五時間後、八幡は紅莉栖に言われた時刻の五分前に、最初にいた部屋の扉をノックした。
「は~い」
「あ、すみません、比企谷です」
「あら、早いのね」
こういった待ち合わせが面倒で仕方ないのがデフォルトの八幡であったが、
いざ約束をすると、決めた時間は必ず守る。
もっとも今回の場合は、一刻も早く検査を終え、家に帰りたいというのが本心である。
そして扉が開き、中から朱乃と紅莉栖が姿を見せた。
「おはよう、八幡」
「あ、おはようございます」
時刻は既に深夜になっていたが、バイトをした事で、
その日最初に会った時の挨拶はおはようを使う業界がいくつもあるという事を学んだ八幡は、
紅莉栖に対して自然に挨拶をする事が出来た。
(しかし俺と同い年くらいの女性に名前を呼び捨てにされるってのはやっぱり慣れないな)
八幡は自分の事を十七歳だと思っている為、
紅莉栖の事を自分と同じくらいの年齢だと認識していた。
普段は実年齢より上に見られる事が多い紅莉栖にしてみれば、さぞや嬉しい事であろう。
「あの、これからやる検査が終わったら、家に帰れるんですよね?」
「そうね、その事も含めて今から状況を説明するから、
そこのベッドに横になってもらっていいかしら」
「あ、はい」
八幡は紅莉栖の指示通りにベッドに横たわろうとして、ギョッとした。
(え、何これ、随分大掛かりなんですけど………俺の体って本当に大丈夫なの?
というかこれって何の検査?
まあ相手は一流企業だし、晶彦さんが俺におかしな事をするはずはないか………)
八幡はそう考え、大人しくベッドに横たわった。
「それじゃあ説明するわね、さっき言った通り、今あなたの記憶は混乱状態にあるわ」
「あ、はい、最終確認のバイトの事を覚えてないし、そうですよね」
「一応放っておいても記憶は戻ると思うんだけど、それだと色々都合が悪いのよ、
なので今からあなたにはVR空間で色々な人と会ってもらって、
さっさと記憶を取り戻してもらいます」
「色々な人ってカウンセラーの人とかですか?」
「ううん、あなたの友達と……」
「え?まさか戸塚ですか?戸塚ですよね?
というか俺には戸塚以外友達はいませんし」
八幡は食いぎみにそう言い、紅莉栖はビクッとした。
「う、ううん、違うわ」
「そ、そうですか、って事は『我』の方か………」
八幡はあからさまにがっかりした顔をし、紅莉栖はそれが義輝の事だとすぐに分かり、
とか言ってちゃんと友達扱いしてるじゃないなどと考え、含み笑いをした。
「一応言っておくけどその人じゃないわよ」
「えっ?それ以外に俺には友達なんかいないですけど……」
「まあすぐに分かるわ、そしてその彼と一緒にいるのは、あなたのカ・ノ・ジョ」
「…………はぁ!?」
「あ、あとここはアメリカだから、検査が終わってもすぐには帰れないわよ、ほら」
紅莉栖はそう言ってカーテンを少し開け、
八幡はその向こうに、見渡す限りの英語の看板が並んでいるのを見た。
「えっ?ちょっ、あ、あの!」
「という訳で、頑張ってね、行ってらっしゃい」
紅莉栖はそう言って八幡の頭にテキパキと端子を付け、メディキュボイドを起動させた。
「ま、待って下さい、か、彼女ってのは一体……」
「それじゃあ行ってらっしゃい」
紅莉栖は八幡の問いかけをスルーしてそう言い、
その瞬間に八幡の目の前が真っ暗になったかと思うと、直ぐに辺りが明るくなった。
「くそ、どこだよここ、こうなったらログアウトして……」
これが本当に検査なのか訝しく思い始めた八幡は、
必死にログアウトボタンを探したが、当然そんな物は存在しない。
「無い、無い……くそっ、アメリカって何だよ、どうして俺はアメリカなんかに……
というか俺、パスポートなんか持ってないぞ……まさか違法な人身売買に捕まったとか……」
『んな訳あるか!人に会わせると言っとろうが!』
「うわっ!?」
どこからともなく紅莉栖の声が聞こえ、八幡は辺りをきょろきょろと見た。
だが当然どこにも紅莉栖の姿はない。
『探しても私はいないわよ、今はモニターを通じてあなたの様子を見ているんだもの』
「モ、モニター!?そ、そうか……」
『まあ落ち着きなさい、これは本当に治療の一環よ。
よく考えてもみなさい、記憶喪失を治す為に、よく行われる手法と言えば?』
「あ、頭を思いっきり殴る?」
『……そういえばそれは試してなかったわね』
「い、いや、すみません冗談です、殴らないで下さい」
その紅莉栖の口ぶりが、本当にやりそうに聞こえた為、八幡は慌ててそう答えた。
『それは残念。さて、そんな訳で、今からあなたの知人を八人ほどここに呼ぶから、
そこでじっくり話すといいわ』
「知人が八人?って事は、戸塚……はいないって言ってたな、
雪ノ下、由比ヶ浜、一色、平塚先生、小町、材木座、川なんとかさん………
あれ、一人足りない、まさか葉山か戸部あたりが知人枠に?
あの~、すみません、色々と勘違いしてますよ?あいつらはただのクラスメートであって、
俺の知人という訳じゃありませんから」
「そんな事言ったらあの二人が泣いちゃうよ?」
「おわっ!?」
いきなり背後からそう声を掛けられた八幡は、心臓が飛び出さんばかりに驚いた。
「だ、誰だ?」
「うん、まあそういう反応になるよね、聞いてたとは言え、やっぱりショックだなぁ」
その女性、明日奈は落ち込んだような表情でそう言い、
その姿を見た八幡は、何故か胸が締め付けられるのを感じた。
「う………」
「どうしたの?」
「いや、何故か罪悪感が……」
「へぇ、八幡君は、悪い事をしている自覚があるんだ」
「いや、それは無いです、あったとしても覚えてないんで」
八幡は平然とした顔であっさりとそう言ったが、
胸の痛みは大きくなりこそすれ、治まる気配はまったく無かった。
だがその事を八幡が表に出す事はない。
何故なら一見親しげな女性というものは、こちらが弱みを見せた瞬間に、
手の平を返すようにこちらを攻撃してくるものと相場が決まっているからだ。
「私の事は覚えてるよね?」
「私の事も当然覚えてますよね?」
そう言って一歩前に出てきたのはエルザとクルスであった。
「あ、はい、英語の得意なマックスさんですよね。それとこちらは……
ええとすみません、どこかでお会いしましたっけ?
あ、そういえばこの前後ろの方にいたような……」
「モブ扱いされた!」
エルザはそう言ってハァハァし始めた。
「えっ?あの、大丈夫ですか?具合でも悪いんですか?」
「ううん、とっても気持ちいいよ」
「そ、それなら良かったです……」
八幡はそう言いつつも、不穏なものを感じたのか一歩後ろに下がり、
背後にいた誰かにぶつかった。
「おわっ、すみません」
「八幡さん、今は他人よりも自分の事を心配して下さい」
そのまま八幡は、その人物に正面から抱きつかれた、優里奈である。
そして八幡の胸に、暴力的に柔らかいものが押し付けられ、
八幡は身動きする事が出来ず、完全に固まった。
「ど、どちら様ですか?」
八幡は辛うじてそれだけ言う事が出来、
優里奈はその言葉にとてもせつなそうにこう答えた。
「私は櫛稲田優里奈です、天涯孤独な身で、今は八幡さんに養ってもらっています」
「へっ?お、俺が養っ………」
八幡はその言葉の意味がまったく分からなかった。
一瞬これは美人局かとも考えたが、アーガスの人間が八幡にそんな事を仕掛ける理由が無い。
そもそもこれは治療だと言っていたのだから、この行動には何か意味があるはずだ。
幸いな事に、優里奈はすぐに八幡から離れてくれ、
代わりに気の強そうな少女が八幡の前に立った。
「まったくどうしてあんたはいつもいつも事件に巻き込まれるのよ、
まあちゃんとやる事はやったんだから褒めてあげるけど、もっと自分の体を大切にしなさい」
「あ、す、すみません、え~と………ツンデレ眼鏡さん?」
今の詩乃のセリフにはツンデレ要素はまったく無かったが、
八幡の口から出てきた言葉は何故かそれであった。
その言葉を口に出した瞬間に、八幡は自分は一体何を言ってるんだと頭を抱え、
同時に相手が怒っているのではないかと思い、恐る恐る相手の顔を見た。
だが当の相手は怒ってはおらず、むしろ驚いたような表情をしていた。
「あ、あんた、私の事だけ覚えてるの?」
「いや?まったく?」
だがその問いを八幡はバッサリと切って捨てた。実際まったく覚えがない顔だったからだ。
「そう、頭じゃ覚えてなくても体が覚えてたのね」
「そ、その言い方は色々と誤解が生じるからやめようね」
「誤解?覚えてない間に何かあったかもしれないのに?」
「そ、それは………」
八幡は確かにそうだと思い、目の前の少女をじっと見つめた。
「私の名前は詩乃、朝田詩乃よ」
「朝田詩乃………悪い、覚えてない」
「そう、それじゃあやっぱりあの夜の事も覚えていないのね」
「よ、夜!?」
八幡はそう言われ、おろおろした表情で助けを求めるように明日奈の顔を見た。
「あ、明日奈………」
「えっ?」
明日奈は自己紹介をしていないのに、八幡が自分の名前を呼んだ事に驚いた。
「ど、どうして私の名前を?」
「えっ?」
今度は八幡がキョトンとする番であった。
「な、名前?そう言えば今俺は、明日奈って……」
八幡はそう言って目を閉じ、何か考えるようなそぶりを見せたが、
すぐに目を開け、困ったような顔でこう言った。
「すみません、やっぱり覚えてません」
「そ、そう……」
そして続けて八幡の前に立ったのは、そっくりな顔をした二人の女の子であった。
おそらく双子なのだろうその二人は、ここまで必死に我慢していたのだろう、
八幡の前に立つといきなり涙を流し始め、いきなり八幡に抱きついてきた。
「八幡!」
「聞いて聞いて、私達の病気、治るんだって!」
「これも八幡のおかげだよ、ボク達を助けてくれて本当にありがとう!」
「そ、それは………」
一体何の事?八幡はそう言いかけたが、結局何も言わなかった。
相手が本当に自分に感謝してくれていると感じたからだ。
(俺は記憶が無い間にどれだけ色々な事をやってるんだ……
正直意味が分からない、分からないが………)
だが八幡はそう思いつつも、その双子の頭に手を乗せ、
ぶっきらぼうながらもこう声をかけた。
「そうか、よ、良かったな、二人とも」
「「うん!」」
二人はとても嬉しそうに微笑み、八幡はそれを見て、心が満たされるのを感じていた。
(一体俺に何があったのか、とりあえずこの人達に説明してもらうしかないか……)
そう言いながら八幡は、一人ぽつんと遠くにいる和人の方をじっと見つめた。
和人はその視線を受け、ぶんぶんと首を振り、
八幡は漠然と、それが『その中に混じるなんて無理、絶対無理』と言っているように感じ、
思わず顔を綻ばせた。
(あいつが俺の友達なんだろうか………)
そして八幡は、双子の頭から手を離し、一同に頭を下げた。
「すまん、ここにいるみんなの事はまったく覚えていないので、
俺が一体何を忘れてるのか、その、お、教えてもらえると助かる」
一同はその言葉に頷き、八幡を囲んで座り、そして会話が始まった。