「母さん、ただいま」
「あら勇人、お帰り」
「勇人君、お帰り!」
その日、学校から帰った勇人を出迎えたのは、
がっつりと化粧中の小春と、それを手伝うクルスちゃんであった。
「クルスちゃん、どう?」
「うん、いいと思います」
「良かった、こういうのは久しぶりだから、上手く出来るか不安だったのよね。
クルスちゃんがいてくれて本当に良かったわ」
「母さん、今日はどこかに出かけるの?」
そんな小春の姿を見て、勇人がそんな質問をした。
「あら勇人、忘れたの?
今日は比企谷さんの誘いで一緒に食事に行くって言っておいたじゃない」
「あっ、そうだっけ、しまった、忘れてたな。
とりあえず今からバイトだから、終わってから弁当でも買ってくるよ」
「うん、悪いけどそうして頂戴」
そう言いながら、尚も化粧の手を止めない小春に、勇人は興味本位でこう問いかけた。
「母さん、随分気合いが入ってるみたいだけど、もしかして八幡兄ちゃんの事が好きなの?」
「えっ、小春さんが私のライバルに!?」
「あはははは、何言ってるの、私と比企谷さんの年の差がいくつだと思ってるのよ」
小春はその勇人の質問を笑って否定した。
「で、でもその化粧………」
「だってせっかくのお誘いなのよ、私がみっともない格好をしてたら、
勇人だって恥ずかしいでしょ?」
そう自分を引き合いに出されては、それ以上勇人も突っ込む事が出来ない。
「まあでも勇人が言いたい事も分かるわ、比企谷さん、格好いいものね。
でもまあ私と比企谷さんの関係って、多分アイドルとそのファンみたいな感じなのよね」
「あ~、その気持ち、ちょっと分かります。
私にとっての八幡様は、崇拝の対象でもありますから」
「崇拝かぁ、その気持ちもちょっと分かるわ」
「ですよね」
どうやら女同士で通じるものがあるらしく、二人はそう言って微笑み合った。
とはいえクルスちゃんの表情は変わらない為、
笑い合ったというのは小春の主観だったりする。
「さて、こんなもんかな、どう?勇人」
そこには三十代と言っても通用するであろう、美しい女性がいた。
さすが、若い頃はモテまくっていた小春である。
その輝きは、まだまだ失われていないようだ。
「う、うん、綺麗だと思う………」
「そう、それなら良かったわ、ありがと」
(ちょっと張り切りすぎな気もするけど、まあ母さんを誘ってくれって言ったのは僕だし、
楽しみにしてくれてるみたいだから良かったかな)
勇人はそんな小春を見て嬉しくなったのか、元気良く小春に言った。
「こっちの事は心配しないで。ほら母さん、急がないと約束の時間に遅れちゃうよ」
「あらいけない、もうそんな時間?それじゃあ勇人、クルスちゃん、後はお願いね」
「うん、行ってらっしゃい」
「楽しんできて下さいね」
そして小春は出かけていき、残された勇人は自室に戻り、
アミュスフィアを取り出してベッドに横になった。
その後ろをてくてくとクルスちゃんがついてきて、勇人に話しかけてきた。
「勇人君、バイトは楽しい?」
「うん、詩乃の姉御は綺麗だし、風太さんは面白いし、
大善さんはしっかりしてるし、保さんは凄く理論派なんだぜ」
「あ~、うん、まあお笑い三人衆はそんな感じだけど、
詩乃が綺麗?むむむ、でもお姉ちゃんの方が綺麗だよね?」
クルスちゃんは対抗意識が刺激されたのか、勇人に向かってそう言った。
「ごめん、俺、姉ちゃんの顔を知らないから分からない」
「う………た、確かに」
いくら沙希の腕が良くても、クルスの顔をぬいぐるみで正確に再現するのは不可能だ。
「分かった、今度私をここに来させるから」
「私を、ね、分かった、楽しみにしとくよ!」
勇人が笑顔でそう言った為、クルスちゃんはこの場はそれで良しとする事にした。
「それじゃあ行ってくるよ、クルス姉ちゃん!」
「うん、頑張ってね」
こうして勇人もバイトを始め、クルスちゃんはこの時間を利用して店の帳簿をつけ始めた。
実に有能なぬいぐるみである。
「八幡君、ごめん、待った?」
「いえ、今来たところで………す」
八幡は小春の変わりように驚きつつも、これが本来の小春の姿なんだろうなと納得した。
小春は小春で、八幡が好感触だった為、気分を良くしていた。
(こういうの、何年ぶりだろ)
そう思いながら小春は、八幡を上から下まで眺め、足元で目を止めた。
「う~ん」
「どうかしましたか?」
「いや、テンプレの足元のタバコの吸殻の山が無いなって思って」
「タバコを吸わないのにわざわざそんな仕込みしませんって」
「え~?何か物足りない」
「そう言われてもですね………」
「ふふっ、冗談冗談、さっ、行こ!」
「そうですね、それじゃあ行きますか」
小春に促され、二人は連れ立って歩き始めた。
そしてどこかで見たようなビルに入った二人は、
数分後、『ねこや』と書かれた店の前に立っていた。
「最初来た時にいい匂いがしてたから、それからずっと凄く気になってたんだよね」
その言葉で小春と八幡は、小春が最初にソレイユを訪れた時の事を思い出していた。
「ええと、ここで待ってればいいのかな」
小春は軽トラックをソレイユの駐車場に入れ、約束の時間までその場で待機していた。
「うぅ、緊張する………」
小春は緊張でガチガチになっていたが、その数分後、
遠くから八幡がこちらに歩いてきているのが見え、小春はほっと胸を撫で下ろした。
「小春さん、早いですね」
「う、うん、やっぱり最初はしっかりしないとと思って早めに来てみたの」
「それじゃあ案内しますんで、ちょっと俺と運転を代わって下さい」
「分かったわ」
そして小春は助手席に移動し、八幡がハンドルを握った。
「先ず駐車場に入ったらこっちに進んで、ここが業者用の搬入口になります」
そして八幡はカードキーを小春に見せ、それを搬入口の横にある機械に差し込んだ。
それでドアが開き、中に入るとそれなりに広いスペースがあり、
その横に巨大なアームが据え付けられてあった。
「ここに車を止めたら、あとはアームのスイッチを入れれば、
後は自動で荷台から荷物を下ろしてくれますから」
「えっ、そうなの?」
「はい、見てて下さい」
そして八幡の操作でアームが動き出し、
荷台に置いてあったビールケースを自動で持ち上げ、そのまま荷下ろしをした。
「器用なものね」
「AI制御ですからね」
そして次に、アームは専用コンテナに入っていた商品類を持ち上げ、
同じように荷下ろしをした。
「あとはこのボタンで行き先を指定すると、勝手にそこに届きます」
「す、凄いわね………」
その光景に、小春は絶句した。
「まあデモンストレーションも兼ねてますからね、
爆発的に売れるものじゃありませんけど、プログラムだけでもそれなりに需要はありますよ」
八幡はそんな説明をしながら小春を奥へと誘った。
「それじゃあ現地に行きましょう」
そして二人は『ねこや』の前に移動すると、
果たしてそこには綺麗に注文の品が並べられていた。
「ここで一応伝票を見ながら確認ですかね、
まあ店でチェックしてあるなら必要ないかもですけど」
「今日は最初だし、一応もう一回チェックしておくわ」
そう言って小春は商品のチェックを始めた。
もっともそこまで量があった訳ではないので、それ自体はすぐに終わった。
「あっ、いい匂い」
「仕込み中みたいですね、ちょっと挨拶しておきますか」
「うん」
そして中に入った二人はマスターに挨拶をし、無事に顔合わせも終える事となった。
そして軽トラの所まで戻った後、小春は少し驚いたような表情で言った。
「何か凄く楽だったんだけど………」
「それは良かったです、どうですか、もう一人でも大丈夫そうですか?」
「うん、もう覚えたよ!」
これが小春が最初にソレイユを訪れた時の出来事である。
小春にとってはとにかく驚きの連続であった。
「いらっしゃいませ、お席へ案内しますね!」
ねこやに入った二人を、アレッタが予約席まで案内してくれた。
ねこやの内部は夜営業モードらしく、昼とは違って社員食堂らしさはまったく無く、
驚いた事に壁の色も違い、照明も豪華なシャンデリアのような物へと変化していた。
「こ、これってどうなってるの?」
「壁の色は元々自由に変えられるんですよ、あのシャンデリアは、実は立体映像です」
「そ、そうなの?」
「はい。マスターすみません、ちょっと照明を元に戻してもらってもいいですか?」
「あいよ」
その直後に天井の照明が、何の変哲もない蛍光灯へと変化した。
「ほ、本当だ、凄いね………」
「まあここは社外の人間が使う事もあるんで、
そういった人達へのデモンストレーションも兼ねてるんですよ」
「さすがは技術のソレイユ………」
「各部署が内部でいくつかチームを作って、他の部署と連携しつつ、
どんどん新商品を生み出してますからね」
「競争させてるんだ」
「はい、やっぱり仲良しなだけじゃ駄目ですからね」
その八幡の言葉に、小春はうんうんと頷いた。
「やっぱりゲームでも、ライバルの存在は不可欠だからね、私にとっての晶とか。
まあ決着自体は高校の時にあっさりついちゃったんだけどね」
「例えが小春さんらしいですけど、そんな晶さんとは今でも仲良くしてるんですね」
「本当はそんな予定は無かったんだけど、
その後晶がちょくちょくうちの店に来るようになって、
ゲームしてるのを見たり、一緒にやってるうちに、仲良くなっちゃったのよ」
「いいですね、そういうの」
そう懐かしげに目を細める小春を見て、八幡は微笑んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
「あっと、今日は俺が奢るんで、好きな物を注文して下さい」
「そんな、悪いわ」
「いえいえ、代わりに色々話を聞かせて下さい」
こうして若い頃に戻ったつもりで楽しく八幡と食事をしながら話をし、
勇人のバイトの様子なども聞けてとても満足した小春は、
その後も月一程度で八幡から誘いを受け、
この食事会は、いつしか小春にとって大事な行事となっていったのであった。