ソレイユの本社玄関前で、真帆は深呼吸を一つし、
ああ、また何か言われるんだろうなと思いながら入り口ドアから中に入った。
そんな真帆を出迎えたのは、この日の受付担当だったかおりだった。
「ようこそソレイユへ、本日はどのようなご用件ですか?」
「あ、あの、アポは無いんですけど、比企谷八幡さんは本日こちらにいらっしゃいますか?」
真帆は少しビクビクしながらかおりにそう尋ねた。
「比屋定真帆様ですね、お待ちしておりました」
「えっ?あ、あなた私の名前を……?」
「はい、もちろん存じあげております、ではこちらへどうぞ」
かおりはそう言って立ち上がり、真帆は紅莉栖が自分の特徴を伝えておいてくれたのかと、
受付で子供扱いされなかった事に安堵した。
ちなみにソレイユのマニュアルでは、用件を尋ねた後の反応で、
相手の年齢がおおまかに確定するまでは丁寧な態度をとる事とされており、
例え子供相手であろうとも、いきなり子供扱いするような事はしない事になっている。
今回の場合は、実は密かに舞衣が空港のカメラにハッキングで細工をし、
画像の照合で真帆が到着したらすぐ分かるようになっていたのだが、
真帆は当然そんな事は知らないし、気付く事も無い。
アルゴとダルの陰に隠れてはいるが、ハッカー『電子のイヴ』は健在のようである。
「あ、あの、受付さん……」
「私は折本かおりと申します、真帆様」
「あ、それじゃあかおりさんとお呼びしてもいいですか?」
「はい」
「それじゃあかおりさん、ここってもう会社の外ですよね?一体どこに行くんですか?」
「あのマンションです、比企谷は今、あのマンションの一室に居りますので」
「あ、なるほど、そういう事ですか」
そして八幡の部屋まで真帆を送ったかおりは、部屋のチャイムを鳴らし、
インターホン越しに何か話した後、真帆に挨拶をし、受付業務へと戻っていった。
そして直後にドアが開き、中から紅莉栖がひょっこりと顔を出した。
「先輩、お久しぶりです」
「あれ、紅莉栖、驚かないのね、しかもまるで待ち構えてたみたいに……
もしかして、私が来るのが前もって分かってたの?
子供扱いもされず、すんなりと案内してもらったし」
「企業秘密ですよ先輩、お疲れですよね?さあ、中へどうぞ」
「お、お邪魔します……」
そして部屋に入った真帆を、八幡がソファーから立ち上がってエスコートした。
「お待ちしてました比屋定さん、今何か飲み物を入れますね、
紅莉栖、彼女の荷物を寝室へ、比屋定さんはこちらのソファーにどうぞ」
「あ、す、すみません」
真帆は顔を紅潮させながら軽く頭を下げたが、
これは別に八幡に惚れたとかそういう事ではなく、
単にこうやって大人の女性扱いをされる経験が少なく、照れていただけである。
「コーヒーと紅茶、どっちがお好きですか?」
「あ、えっと……ど、どちらでも」
「それじゃあとりあえずコーヒーを入れますね、実はもう用意しておいたんですよ」
八幡はどうやら、どちらでも対応出来るように、
サイフォンでコーヒーを落とし、カップも温めておいたらしい。
そしてコーヒーを受け取った後、真帆はそれを一口飲み、
やっと落ち着く事が出来たようで、部屋を見回しながらこう言った。
「素敵なお部屋ですね」
「ああ、まあ何というか、こいつらが色々と手を入れてるみたいなんですよね」
「こいつって言うな」
「クリスティーナ達が……」
「ティーナ言うな」
「ああもうめんどくさいなお前は、こちらの牧瀬氏達が……」
「あんたにそう呼ばれると、鳥肌が立ちそうなんだけど」
「お前さぁ……人がせっかく好青年を演じているんだから、あんまり茶化すなよ」
「演じてるって言っちゃってるわよ」
「ちっ……」
八幡はそう舌打ちすると、じろっと紅莉栖の方を見た。
「何でお前は邪魔するんだよ!こういうのは第一印象が大事だろうが!」
「私が見てて気持ち悪い、だからいつも通りにして。
その方が多分先輩も気が楽なはず、ですよね?先輩?」
そう言って紅莉栖は真帆に向かって微笑んだ。真帆は確かに緊張していた為、
それで雰囲気がフランクな感じになるのならその方がいいと考えたのか、
八幡に向かっておずおずとこう言った。
「で、出来ればそれで」
「それならまあいいか、真帆さん、わざわざアメリカから来てもらって悪いな」
「ううん、気にしないで、紅莉栖の事が心配だったから、
どうせ日本には一度来るつもりだったしね」
その言葉に、八幡はうんうんと頷いた。
「ああ、分かる分かる、紅莉栖って女子力が微妙だから、ついつい心配になっちまうよな」
「そうなの!分かってくれる?」
「分かるさ、何せこいつ、コインランドリーの存在すら知らなかったんだぜ」
「え、本当に?」
「そ、それくらい知ってたわよ!ただ使い方がまったく分からなかっただけで……」
「あははははは、紅莉栖らしいわ、
某小説風に言うと、光年単位の事にしか興味が無いのよね、紅莉栖は」
「ちょっ……」
「お、そのセリフが出てくるとは、真帆さんは通だな」
「元ネタが分かるあなたも中々やるわね」
どうやら真帆は緊張が解けたようで、やや饒舌になった。
紅莉栖も押され気味のようであり、八幡は、そんな紅莉栖の姿を珍しいと感じたようだ。
「お前、真帆さんには弱いのな」
「当然でしょ、だって先輩なのよ?私だって先輩の事はちゃんと立てるわよ、
それに私が何度、先輩の為にジュースを買いに走った事か」
「へぇ、お前にもそんなしおらしい面があったのか……っと、すまん着信だ、
二人はしばらく再会でも懐かしんでてくれ」
八幡のスマホに着信があったようで、八幡はそう二人に断ると、玄関の方で話し始めた。
「ねぇ紅莉栖……」
「何ですか?先輩」
「あなた達、本当に付き合ってないの?」
「な、何ですと!?あ、当たり前じゃないですか!」
「今の会話はどう見ても、熟年夫婦の会話みたいだったんですけど」
「そ、そんなんじゃないですよ、ただあいつといると気楽なんで、
ついつい軽口を叩いてしまうだけで、好きな人は他に……きゃっ!」
紅莉栖は悲鳴を上げ、慌てて自分の口を塞いだ。
そんな紅莉栖を真帆は、ニヤニヤしながら問い詰めた。
「おやぁ?今聞き捨てならないセリフが聞こえたんだけど?
紅莉栖、あんたこっちで本当に恋人を作ったの?」
「べ、別にそんな事はどうでもいいじゃないですか先輩」
「良くない、これは早速教授に報告を……」
そう言い掛けて真帆は、急に無言になった。
そんな真帆に、紅莉栖はおそるおそるこう尋ねた。
「先輩、やっぱり教授は……」
「ええ、相手が本当に例の組織の人間かは確信が持てないけど、
先日怪しい人達と会っていたのを確認したわ」
「そうですか………」
紅莉栖はとても残念そうにそう言った。
恩師が道を踏み外すのは、やはり耐え難いものがあるのだろう。
「やはり渡米の予定を早めるしかないな、さすがにこれ以上接触されるとやばい気がする」
そこに丁度戻って来た八幡が、するりと会話に加わった。
「手遅れになる前に何とか教授を説得しないといけないわね」
「真帆さん、教授はその後、どんな様子でしたか?」
その八幡の質問に、真帆は腕組みしながらこう答えた。
「何か悩んでいるような、そんな感じに見えたわ」
「悩んでた、か、ならまだ大丈夫だな、とりあえず材木座と凛子さんに動いてもらうか」
「材木?何?」
「そっちの大学の近くで、うちの社員に待機してもらってるんだよ。
材木座ってのはそいつの名前な、で、その二人に教授と面会してもらって、
他の奴と会う時間が無くなる程度に時間稼ぎをしてもらうつもりだ。
まあ茅場製AIを持たせてあるから、しばらくはそれにかかりっきりになる事だろうさ」
「なるほど、あっちの話を進展させないうちに、こっちから出向いて教授を説得する作戦ね」
「でもさ、教授は何か目的があって、向こうの研究に参加していたんじゃない?
もしかしたら報酬が凄かったのかもしれないけど、
それ以上の条件を提示する事って可能なの?」
そう尋ねてきた真帆に、八幡はニヤリとしながらこう答えた。
「ああ、でっかい釣り針を用意しておいた、なぁ?紅莉栖」
「そうね、先輩、八幡の用意した釣り針に、多分先輩も引っかかると思いますよ」
「へぇ?」
真帆はその言葉に目をキラリとさせた。
そして八幡と紅莉栖は、真帆にその釣り針について説明した。
「嘘……あなた達、それ本気で言ってるの?」
「ああ、基礎理論は既に構築済だ、勝算はかなり高いと思うぞ」
「確かに話を聞いた限りじゃそうかもしれないけど、正直正気とは思えないのも確かね」
「だが教授は必ず興味を示す、そう思わないか?」
「え、ええ、確かにそうかもしれない、というかこれ、世界が変わるわよ」
「そのつもりでやってるからな、どうだ、俺達も中々やるもんだろ?」
「ええ、本当に度肝を抜かれたわよ……まさかそんな事を考えていたなんてね」
「よし、それじゃあ真帆さんのお墨付きもとれた事だし、
真帆さんには悪いが明日、渡米する事にしよう」
その言葉に真帆はきょとんとした。
「え、何が悪いの?急いだ方がいいのは自明の理じゃない?」
「いや、久々に日本に帰ってきたんだ、観光くらいはしたかったんじゃないかなと」
「それは本格的にこっちに来た時に紅莉栖に案内させるわ、
勝算が高いなら、それで問題ないでしょ?」
「その時は教授も一緒ですね、先輩」
「ええ、必ず教授には、正しい道に戻ってもらいましょう」
こうして渡米の日時が決まり、八幡達は慌しく動き始めた。