――もう、手は動かない。私を鋭く突き刺す冷気は、感覚どころか思考さえも鈍らせる。もはや、考えうる事象も考え尽くした様に思えてならない。
あぁ、母よ、愛しの母よ。
貴方が消えて、私は凍るような思いを見、感じた。丁度この時のように。
其の父が死去した時も、幼き私は同じ感覚だったのだろうか。
あぁ、嫌だ。また私は恐怖の夢でも見るのだろうか。もう飽き飽きたというのに――。
瞼が落ちるのを見続けるのも鬱陶しくさえ感じる。あぁ、毛布が消える。全身に冷気が迸る。
――そうか、だったら納得だ。ここは『あの山々』に違いない、そう、私は教授だったのだ。私はここで立ち止まり、いや、一様に降り続ける雪と冷寒に晒され、壊死して、だから下半身の鈍痛を感じるのだ。いや、痛みよりはこれは寒さ、なのだろう。あぁ、いつになっても冬は嫌いだ。
あぁ、見える。あの吹雪の向こうに見える、見えぬが聴こえる。故に見える。『
アパートの一室、天井を定まらない眼で睨む男は簡素なベッドに横たわり、机から一冊の本を取る。
そうだそうだ、ペンを、ペンを取らねば...。
彼の震えた腕が机上のカートリッジ式の万年筆を掴むが、力なく落ちてしまう。クロス製の万年筆にインクはもう無かった。
あぁ駄目だ。だが、何としても、何としても...。
彼の腕は机上を、引き出しを、本棚を乱雑に掻き回す。手垢と幾度とない折り目がついた本、芯の無い折れた鉛筆、埃に塗れた革製の手袋。それらを掻く手の甲は、既に傷だらけだった。
これは義務である、生きた者の責務である...。
彼は眼前の《蜃気楼》に
――そして、ふと気がつく。
忙しく動いた指は凍り、何かに気づいた様に固まった腕は、力なくベッド脇から下ろされる。
彼の眼に、狂気に満ちる山脈の一角に、本の一節が浮かぶ。
"That is not dead which can eternal lie,And with strange aeons even death may die.《其は永遠に横たわること能うものは死するに非ず、 そして奇怪なる永劫のうちには死すらも死なん。》"
ここは、とあるアパートの一室。
――そして音は消え去った。