千佳さんはかおりさんとは高校からなんだっけ?」

「ん?ああ、そうだな」

「うん、そうだね」

「懐かしいなぁ」

「他に中学高校からの友達で今も続いてる人っているのか?

俺は正直ほとんどいないんだよな……」

「和人はまあ、事情が特殊だからなぁ、和人の場合は、そういった関係の友達は、

俺や明日奈や里香、それに珪子がそれに該当する事になるんじゃないか」

「あ、確かにそうかもな、二人は他に誰かいるのか?」

 

 そう話を振られた二人は、顔を見合わせながら言った。

 

「う~ん、高校に関していえば、浅い関係の人ばっかりかもね」

「かおりは目立つ分敵も多かったしね」

「表だって敵対とかはしてなかったけど、基本あたし達は二人で行動してたかなぁ」

「じゃあ噂に聞いたクリスマス会の時とか、千佳さんは少し寂しかったんじゃないのか?

ほら、例の八幡と偶然再会したっていうあの」

「ああ、あの時はそうだねぇ、かおりは一度興味を引かれるとそっちに突っ走っちゃうし、

その頃は確かに一人でいる事の方が多かったかも」

「あの時の折本は中学の時からまったく変わってなかったな、

それある!とか、それいける!とか、ウケるしとかの折本語ばかり使ってたしな」

「ま、真似しないでよ!」

「正直あの時は、そのせいで随分苦労させられたからな……」

 

 その瞬間に、和人が即座に突っ込んだ。

 

「折本語って語呂が悪いな、それを言うならかおり語の方が聞こえがいいんじゃないか」

 

 その凄まじく強引で力技な突っ込みに、千佳も乗った。

 

「そうだね、確かに長すぎて言いにくいよね」

 

 そして二人は八幡の方をじっと見つめた。それに対して八幡は、あっさりとこう言った。

 

「ん、ああ、確かにそうだな、それじゃあかおり語と言いなおすか」

 

 こうして八幡の口から、初めてかおりという言葉が発せられた。

 

「かおり語って何よ!別に普通の言葉じゃない!」

「使いどころの問題だ、お前ちょっと難しくて理解しにくい言葉に対しては、

全部そう言っとけば問題ないって感じで連呼してただろ」

「う………」

 

(惜しい!)

(お前、だったかぁ)

 

 八幡が流れでかおりと呼びかける事を期待していた二人は、

その言葉を聞いて残念に思った。

 

(もうこうなったらかおりに八幡って呼ばせるしか)

(そうだそうだ、この流れならいける、いけいけ!)

 

 二人はかおりにそんな期待のこもった視線を向け、

かおりは深呼吸をすると、決意のこもった目で八幡に言った。

 

「し、仕方ないじゃない、シナジーとかコンセンサスとかイニシアティブとか、

玉縄君だけじゃなくは、は、は、は……」

「お、おい大丈夫か、くしゃみでも出るのか?」

 

 八幡はそう言ってバッグの中からティッシュを取り出そうと下を向いた。

その瞬間に八幡からの視線が無くなった事でプレッシャーが消え、

勇気が出たかおりは、そのまま一気にこう言う事が出来た。

 

「八幡の言った事も、難しすぎてまったく意味不明だったんだから!」

 

(おお)

(つ、ついに言ったね!)

 

 二人は感動し、八幡の反応を見ようとそちらに目を向けた。

だが八幡はごそごそとバッグの中を漁っていたかと思うと、

すぐに顔を上げ、かおりにティッシュを差し出しながら、あっさりとこう口に出した。

 

「あれはかおりが悪い、分からない事はすぐに他人に聞かないとな」

 

(い、言ったぁ!)

(やった!)

 

 だがその後も、八幡は何の疑問そうな顔も、特に何か気負った様子もなく、

淡々とかおりの事をかおりと呼び続けた。

 

「そもそもあいつら、意味不明すぎたからな、その点ではかおりに同情する気持ちもある。

あんな会議に参加させられて、さぞ辛かっただろうなと想像も出来る」

「そ、それはまあ……」

「今思えば、あの時俺に質問してくれていれば、

かおりを介してあいつらに影響力を発揮出来る事も出来たかもしれないな、

もしくは俺からかおりに接触するとか、別のやりようはあったかもしれない、

そこは俺としても反省すべき点だと思う」

「ちょ、ちょっと待ってちょっと待って!」

「そ、そうだよ八幡、お前さっきからさ……」

「ん、二人ともどうかしたか?」

 

 千佳と和人が驚いて会話を遮り、八幡は首を傾げながら二人にそう返事をした。

そしてかおりが体を前に乗り出し、八幡にこう尋ねた。

 

「ね、ねぇ、今あたしの事、普通に名前で呼んでたよね?」

「ん、ああ、そうだがそれがどうかしたか?」

「で、でも今までは頑なに折本って……」

「ああ、その事か」

 

 八幡はその言葉に頷くと、三人に説明を始めた。

 

「そもそも俺自身は、目上の人相手ならともかく、

自分の事は名前で呼んでもらった方が楽なんだよ、これは昔和人にも説明したっけか?」

「あ、ああ、確かにSAOじゃ、常に誰もが八幡の事はハチマンって呼んでたしな」

「だがかおりの場合は中学からの流れもあって、

俺だけがかおりと呼ぶのは不自然な気がしてな、

だからとりあえずかおりに合わせる事にしてたんだよ、

だから比企谷と呼ばれれば折本と返し、八幡と呼ばれればかおりと返す、

ってな訳なんだが、それがどうかしたのか?もしかして迷惑だったか?」

 

 三人はその言葉に絶句した。それでは要するに………

 

「って事は、気にしてたのはあたしだけ!?」

「気にしてたって、何がだ?」

「そ、その、あたしの事だけずっと苗字で呼んでたから……」

「確かに中学の頃からずっとそうだったから、そういう気持ちもあってそのままにしてたが、

別にそれにこだわりがあった訳じゃないからな」

「そ、そんなぁ……それじゃあ私の今日の決意は……」

 

 かおりはその場に崩れ落ち、代わりに千佳が前に出た。

 

「えっと、じゃあ八幡君、私の事は?」

「かおりだけ苗字で呼んで、千佳さんだけ名前呼びってのは変だからな、

それに合わせてただけだ、俺としては千佳さん、もしくは千佳と呼ぶ方が楽なんだけどな」

「こ、これからはずっと千佳でいいよ、八幡君!」

 

 千佳は身を前に乗り出してそう言った。

 

「そうか?それじゃあそうさせてもらうが……」

「うん、是非それでお願い!ほらかおり、かおりも早く復活して!」

「え?あ、う、うん、あたしの事も、もうこれからは名前で呼び捨てにしてくれていいよ」

「そうか、それは楽でいいな、それじゃあそうさせてもらうわ」

 

 こうしてあっさりと、二人は目的を達成した。

結局八幡は相手に合わせていたにすぎず、

今回の問題は、結局かおりが勇気を出せなかったせいだと判明した。

それによってかおりは、自分の今までの悩みは何だったのかと盛大に落ち込む事となった。

 

 

 

「それじゃあ俺は自分のバイクで帰るぞ、良かったな二人とも」

「和人君、今日は本当にごめんね……」

「まあドンマイだ、かおり」

「うん……」

「ま、まあ俺も悪かったから、あまり気に病むなよかおり」

 

 八幡は事情を聞いて気まずそうにそう言い、

自分の車で帰る千佳をかおりと二人で見送った後、

かおりを家まで送る途中の車の中で、かおりにこう話しかけた。

 

「どうだ、ちょっとは落ち着いたか?」

「う、うん、ごめんね、ちょっと気が抜けちゃってさ」

「まあ俺も悪かったんだ、気にするな」

「そうは言ってもね……あ、うちここだから……って、あれ?何でうちの場所を……」

「悪い、実は俺と親しい奴らの家の場所は、基本キットに登録してあるんだよ、

いつ家に送らないといけないような事があってもいいようにな」

「あ、そうだったんだ、さすがそういう所、八幡は気を遣うよね」

「性分なんだ、仕方がないだろ」

「仕方ない、うん、仕方ないよね、今回もドジっちゃったけど、

これがあたしなんだから、上手に自分と付き合っていかないとね」

「おう、その意気だ」

 

 そしてかおりはキットを降りると、万感の思いを込めて、

今まで言えなかった八幡の名前を呼びながらこう言った。

 

「それじゃあ八幡、また明日ね」


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