艦娘たちは歌う   作:絶命火力

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北方の海、艦娘たちは歌う -『雪の進軍』

 ざぱん、ざぱんと白波が船首を包むのが見える。“包む”というよりかは“呑み込む”と表現したほうが正しいと思える情景だ。一瞬船首は白い闇に消え、再び現れ、そしてまた消える。船首から延びるクレーンの根本は辛うじて見えるが、船首マストはとうの昔に白い世界の向こうに行ってしまっていた。

 船首までおよそ七十メートル。船首を隠すように真っ白な世界が広がっている。視界は五十メートルもないだろう。白一色の中、よく見れば左右の両方に白の航海灯が鬼火のように――事実、少し航海灯は青味がかった白色をしている――上下しているのが見える。護衛の艦娘たちだ。この六九九総トン型の貨物船「北月丸」に負けず劣らず――いや、間違いなく彼女たちの方が激しく北太平洋の荒波に揉まれているだろう。レーダーに映る彼女たちの姿はただの“点”であり、この荒れ狂う海の中ではあまりにも心細く、寄る辺がないように北月丸の船長である平野には感じられた。

 

「キャプテン」

 

 連絡調整の為に北月丸に乗り込んでいる艦娘の神通が平野に声を掛ける。「そちらのレーダーの方には映っていますか?」

 

「問題ありません、そちらの艦娘さん方の位置も把握できてます……が、一応そちらの方のレーダーでもお願いします。何しろこんな具合ですから」

「そうですね、こちらも連絡を密にします。何かあればすぐに連絡しますので」

 

 慣れない航路、そして酷い悪天候もあって緊張の面持ちで操船を行う一等航海士から窓の外へ目を移しつつ、平野は答えた。窓の外はやはり白のペンキをぶちまけたように、のっぺりとしている。

 波に合わせてレーダーの海面調整を行っている関係で、頻繁にレーダーが波に反応し、PPI上に数多の輝点を生む。それに加えて、激しく吹き付ける雪が頻繁に虚像を生んでいる。こちらもレーダーの調整で軽減はできるが、感度低下とのバーターになる。目視がほぼ絶望的な以上は、レーダーに頼るしか術は無い。不安がないのかといえば、全くないとは言えなかった。

 単なる濃霧ならブリッジの扉を開放して周囲の音を拾うこともできただろうが、吹雪に時化まで重なっている現在ではそれもできない。情報はあればあるほど、事故防止となる。神通の電探、そして隊内無線による情報も必要だった。

 その神通も先程から頻繁に配下の駆逐艦娘から――現在北月丸の周囲を航行している――連絡を受けている。どうやらこの時化で配置に乱れが生じかけているようだった。無理もない、と平野は思った。

 

「大変ですな」

 

 雪の中、激しく揺れ動く航海灯を見つめつつ、平野は呟くように言った。

 

「職務ですから」

「それにしたって、こんな猛吹雪に大時化の中、たった一人でこの大海を行こうというのですから、いやはや……」

「そこまででもありません。艤装があれば暑さ寒さはさほど問題ではありません。私たちは(フネ)ですので」

「はあ」

 

 気の抜けた返事をしつつ、そんなものだろうか、と平野は思った。

 本州近海での航行で艦娘に護衛されることしばしばあったが、つい最近まで戦闘が繰り広げられていた海域である北方海域での仕事はこれが初めてだった。もちろん、本州での()()以上の冬期装備にすっぽりと身を包んだ艦娘を見るのも初めてだった。寒そうだ、というのが釧路港を出て彼女たちと最初に顔を合わせた時に抱いた感想だった。

 思えば、既にその時から雪が激しく降っていた。気象予報から悪天候の航海となるとは思っていたが、海は予想を超えた荒れ模様だった。

 

「……ん?」

 

 何か一瞬、声が聞こえたような気がした。平野は首を傾げる。風の音だろうか。どうやら誰も気付いた様子はない。しかしどうにも気のせいではない気がした。通常では聞こえないような音が聞こえる時は、何かあるはずだ。注意深く、耳を澄ます。

 

「うん……? 歌……か?」

 

 平野の耳に聞こえてきたのは微かな歌声だった。甲高く、どこか遥か遠くから聞こえてくるような歌声だ。賛美歌、という単語が脳裏を過った。再度、周囲を見回す。やはり聞こえているのは自分だけのようだ。幻聴か、ついに自分も耄碌したかと思ったが、確かに平野の耳は歌声を認識していた。

 まさか、と平野は窓の外を凝視した。未だ収まる気配を見せない時化に揉まれる艦娘たちの姿が――実際には航海灯しか見えないが――吹雪の向こうに見える。まさか、彼女たちが歌っているのだろうか。

 

「良い耳をお持ちですね」

 

 平野の声を聞いた神通が感心したように言った。どうやら平野の耳が拾った声は幻ではないようだった。

 

「神通さん」

「まあ、後でお話しましょう。今は――」

 

 みなまで言わずとも百も承知だった。今はこの大荒れの海を抜け出すことが先決だ。気を散らしてはいられない。平野は再び意識を外へ向けた。外はやはり、白い闇だった。

 それから一時間、ひらすら白一色の世界は続いた。波が収まり、ようやく雪も多少弱まり視界が一海里少々まで回復したのを確認して、平野はブリッジを下り食堂へ向かった。臨時でブリッジに上がったが、本来は上がる時間ではなかった。自室に戻る前に紅茶を飲もうかと考えていた。湯を沸かしている途中で、食堂に神通がやって来た。

 

「おや、神通さん……飲まれますかな?」

 

 平野は紅茶の入った缶をひょいと神通の方へ掲げた。神通は首を横に振る。

 

「いえ、遠慮しておきます」

 

 柔和な顔でそう言って神通が腰のポーチから取り出したのは携行食料だった。「これがありますし、私だけがそれに与るわけにもいきませんから」

 

「駆逐艦娘の方々ですか」

「私はこうして船に上げてもらっていますが、あの娘たちは出ずっぱりです。食事だって海の上です。それもこんな具合ではままなりません」

「まあ立ったままでは何ですから、そちらにお座りください……そういえば、さっきのお話ですが」

 

 ようやく沸いた湯をカップに入れ、ティーパックを浸しつつ平野は言った。神通を見た時に、それまですっかり忘れていた“歌声”のことを思い出したのだった。

 平野の言葉に、ああ、と神通はこちらも忘れていたのを思い出したかのような声を上げた。「あれですね」

 買い置きのマフィンとカップを手に、失礼、と平野は長椅子に座る神通の隣に座った。ゆっくりと紅茶を飲む。熱さが身体に沁みた。一息つくと、平野は神通に尋ねた。

 

「あれは、その……本物ですか?」

「本物というか何というか。ともかく、あの娘たちの声ですよ」

「歌のように聞こえたようが気がするのですが」

「あまり外部の方にはこのことはお話しないのですが……まあ、聞かれてしまっては答えないわけにもいきませんね」

 

 魔除けのおまじないなんですよ、と神通は静かに言った。これといって何か具体的な回答を予想していたわけではなかったが、神通の言葉は平野の予想外だった。紅茶を飲む手を止め、ゆっくりとテーブルにカップを置く。

 

「魔除け……?」

「ええ、魔除けなんです」

 

 魔除けのおまじない、と再度平野は鸚鵡返しにその言葉を呟く。「魔除けで歌を歌うんですか」

 歌で魔除けとは、まるで大昔の船乗りのようだ、と平野は思った。

 

「今は験担ぎ、ともいえますが」

「ふむ……験担ぎ……」

 

 納得したような、していなような気分だった。しかしまだ、一番気になった点はわかってはいない。

 

「それで、何を歌っているんです?」

 

 平野の質問に、ええと、と神通は言葉を濁した。神通は言い淀むように、僅かに視線を下へ向ける。何か口にできない後ろめたい事情でもあるのだろうか、と神通の表情を見た平野は考えていた。

 数瞬の逡巡の後、少し不吉に思われるかもしれませんが、と神通は前置きしてから言った。

 

「『雪の進軍』です」

 

 はあ、と平野は不確かな返事をした。『雪の進軍』。どこかで聞いたことはあるが、曲や歌詞は全く思い出せなかった。神通の言う、少し不吉、というのはいまいちピンとこなかった。

 平野の反応が意外だったのか、神通は不思議そうな顔をしていた。

 

「ご存知ないですか?」

「ええ、全く。聞いた覚えはあるんですが、いやはやお恥ずかしながら中身はサッパリで……」

 

 平野は照れ隠しに頬骨の辺りをニ、三度軽く引っ掻いた。

 

「私から説明するというのも変ですけど……『八甲田山』という映画はご存知ないですか? かなり昔の、高倉健が主演していた映画です」

「ああ、そういえば、BSか何かで観た覚えがあるような気もしますな。確か八甲田で起きた遭難事件の映画でしたか。えーっと、主題歌か何かですか?」

「主題歌ではなく劇中歌ですけども……まあ、似たようなものですね」

 

 八甲田の遭難というと、戦前の帝国陸軍の集団遭難事故の話だっただろうか。そういえば、三國連太郎も出演していたような気がする。ぼんやりとカップから立ち昇る水蒸気を見つつ、平野は思い返していた。

 

「それで、その『雪の進軍』をどうして、えー……魔除け、験担ぎでしたか」

「まあ、両方です。歌自体はこういう歌なんですが――」

 

 そう言うと、神通は『雪の進軍』を歌い始めた。聴いているうちに、ようやく平野は記憶に引っ掛かりを見出した。確かに、こんな歌だった。納得すると同時に、平野は首を傾げた。

 

「またえらく……その、厭戦的ですな。歌詞が」

 

 神通は苦笑した。「否定はできませんね」

 

「これが魔除けと験担ぎになるんですか? それに八甲田山というと、どちらかといえばマイナスのイメージが強いと思いますが」

 

 かなり厭戦的な歌詞、かつ悲劇的な結末のエピソードが連想されるような歌を歌われながら護衛されるというのは、少なくとも気分の良いものではない、というのが正直な感想だった。いくら魔除けだ験担ぎだと聞かされても、容易には信じ難い。おそらくは他の船員とて同じ感想を抱くだろう。確かに神通が言うのを躊躇ったのも当然だった。

 平野の指摘に、自覚はあるのか神通は更に苦笑する。

 

「お言葉はもっともです。この歌はそれ自体で考えると、あまり護衛任務時にはふさわしくはありません。実を言うと、魔除けになったのはあるきっかけがあるんです」

「何か、この歌に助けられた、とかそういったお話でしょうか?」

 

 ええ、と神通は肯く。

 

「北方海域には魔物が棲んでいるんです。私たちを(いざな)い、暗く深い海の底へ拐かす魔物が。『雪の進軍』はその魔物に対する魔除けなんです」

「魔物……ですか。深海棲艦ではなく?」

「さあ、それはどうかわかりません。ただ、確実にこの海には何かが棲んでいる。それだけは間違いありません」

 

 至極真面目な顔で神通は言う。その表情からすると、神通も何か実体験があるのかもしれないと平野は感じた。

 

「しかし(いざな)い、拐かすとは……セイレーンのような言い方ですな」

「セイレーンですか。あながち、間違いではないかもしれませんね」

「と、言うと?」

「その魔物は“声”で私たちを(いざな)うからです。そう、今日のような白一色の荒れた日に決まって聞こえてきて、私たちを誑かす。それがこの北方海域の魔物です」

「あまり聞いたことはありませんな……まあ私どもは軍とは関係の薄いところにおります故、その辺りは疎いのですが」

「勿論公的な記録には残りません。残せるわけがありませんから。でも、その魔物に(いざな)われ、失われた艦は存在します」

「はあ、なるほど」

 

 半信半疑、というのが平野の本心だった。とはいえ海に生きる者の一人として――そして現状、深海棲艦なる化物が海を跳梁跋扈していることも含めると――頭から否定することもまた、できないと感じていた。

 

「ある冬の日のことです。まだ千島から敵を完全に追い出せていなかった頃、とだけ言っておきましょう。その日は朝から大雪で、しかもその季節には珍しく、海にはまとわりつくような霧が出ていました。勿論、そんなことはお構いなしに哨戒任務はやってきます。ルーチンですからね。私は駆逐艦と共に水雷戦隊を編成して、哨戒に出ました」

 

 千島から敵を追い落とす前とするとそこそこ昔の部類に入る。果たして何年前だったか、と考えたが、思い出すまでには至らなかった。平野は相槌を打ちつつ、黙々と神通の言葉を聞く。

 

「哨戒に出てから三時間ほど経った頃だったと思います。場所は一応伏させてもらいますが……ある駆逐艦から報告が飛んできました。曰く、『声が聞こえる』と。あまりにも掴みどころのない報告でしたので、詳細を求めたのですが、『東の方角から声が聞こえる、としか言いようがない。意味はわからないが、おそらくは声だ』と」

 

 これじゃどうしようもありません、と神通は肩を竦める。そうでしょうな、と平野も肯いた。

 

「それに、その“声”とやらは私には聞こえませんでした。他の駆逐艦も同じくです。少し神経が参っちゃったのかしら、とまで思ったんですが、元はそんな娘でもなかったので、報告をどう扱うか決めかねていました。ところが、暫くすると別の駆逐艦からも、同じ“声”の報告が来たんです」

 

 何やら怪談じみてきたぞ、と平野は感じた。まるで、本当にセイレーンに引き寄せられているようではないか。

 

「更に他の艦からも次々と同様の報告が来ました。結局、聞こえていないのは私だけです。そうなってくると収集がつきません。多勢に無勢、『声の方へ行きましょう』と意見具申が来るのは自明でした。そこでようやく、ある噂話を思い出したんです」

「噂話?」

「『北方海域には艦娘を“呼ぶ”魔物が棲んでいて、呼ぶ声を追うと二度と戻ってこれない』という噂が流れていたんです。勿論、根も葉もないただの噂話です。聞いた時はどこかのオカルト好きが流した与太話と思いましたけど、ああ、間違いなくこれだ、と」

「呼ばれている、ということですかな」

「ええ。結局私には聞こえませんでしたが……」

 

 平野は唸る。難しい話だった。哨戒というと、つまりは海に異常がないかの警戒だ。そこに“声”という異常があれば、本来なら確認すべき事態となるのは間違いない。しかしその異常が自分には確認できない場合に、どこまで指揮官としての自分の判断を信じることができるだろうか。

 

「勿論、通常なら“声”の正体を確かめないといけません。もしかすると、何かあって漂流している貨物船の助けを呼ぶ声かもしれないし、未知の敵がいるかもしれない。彼女たちの意見具申はもっともなものです。ですが……私は、それを退けました。私にはその権限がありました。隊長としての最終的な責任を持つのは私ですから」

「しかしまあ、随分とまた英断ですな。何か確たる根拠でもあったのです?」

「例の噂話はともかく、実際に原因不明の行方不明(MIA)の事例は千島全体で何件かありました。色々と状況は異なりますが、いずれもあの日、そして先程までのような、猛烈な悪天候の日です。敵の未知なる罠かもしれません。安易にその“声”を追うのは間違いなく危険でした。まあ後は――」

 

 そう言って、神通は少し表情を緩めた。

 

「直感です。何かこれはおかしい、という第六感とでも言いますか……。さすがにこっちは間違っても口にできませんが、どちらかといえばこっちの方が大きかったですね」

「私どもの世界でも直感に助けられることはしばしばありますからなあ。艦娘さん方ではより一層そういうことも多いでしょう」

「ええ、よくあります」

 

 神通は微笑する。「本当に、よく」

 平野はその微笑みに、戦士の色を強く感じた。長い戦争の中で、何度も何度も死線を掻い潜ってきたのだろう。それが一体どれほどのことなのか、平野には想像もつかなかった。

 

「それで……どこに『雪の進軍』が?」

「ここからが、『雪の進軍』の出番です。残念ながら、駆逐艦たちは私の決定に納得してくれませんでした。少し異常とも言っていいでしょう。もしかしたら、“声”に魅せられていたのかもしれません。これはまずい、と私も焦りました。もう無断で“声”の方へ行ってしまいそうな、そんな危機感すら抱きました」

「まさしく部隊崩壊の危機、ですな」

「そのとおりです。そこで私はこう言ったんです。それはもう在りし日の訓練所を思い出すような大声で、『軍歌っ! 雪の進軍! 始めぇ!』とね。そう、『八甲田山』の高倉健演じる徳島大尉のように。まあ、私が歌って続けて歌わせる方式だったのですが……」

 

 大声というのは、人を律する――悪く言えば従わせる――のには、非常に有効な手段の一つだ。特に混乱が生じている時は、場を立て直すのに必要な時もある。さすがに軍隊らしい手立てだ、と平野は思った。

 

「咄嗟に思い出したのが、前日だったかに、しかも途中から観た『八甲田山』だったというだけで、他にもいい方法があったような気はします。とはいえ、それが功を奏して隊の秩序は戻りました。そして、“声”も消えた。それから、誰も“声”を聞くことはありませんでした」

 

 その声を聞いた者が生き残ると、セイレーンは死んでしまうという。そんなかつての伝説の内容を、ふと平野は思い出した。“声”の主たる魔物とやらも、同じなのだろうか。

 

「それで、魔除け、と」

「ええ、『雪の進軍』は魔物除けに使える、と。与太話半分、部隊指揮の失敗事例半分で他の隊の隊長にこの一件を言ってから、話は広まりました。いつの間にか他の基地にまで伝わって、悪天候になると『雪の進軍』をまず歌う隊すら出る始末で……」

 

 平野は笑った。「いや、失礼……笑い話ではありませんな。そんな魔物相手では、神でも仏でも歌でも縋れるものなら縋りたいでしょう」

 お気になさらず、と神通は言った。「事実、そのとおりですから」

 

「しかし実際のところ、効果はあったのですか?」

「これがまた……あった、のかもしれません。MIAの事例が減りました。勿論、『雪の進軍』と何か因果関係があるとは思ってはいませんが、これもあって余計に魔除けとして広まった気がします。こうして、あれよあれよと『雪の進軍』は独り歩きして、気付けば北方海域の基地には粗方広まっていました」

「そして今も、ですか」

「ええ。とはいえ、今では荒天時の航行の無事を願う意味合いの方が強いようです。特に駆逐艦には好んで歌う娘もいますね」

「験担ぎですな」

「それこそ、厭戦歌としてかもしれません」

 

 神通は冗談めかして言った。神通も、平野も笑った。

 

「ところで、魔物は今も居るのですかな?」

「さあ、わかりません。でも、確実にまだ棲んでいる気がするんです。今はただ、出てきていないだけで」

「『雪の進軍』で?」

「ええ、『雪の進軍』で」

 

 たとえ歌われる意味が変わっても、『雪の進軍』が“声”を打ち消して魔物を鎮めているのだろうか。それとも、そもそも魔物などというのは居ないのか。はたまたセイレーンの如く死んでしまっているのか。いずれにせよ、平野にはわかりかねる事だった。

 

「『雪の進軍』……興味深いお話でしたな」

 

 平野はテーブルに置いたカップを持ち上げる。紅茶はぬるくなってしまっていた。いつの間にか、随分と話していたようだ。

 

「さて、私はそろそろ戻ります」

「折角の食事というのに、お時間を取らせてしまいましたな」

「いえ、こうして外の方とお話できる機会もそうありません。私も楽しかったですよ」

「……北方の基地詰めは大変でしょうな」

 

 北方で外部の人間と接触があるというと幌筵(ぱらむしる)島の基地くらいしかないだろう。確か神通の所属は松輪島の基地のはずだ。年若いうちからこんな世界の果てのような場所で何年も防人の任に当たるというのは、一体どれほど強靭な精神と肉体が必要だろうか。平野には計り知れなかった。

 

「職務ですから」

 

 ただ一言そう言って柔和に笑うと、神通は「では、失礼します」と平野に背中を向け、食堂を出ていった。

 思わず平野は椅子から立ち上がると、その後姿に敬礼した。神通の姿がブリッジへ続く階段に消えるまで、敬礼は続いた。敬礼を終えると、平野は再び椅子に座り、残った紅茶をちびちびと飲み始めた。

 自然と、『雪の進軍』を口ずさんでいた。艦娘たちの、そして自分たちの航海が無事に終わらんことを祈って。




雪の進軍 氷を踏んで どこが河やら 道さえ知れず
 馬は(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずこ)ぞ 皆敵の国
  ままよ大胆 一服やれば 頼み少なや 煙草が二本
焼かぬ乾魚(ひもの)に 半煮え飯に なまじ命の あるそのうちは
 こらえ切れない 寒さの焚火 煙いはずだよ 生木が(いぶ)
  渋い顔して 功名話 「すい」というのは 梅干一つ
着のみ着のまま 気楽な臥所(ふしど) 背嚢枕に 外套かぶりゃ
 背なの温みで 雪融けかかる 夜具(やぐ)黍殻(きびがら) しっぽり濡れて
  結すびかねたる 露営の夢を 月は冷たく 顏覗きこむ
命捧げて 出てきた身ゆえ 死ぬる覚悟で 吶喊(とっかん)すれど
 武運拙く 討ち死にせねば 義理に絡めた 恤兵(じゅっぺい)真綿(まわた)
  そろりそろりと 首締めかかる どうせ生かして 還さぬ積もり

――『雪の進軍』(明治二八年、永井建子作詞・作曲)
(※著作権消滅済)
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