理科室は、不自然な沈黙の中にあった。
誰もが何かを言いたげであり、でも何も言えないというような空気の中、
最初に口を開いたのは理央だった。
「そ、それはどういう……」
「ご両親とも話なさいといけないが、言葉通りの意味だな。
お前、高校を卒業したら、そのままうちに就職してみないか?」
「そ、それは……」
あまりにも無茶な提案じゃ。この中では一番の常識人である佑真がそう言いかけたが、
隣にいた咲太がそれを制した。
理央がその提案について、真剣に考慮しているように見えたからである。
(国見、気持ちは分かるがここは静観だ。双葉の表情を見てみろよ)
(悪い、つい……)
(多分ここが双葉の人生のターニングポイントだ、
どんな決断をするにしても、俺達はあいつの事を応援してやろうぜ)
(ターニングポイントか……そうだな、ここは双葉に任せるとするか)
そしてしばらくの沈黙の後、理央は八幡にいくつかの質問をしてきた。
「その場合の問題点をいくつか考えてみました、
最初に何かあってソレイユをクビになった時のリカバリーですが……」
「お前はうちをクビにはならない、契約書にそう盛り込む。
だから再就職の事とかは考えなくてもいい」
「……私が何か大きな失敗をしても?」
「うちはお前一人の失敗で傾くような会社じゃない、
そしてお前の失敗についての責任は俺がとる、
当然そうならないようなシステムにはなっているけどな」
「なるほど、確かにそれだと大卒という事実には特に意味はありませんね、でも……」
そして理央は、一拍置いてから次にこう言った。
「私の教育に関してはどうするんですか?今の私は独学である程度勉強しているとはいえ、
その教育程度は所詮高校生レベルでしかありません。
大学でそういった勉強をした方がより会社にとっては有益だと思うんですが」
「確かにジャンルによってはそうかもしれないな、
俺も経営について学ぶ為に、大学には進学するつもりだしな」
「なら……」
「まあ今俺が言っている事は、強制じゃなくあくまで提案な。
俺がこれから一つの条件を提示するから、お前がそれを是とするなら即就職、
非とするなら奨学金の条件に従って大学に進むといい。全てはお前次第だ」
八幡は真面目な表情でそう言い、
理央だけではなく他の二人も緊張しているのか、ゴクリと唾を飲み込んだ。
そして八幡は理央に説明を始めた。
「最初に一つだけ、俺の直属というのがどういう存在となるか、説明しておく。
俺は確かにVR事業部の部長という事になっているが、それは正確ではない。
何故ならうちにはそんな名前の事業部は存在しないからだ。
代わりに今存在しているのは、ネットワーク事業部って奴だな」
「そうなんですか?」
「おう、これはあくまで俺の身分を保証する為の仮の肩書きだからな」
「では八幡さんには何の権限も無いと?」
「いや、権限ならあるぞ?社長にいくらでも意見を言えるし、多少のわがままも通せる」
「八幡さん、それって社長の愛人みたいな感じですか?」
咲太が物怖じせずにそう質問し、八幡は面白そうにくっくっと笑いながらこう答えた。
「やっぱりそう思うよな?多分同じ事を思ってる奴は、
ライバル会社にはかなり多いんじゃないかなって気がするんだよな」
そして八幡は、先ほど三人に見せた名刺とは別の名刺を取り出し、
その表面を指でサラリと撫でた。そこには先ほどと同じ会社のマーク、
そして同じ八幡の上半身の姿が表示されており、その下の役職だけが違っていた。
『ソレイユ社代表取締役社長、比企谷八幡』
「こ、これは……」
「まあ十年以内にこうなる事が既に社員全員と、一部の業界関係者には告知済だって事だ、
それにしてもこんな名刺をもう作っちまうなんて、うちの姉さんも気が早いよな。
うちの姉さんな、早く副社長に降格したくて仕方がないみたいなんだよ」
「こ、降格を喜ぶって……」
「そ、それじゃあ……」
「おう、理央が所属する事になるのは次世代技術開発部って事になるんだが、
何かあった時は俺の呼び出しに応じて俺の下で動く事になる、
つまりは社長直属部隊ってのが、今後の理央の役割だな」
「しゃ、社長直属部隊……?」
「おお、何か響きが格好いい……」
咲太と佑真はそう呟き、理央を羨ましそうに見つめた。
その視線を受けた理央は、尚も戸惑った表情で八幡にこう質問してきた。
「直属の意味は分かりましたけど、では私の教育に関しては……」
「直属の上司に教育してもらう、ちなみにそいつは理央よりも年下で、
さっきは隠していたが、俺の直属予定の一員でもある」
そして八幡は、スマホを操作して一枚の写真を理央に提示した。
「こいつがそのお前のパートナーと呼べる存在となる」
理央はその写真を見て目を見開いた。
「ま、牧瀬紅莉栖!?大学をやめてその後どこにいるかは不明ってニュースが流れてたけど、
まさかあの牧瀬紅莉栖がソレイユにいたなんて……」
「ん、そんなニュースが流れてたのか?そうか、公式発表されてなかったんだな」
どうやら紅莉栖の行方について、
ヴィクトル・コンドリア大学の関係者は口をつぐんでいるらしい。
ソレイユ社は引き抜きの代償として、大学への資金提供と、技術協力を確約していたのだが、
おそらくその事に配慮して、発表に関してはソレイユ社に一任する事とし、
大学側からの発表は、それまで控える事にしたのだろう。
「というか理央、お前、紅莉栖の事を知ってるんだな」
「あ、当たり前でしょ、私の一つ下でありながら、
飛び級で大学を卒業してそのまま大学院の研究員になり、
その論文が世界的な雑誌にいくつも載せられている天才だよ?知らない方がおかしいでしょ」
「お、喋り方が砕けてきたな、いいぞ理央、その調子だ」
「ちゃ、茶化さないで。えっと、つまり即就職を決断したら、
あの牧瀬紅莉栖が私の師匠になるという事?」
「いや、まあ大学を卒業してからでもそうなる予定だな、まあ時期の違いだ。
あと四年半待つか、それとも今日から紅莉栖と知り合いになるか、まあそんな感じだ」
「高校を出たらすぐに就職します」
理央は何の迷いもなくそう即答し、さすがの八幡も鼻白んだ。
「おいおい、もう少し時間を置いてから返事をしてくれてもいいんだぞ?」
「いえ、是非就職の方向でお願いします。
大学に行くよりも、きっとその方が私にとっては有益だと思うんです。
だってあの人より優秀な大学教授なんて、日本には存在しないじゃないですか」
「い、いや、まあそれはそうなのかもしれないが……」
「なぁ理央、その牧瀬さんってどんな人なんだ?」
そう尋ねてきた咲太に、理央は心底意味が分からないという視線を向けた。
「はぁ?梓川はどれだけ物を知らないの?」
「そ、そんなに有名人だったのか?悪い、知らないわ……」
「はぁ、これだからブタ野郎は……」
「安心しろ咲太、普通の人は知らないからな」
ここで八幡がそう助け船を出し、咲太はほっとした表情をした。
「牧瀬紅莉栖は今十七歳、
ヴィクトル・コンドリア大学の大学院の研究員をしていた脳科学の世界的権威だな。
今は事情があってうちのスタッフとして働いてくれている。
ちなみにサイエンス誌にも何度も論文が載っている、まあ理系の世界じゃ世界的な有名人だ」
「そうなんですか……」
「ほら梓川、これがその雑誌ね」
理央はそう言って古いサイエンス誌を戸棚から取り出し、咲太に渡した。
「それでも読んで勉強しなさい」
「お、おう……」
そして八幡が、話を元に戻そうと理央に言った。
「まあ話はわかった。それじゃあそういう方向で話を進めておく」
「お願いします、うちの両親は、二人がかりで後日両親が家に揃った時に説得しましょう」
「わ、分かった、頑張って二人で説得しような」
「それじゃあ出かける準備をしますので教室に行ってきます、待ってて下さい」
「………へ?」
理央は相変わらずの平坦な口調でそう言うと、
八幡には目もくれずに一目散に理科室を飛び出していき、自分の教室へと向かった。
「………」
「………」
その一部始終を眺めており、今は呆気にとられたような表情をしていた咲太と佑真に、
八幡も戸惑いながらこう尋ねた。
「………ええと、理央って普段からああなのか?人の話を聞かないというか何というか」
「いえ、いつもは何ていうか、もっとお堅い感じというか……」
「あんな双葉、初めて見ました」
「そ、そうか……」
そして廊下からパタパタと走る音が聞こえてきたかと思うと、
理央が息を切らせながら教室へと飛び込んできた。
八幡は揺れる理央の胸に一瞬気をとられ、顔をやや赤くしたが、
そんな八幡に理央は、いきなりこう言った。
「はぁ……はぁ……準備が出来ました、さあ八幡さん、ソレイユに行きましょう」
「ソレイユに?何でまたそんな事に?」
「だって八幡さんがさっき言ったじゃないですか、
『四年半待つか、それとも今日から紅莉栖と知り合いになるか』って」
「え、あ、そういう事か……」
それで納得した八幡は、気を取り直して理央に言った。
「分かった、それじゃあ一緒にソレイユに行くとするか」
「はいっ!」
そして理央は咲太と佑真に振り返ってこう言った。
「そんな訳で私、もう科学部は終わりにするから、放課後にここに来ても誰もいないからね」
「えっ?」
「マジかよ……」
「これから毎日放課後はソレイユに通うから、そういう事で宜しく」
「分かった、しっかりな」
「頑張れよ、双葉」
その二人からの激励に、理央は満面の笑みでこう答えた。
「うん!」
そして二人が去った後、咲太と佑真は理科室に残り、今の出来事について話をしていた。
「なぁ国見、ちょっと寂しいな」
「だな、双葉を八幡さんに取られちまった形になっちまったな」
「しかし双葉も卒業前からソレイユの一員か、まさかこんな事になるなんてなぁ……」
「まだ両親の説得が残ってるみたいだけどな」
「それくらいは何とかするだろ、あんな感情を表に出す双葉なんて、
今までほとんど見た事が無かったしな」
「何にせよ、当分双葉とも会えなくなるって事か」
「まあ日曜にでも三人でどこかに出かけて、その時にでも話を聞かせてもらおうぜ」
「だな」
そしてバスケ部員である佑真は体育館の方へと去っていき、
残された咲太は、コーヒーを飲むのに使った道具類を洗い、棚に片付けた。
そして理科室内をぐるりと見渡し、誰に聞かせるでもなくこう言った。
「二年半、一人でよく頑張ったな、そして理科室もお疲れ様」
丁度その時窓から暖かい風が吹き込んできた。
咲太はその風が、どういたしましてと言っているような気がした。
「さて、それじゃあ俺も帰るか」
こうして理科室を放課後に訪れる者は、この日から誰もいなくなったのだった。