ミライは決して反抗することなく常に笑顔を絶やさない。
しかしミライの姉への復讐は着実に実行されていたのである。
これはあるとらえどころのない奇妙な姉妹喧嘩の話である。
姉のアオイは幼いころから妹のミライに殴る蹴るの暴行を与え、「お前は無能だ。」「お前は用無しだ。」「お前は豚だ。」「お前は生きていても意味がない。」との暴言を繰り返し言い続けた。
度を越した一方的な苛めではあったが、理解しがたいのは妹のミライの方であった。
どんな嫌がらせをされてもミライは姉に反抗の意思を見せたことは一度もなかった。むしろ反抗するどころかいつも愛らしい笑顔を見せていた。
服を脱げばミライの体は痣だらだが、アオイから受けた暴力のことは言わずに、母親にも体育で転んだときの痣だと愛くるしい笑顔で言った。
それがアオイにとって気味悪くありミライに対する嫌悪感をつのらせ言い知れぬ焦から姉の暴行や暴言は日々エスカレートしていった。
こんなことがあった。
ミライが高校1年のとき、部活の先輩から告白されたことがあった。ミライも密かに恋心を抱く憧れの人だった。
アオイはそれを知ると密かに妹の恋相手を誘惑し自分のものにした。
そしてそれから間もなくしてのこと、ミライが家に帰って自分の部屋のドアをあけると、自分のベッドで姉と先輩が抱き合っていた。二人とも服は着ていなかった。
そして、アオイはあざ笑うようにミライを横目で見ながら先輩が戸惑うのも構わずディープキスをミライに見せつけた。
その時もミライはショックや怒りの様子を微塵も見せずに愛らしい笑顔を浮かべてドアをそっと閉めただけだった。
屈辱であった。
妹の寸分の感情の起伏さえ見せない静かないやみのない所作は、この羞恥極まりなき行いが恥ずべき愚かなことであることを強制的に意識させ、ミライに対して強く劣等感を抱かせた。
次の日アオイは先輩をあっさり捨てた。
アオイはミライ以外の人の前では巧みに優等生を演じていた。
見た目も美しく幼い頃から身に着けさせられた華道のたしなみは内奥に潜む惨たらしい負の感情を巧みに覆い隠した。仮に誰かが親や教師にアオイの妹に見せる醜悪ぶりを告げたところで全くそれを信じなかっただろう。
アオイの悪態極まる負の面を知るのは、妹のミライ、そしてミライの親友で同じ女子バレー部のハルだけである。
ハルはミライの同級生であり彼女のよき相談相手でありよき理解者であった。
ハルが自分の話をきいてくれるだけでミライの心は安らいだ。
いつかハルは冗談で「お姉ちゃんに復讐しないの?私やってあげようか?」と訊いたことがあった。ボーイッシュで性格に男っぽさがあるハルは時折過激なことを自然体で言ってのける。
「復讐?もうとっくに始まっているよ。」
ミライはニコッとしながら応えた。ハルはこの時、ミライの言っていることの意味がよく分からなかったが、そのことについては深入りしようとはせず、その話題はそれきりになった。
二人は学校帰り堤防の階段に腰かけ静かに川の流れを見つめていた。
ハルはミライの手をそっと握り唇を重ねた。
二人の関係は日々深まっていった。
女の子同士の秘密の恋愛。
むしろ他人には言えない秘め事であることが思春期で多感な二人をいっそう禁断の甘美に酔わせるにいたった。
ミライにとって至上の幸福に満ちた日々であった。
しかしそれは長くは続かなかった。
ハルが自殺したのである。
いじめによる自殺であった。
原因はアオイが計画的に巧みに手を汚さずに流したゴシップである。
「〇〇が言っていたけど聞いた1年のハルって子は売りをやっていて1万出せば誰とでもやる公衆便所らしいよ。」
「〇△が言ってたけど、1年のハルって子、クスリやってるらしいよ。警察にも目をつけられているみたい。もう時間の問題ね。」
「△〇さん情報だけど、1年のハルって子、□△先輩をたぶらかしているみたい。□△先輩ってあんたの彼氏じゃなかったっけ。」
という類の根も葉もないゴシップを繰り返しそれもさりげなくあるおしゃべりで思慮の浅い悪い女に話した。
最初は誰も信じず、そんな噂話を流されるハルにむしろ同情する声が多々であったが、噂が繰り返されるうちに、いつのまにか勝手にハルの悪女のイメージが仕立て上げられていきいつしかそれが彼女の実存となった。ミライの他誰もハルに近寄ることがなくなった。そのうちアオイとは関係ないところから自然発生的にどこからともなくハルの悪い噂は流れるようになった。噂の数も多くどこから発信されたのかはあやふやになっていた。
最初にアオイから噂話を聞いた女も最初にどこから聞いた話だったか記憶があやふやになっていた。
ハルが自殺したあと警察の指示もあって学校側は数ある噂話の発信源の調査に乗り出したが、どの噂も色々な人を経由した情報で、何人かの人が噂の発信源として判明されたが、どれも〝ちょっとふざけて言ってみただけ″のレベルで普段からハルに嫌がらせをしていたわけではなく周囲のムードにのって悪ふざけをしただけというものだった。
アオイはというと、ハルとは学年も異なり、妹のミライの親友であるといっても二人は何ら面識があるわけでなく、また優等生のアオイが噂の発信源であるとは誰も思わなかった。
ハルはミライに助けを求めようとはしていた。
携帯電話もまだなかったこの頃で、ハルはミライの家に電話を掛けた。
電話に出たのはアオイであった。
アオイは「申し訳ないですけど妹はあなたのような悪いうわさが絶えない人とはもう話もしたくないと泣きながら言っていました。妹はやさしい性格だから普通を装い話かけはしているでしょうけど、もう縁を切りたいとうのがあの子の本音です。あなたが妹のことを大切に思ってくれているのなら、もう話しかけることは遠慮してください。」と告げた。
それから急にハルがミライを避けるようになった。
ミライが話しかけても「いいよ、無理して話しかけないで」と言って逃げるように離れっていった。
ハルが死んだのはそれから間もなくのことだった。
入水自殺だった。
発見場所はいつもミライと部活の帰り道でよった河川敷であった。
発見された死体は傷みが激しく納棺業者によってある程度の修復はされたものの
顔は最後まで見せないような配慮がされていた。
ミライは彼女の葬儀の帰りの道すがら、人目をはばかることなく大泣きした。その時は雨が降っていた。
彼女といる楽しいときは姉とのことを忘れることができた。彼女と一緒にいることで嫌なことが全て消えていく気さえしていた。
そして、一番大事な恋人であった。
でもハルが苛めで悩んでいるときも結局彼女を助けてあげることが出来なかった。
ガードレールにもたれ掛り泣いていると誰かが傘をさしてくれた。
「風邪を引くよ」
傘を差しのべたのはアオイであった。そして、
「ハルって子の悪い噂話、まさかわたしが流したなんて思ってないよね。」
アオイは目を細めて言った。
ミライはアオイのその口ぶりで噂の発信源の人物、そして彼女を自殺に追い込んだのはアオイだと直感した。むしろ逆にアオイからの挑発的なメッセージにさえ聞こえた。
そして
「まさか、そんなことするはずがないよね。」
と落ち着き払い微笑みながら言った。その表情には悲しみや怒りのかけらもなかった。
本音を見せないミライの態度に怒りの感情を露わにしたのはアオイの方であった。
アオイは思いっきりミライの頬を叩いた。
それでもミライは微笑みを続けた。
「ミライっ!あんたねぇ!いつも、いつも何なのよ!何のつもりなのよ!」
アオイは傘をミライに投げつけて、ミライに背を向け雨に濡れるのも構わず走り去った。
ミライはその姿を微笑みながら見つめていた。
アオイは、自分の部屋のあらゆるものを叩き壊した。
(ミライのあの笑顔、あれがいつも私をおかしくする。何をされてもミライは絶対に怒りの感情を見せない。気持ちが悪い。あの態度のせいでかえって私の怒りがエスカレートし蓄積されていく。あの態度を自分に一番身近なミライに、それも幼いときからずっと繰り返されてきた。何の嫌がらせなの。怒りの感情に支配された自分をどうコントロールしていいのかわからなくなる。妹を憎む醜悪な感情が蛇がのた打ち回るように暴走している。自分自身に吐き気さえもよおす。あいつさえいなければ。)
アオイは激しい頭痛と吐き気に襲われた。
自他(自己と他者)の認識においてズレが生じると強いストレスが生じる。それが慢性化すると自我の崩壊に至る。アイデンティティの崩壊である。ミライはそのことを知ってか知らぬか幼い頃からアオイに対して心理的攻撃を与え続けていた。「怒り」や「恐れ」ではなく「微笑」。いつもアオイの予想に反する感情を見せ続けていた。
「当然の反応が返ってこない。」
たったこれだけの対応が水滴が永年の年月をかけて石を穿つ様に、アオイ本人さえ気づかないうちに徐々に精神を壊していったのである。
母親が激しい物音に驚きアオイの部屋に駆けつけたとき、アオイはどうしようもないくらいに狂ったように泣き崩れていた。アオイの自我は完全に壊された。理性と気品が微塵たりともなくなり醜い醜態を晒していた。
日々は流れミライは大人になり優しい夫と2児の子どもに恵まれそれなりに幸せな生活を送っていた。
アオイはというと、もうこの世にはいなかった。
ハルが自殺して2年後のこと、大学生になったミライは年上の先輩と付き合うようになった。
だがアオイはその彼氏を刺殺する事件を起こしたのである。その時のアオイはもはや昔の優等生アオイではなかった。精神的病に蝕まれ自制が利かなくなっていた。犯行は衝動的に行われた。そしてその日のうちにひと気のない山奥の森で首を吊った。
地元の林業従事者に発見されたときは半ば腐乱しており美しかったときの面影は全くなかった。
アオイの命日にミライは夫と子供を連れて姉の墓参りに訪れた。
墓地には涼しい風が吹いていた。
「ねぇ帰りに美味しいものでも食べていこうかしら」
ミライは微笑みながら言った。