「え……私、そんなに眠そう?」
次世代技術研究部を訪れた八幡に光の速さで駆け寄った理央は、
八幡にそう指摘され、慌てて鏡を探した。
理央は高校在学中は、はなから自分は魅力ある女ではないと決め付けており、
そういった物にはまったく興味を示さなかったのだが、
八幡と出会い、その周りの女性陣と接していくうちに、
そういった方面にも徐々に手を出しつつあり、
普段持ち歩く用の手鏡も一応買ってあったのだが、
まだそれが習慣づいていない為、
その手鏡は机の上の置き物になってしまっているのが現状だ。
つまり今、理央の手元に鏡は無い。
「というか、目の下の隈がちょっとな。あまり無理をするなよ」
「無理はしてないつもりなんだけどな……」
「じゃあ単純に寝不足だな、睡眠時間をもっと長くとる事だ」
「う、うん……」
理央は八幡が自分の身を案じてくれている事に喜びを感じつつも、
一刻も早く鏡を見たくて仕方がなく、さりとて八幡の傍から離れたくなかった為、
かなり集中力を欠いている状態にあり、
そのせいで紅莉栖が八幡に何か耳打ちした事に気が付かなかった。
そして八幡の口から、プロデュース・バイ・紅莉栖の言葉が放たれた。
「その目の下の隈が消えたら、今度二人で一緒に飯でも食いに行くか」
その言葉の意味を理解した瞬間に、理央の口と体が勝手に動いた。
「師匠、ちょっと早いけど休憩に入ります、もし何かあったら仮眠室にいますから」
そして理央は、紅莉栖の返事を待たずにそのまま仮眠室へと走った。
「あれ、理央ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」
仮眠室へと向かう途中でそう声を掛けてきたのは、どうやら今日は早番だったのだろう、
帰り支度で向こうから歩いてきたかおりであった。
「あっ、かおりさん、もしかして今、手鏡とか持ってません?」
「コンパクトならあるけど使う?」
「さすがはかおりさん、すみません、ちょっと貸してもらっていいですか?」
「うん、ちょっと待っててね」
そしてかおりはバッグの中からコンパクトを取り出し、理央に手渡した。
「もしかしてその目の下の隈が気になっちゃった?」
「あ、やっぱり隈、ひどいですか?」
「うん、せっかくの美人が台無しだよ」
「いや、私は別に美人じゃないですから……」
誰に聞いても美人と答えるであろう、かおりにそう言われ、
理央は恐縮しながらそう答えた。
「え~?理央ちゃんが美人じゃなかったら、
世の中に美人はほとんどいない事になっちゃうよ?」
「かおりさん、それはさすがに言いすぎです。うわ、本当だ、凄い隈……」
「え~?全然誇張じゃないと思うけどなぁ……」
かおりはそう呟きつつ、
鏡を見てショックを受けたような表情をしていた理央にこう尋ねた。
「もしかしてその隈、八幡に見られちゃった?」
「は、はい」
「そっか、それでこれから寮に帰って寝る感じ?」
「あ、まだ就業時間中なので、仮眠室に行こうかと」
「仮眠室、仮眠室かぁ……」
この時かおりは、もしかしたら八幡が、
理央がちゃんと寝たかどうか確認しに仮眠室にこっそり様子を見に来る可能性を考えていた。
「私も仮眠室に行こうかな……」
「えっ?かおりさんも眠いんですか?」
「あ、ううん、冗談冗談、それじゃあ理央ちゃん、しっかりと寝てくるんだよ」
「はい、コンパクトをありがとうございました、かおりさんもお気をつけて!」
そのまま歩き去った理央の背中を見つつ、かおりはぼそりとこう呟いた。
「まあ今日は邪魔しないでおいてあげよう、理央ちゃんはかわいい後輩だしね」
(仕事の上でも恋の上でもね)
かおりはせっかく早上がりなんだし、千佳でも誘ってどこかに行こうと思い、
そのまま軽い足取りで帰宅していった。
仮眠室に着いた理央は、バサッと白衣を脱ぎ、そのままベッドに横たわったのだが、
そのままだと想像以上に寝にくかった為、思い切ってブラを外し、
ついでにスカートも脱いで頭の方に放り投げ、ごそごそと布団に潜り込んで目を閉じた。
エアコンが効いた室内で適度に冷やされた布団がとても心地よく、
理央は元々寝不足だった事もあり、すぐにうとうととし始めた。
そのまままどろんでいた理央であったが、しばらくしてドアの方から物音がし、
あまつさえドアが開く音がした為、理央の意識は驚きによって一瞬で覚醒した。
(しまった、ドアの鍵を掛け忘れてた……やばそうなら大声を上げないと)
だが理央とて駆け出しとはいえ科学者の端くれであり、
ソレイユのセキュリティがどれだけ固いのかは当然知っていた。
しかも仮眠室には社員証がないと入れないシステムになっている為、
理央は案外紅莉栖辺りが様子を見に来てくれたのかと思い、薄目を開けた。
(あ、あれ?もしかして八幡!?)
理央はそこに八幡の姿を見付け、心臓の鼓動が一気に跳ね上がるのを感じた。
そして八幡の目が理央の顔の方に向いたのを見て、慌てて薄く開けていた目を閉じた。
「お、理央の眼鏡を外した顔を見れるのはかなりレアだな、
ふ~む、まあでも眼鏡をしていようがいまいがこいつは………
おっとっと、いかんいかん、本来の目的を果たさないとだな」
(こいつは、何!?その続きが大事なんでしょうが!っていうか目的って何?
八幡がここに来る理由って、私の事を心配してとか以外には何も無いと思うけど、
そうすると目的という言葉と矛盾してる気がする)
理央はロジカルにそう考え、そのまま八幡の様子を観察する事にした。
その直後に八幡は、何かに対して驚愕し、慌てて自分の口を押さえた。
(え、何その反応)
「こ、こいつ、俺が来ると分かっててわざとやってんのか………?
何でそこに白衣とスカートとブラがあるんだよ、というかこれは実にけしからん………」
(あああああ、しまった、せめて脱いだものは綺麗に畳んでおくんだった!)
理央は自分の女子力の無さに打ちのめされつつ、同時に羞恥で顔を赤くした。
(うぅ、私が起きてる事が八幡に気付かれちゃうかもしれないけど、
顔が赤くなるのを止められない………)
「まったく、今ここにいるのが俺だから良かったものの、
これは今度注意しておかないといけないな」
そう言って八幡が、再び理央の顔を覗き込もうとした為、
テンパった理央は、慌てて寝返りをうった。
(寝たふりがバレるよりはまし!)
その理央の強攻策は、完全に失敗であった。
慌てすぎた為に勢いがつきすぎて、掛け布団が思いっきり吹っ飛んでしまい、
八幡の目の前に、理央のあられもない姿が惜しげも無く晒されてしまったのである。
(うわああああ、これじゃあまるで痴女じゃない!)
だが八幡は思ったより冷静であった。
「う…………………俺だから良かった、俺だから良かった」
八幡はそううわごとのように繰り返しながらではあるが、
そっと理央に布団を掛け直してくれたのだ。
おそらくその言葉から、八幡は確実に理央の豊満な胸や、
昔よりはよほどデザイン的に大人な下着を目の当たりにしたのは間違いないだろうが、
それでも八幡は紳士的であり、それが理央は若干不満であった。
(ちょ、ちょっとは興奮してくれたりとか、うっかり手を出しそうになるとか、
そういったイベントを起こしてくれても良かったのに!)
そして次の八幡の言葉で、理央は若干キレた。
「はぁ、理央の旦那になる奴は、この寝相の悪さに苦労させられるんだろうな……」
(八幡が旦那になって苦労しなさいよ!)
だが更にその次の言葉で、理央の精神は急激に安定した。実に忙しい事である。
「ふう、まさかたったこれだけの事に、こんなに苦労させられるとは……
まあこれさえ回収しちまえば、アラームが鳴る事もなく、理央もぐっすり眠れるだろ」
(あっ、そうか、八幡は私を起こさない為に……)
そこに今度は爆弾が投下された。
「え、あれ、何だこれ、こんな写真撮った事あったっけか?」
(し、しまった、あの写真を見られた!どうしよう、恥ずかしい恥ずかしい……)
「あ、これってあれか、前に学校で撮った奴を理央が加工したのか」
八幡はそれ以上何も言わず、特に否定的なコメントが出てくる事も無かった為、
理央はその写真を待ち受けにする事を八幡が許してくれたのだと感じ、
自身の心の中で、急激に八幡に対する感情が高まってゆくのを感じていた。)
そして遂に、理央の理性を決壊される一言を八幡が放った。
「まったく、俺なんかのどこがいいんだか………」
その言葉を聞いた瞬間に、理央の体は自然と動いていた。
その口から、理央の心からの気持ちが溢れ出る。
「ぜ、全部………」
(八幡の全部が好き)
「お、お前、起きてたのか?」
「うん、結構前から………」
そして理央は瞳を潤ませ、八幡の手をしっかりと握りながら言った。
「ぜ、全部だから……」
その瞬間に理央は、八幡が困ったような笑顔を浮かべ、何か言おうとしたのを見た。
その顔は確かに赤くなっていたが、
その口から理央の望む言葉が放たれる可能性はおそらくゼロである。
そう一瞬で判断した理央は、今の関係性を守る為に、
八幡の機先を制し、必死に言葉を紡ぎ出した。
「ごめん、ちょっと気分が高揚し過ぎたみたい、冗談………じゃないけど、今のは無し!
ちゃんとアラームを切って寝るから、私の事は心配しないで!」
「そ、そうか、それじゃあゆっくり寝るんだぞ」
八幡はそのまま部屋を出ていったが、その顔は困惑しつつも安堵しているように見えた。
八幡とて、こんなイレギュラーな事で理央との関係を崩したくはないのであろう。
そして残された理央は部屋の鍵を閉め、再びベッドに横たわり、頭を抱えた。
「し、しまった、攻めすぎた……」
この後理央は眠れず、そのしばらく後に、部屋のドアがノックされた。
「はい………」
『理央?私、紅莉栖だけど』
「師匠?」
理央は扉を開けて紅莉栖を中に招き入れ、紅莉栖は開口一番に理央にこう言った。
「八幡が、理央の傍にいてやってくれって言うから来てみたんだけど、何かあったの?」
「う………」
今の理央にはその八幡の優しさがとてもつらく感じられた。
理央はぽろぽろと涙を流し始め、慌てた紅莉栖は必死で理央を慰めた。
「ちょ、ちょっと、本当に一体何があったの?
まさか八幡に襲われたりしてないでしょうね!?」
「違うんです師匠、私、自分のミスで、八幡の心に負担をかけちゃったんです……」
「どういう事?」
「実はさっき………」
そして理央はありのままの経緯を紅莉栖に説明した。
「なるほど………」
「私、馬鹿ですよね………」
紅莉栖はしばらく無言であったが、やがて少し迷いながらではあるが、
理央に向かってこう言った。
「いい理央、理央はまだ若いんだから、絶対に焦っちゃ駄目よ。
チャンスがあるかどうかは私には分からないけど、
少なくとも他の人達は全然焦ってないでしょう?
むしろ虎視眈々と何かを待っているような、そんな気がしない?」
この言葉を放つ前に迷いがあったのは、
紅莉栖にとっては明日奈も大切な友人だからである。
だが紅莉栖は理央を放っておく事は出来ず、言葉を選びながら理央に希望を与えようとした。
「あなたはロジカルウィッチでしょ?もっとロジカルに考えなさい。
仮に、仮によ、八幡が複数の女性を愛する事になったとして、それが合法化された時、
その中に理央が入るかどうかは今のところ不透明よ」
「複数の………?」
「ええそうよ。アインシュタインも言っているでしょう?
『人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走らなければならない』」
「走らなければならない………」
「そして彼はこうも言っているわ、
『成功者になろうとするのではなく、むしろ価値のある人間になろうとしなさい』
私に言えるのはこのくらいよ、どうやら少しは落ち着いたみたいだし、
後は一人で色々と考えて結論を出しなさい」
「はい、師匠、何か見えた気がします」
「うん、よろしい」
紅莉栖は笑顔でそう言うと、そのまま去っていった。
「虎視眈々と待つ、狙うではなく待つ、そしてその時が訪れた時に私が勝利する為には……」
理央はそのままベッドに横たわり、口に出してこう言った。
「私がいなければ何も出来ないくらい、八幡を私に依存させてやる」
こうして理央に人生の目標が出来た。この日から理央は本当の意味で走り始め、
ありとあらゆる可能性をロジカルに検討して様々な事を学び、
小猫と萌郁、そして師匠である紅莉栖と並び、
いずれ八幡の懐刀として周囲に認知される事になる。
理央はいずれ、ニューロリンカーの件で世界的にその名を轟かせ、
様々な方面から引き抜きを受ける事になるのだが、
それでも彼女は終生八幡の傍から離れる事は無かった。
今日は八幡の誕生日ですが、この話も偶然808話でしたね!(本当に偶然です)
そんな記念すべき話の主人公は、まったく関係ない理央な訳ですが、
それは書き終わってから予約投稿の段階でその事に気付いたせいでした!
この記念すべき日を引き当てた理央に敬意を表して未来の話を少し盛ってみました!