その数日前の事である。午後七時くらいに、詩乃の家のインターホンが鳴った。
現在詩乃は自宅でバイト中であり、その音に気付く事は無かった。
普通であれば、訪問者はそのまま帰らざるを得なかったところであるが、
詩乃の家には自宅警備員的ぬいぐるみが存在する為、必ずしもそうとは言えないのだ。
「来客か、誰だ………?ああ………」
モニターに映っていたのがまったく知らない人間、
もしくは知っていてもさほど交流の無い人間であれば、
その自宅警備員的ぬいぐるみであるはちまんくんは、華麗にスルーした事だろう。
だが今ドアの外にいるのがとてもよく見知っている存在だとモニターで確認出来た為、
はちまんくんは腕のギミックを作動させ、ドアノブ目掛けて手を射出し、扉の鍵を開けた。
ガチャッ。
少し間が開いた後、入り口のドアが開き、
外にいた人物が呆れたような口調でこう声をかけてきた。
「おいこら詩乃、鍵だけ開けて無言とはどういう事だ、
歓迎しろとは言わないが、せめて返事くらいしろ………って、お前だったか」
その訪問者は、手首から伸びたワイヤーをずるずると引っ張って巻いている、
はちまんくんの姿を見てそう言った。
「悪い相棒、返事をするのが面倒だった」
「いいさ、俺がお前の立場でもそう思ったろうからな」
「さすがは相棒」
「だろ?」
そして二人は見つめ合い、ニヒルに笑った。その訪問者は当然の事ながら八幡である。
「なぁ相棒、詩乃は今いないのか?これ、勝手に入っちまって大丈夫か?」
「問題ない、あいつは今寝室でバイト中だがもうすぐ終了の時間だからな」
「そうか、そういう事ならバイトが終わるまで大人しく中で待たせてもらうとするか」
八幡はそのまま居間に入り、テーブルの前に腰かけた。
そんな八幡に、はちまんくんが言った。
「待っててくれ、今お茶を入れる」
「悪いな……って、いつの間にかお前、芸達者になってないか?」
「おう、それくらいは学習した」
「ほうほう、さすがだな、相棒」
「だろ?」
そして二人は再び見つめ合い、ニヒルに笑った。
「とはいえ、まあ俺に出来るのはインスタントコーヒーを入れるくらいなんだがな」
「十分だ、ありがとうな相棒」
そしてはちまんくんは、テーブルの上で器用にインスタントコーヒーを作り、
八幡に向けて差し出してきた。
「砂糖とミルクと練乳はそこの棚から出してくれ、沢山常備されてるからな」
「おう……って、練乳まであるのか、詩乃ってそんなに甘党だったっけか?」
「いや、それは相棒がいつ来てもいいように、常にストックされてるんだよ」
「なるほど、それは好印象だな」
「うちの詩乃も中々やるだろ?」
「おう、正直もっとがさつだと思ってたから、ちょっと見直したわ」
「まあがさつなのは間違いないんだけどな」
そう言ってはちまんくんは、寝室のドアの方を指差した。
入り口からは見えなかったが、そのドアはよく見ると開きっぱなしになっており、
そこには下着姿でだらしなく寝そべっている詩乃の姿があった。
それを見た八幡は、スッと立ち上がると、黙って寝室のドアを閉め、再び元の場所に座った。
「うん、コーヒーの程よい濃さのせいで、甘さが際立って感じられるな」
「若干薄めに入れるのがポイントだろ?」
「お、さすがは分かってるな」
「実は詩乃と一緒に色々研究したんだよ」
「マジか、あいつ、実は尽くす系なのか?」
「ツンデレなのにな」
「その二つの属性の親和性は確かに高そうだが……」
「今や絶滅危惧種だよな」
「だな、かなりのレアだ」
「SSSRくらいはあるんじゃないか?」
「かもしれん」
そうはちまんくんに同意しながら、八幡はずずっとコーヒーをすすった。
丁度その時寝室からガサガサと音が聞こえた。どうやら詩乃のバイトが終わったらしい。
そしてガチャッと寝室のドアが開き、居間に足を踏み込みながら、詩乃がこう言った。
「あれ、私、ログインする前にこのドア閉めたっけ?
まあいっか、はちまんくん、私はとりあえずこのままシャワー………を………」
詩乃は居間に座ってコーヒーをすすりながら、
こちらに背を向けてまったく振り返ろうとしない八幡の姿を見た。
その時はちまんくんが、呆れた声で八幡にこう声をかけた。
「悪い相棒、詩乃の奴、まさかの全裸だわ」
「っ………」
「大丈夫だ、想定外の事もあったが、この事は予想はしていたからな」
「マジか、てっきり下着姿で出てくるのに備えたんだとばかり思ってたわ」
「さっきチラリと見えたあいつの肌が、かなり汗ばんでいたからな、
それでこういう事もあるだろうと予想していた」
「なっ、ま、まさか扉が閉まってたのは、中を見た後に八幡が閉め………」
詩乃はそう呟いたが、その声ははちまんくんの声にかき消された。
「おお、さすがだな、俺はそこまで見てなかったわ」
「まあお前は詩乃のがさつな部分を見慣れてるだろうから仕方ないさ」
「なるほど、慣れってのは怖いもんだな」
「な………なっ………」
そう繰り返すばかりで、中々言葉を続けられない詩乃に対し、
はちまんくんが、指をパキッと鳴らしてこう言った。
「詩乃、リトライだ、出なおせ、まだ間に合う」
そう言われた詩乃は、怒りか羞恥かどちらのせいかは分からないが、
顔を真っ赤にしたまま寝室のドアを閉め、
しばらくしてから身だしなみを整えて再び現れた。
「あら八幡じゃない、来てたのね」
「平然としているようだが、顔がまだ真っ赤だぞ」
「な、何で分かるのよ!」
「そこの鏡に………いや、何でもない」
「鏡?鏡って………」
そして詩乃は、八幡の向こうにある姿見の扉が開いている事に気が付いた。
そこには八幡の顔が正面から写っていた。そう、正面から。
「…………」
「…………」
「ねぇ」
「お、おう」
「今その鏡に、私とあなたが正面から写ってるわよね」
「そ、そうだな」
「さっきあんた、真っ直ぐ正面を向いてたわよね?」
「そうだったか?まったく覚えていないが……」
そして詩乃は、八幡の頭をガシっと掴んだ。
「見たわね?」
「な、何をだ?」
「私のハ・ダ・カ」
「一体何の事だかな」
「私のFカップを見たんでしょって、そう言ってんのよ!」
「はぁ?お前ふざけんなよ、確かに思ったよりはあるなって思ったが、
あれがFカップなら理央は何カップだって話になんだろ!」
「落ち着け相棒、それはやばい」
そのはちまんくんの言葉に、八幡はハッとした顔をした。
「やっぱり見たのね」
「き、汚いぞ詩乃、はめやがったな!」
「はめられる方が悪いのよ、そうねぇ、とりあえず私、今凄くお腹が減ってるんだけど」
「くそっ、仕方ない、とりあえず飯でも食いに行くか」
「もちろん八幡のおごりよね」
「………そ、そうだな」
「おごりか………」
八幡にそう言われた詩乃は、少し考えた後にこう言った。
「シャトーブリアン」
「お、おう?」
「ブランド牛」
「お、おう………」
「A5」
「………」
「さっさと行くわよ」
「お、おう、分かった………」
そして詩乃は、機嫌良さそうに八幡の腕に自らの腕をからめ………かけ、
直後に慌てて八幡から離れた。
「ちょ、ちょっと待って」
「ん?どうした?」
「そ、その前に、シャワーを浴びさせなさい」
「シャワー?確かにさっき汗をかいてたのは見たが、
別に汗臭かったりとか、そんな事はまったく……」
「い、いいから待ってなさい!」
「わ、分かった」
そして詩乃が浴室に入っていった後、はちまんくんが呆れた声で八幡にこう言った。
「相棒、余計な事を言わなければ、詩乃は鏡の事には気付かなかったんじゃないか?
あれってわざとだろ?」
「ん、分かったのか?」
「おう、相棒だからな、その後のFカップうんぬんはまあ、マジっぽかったけどよ?」
「あれはさすがに鬼突っ込みをしないといけない場面だったからな」
「まあそれは俺も同意するが、で、何でだ?」
「いやな、鏡がある事に気付いたのは少し後だったんだがよ、
確かに見えたのは偶然だが、それを黙ってるのは何か卑怯な気がしてな……」
そう言う八幡の肩を、はちまんくんはポン、と叩いた。
「相棒、今度一杯おごるぜ、そういうとこ、俺はいいと思うぜ」
「そうか?」
「多分隠れてこっそりこの会話を聞いている奴も、そう思ったと思うぜ」
その瞬間に浴室からガタッという音がし、八幡とはちまんくんは顔を見合わせて苦笑した。
「俺がちゃんと留守番しておいてやるから、散財させちまって悪いが、
まあ詩乃に美味い物を食わせてやってくれ。
最近詩乃の奴、相棒が遊んでくれないってたまに愚痴ってたからな」
「確かに最近は、理央や萌郁と一緒にいる事が多かった気もするな」
「萌郁ってエージェントの女だったよな、一度だけメンテの時に見たわ」
「あいつと二人でゾンビ・エスケープってゲームの攻略をしてるんだよ」
「相棒も手広くやってんなぁ……」
「まあ次のステージは丁度人手が欲しかったところだし、詩乃も誘ってみるわ」
「おお、すまないな相棒」
「いいって事よ相棒」
二人がそう言って、本日三度目のニヒルな笑みを交わした直後に、
詩乃がバスタオルを体に巻いただけの状態で浴室から出てきた。
「お、おい!」
「べ、別にいいでしょ、この状態なら何も見えてないんだから」
「確かにそうだけど、何のアピールだよ……」
「うるさいわね、あんたへのちょっとしたご褒美よ!
それじゃあ今からおめかしするから、もう少し待ってなさい」
「ご褒美ねぇ……」
「悪い相棒、詩乃の奴、相棒が絡むとたまにポンコツになるんだわ」
「おう、それは知ってたわ、まあとりあえず待つとするか、
まあそんなに時間はかからんだろ」
だが八幡は、それから実に三十分も待たされる事になったのだった。