ここで少し話は遡る。ニューロリンカーのアクセスランプが点滅した時、
暗闇の中でぼんやりしていた八幡の意識は、急激に覚醒する事となった。
「う………ここは………?」
「やぁ八幡君、久しぶりだね」
「その声は……晶彦さん?あれ、でもつい先日会ったばかりじゃ?」
その八幡の反応を見た茅場晶彦は、訝しげな表情をした。
「つい………先日?」
「ええ、もうすぐ製品版が発売になるからって、
二人で簡単な打ち上げをしたばっかりじゃないですか、
あれ、でもそうするとここは………?すみません、ちょっと記憶が曖昧で……」
「…………………なるほど」
茅場晶彦は、それで事情を把握したのか、困惑した顔でそう言った。
「八幡君、ちょっと待っててくれ」
「あ、はい」
茅場晶彦はそう言って、しばらく目を閉じていた。
そして何かに納得したように頷くと、ゆっくりと目を開けた。
「どうやら何も問題は無いようだね、大丈夫、直ぐに元通りになるからね」
「えっと、何がですか?」
「久しぶりにゆっくり話をしたかったんだが仕方ない、それはまた今度にしようか。
僕の意識の一部を君が今付けている機械に残しておく、
また君が色々と思い出した頃にお邪魔させてもらうよ」
「えっ?それってどういう……」
「大丈夫、また直ぐに会えるさ、
その時には君の記憶は間違いなく戻っているだろうから、またその時に話をしよう」
「俺の記憶?えっ?晶彦さん、晶彦さん?」
そこで八幡の記憶は途切れ、目を覚ますとそこは見知らぬ部屋であった。
「は、八幡?」
「やった、八幡が目を覚ました!」
「八幡様!」
「八幡君、大丈夫?意識はハッキリしてる?」
その部屋にいた見知らぬ人々にそう声を掛けられ、
八幡は戸惑った顔でその問いにこう答えた。
「え、あ、はい、それは大丈夫ですけど、その……」
そして八幡は、おどおどした顔でこう言った。
「あの、ここはどこですか?皆さんは一体誰ですか?もしかして手の込んだドッキリとか?」
そう言った八幡は、昔のように腐った魚のような目をしていた。
「紅莉栖、もしかして八幡様は……」
「どうやら記憶が混濁してるみたいね」
「そんな………八幡様は大丈夫なの?」
「おそらくとしか……」
さすがの紅莉栖もこの事は想定外だったらしく、自信無さげな表情でそう言った。
「八幡君、私の事、分かる?」
この中で一番八幡と付き合いが古いであろう、
朱乃が一同を代表してそう八幡に問いかけた。
「えっ?すみません、分かりません……あ、でも何となく雪ノ下に似てるような……」
「その雪ノ下というのは誰の事を言っているの?」
「あ、ええと、奉仕部の部長で、雪ノ下雪乃っていうんですが、
もしかしてお知り合いだったりしますか?」
「それは私の娘の名前ね」
「ああ、そうですか、雪ノ下………さんのお母さん、って事は……………あ」
そこで八幡は顔色を変え、一歩後ろへと下がった。
「あら?急にどうしたの?」
「い、いえ、雪ノ下さんのお母さんが怖い人だなんて聞いた事はありません、本当です」
「……………なるほど」
それで朱乃は、今の八幡がおそらく高校二年くらいの、
雪乃と知り合ってからSAOに囚われるまでの間の、
どこかの段階までの記憶しかないのだろうと悟った。
「で、ここはどこなんですかね?もしかしてここってアーガスの社内ですか?
俺、バイト中に倒れたとかだったりします?皆さんはアーガスの社員さんですか?」
立て続けにそう尋ねられた一同は、ひそひそと囁き合った。
「アーガスって確か……」
「SAOを発売した会社の名前ね」
「つまり今の八幡は、そのくらいの時期の記憶しか無い?」
「というかバイトしてたんだ……」
それで初めて一同は、八幡がアーガスでバイトをしていた事を知った。
この中に、八幡からそこまで詳しい話を聞いていた者はいなかったのである。
「どうしてそう思うの?」
その紅莉栖の問いかけに、八幡は愛想笑いをしながらこう答えた。
「いやぁ、ついさっき晶彦さんと話したから、もしかしたらそうかなと」
「晶彦さんって………」
「茅場晶彦!」
ダルが驚いたようにそう言い、八幡はその言葉に頷いた。
「え、ええ、そうですね」
「茅場晶彦……」
「自分の脳をスキャンして、消えた百人事件の時に八幡の前に出てきたってのは聞いたけど」
「えっ、何それ、私知らない」
「じ、じゃあさっきの不正アクセスってまさか……」
「そう、電子の海の中で、まだ生きているのね……」
一同はそう言葉を交わしあった。
「茅場晶彦はあなたに何と?」
「それがよく分からないんですよ、すぐに元通りになるとか、
記憶が戻ったらまた会おうとか、自分の一部を俺が付けてる機械に残しておくとか、
そんな事を言ってましたけど、意味不明ですよね?
あ、機械ってこれですかね?何だこれ、イヤホンですか?」
八幡はそう言いながらニューロリンカーを耳から外し、朱乃に見せてきた。
「ダル君」
「了解!」
それを受け取ったダルは、慌ててその解析に入った。
「で、あの、今の状況は……」
「そうね………」
その八幡の問いに、朱乃は少し考えた後にこう答えた。
「ごめんなさい、私達のミスで、プログラムが暴走してしまってね、
バイト中にあなたが倒れてしまったの。
その際に頭を打ったせいで、記憶がハッキリしないんだと思うわ」
「ああ、やっぱりそうだったんですか、あれ、でも俺、
晶彦さんと、もうすぐSAOの製品版が発売されるからって、
一緒に打ち上げをした記憶があるんですけど……」
「そ、それはそう、最終チェックを依頼したからよ、
確かにもうすぐSAOが発売されるわ」
「ああ、そういう事ですか、そっか、やっと晶彦さんの努力の結晶が形に……」
その言葉に一同は苦い顔をした。
その発売された結果が、未曾有の大事件を引き起こす事になったからである。
「とりあえずお腹がすいているわよね、今日は私がご馳走してあげるわ、
あなたの事は、娘から聞いてよく知ってるもの」
「娘さんって………まさか本当に雪ノ下のお母さんですか?」
「ええそうよ、私の名前は雪ノ下朱乃よ、娘から何を聞いたかは分からないけど、
その話が全部誤解だって事を、今から教えてあげるわ」
「え、いや、お、俺は何か食べられれば別に一人でいいんですが……」
「そんな遠慮しなくていいのよ、クルスちゃん、一緒に来てもらえる?」
「はい、お供します」
そして朱乃とクルスは八幡の両腕を左右から抱いた。
「えっ、いや、あの……」
八幡は焦った顔でそう言った。その顔は真っ赤になっており、
クルスはこんな八幡は初めて見たと、内心で興奮していた。
「いいからいいから」
「さあ、行きましょう八幡様」
「あの、様付けとか意味が分からないんでやめてもらえますかね?」
(というか胸、胸がやばい!絶対これ、ハニートラップか何かだと思うんですけど!)
八幡は内心でそう思いながら抵抗しようと試みたが、
やはり二人の胸の圧力には逆らえなかったのだろう、
途中から抵抗を放棄し、そのまま二人と共に別室へと移動していった。
そして残された四人は、朱乃の意図を理解し、対策を協議していた。
「正直私には何が何だかなんだけど……」
「茉莉さんは八幡の事情には詳しくないものね、橋田、そっちはどう?」
「確かに知らないデータが存在してるお、どうする?」
「う~ん………これは私達には手が余る問題ね、
そのまま物理的にネットに接続する部分の機能を取り除ける?」
「今のままの状態でいけるお?」
「それだと内部からまた接続可能な状態にされちゃうかもしれないでしょ?」
「あ、そういう事か……」
「正直今そうやって接続してるのも危ない気がするのよね」
「了解、接続を切るお」
ダルは紅莉栖の意図を即座に理解し、
PCを落としてニューロリンカーに繋いでいたケーブルを外し、
そのカバーを外して何かをいじり始めた。
「オーケー、いけるお」
「それでそのニューロリンカーは完全にスタンドアローンになったわね、
このまま日本に持ち帰って、社長やアルゴさんとどうすればいいか相談しましょう」
「ほいほい、了解っと」
だが紅莉栖の想定はまだまだ甘かったようだ。
ダルが落としたはずのPCがいきなり起動したのである。
「うえっ!?」
「今度は何?」
「そんなの決まってるじゃない、どう考えてもこれはさ……」
そして一同が見守る中、ダルのPCの画面に、見覚えのある顔が映し出された。
「やぁ、君達が今の八幡君の仲間かい?」
「やっぱり茅場晶彦……でもいつの間に!?」
「今は外部からアクセスさせてもらっているよ、
さすがにさっき残した僕の一部に関してはお手上げさ。
もっともそのせいで干渉に気付いたから、慌ててここに舞い戻った訳なんだけどね」
茅場はそう言って肩を竦めた。
肉体を失い、データとしての存在になったはずなのに、妙に人間臭さを感じさせる。
「初めまして、僕は茅場晶彦さ」
「私は牧瀬紅莉栖よ、あなたとは一度話してみたいと思っていたわ」
「牧瀬?牧瀬紅莉栖だって?そうか、君が……」
茅場は感動したような面持ちでそう言った。
「八幡君は、世界最高の頭脳を手に入れたって事か」
「それは褒めすぎでは?私から見れば、世界最高の頭脳はあなただと思いますけど」
「僕はもうこの世にはいないからね、君が繰り上がって一位になるのは当然だろう?」
紅莉栖はその言葉で、内心ではあの茅場晶彦に認められていたという喜びを感じていた、
だが今重要なのはその事ではなく、紅莉栖は雑念を振り払うようにかぶりを振った。
「あなたは一体何をしにここへ?」
「ああ、実は見つけたのは偶然でね、懐かしい波長を感じたから、
久しぶりに八幡君に会って、一つ頼み事をしようと思ったんだけどね。
直接ソレイユに行っても良かったんだけど、あそこはセキュリティが固くてね」
「頼み事?あなたが?」
「ああ、だがどうやら八幡君は記憶を失っているようだったから、
それは次の機会にする事にするよ。多分すぐに彼の記憶は戻るだろうからね」
「どうしてそう言いきれるの?」
「君が作ったシステムを利用して、彼の記憶を少しスキャンさせてもらったのさ。
その記憶を少し覗かせてもらったが、
SAOに入ってからここまでの記憶が全て保存されていたからね、
それでこの記憶の混乱は、一時的なものだと判断したとまあ、そういう訳さ」
「…………そう、それならいいわ」
紅莉栖はあっさりとそう言ってのける茅場晶彦に、内心で恐怖を覚えていた。
目の前にいるこのデータの集合体は規格外すぎるのである。
「で、あなたの目的を聞いたら答えてくれるのかしら?」
「あの機械、確かニューロリンカーと言ったっけ、
あれの中に残した僕の一部を消すのはやめてくれないか?」
「………それは一体………」
「あれはいつか必ず八幡君の役に立つ、
可能ならあのデータをアマデウス化してくれると嬉しい」
「っ………あ、あなたは一体どこまで………」
アマデウスの事まで知られていたとは、正直紅莉栖には想定外すぎた。
「それ以上は八幡君に直接話すよ、僕の事が信用出来ないかもしれないが、
少なくとも今の僕は彼の敵ではない。もし敵なら彼に『ザ・シード』を託したりはしない」
確かにその言葉には一定の説得力があり、紅莉栖は躊躇いながらもその言葉に頷いた。
「分かったわ、あのデータは消さない」
「僕のアマデウス化が成功したら、いつか君ともじっくり話してみたいね、
それでは僕はもう去るよ、正直こうやって姿を現すのはかなり厳しいんだ、
少し油断すると、直ぐに自我を失ってしまいそうになるんでね。
それじゃあ僕が言えた義理ではないんだけど、八幡君の事、宜しく頼むよ」
そう言ってPCの画面は消え、残された一同は、声も無くその場に立ち尽くす事となった。