「もしもし、詩乃?やっと手が空いたから、明日はちまんくんを借りに行ってもいいかしら」
「あ、終わったんだ?オーケーよ、待ってるわ」
「お待たせしてしまってごめんなさいね、それじゃあ明日伺うわ」
かおりにはちまんくんを貸し出してから数日後、
雪乃からの電話を受け、詩乃ははちまんくんにこう言った。
「はちまんくん、雪乃が明日迎えに来るって」
「ついにきたか……」
「何、嫌なの?」
はちまんくんの戦慄した様子を見て、詩乃は首を傾げながらそう言った。
「いや、別に嫌じゃないが、警戒する必要はあると思ってる」
「警戒?何を?」
「あいつも最近周りに毒されているのか、時々おかしな行動をとる事があるからな」
「ああ………」
確かに詩乃にも思い当たるフシがいくつかあったらしい。
だが約束は約束だし、あの雪乃がはちまんくんに何か危害を加える事は無いだろうと思い、
詩乃は特にその事について、深く考えたりはしなかった。
はちまんくんが危惧していたのは、雪乃の理性以外の部分に関してだったのだが、
詩乃は雪乃のそういった部分をしっかりと把握していた訳ではなかった。
そして次の日、雪乃がはちまんくんを迎えに詩乃の家まで来た。
「あれ、雪乃、車で来たの?免許持ってたっけ?」
「とってきたわ、そのせいでここに来るのが数日遅れたの、ごめんなさいね」
雪乃にそう言われ、驚いた詩乃は、当然の疑問を口にした。
「いつの間に教習所に通ってたの?」
「通ってないわよ?」
雪乃が普通にそう答えた為、詩乃は目を剥いた。
「え?本当に?教習所に通わなくても免許ってとれるものなの?」
「普通よりも厳しくチェックされるけど、可能は可能よ、
もっともそれで合格する人は、数年に一人というレベルらしいけど」
「うわ、さすがというか……」
感心したようにそういう詩乃に、雪乃が事も無げに言った。
「まあ運転技術自体は、GGOで散々鍛えられたしね」
「ああ、確かに雪乃は運転上手いもんね」
「いずれそういった免許関連も、VR環境で試験が行われる事になるかもしれないわね」
「受験とかもそうかもね」
「ふふっ、そうね、それじゃあはちまんくん、行きましょうか」
「一応聞くが、俺をどこに連れていくつもりだ?」
そう警戒するように言うはちまんくんに、雪乃は首を傾げながら言った。
「もちろん私の部屋だけど……」
「そうか、了解だ、それじゃあ詩乃、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
そして雪乃の乗ってきた車を見て、はちまんくんはぽかんとした口調で雪乃にこう尋ねた。
「この車………まさかマクラーレンの『セナ』か?」
「あら、よくそんな事を知ってるわね、ええそうよ、父さんに借りたの」
「なるほど、お前の父さんは、相変わらずいい趣味をしてるよな」
「そう?娘である私としては、これはどうかと思うのだけれど。
無駄に排気量も多いし、日本には向かない車でしょう?」
「男のロマンだ、あまりいじめてやるな」
しれっとそう言う雪乃に、はちまんくんは白い目を向けながら言った。
「ひどい言い方だが、初心者のくせにこれに乗ってるお前も大概だからな」
「そうね、さすがの私も他に車が無かったから仕方ないとはいえ、
これに乗ってる私ってどうなのと思ったわ、無駄に注目も集めてしまったし」
「格好いい税だと思え、有名人のプライベートと一緒だ。
まあいいや、安全運転で頼むぜ、お前に怪我をさせたとあっちゃ、
本体に申し訳がたたないからな」
「あら、嬉しい事を言ってくれるじゃない」
「俺は壊れても直せるからな、バックアップも常にとってあるしな」
「まあ安全運転で行くわ、この車で飛ばすのは、やっぱり怖いもの」
「そうしてくれ」
だが雪乃は、その言葉とは裏腹に、かなりのスピードで街中を疾走しており、
はちまんくんはさすがに少し怖くなったのか、恐る恐る雪乃にこう言った。
「お、おい、ちょっと飛ばしすぎじゃないか?」
「あらそう?これくらいなら許容範囲じゃないかしら」
「まあ確かにそうだが……」
(こいつ、GGOのせいで、スピードに関する感覚が麻痺してやがるな……)
はちまんくんはそう思ったが、今更どうなるものでもないので、我慢する事にした。
そして雪乃はそのまま自宅へと無事たどり着き、はちまんくんはほっと胸を撫で下ろした。
「さて、それじゃあ私の部屋に行きましょうか」
「そういえば、雪乃の部屋に入るのは初めてだな、まあ当たり前なんだが、
どんな部屋かという噂話も聞いた事がない気がするな」
「そう?普通の部屋だと思うのだけれど」
「お前の普通は信用出来ないんだよ」
「ふふっ、八幡君も同じ事を言いそうね、何か面白い」
そう言って玄関へ向かう雪乃とはちまんくんを、一匹の犬が出迎えた為、
はちまんくんは雪乃の事を心配し、慌ててそちらを見た。
だが雪乃は笑顔でしゃがみ込み、その犬は甘えるように雪乃に飛びついた。
「まじか……」
「ただいまブレット、いい子にしてた?」
その犬の名前はブレットというらしい、精悍な軍用犬である。
はちまんくんが後に聞いたところによると、どうやら都築の犬らしい。
「お前、本当に苦手を克服したんだな……」
「ええ、本当に苦労したわ、本当にね……」
雪乃はブレットの頭を撫でながらそう言うと、
はちまんくんを連れて自分の部屋へと向かった。
部屋に入った瞬間、はちまんくんは中の光景を見て絶句した。
そこは猫、猫、猫、時々パンさんという割合でグッズが置かれており、
壁の一画に、八幡と結衣と一緒に撮った写真が飾ってあるのが印象的だった。
「お前、これ、悪化してないか?」
「悪化?何がかしら?」
「いや、猫関連グッズの数が明らかにおかしいだろ……」
そんなはちまんくんに、雪乃は切々とこう訴えた。
「苦手の犬を克服したのよ、その分反動がくるのは仕方ない事なのではなくて?」
「いや、まあそう言われるとそうかもだが……」
「まあ大丈夫よ、私だって、この子達に話しかけるなんて事はたまにしかしないから」
「たまに、な」
はちまんくんは、そう言いながら、『この子達』に順にただいまと声を掛ける雪乃を見て、
どう見てもたまにじゃないじゃないかと心の中で突っ込んだ。
さすがに声に出して言うような事はしなかったが、
はちまんくんはそのままソファーに座らされ、
猫のぬいぐるみに包囲された上、猫耳まで装着されるに至って、さすがに抗議した。
「おい、何だこれは、しかも測ったようにサイズが俺にピッタリじゃないか」
「そんなの見れば分かるじゃない、私のお手製よ、気に入ってくれると嬉しいのだけれど」
「え、まじで?まさかのお手製?」
「ええ、実は本人用もあるのだけれど、さすがにそれを付けてとおねだりするのは、
よほどの機会が無いと出来なくて、お蔵入りしているのよね」
(本体、逃げろ!こいつ益々やばくなってるぞ!)
はちまんくんは、遠い未来に苦い顔で猫耳を装着させられている八幡の事を考え、
心の中で八幡に向けてそう叫んだ。
「う……何か寒気が……」
「大丈夫?風邪?」
「いや、何というか、背筋が寒くなる系の寒気ですね」
「ふ~ん、もしかして、またどこかの女の子が、
八幡君を相手に良からぬ事を考えてるんじゃないの?」
「おい馬鹿姉、怖い事を言うなよ……」
ソレイユの社長室で陽乃と話をしていた八幡は、
陽乃にそう言われ、自分で自分を抱きしめる仕草をしながらそう抗議した。
「まあ世の中、私や雪乃ちゃんみたいに理性的な子ばかりじゃないからね」
「雪乃の周りには、かなり多くの地雷が仕掛けられている気がするんだが……」
「雪乃ちゃんに限ってそれは無い無い、
雪乃ちゃんって、結局理性を優先させてしまうような子じゃない」
「まあそう言われるとそうかもしれないが……」
二人は今のはちまんくんから見て、突っ込み所満載の会話を繰り広げていたが、
なんだかんだ雪乃は普段は二人がイメージする通りに動いている為、
雪乃のこういった部分は、よほどの事が無い限り二人にバレる事は無さそうだった。
「さて、それじゃあアメリカに行った後の話を詰めていくとしますかね」
「あらゆるリスクを想定するわよ」
「もちろんです、今回は明日奈も連れていきますからね」
「それで文化祭の実行委員会の時にね」
「ほほう」
「でね、でね」
「なるほど」
「それでその時ユイユイが……」
「ふむふむ」
「……という事があったのよ」
「それは何というか、俺からすると、感想が言い辛い話だな、
それにしても今日の雪乃はよく喋るな」
それからの雪乃は、主に高校時代の話について、延々と喋りまくっていた。
「あら、そんなに珍しい?」
「自分でも思うだろ?」
「そうね、でも私は友達付き合いが下手だったからあまり喋れなかっただけで、
子供の頃は、それなりに喋る子だったのよ」
「ほほう」
(それにしても今日の雪乃は実に楽しそうに喋るな、まあ悪い事じゃないからいいか)
そう思いながら、にこにこと雪乃の話を聞いていたはちまんくんに、
雪乃は話がひと段落したところで、突然こんな事を言い出した。
「ふう、お茶でも入れましょうか、はちまんくんもどう?」
「お言葉に甘えた瞬間に壊れちまうって………いや、やっぱり頂くとするわ」
はちまんくんは、飲む事は不可能なのに何故かそう答え、
雪乃は意外そうな顔ではちまんくんの方を見た。
「………本当にいいの?」
「ああ、楽しみだ」
「そう、それじゃあ準備するわ」
そして雪乃はまったく普通にお茶を入れ、まったく普通にはちまんくんに差し出してきた。
はちまんくんはそのお茶をじっと見つめ、こう論評した。
「いい色だ、温度も適正だし、高校の時にこれを毎日飲む事が出来た俺は幸せ者だな」
はちまんくんは、そこであえて『俺』という表現を使ってそう言った。
「そこまで褒めてもらえるなんて、高校の時のその彼女は幸せ者ね」
雪乃もあえて、高校の時の自分をそう表現し、
はちまんくんに向かって微笑みながら言った。
「もっとも八幡君は、高校の時は、一度もお茶の味について苦情を言う事もなく、
それでいて、感想を言う事も一度も無かったのよね、
まあ私も特に感想を求めていた訳ではないのだけれども」
「多分俺は、内心じゃ雪乃に感謝してたと思うぞ」
「本当にそうだったらいいわね」
「きっとそうさ」
「あなたが言うならきっとそうなんでしょうね」
一見茶番に見えるこのやりとりは、おそらく雪乃にとっては大切な事なのだろう、
そもそもあの雪乃が、はちまんくんが飲む事が出来ない事を承知でお茶を勧めてきたのだ、
それにはきっと何かしらの意図があるに違いない、
はちまんくんはそう考え、お茶を提供してもらう事にしたのだった。
さすがははちまんくん、出来るぬいぐるみである。
そしてそのはちまんくんの気遣いにより、雪乃が手に入れた物は、
あのクリスマスイベント以降に、もしかしたらあったかもしれない、
関係性の変化した後の幻のやり取りだったかもしれない。
その辺りは全てはちまんくんの推測でしかないが、確かに雪乃が今回のやり取りによって、
満足感を得る事が出来ているのは間違いないようだ。
それを証明するかのように、雪乃は柔らかく微笑みながら、はちまんくんにお礼を言った。
「ありがとう」
「こちらこそありがとうな」
そして雪乃は無言のまま、読書を始めた。
はちまんくんは、同時に雪乃がそっと差し出してきた本を見て、
それを手にとってタイトルを読み上げた。
「『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』か、これ、読んでみたかったんだよな」
「そう、書店で頭を悩ませて選んだ甲斐があったわ」
「こういうのの素人の雪乃にしちゃいいセンスだ」
「素直に褒められたと思っておくわ」
「実際褒めてるからな」
「ありがとう」
その場には、本のページをめくる音だけが響き続け、
それからどれくらい経っただろうか、雪乃はやっと顔を上げ、
珍しくもじもじしながらはちまんくんに言った。
「そろそろ下校時間ね、その……良かったら、たまには一緒に帰らない?」
「ああ、別に構わないぞ」
「ふふっ、相変わらずえらそうね」
「そう思わせたらすまん、こういう時に何と言って了承すればいいのか、
慣れてないからよく分からないんだよ」
「それもあなたらしいわ」
そして雪乃ははちまんくんを膝に乗せ、再びソファーに腰を下ろした。
「同じ部の仲間だったら、こういう事って普通にあるわよね」
「まあそうだな」
「でも私達の間には、こんな簡単な事すら何も無かったのよ」
「お互い性格的に無理だったろうな」
「あ、でもお別れの挨拶だけは、比較的早いうちから出来るようになったのよね」
「ほほう?いつ頃だ?」
「文化祭の時に彼にこう言ったの、『またね』って。
彼はそれを聞いて、本当に驚いた顔をしていたわ」
「それは驚いただろうな」
「ふふっ、あんな彼の顔、初めて見たわ」
雪乃はもしかしたら、高校時代の落とし物を、
今はちまんくんを相手に拾っているのかもしれない。
それで雪乃が喜ぶのなら、はちまんくんは喜んでその相手を努めようと思った。
本当に優しいぬいぐるみである。
それからはちまんくんは、まるで子供のような雪乃の態度に驚きつつも、
珍しく雪乃が喜びの感情をストレートに出してくるのが嬉しくて、雪乃の相手をし続けた。
そして夜も更け、雪乃が珍しくうとうとし始めた為、
はちまんくんは雪乃に向かって優しくこう言った。
「風邪をひかないように、ちゃんとベッドで寝ろよ」
「ええ、それじゃあ一緒に寝ましょっか」
「そうだな、雪乃が完全に寝るまで頭でも撫でててやるよ」
「ありがとう、それじゃあお言葉に甘えさせてもらうわ、今日はいい夢が見れそう」
「ああ、よい夢を」
こうしてはちまんくんのレンタル三日目は、とても穏やかに過ぎていったのだった。
さて、これで渡米と同時にスクワッド・ジャムの流れでこの章は終了しますが、
雑多な出来事が乱立する為、それを纏める為に二日ほどお時間を頂きたく思います、
次の投稿は火曜日の予定になりますので宜しくお願いします!
京都編のような感じになると思いますので、色々妄想しながらお待ち下さい!