十月半ばの日曜日、たまには一人で買い物にでも行こうかと思い立った理央は、
コンビニでお金を下ろそうと、銀行の残高を確認していた。
「えっ?な、何これ………」
理央の口座は夏休みの終わりに確認した時から、想像以上に金額が増えていた。
「確かに毎日ソレイユに通ってたけど、さすがにこの金額はおかしい気がする、
一応銀行で通帳記帳をしてみて、確認した方がいいかな………」
家がそれなりに裕福な癖に、小市民的なところがある理央は、
若干びびりながら家に戻り、久々に通帳を持ち出して、駅前の横浜銀行で通帳記帳をした。
「あ、あれ?お父さんとお母さんの口座から振り込みがある………」
ソレイユからの振り込みは、想定より若干多い程度の金額であったが、
これはおそらく交通費とか、理央が計算していなかった部分の金額だろうからいいとして、
問題はつい最近振り込まれた親名義の振り込みであった。
「今日はお父さんが家にいたし、帰って聞いてみよ………」
理央はそう呟いて家に引き返し、父親に振り込まれていた金額について尋ねた。
「お、お父さん、この振り込みなんだけど………」
「ん?ああ、それはお父さんとお母さんからの就職祝いだよ、
ごめんごめん、伝えるのを忘れていたね」
「し、就職祝い?」
「お金でしか祝ってやれないのは申し訳ないと思うが、
寮に入るにも、色々揃える必要があるだろうしね、まあ何も言わずにもらってやってくれ」
「あ、うん、あ、ありがと………」
理央はその両親からの好意を素直に受ける事にした。
(今すぐお礼ってのも変だよね、初任給で何か買って、二人にプレゼントしよっと)
理央はそう思いながら、一ヶ月くらい前に、
明日奈達と遊びにいった時の会話を思い出した。
『早めに寮に入れてもらって、正式な仕事が始まる前に、色々揃えちゃった方がいいかもね』
「まずい、忘れてた………入居が可能かどうか、今のうちに八幡に聞いておかなくちゃ」
理央はこの時本気で焦り、慌てて八幡に連絡を入れた。
「は、八幡!」
「朝っぱらから大きな声を出すな理央、で、何かあったのか?」
「ご、ごめん、私、まだ入寮希望を出してない事に気付いて、それで……」
「ん?寮?会社のか?お前の部屋ならもういつでも入居出来る状態になってるが……」
「ええっ!?」
「あれ、言ったよな?」
「聞いてない!」
「あれ、俺の勘違いか……悪い悪い、伝えるのを忘れてたみたいだわ」
「う、ううん、それならそれでいいの、本当に良かった……」
理央は安心したのか、そう言ってその場にへたりこんだ。
「とりあえず今日は暇だし、お詫びの意味も込めて理央の部屋まで案内するか?」
「あ、うん、私も忘れてたから、お詫びは別にいいんだけど、部屋は見てみたいかも」
「そうか、それじゃあちょっと時間はかかるが、そっちに迎えに行くから待っててくれ」
「いいの?それじゃあお願いしようかな、一時間後くらい?」
「それくらいだな、それじゃあ後でな」
「うん、また後で」
理央は電話を切った後、クローゼットを開け、いくつかの服を取り出した。
それは先日明日奈達に選んでもらった服であり、
選んだ時の基準が八幡が気に入るかどうかだった為、
気に入ってもらえる事は間違いないと思うが、どちらの服がより気に入ってもらえるか、
とても悩む羽目になった。
「う~~~~~~~ん、う~~~~~~~~~ん」
だがいくら悩んでも、決して女子力が高いとは言えない理央は決断する事が出来なかった。
そして理央は最終手段に出る事にした。いわゆる他人に丸投げである。
理央は知り合いの中ではダントツで服選びのセンスあると思われる、
女優の桜島麻衣に、どちらがいいか尋ねる事にしたのだった。
「あ、麻衣さん?突然ごめんなさい、ちょっと助けて欲しいんです」
『あれ、理央ちゃん?一体どうしたの?』
「その……これから知り合いの男の人と会うんですけど、
どっちの服を着て行けばいいか、アドバイスがもらえればと思って……」
『知り合いの男の人?その言い方だと咲太でも国見君でもないのよね?
あ、もしかして、咲太が言ってた比企谷さんって人かな?』
「そ、そうです」
『私が役に立てるかわからないけど、とりあえず服の写真を見せてもらえる?』
「今送ります」
そしてしばしの沈黙の後、麻衣は理央にこう言った。
『正直驚いた、理央ちゃん、最近おしゃれに目覚めた?どっちも凄くかわいいんだけど』
「あ、えっと、友達に選んでもらったので……」
『そうなんだ、う~ん、甲乙付けがたいけど、このレベルになると、もう相手次第なのかな、
比企谷さんって人がどんな人か知りたいから、いくつか質問してもいい?』
「あ、それじゃあとりあえず写真を見てみます?
『写真があるなら見てみたいかも、比企谷さんの服の傾向とかも分かるし』
「分かりました」
そして再びの沈黙の後、麻衣は驚いた様子でこう言った。
『あ、あれ、私、この人の事知ってるかも』
「そうなんですか?」
『う、うん、前にうちの事務所に来てたのを見かけた事があるわ』
「麻衣さんの事務所って倉なんとかでしたっけ?」
『倉エージェンシーね、で、後で彼が誰なのか聞いたら、
ソレイユのえらい人で、うちの事務所の恩人だって教えてもらったんだけど、
そっか、あの人が比企谷さんだったんだね』
「世間は狭いって本当ですね……」
『そうみたいだね、そっかぁ、私達を助けてくれた人が、理央ちゃんの思い人かぁ』
「えっ、な、何ですか?それ」
『えっとね』
麻衣は個人名は伏せながらも、以前のクラディール絡みの事件について理央に説明した。
「そんな事が……」
『うん、なので理央ちゃんの見る目は間違ってないと思うわ、おめでとう』
「あ、ありがとうございます」
『その上であの人が気に入りそうな服装かぁ、う~ん、それなら二枚目の写真の方かな』
二枚目の写真の方とは、より理央のプロポーションを強調するような服であった。
「こっちを選んだのって、何か理由があるんですか?」
『うん、ライバルに勝つ為』
「ライバル?」
『神崎エルザ』
「えっ?」
『あの子がその比企谷さんにベッタリだったからね、
負けない為にはそっちの服しかないと思って』
「あ、あの神崎エルザが八幡にベッタリ………?」
『うんそう、だから理央ちゃんも負けないように、頑張って自分をアピールするんだよ!』
「は、はい、ありがとうございました」
電話を切った後、理央は思ったよりも自分が衝撃を受けている事に気が付いた。
「芸能人がライバルとか、どう考えても無理だし……」
もっとも正式な彼女が明日奈である以上、
理央のライバルは明日奈以外にはありえないのだが、
理央も神崎エルザのファンであり、憧れてもいた為、
神崎エルザが明日奈以上に高い壁に感じられてしまい、仕方がなかったのである。
「ああもう、これ以上考えても仕方がない、八幡が来る前に、
私なりにベストを尽くせるように、精一杯おめかししよ……」
理央はそう考え、気持ちを切り替えようと自分の頬を叩いた。
そもそも八幡が神崎エルザと知り合いだからといって、
しょっちゅう会っているというそぶりも全く見えないし、
今後の自分の人生に関わってくる事もないだろうと考えたのである。
「さて、この服に合う髪型はっと、それにコンタクトにして、
胸はいつもより強調、メイクは控えめなのがいいって明日奈さんが言ってたからそうして、
うん、こんな感じかな、我ながらこれはかわいいんじゃないかな」
理央は先ほどまで悩んでいた事も忘れ、ニヤニヤしながら鏡に見入っていた。
理央なりに頑張った成果はちゃんと出ており、街を歩けば十人中八人は振り返ると思われる。
気が付くと思ったよりも時間が経っていたらしく、丁度八幡から連絡が入った。
どうやらもう到着したらしい。
「え、もうそんな時間?危なかった……」
理央は胸をなでおろし、父親に、今から寮の部屋を見せてもらってくると伝えた。
「寮の部屋を?それにしちゃ随分おめかししているね、理央」
「え、そ、そうかな?これくらい普通だよ、
八幡を外で待たせてるからとりあえずもう行くね」
「比企谷さんが迎えに?それじゃあ挨拶くらいしておくか」
「え、あ、確かにそうだね、ごめん、教えておけばよかったね」
さすがの理央も、その父親の意見を無視する訳にはいかなかった。
社会人としては当然だと思ったからだ。
そして理央の父親に見送られ、二人はソレイユへと向かった。
「今日は眼鏡じゃないんだな」
「うん、まあたまにはね」
「つまり今日は相対性妄想眼鏡っ子じゃないという事か、それは残念だ」
「だから人に変なあだ名を付けないで!」
「まああれだ、その格好にはその方が合ってるかもしれないな、
うん、よく似合ってていいんじゃないか?」
理央の心臓はその瞬間に跳ね上がった。
「あ、ありがと……」
「おう」
最初に眼鏡の事を言われたせいで、理央は完全に油断していた。
もしかして服装については何も言われないのではないかと思ったからだった。
だが八幡は不器用ながらもちゃんと褒めてくれた。
理央はその事が嬉しくて、八幡に表情を見られないように窓の外を見ながら、
だらしなく表情を緩ませていた。
「とりあえず今部屋の中には備え付けの家電以外何も無いが、
見取り図を用意してあるから家具とかを買う時は、それを参考にな」
「基本的な設備って、どんな感じ?」
「口で説明してもいいんだが、見た方が早いと思うぞ、ほれ、着いたぞ」
「確かにそうかもね」
理央は八幡に案内され、わくわくしながらその部屋に足を踏み入れた。
両親が不在がちだった為、今までも一人暮らしのようなものだったが、
今回は意味合いがまったく違う。以前は結果的に一人暮らしのような感じになっただけ、
だが今度からは、自分で選んで決めた一人暮らしなのだ。
ついでに八幡との距離が縮まれば言う事はないが、
差し当たり理央は、部屋を確認したら、八幡に買い物に付き合ってもらおうと考えていた。
「うわ、何か広くない?」
「ゆったりした間取りにしてもらったからな」
寮の部屋はドアを開けると真っ直ぐな通路があり、右手前にはトイレと浴室が並んでいた。
トイレは当然最新式のウォッシュレットであり、浴室に併設された脱衣所には、
洗面台の他に乾燥機付きの洗濯機が置いてあった。
通路の左は壁面収納になっており、かなり多くの物が入れられそうに見える。
ドアの正面には十畳程の広さの部屋があり、左側はクローゼットと収納、
右側にはカウンター付きのキッチンが併設されていた。冷蔵庫も標準装備である。
コンロはガス式のようであり、電気式のコンロが嫌いな理央は、それを見てほっとした。
そして部屋に入って左にもう一つドアがあり、
そこはそれほどの広さはないが、寝室となっていた。
ベッドは備え付けのようであるが、さすがに布団の類は用意されていない。
「うわぁ、家電はとりあえず用意しなくても大丈夫だね」
「調理道具は揃えないといけないだろうが、まあそれと布団、
後は小物類があれば、とりあえず暮らせるようにはなるな」
八幡は部屋の真ん中に座りながらそう言った。
その間も理央は、目をキラキラさせながらあちこち見て回っていた。
「とりあえず落ち着け、部屋は逃げないからな」
「こ、ここが本当に私の部屋って事でいいんだよね?」
「ああ」
「本当の本当に?」
「ああ」
「私、今すぐここに住みたい!」
「無茶言うな、ここからだと学校が遠くて仕方ないだろ」
「うぅ……」
理央はそう言われ、残念そうに呻いた。
「あとな、ちょっとベランダに出てみろ」
「ベランダに何かあるの?」
「ああ、正面のあのマンションのな、ええと、ああ、あの布団と洗濯物が干してある部屋な、
あそこが優里奈の部屋だから、一応教えておくわ。優里奈とはもう仲良くなったんだよな?」
「えっ、そうなんだ!うわ、うわぁ、それなら毎日でも会えるね!
私、ちょっと優里奈に電話してみる!」
「部屋にいるかは分からないけどな」
運良く優里奈は部屋に居り、理央からの電話を受け、ベランダから顔を出した。
そして理央に手を振った後、隣に八幡がいる事に気が付いた優里奈は、
ギョッとした顔をして、慌てて洗濯物の前に立ち、後ろ手で何かごそごそし始めた。
「ん、優里奈は何をしているんだ?」
「さあ、まだ電話が繋がってるから聞いてみる」
そして理央は、優里奈にその事を質問した。
「ねぇ優里奈、動きが変だけど、何をしてるの?」
『えっと、まさか八幡さんが一緒だとは思わなくて、その、干してあった下着の回収を……』
「あっ!」
理央は優里奈の言葉の意味を理解し、慌てて八幡を部屋の中に押し込んだ。
「おわっ、いきなり何をするんだお前は」
「いいから!」
「分かった、分かったから!」
八幡は優里奈に軽く手を振り、そのまま大人しく部屋に入った。
理央も優里奈にまたねと伝え、手を振って一緒に部屋の中に入った。
「さて理央、この部屋の鍵はどうする?
今渡してもいいんだが、その場合は来月から寮費を払う事になるが」
「寮費って月一万だよね、天引きって感じでいいのかな?」
「まあそうだな」
「それじゃあもらっとく!会社に連絡しておいた方がいい?」
「それは俺がやっとくから問題ない。それじゃあほれ、ここの鍵だ」
そう言って八幡が渡してきたのは、一枚のカードだった。
「あ、カードキーなんだ」
「もし無くしたり壊れたりしたら、予備のカードが管理人室にあるから、
そこでもらうようにするんだぞ。仮社員証を見せれば出してくれるから」
「分かった、でもそんな事が無いように気を付けるね」
「そうしてくれ。で、これからどうする?優里奈の部屋にでも遊びに行くか?
もしそうするなら、俺は会社で仕事でもしながら待ってるけどな」
理央はここが八幡にお願いするチャンスだと思い、おずおずと言った。
「あ、えっと……もし迷惑じゃなかったら、買い物に付き合ってもらっていい?
この部屋に置く物とかを色々揃えたいの」
「ああ、まあ車があった方が便利だろうし、別に構わないぞ」
「いいの?ありがとう!」
二人はそのまま連絡通路を通り、ソレイユの本社ビルへと向かった。
理央の部屋の事を経理の者に伝える為である。
その途中の廊下の曲がり角で、二人は何者かとぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。
「きゃっ」
「あっと、すみません」
「あっ!」
その瞬間にその何者かは、いきなり八幡に体当たりをくらわせた。
「うおおおお!」
「八幡見っけ!そしていただきます!」
その何者かはそのまま八幡を押し倒し、八幡の唇を奪おうと顔を近付けてきた。
「お前、来てたのかよ、とりあえずそれ以上顔を近付けるな」
「いいじゃない少しくらい、先っぽだけ、先っぽだけだから!」
「させねえよ」
「ぐぬぬぬぬ」
八幡はその人物の顔を押さえ、顔がそれ以上接近するのを防いでいた。
「えっ?えっ?」
「落ち着け、とりあえずこいつを引き剥がすのを手伝え」
あまりの事に思考が付いていってなかった理央は、
八幡にそう言われ、慌ててその人物の顔を見た。
そこには先ほど麻衣との会話で名前が上がっていた人物の顔があり、
理央は驚いてその人物の名前を呼んだ。
「か、神崎エルザ………?」
その声でその人物、神崎エルザは顔を上げ、きょとんとした表情で八幡に質問してきた。
「ん?八幡、この子誰?」
「双葉理央、うちの新人だ」
「新人?理央?あっ、もしかしてリオン!?」
「そうだ」
「えっ?」
理央はいきなり自分のプレイヤーネームを呼ばれ、混乱した。
おそらくヴァルハラ・ウルヴズの誰かだと思うが、誰なのかは分からない。
というかまさか神崎エルザがあの中の誰かだなどと、理央は想像すらしていなかった。
「私、ロビンだよロビン!初めましてだね、リオン!」
「えっ、ロビンってあのロビン?」
「うん、そうだよ?」
「ええええええええええええ!?」
他人の目を気にせずに我が道を行き、
常に自分の欲望に忠実に行動しているあのクックロビンが神崎エルザだという事実は、
理央にとって、人生でベストスリーに入る衝撃であった。