神崎エルザはこの日、北海道にあるライブハウスの控え室で、
モニターごしにイベントの様子を見ていた。
今はツアーの真っ最中であり、ここが最後の目的地なのだ。
「知らない人がたくさんいる……」
エルザは画面を見ながら興味深げにそう呟いた。
「凄く楽しそう………」
丁度その時控え室に、エルザのマネージャーのエムこと阿僧祇豪志が入ってきた。
「エルザ、そろそろ出番です、
途中でステージとソレイユのイベントブースが中継で繋がるので、
そちらの方も宜しくお願いします」
「うん、それはもちろん分かってるけどさ」
そう言いながらエルザは、豪志のボディを思い切り殴った。
「ぐほっ………」
「なぁ豪志、何で私はあそこじゃなくここにいるの?
どうして私はあんなにまごまごしてかわいい八幡の隣にいられないの?」
「そ、それは……」
そして豪志は呼吸を整えると、何かを期待するようにやや興奮した口調でこう言った。
「それはエルザが八幡さんに、『ツアーにでも行こっかなぁ』って言ったからです。
そしたら八幡さんが、『そうか、それじゃあうちがスポンサーになってやる』
と言ってくれたおかげで、今エルザはこうして北海道の地に……」
「ふんっ!」
「ぐはっ……」
豪志の言葉を最後まで聞かずにエルザは今度は豪志の顔面に裏拳を入れ、
豪志はそのまま吹っ飛んだ。
「それはそうだけど、やっぱりむかつく、
八幡も一緒に来れるように手を回せなかったお前が全て悪い」
「はい……」
豪志は床にしりもちをついた状態のまま、その理不尽な言葉に一切反論せず、そう言った。
「ああもうストレスがたまるなぁ……前はお前を殴ればある程度解消出来たのに、
最近はそれだけじゃちっともイライラがおさまらない」
「……東京に帰ったら、八幡さんに甘やかしてもらえばいいのでは?
もっともレコーディングとライブの予定がてんこ盛りですけどね」
「ちっ」
「がっ……」
エルザはその言葉に舌打ちすると、豪志の側頭部に蹴りを入れた。
「決めた、今受けている仕事を全部こなしたら、しばらく休むよ、
豪志、絶対に新しい仕事を入れるんじゃないよ」
「それでもあと一ヶ月は毎日仕事になりますが……」
「ファンのためにもそれは絶対にこなす、ストレスについては、
仕方ないから夜にGGOで発散する事にする、多分八幡も来てくれるだろうし」
「分かりました、そのように手配します」
丁度その時ノックの音が聞こえ、中にスタッフの一人が入ってきた。
「エルザさん、そろそろ出番……って、マネージャーさん、
顔面血だらけじゃないですか、ど、どうしたんですか?」
そのスタッフは、鼻血塗れの豪志の顔を見ながら心配そうにそう言った。
「大丈夫です、ちょっと転んでしまって鼻を打ちつけただけなので」
「ちょっとって感じじゃないと思いますが……」
「時間も無い事ですし、僕がステージに立つ訳じゃないんで問題ないです、
とりあえずティッシュでも詰めておきます、ご心配をおかけしてすみません」
「それは確かにそうですが、でも……」
「彼の事なら大丈夫です、とりあえず私達はステージへ行きましょう」
「……分かりました、マネージャーさん、くれぐれも無理はしないでくださいね!」
エルザは直前の不機嫌さをおくびにも見せず、笑顔でそのスタッフに言い、
スタッフもその笑顔を見て、豪志の身を案じつつ、時間も無いので移動を優先する事にした。
そして二人はステージへと向かい、豪志も鼻血を拭きつつその後に続いた。
「はぁ……もう何がどうなってるんだよ……」
「お疲れ様、八幡君」
「おう、悪いな明日奈、そうだ、雪乃はどこだ?とっちめてやらないと」
「雪乃なら、姉さんと一緒にどこかに出かけていったよ、
もうイベントも終わりだから、少し他のブースも回ってくるって」
「くそ、逃げられたか………」
もしかしたら事情を知っているかもしれないかおりはグッズの売り子を、
薔薇はそのまま司会を続けており、八幡は、こうなった以上本人達に聞くしかないと考え、
きょろきょろと詩乃達の姿を探した。
「明日奈、詩乃達もこっちに引き上げてきたよな、どこにいるんだ?」
「他の人と一緒に更衣室にいると思うけど」
「そうか、よし、行くぞ」
「あっ、ちょっと、まさか更衣室に突っ込むつもり?」
「いや、出口を封鎖をして身柄を確保するだけだ」
「その前に、八幡君もその格好を何とかした方が……」
「あっ……そ、そうじゃな……」
「口調がトールっぽくなってるよ……って、ここで着替えるの?」
「おう」
「もう……」
そして八幡はその場でぱぱっと着替えを始めた。
そんな八幡の前をさりげなく明日奈がうろうろし、目隠しの役目を果たした。
さすがにパンツ一枚の八幡の姿を衆目に晒すのは躊躇われたからだ。
ちなみに明日奈が顔を赤くしながら、
たまにチラチラと八幡の方を見ているのはご愛嬌である。
「おい明日奈」
「な、何?」
「あまりこっちをチラチラ見るなって」
「べ、別に八幡君のパンツなんか見てないよ!」
「そんな具体的な事は何も言ってないんだが……」
そんな会話を交わしながら、八幡は着替えを終えた。
「よし、オーケーだ」
「もう着替え終わったんだ……あ、そ、それじゃ行こっか」
「そんなあからさまに残念そうな顔をされてもな」
「べ、別にそんな顔はしてないよ!さ、行こ!」
「おう」
そして二人は歩きながら、先ほどの出来事について話した。
「それにしても、まさかイベントの流れがあんな風になってたなんて、知らなかったよ」
「俺も知らなかったぞ」
「えっ?で、でも雪乃が、『計画通り』ってニヤリとしていた気がしたけど……」
「やっぱりあいつの差し金か……」
八幡は、後で絶対に雪乃に仕返ししようと心に決めつつ、更衣室の前に立った。
そしてノックをし、中からの返事を待った。
「…………返事がないな、悪い明日奈、ちょっと中の様子を見てみてくれ」
「うん、分かった」
そして明日奈はドアを開け、中の様子を伺った後、八幡の方を向いて言った。
「誰もいないよ?」
「まじか……一体どこに行ったんだ」
「エルザの曲でも聴いてるんじゃないかな?」
「とすると、まさか客席か?」
「かもね」
「くっ……」
八幡は慌てて引き返し、客席の方をチラリと覗いた。
そこにはいつの間に着替えを終えたのだろう、
詩乃達に加え、結衣に優美子、沙希に、美優、香蓮、クルス、いろは、
要するにここにいた八幡の身内的存在が全員そこにいた。
一同は、エルザがモニター越しに観客達に挨拶をするのをわくわくした顔で眺めていた。
「全員集合かよ……しかもあんな特等席に……」
「エルザの人気はやっぱり凄いんだね」
「しかしあんな前にいるのなら、文句を言おうにも手が出せんな、
今から行こうにも目立ちすぎるしな」
「まあ盛り上がったんだからいいんじゃない?雪乃も承知の上だったみたいだし」
「まあそうなんだがな……くそっ、今回は俺の負けか」
「ふふっ、一本取られたね」
「まあいい、今回の事は不問にしておく、俺も悪かったと思うしな」
八幡は悔しそうな表情をしつつ、どこか満足したような様子でそう言った。
仲間達の成長っぷりが嬉しかったのかもしれない。
「それじゃあ私達もエルザの曲を聴こっか」
その明日奈の建設的な意見に、八幡は頷いた。
「そうだな………ん?」
「どうしたの?」
「いや、エルザの奴……何か不機嫌じゃないか?」
「え、そう?特におかしなようには見えないけど」
「いや、確かに不機嫌だな……何かあったのか?」
「もしかして、八幡君の姿が見えないからだったりして」
「そういえば最近忙しくてあいつの相手をしてないな……」
「ああ、確かにそうかも、やっぱりそのせいなんじゃない?」
「仕方ない、後ろの方になっちまうが、あいつから見える位置に行くか」
「うん、そうだね」
そして二人は観客達の最後尾へと移動した。
「八幡がいない気がする………」
ステージに立った以上、もうソレイユブースの様子はまったく見えないはずなのだが、
エルザはその野「性」の勘をフルに生かし、八幡の不在を看破していた。
そのせいか、微妙に不機嫌だったエルザは、それでもプロ根性を発揮し、
モニターの向こうの観客達や、自分の事を見ているであろう仲間達に向けて、
満面の笑みを見せながらこう挨拶した。
「ソレイユブースに起こし下さった皆さん、こんにちは!
残念ながら今日はそちらの会場には行けなかったのですが、
遠い北海道の地から、『私の大切な人』がちゃんと私を見てくれるように精一杯歌います!」
その瞬間に、モニターから見える位置に着いた八幡は、明日奈と顔を見合わせた。
「大切な人達じゃなくて、人って言ったね」
「そうだな……」
「やっぱり八幡君が見えなかったから、不満だったんじゃない?」
「う~ん、よくよく考えると、今のあいつはステージの上にいるんだ、
という事は、こっちが見えるはずがないんだよな、あっちの会場にはモニターは無いんだし」
「でもエルザだし……」
「だよな……まあいい、複数形で言わなかった事に関しては、今度お仕置きだな」
八幡がそう言った瞬間、エルザの顔がいきなり紅潮し、体がビクンッ、とした。
「おいおい、まさか今のが聞こえたのか?絶対にそんなはずはないんだが……」
「でもエルザだし……」
「だよな……」
そして八幡から見ても、不機嫌さが無くなったエルザは、
ノリノリでALOのCMに使われている曲を歌い始めたのだった。