数日後、八幡は藍子との約束を果たす為、眠りの森を訪れた。
この日が藍子が一人で検査を受ける日だという事は、事前に調べ済みであった。
「こんにちは経子さん」
「あら八幡君、いらっしゃい」
「アイの具合はどうですか?」
「決して適切な表現じゃない事を承知で言うけど、幸いにも緩やかに悪くなっているわ」
「そう………ですか」
八幡は、早く何とかしなくてはと焦りを感じつつ、
この件に関してはアメリカにいる結城宗盛やめぐりに任せる他なく、
自分には何も出来ない事を歯がゆく思っていた。
そんな八幡の気持ちを察したのか、経子が優しい口調でこう声をかけてきた。
「あの子達の体の事は専門家に任せて、八幡君は心のケアの方をお願いね」
「あ、はい、何か気を遣わせちゃったみたいですみません」
「ううん、その気持ちは分かるわ、私も日に日に弱っていく楓を前に、
無力感を感じて打ちのめされていたもの」
「歯がゆいですよね……」
「そうね、でも焦っても仕方がないし、私達は私達にやれる事をしましょう」
「はい、俺は心のケアですね。でも多分今日アイに呼ばれたのは、
ゲームの悩みだと思いますけどね」
「あらそうなの?でもまあそれもケアの一つよ」
経子はそう言って柔らかく微笑んだ。
「そういえばあいつに差し入れを持って来たんですけど、食べさせても平気ですかね?」
「あら、何を持ってきたの?」
「杏仁豆腐の蒸しパンです、あいつらの胃が弱り過ぎないように、
たまに固形物を食べさせているとは聞いてましたけど、
やっぱり消化がいい物じゃないとまずいかなって」
「それなら問題ないわ、持ち込みを許可します」
「ありがとうございます、それじゃあ行ってきます」
「あ、ちょっと待って頂戴八幡君」
藍子がいる検査室に向かおうとした八幡を、経子が呼び止めた。
「ごめんなさい、男の子に頼むのはどうかと思うけど、
ついでにこれを彼女に渡しておいてもらえないかしら」
そう言って経子が指し出してきたのは、紙コップであった。
「えっと、これは?」
「検尿用の紙コップよ、さっき今度新しく二人の担当になってもらった看護婦さんから、
在庫が切れてたって連絡があったの」
「分かりました、直接本人に渡すとあいつも恥ずかしがると思うんで、
こっそりとその看護婦さんに渡しておきますね」
「えっ?あら?あの子って、そういう事に恥ずかしがる子だったかしら?」
その経子の疑問はもっともである。経子の記憶だと、
今までの八幡に対する藍子の態度は恥じらいの欠片も感じられない物だったからだ。
「ついこの間、やっと恥じらいを覚えさせる事に成功しました」
八幡はニヒルにそう笑い、経子は思わず噴き出した。
「あはははは、凄いじゃない、一体どうやったの?」
「とにかく全力であいつを見続けてやったら、
自然と恥じらいを感じるようになったみたいです」
「なるほど……」
経子は納得したように頷き、八幡は経子から紙コップを受け取ると、
今度こそ藍子のいる検査室へと向かった。
そんな八幡の背中を見送りながら、経子はぼそっとこう呟いた。
「やっぱり恋の力は偉大って事なのかしらね、いっそ恋の力を医学に生かせないかしら」
それは無理な相談である。
検査室の前に着いた八幡は、扉をノックしながら中に呼びかけた。
さすがにいきなり中に入るような事はしない。
「アイ、言われた通り来たぞ」
「あっ、八幡?入って入って!」
「あ、ちょっと……」
アイがそう言った後、おそらく看護婦なのだろうが、どこかで聞いたような声が聞こえ、
八幡は、この声には聞き覚えがあるななどと思いながら部屋の中に入った。
そこには上半身にタオルケットを巻き付けただけの藍子がベッドに座っており、
その隣に患者着を手に持った看護婦が、後ろ向きで立っているのを見て事情を察した。
「おいアイ、俺は別にいなくなったりしないんだから、
そんな焦って返事をしなくてもいいんだからな」
「そうよ、いくら八幡君が相手でも、せめて服を着てから中に入ってもらいましょうね」
そう言ってその看護婦は振り向いた。そこにいたのは、安岐ナツキであった。
「あれ、ナツキさん?どうしてここに?」
「少し前からメディキュボイドの扱い方を学ぶ為に、ここに出向してるのよ」
「ああ、そういう事ですか、志乃さんや茉莉さんの病院版みたいなものですね。
なるほど、これは経子さんに一杯くわされたかな」
「何の事?」
「いや、今度新しくアイとユウを担当してもらう事にした看護婦さん、
って表現を使ってて、ナツキさんの名前は教えてくれなかったんで」
その八幡の言葉に藍子が横からこう突っ込んできた。
「サプライズを演出したかったんじゃない?」
「かもな」
どうやら藍子も二人が知り合いだという事は知っているようで、
そんな二人の関係を見ても特に疑問そうな顔はしていなかった。
「ところでナツキさん、私がいきなり八幡に中に入ってもらったのは、
八幡にその服を着させてもらえばいいやって思ったからなの」
藍子は反省する様子などはまったく見せず、突然そんな事を言い出した。
「面倒臭い、一人で着ろ」
「別にいいじゃない、今日は私に優しくしなさいよ!」
「はぁ、分かった分かった、今日だけだぞ」
「やった!」
「そういう訳には……」
困った顔でそう言うナツキに、だが八幡はこう答えた。
「大丈夫ですよナツキさん、上手くやりますから。
ついでに経子さんから預かったこれも渡しておきますね」
そう言って八幡は、藍子から見えないように検尿用の紙コップをナツキに渡した。
「あ、ありがとう」
ナツキはまだ若いが、八幡の知る限り、かなり有能な人物である。
というか、経子がナツキの働きぶりを見た上で、
藍子と木綿季の担当を任せたくらいなのだから、プロの目から見ても有能なのだろう。
そしてナツキは事前にしっかりと勉強しており、この施設での八幡の立場も理解していた。
更に言うと、藍子と木綿季と八幡との関係もそれなりに把握している。
その上でナツキが知る八幡であれば、こういった場合、
全裸の女の子の着替えの補助を自ら申し出る事などありえないことを理解していた。
その為ナツキは、八幡には多分何か考えがあるのだろうと思い、
藍子に背を向け、八幡の顔を覗き込みながらこう返事をした。
「う~ん、そう?それじゃあお願いしようかな?」
そう言いながらナツキは探るような目を八幡に向け、
八幡はそんなナツキにこっそりとこう囁いた。
「一分後に音を立てずに中に入ってきて下さい」
「オーケー」
そしてナツキは藍子にこう声をかけた。
「それじゃあ後は八幡君に任せるわ、お邪魔虫になるのも嫌だしね」
「さすがナツキさん、私と八幡のただならぬ関係についてもう知ってるのね!」
「うん、この前八幡君に、ベッドの中で聞かせてもらったわ」
「えっ?」
そしてナツキは含み笑いをしながら外に出ていき、直後に藍子は八幡に詰め寄った。
「い、今のはどういう事なの!?」
「だからお前はまだ子供だって言うんだよ、あんなの冗談に決まってるだろうが」
「ほ、本当に?」
「当たり前だろ、そもそもそんな関係なら、ここで働いている事に驚くはずがないだろ」
「あっ………」
それで本当に冗談だったのだと理解した藍子は、とても悔しそうにこう言った。
「くっ、これが大人の余裕なのね……」
「まあそうやってどんどん対人経験を詰んでおけよ。
とりあえず服を着るんだろ?それじゃあこれを目に巻きつけろ」
そう言って八幡は、何故か藍子にタオルを差し出してきた。
「えっ?な、何それ?」
「ただのタオルだが」
「分かってるわよ!何で私が目隠しされないといけないのって聞いてるの!」
「説明しないと分からないのか、これだから子供は……」
「そ、そんなの分かってるわよ、一応聞いてみただけ」
藍子は慌ててそう言い、八幡は時計を見ながら、
一分経つまでもう少し時間を稼ぐかと思いながら、からかうような口調で藍子に言った。
「じゃあお前はどうして自分が目隠しされると思ってるんだ?」
「えっと、えっと……」
藍子は中々答えを出せず、どんどん時間が過ぎていく。
(まずいな、少し巻くか)
八幡は時計を気にしながらそう思い、藍子にこう言った。
「分からないみたいだな、答えは……」
「ま、待って、難しく考えすぎたわ。
正解は、単に八幡が目隠しプレイをしたがってるから!」
「はいはい正解正解、それじゃあ目隠しするぞ」
「えっ?えっ?ち、ちょっと待って、まだ心の準備が……」
もう一分になろうとしていた為、八幡は有無を言わさず藍子に目隠しをし、
その直後にナツキがそっと中に入ってきた。
ナツキは藍子に目隠しをする八幡を見て一瞬ギョッとしたような表情を浮かべたが、
特に何か反応するそぶりを見せず、八幡の指示を待つ事にしたようだ。実に有能である。
そして八幡は、ナツキにも聞こえるように、藍子にこう説明した。
「いいかアイ、さすがのお前も俺に全裸をじっと見られると、
昔ならともかく今は恥ずかしくて耐えられないだろ?
だが俺が目隠しする訳にはいかない、それじゃあお前に服を着させられないからな。
だからお前に目隠しをするんだ、理屈は分かるか?」
「な、なるほど……」
(こいつは今ので納得するのか……)
八幡は呆れつつも、藍子が納得したのをいい事に、そのまま押し通す事にしたようだ。
そして八幡は、着替え作業をそのままナツキに任せた。
(なるほど、考えたわね)
(それじゃあお願いします)
そして八幡は二人に背を向け、そのまま藍子に言った。
「よし、今から着させてやるから、おかしな妄想をするんじゃないぞ」
「私今、八幡に見られちゃってる……」
藍子はそのまま顔を真っ赤にして黙り込んだ。どうやらおかしな妄想をしているようだ。
そんな藍子の表情は八幡には分からなかったが、
ずっと静かにされるままになっている気配から、
やはりおかしな妄想をしているのだと推測し、こう言った。
「だからおかしな妄想をすんなっての、顔も体も真っ赤になってるぞ」
これはただの推測から放たれた言葉であったが、
八幡はどうせ藍子にも自分の様子は見えていないんだと思い、適当にそう言った。
まあ言うまでもないが、それは正解である。
「べ、別に八幡が今、私の胸を物欲しそうにじっと見つめているとか思ってないし!」
「思ってんじゃねえか!」
八幡がそう言った時、その肩がトントンと叩かれた。
どうやら服を着させ終わったらしく、ナツキはそのままニヤニヤしながら部屋を出ていった。
「よし、もう目隠しを取っていいぞ」
「う、うん……」
そう言う藍子の目は涙ぐんでおり、よほど恥ずかしかったのだと思われた。
「それじゃあ行くか、ナツキさん、もう入っても大丈夫ですよ」
その言葉を受け、ナツキが紙コップを持って中に入ってきた。
「そ、それは?」
「おう、検尿の時間だ。足が弱ってるから移動は車椅子か?俺が乗せてやろう」
「ううん、少しは歩いておかないとまずいから、八幡君、補助してあげて」
「分かりました、それじゃあトイレまで着いていって、外で待ってますね」
「ちょっ……」
もちろん八幡がトイレのすぐ外で待っている事はなく、かなり遠くに離れていたのだが、
八幡がすぐ近くにいると思わさせられた藍子は、
更に恥ずかしい思いをする事になったのだった。