真・恋姫†無双~未踏世界の物語~   作:ざるそば@きよし

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開戦

 世に言う『狄道の戦い』は、隴西郡太守であった馬騰の裏切りが引き金となって始まったとされている。

 当時、五万を超える規模にまで膨れ上がっていた涼州の叛乱軍を討伐すべく、車騎将軍を拝命した司空・張温と中郎将・董卓は涼州刺史の耿鄙と共に洛陽から敵本拠地である金城郡を目指していた。

 ところが、補給の為に立ち寄った狄道の城において、討伐軍に合流するはずだった馬騰軍が突如反旗を翻し、彼らの前に立ち塞がったのである。

 この裏切りの背景には『羌族の親戚筋であった馬騰は最初から韓遂や反乱軍と結託しており、討伐軍を欺く為にあえて朝廷の要請に応じていた』とする説や『馬騰は当初は討伐軍に与していたが、耿鄙が行った他民族への虐殺や弾圧をよしとせず、その結果として反旗軍に組した』とする説など、様々な俗説が唱えられているが、いずれも推測や憶測の域を出ていない。

 確かな事が言えるとすれば、『外史全土の歴史を振り返ってみても、これほど劇的かつ奇妙な戦は二つとない』と言われたこの戦いは、彼女の裏切りによって幕を開けたという事だけだった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 闇を見つめていた。

 燃えるような赤光が東の空より姿を現し、黒一色だった世界に新たな色と風景を描き出す。それはまるで新たな世界の誕生のようであり、見れば誰もが美しいと感じる光景だった。

 だというのに、それを見つめる馬休の心は未だ暗い闇の中にあった。

 目を奪うようなこの景色も、間もなく残酷な色に塗り込められる――傷つき倒れた人々の遺体と、そこから流れ出る夥しい量の血によって。

 むせ返るような死と戦いの臭いは風に乗って大陸全土へと吹き抜け、人々にその狂気を醜聞として伝播させるだろう。例えそれが生き残るために選んだだった一つの道だと分かっていても、馬休は気が滅入ってしまいそうだった。

 

「鶸(ルオ)」不意に背後から己の真名を呼ぶ声が聞こえた。凛々しい女性の声。それには大いに聞き覚えがあった。「こんな所で何をしてるんだ?」

 

「……姉さん」

 

 振り返ると、そこには自らが敬愛する姉にして馬騰軍一の将を務める馬超の姿があった。

 彼女の装いはいつもと変わらず、手には愛用の槍を携えていた。おそらく日課である槍の稽古をしていたのだろう。自分たちの運命を決める大事な戦の前だというのに、普段と何ら変わることのないその穏やかさは、馬休に呆れや怒りを通り越して関心してしまうほどだった。

 

「……何でもないよ。少し、考え事をしてただけ」

 

 彼女の質問に馬休は首を横に振った。自身の不安をわざわざ相手に伝えるのはどうにも躊躇われた。

 戦いが始まれば、真っ先に全軍を指揮するのは紛れもなく姉だ。そんな大事な人間に、わざわざ自分が抱えている不安を伝えて悪影響を与えたくはなかった。

 しかしそんな自分の考えなどお見通しだと言わんばかりに馬超は言った。

 

「あまり気を詰めすぎるなよ。ここまで来たら後はもうなるようにしかならない。あとは全力でもって戦うだけだ」彼女の口調は軽かった。まるで他人事のようであり、自分がその最も重い立場にいるとは露とも思わせぬ口調であった。

 

 何故、という言葉を馬休はすんでの所で喉奥へと飲み込んだ。自分のためだ。不安を感じている自分を励ますために、彼女はあえてそんな風に言葉を掛けているのだと知れた。

 

「そう、だよね……そう思うしか、ないんだよね……」彼女の思いを汲んで馬休は一応の同意を示した。だが実際はとてもそんな気分にはなれなかった。

 

 姉は武人だった。どこまでも戦いに身を任せることが出来る武人――背中を預けた味方が凶刃に倒れていく中でも躊躇なく敵を屠り、最後の一人になるまで握りしめた武器を振るい続けることができる人種。だが自分はそうではなかった。

 馬休は戦いに己の全てを委ねる事が出来なかった。武人になりきることが出来なかった。姉や母はそのことで彼女を疎む事は決してなかったが、それでも彼女の中に生まれた自責と後悔の念は、今でも自身の中に小さな劣等感を作っていた。

 

「悪いな。兵站のこと、全部任せっきりにしちまって。あたしや母さんも、もっと力になれたら良かったんだけど……」

 

 そう言って馬超はどこかばつの悪そうな顔を作った。実際そう思っているのだろう。自分が戦う事については人一倍優れている姉であったが、その前段階――謀略や戦備といった武器を振るう以外の戦いについては、あまり得意ではなかった。

 

「ううん。姉さんにも母さんにも自分の役割があったんだから、気にしないで」馬休は再び首を振った。兵站の確保や戦術の考案は馬休は見つけた自分の居場所だった。姉よりも力で劣る自分が、わずかでも皆の助けになるために。

 

 彼女の言葉に馬超は表情を和らげると、やがて塀の向こうへと歩き出した。その背を見送りながら、馬休は再び先の事を考える。

 この戦いで果たして自分たちは生き残れるのだろうか。敵の数は斥候からの話によるとこちらの倍以上は控えていると言う。今はまだ油断しているだろうが、決して慢心していない。もし最初の戦いをしくじれば、あっという間に滅ぼされてしまうだろう。そうなればこの先に控えている金城の味方も、羌族の人々もいずれは滅ぼされる運命にある。それだけは何としても避けなければならない。

 そのためならば、仮に自分が死んだとしても……

 

「鶸!」

 

 そんな風に考えていた時、振り返った馬超が再び自分に言葉をかけた。

 何だろうかと彼女の顔を見つめる馬休だったが、そこへ返ってきたのは真摯で切実なまでの願いだった。

 

「死ぬなよ。あたしらは生き残るために戦うんだ。そのために死んだら何にもならないぜ?」

 

 姉のこう言ったどこまでも真っ直ぐな所が馬休は好きだった。誰よりも強く自分たちを先導していく存在だというのに、時々こうして情けないほどに自分の気持ちを正直に話す。そんなところが自分はたまらなく憧れる所であり、尊敬する所でもあった。

 

「ありがとう。姉さんこそ、絶対に死なないでね」

「当ったり前だ。あたしがこんなところで死ぬと思うか? 死ぬならこんなところじゃなくて、もっと大きな戦で華やかに死んでやるさ」

 

 再び離れていく姉の背中をひとしきり見送った後、馬休はもう一度地平線の彼方を見つめ、間もなくやってくる敵の姿を想像し、それを如何にして倒すかを日が昇りきるまで必死に考え続けていた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 脳裏に紛れ込んだ思考の切れ端を、董卓は何度目かの溜息と共に頭の隅へと追いやった。

 隴の城を出立してから数日、討伐軍の足取りは決して軽やかとは言えなくなっていた。と言うのも、隴の城から隴西郡へと続く道の多くは傾斜を含んだ隘路や勾配のきつい山道によって構成されており、現地の人間ならともかく、洛陽からやって来た兵士の多くは慣れぬ悪路を相手に苦戦を強いられ、気力も体力もすっかり使い果たしていた。

 今も兵士たちの顔色や思考からかなりの疲労や苛立ちが見て取れる。このまま行軍を続ければ、今後の士気や戦いそのものにも影響を及ぼしてくるだろう。

 急がなければならない、と董卓は改めて実感した。

 

「皆さん。もう少しで我が軍は狄道の城に到着します。だからそれまで、もう少しだけ頑張って下さい!」

 

 自分に出せる精一杯の声で董卓は兵士たちを鼓舞した。親しい何人かの兵士たちは自分の声に愛想のいい返事をしたが、面識の薄い兵士たちは思考の内で自分への悪態を浮かべるばかりであった。

 彼女は渦巻く人々の感情に僅かな苛立ちを募らせた。やはり他人の心が読めて嬉しい事など一つもないのだと実感した。

 

「流石にみんな疲れが出始めてるわね……」

 

 すぐ隣から沈み込んだ女性の声が聞こえた。副官として控えていた賈駆であった。

 静かに状況を分析する彼女だったが、その顔も他の兵士たちと同じく長い悪路に揺らされ、疲労の色を濃く示していた。

 

「狄道の城に着いたら補給も休息も取れるし大きな問題にはならないと思うけど、今後のことを考えるとやっぱり気を使わない訳にはいかないわよね……はあ、もっと早く着かないかしら」疲れを追い出すように溜息を一つ付いた後、不意に賈駆は董卓へと疑問の眼差しを向けた。「……ところで月、一つ聞いてもいい?」

 

 僅かな逡巡の後、董卓は躊躇いがちに頷いた。他者の思考が読める彼女には、これから投げ掛けられるであろう質問の内容が既に分かり切っていた。

 

「あの耿鄙って奴のことなんだけど……あいつに会ってから何かあったの?」予想通り、賈駆が尋ねてきたのは未だ正体の知れないあの男の事であった。

 

 耿鄙と出会って以降、董卓は彼の正体を探ることも思考を覗く事も控えていた。更に言えば、彼の前に姿を見せることすら徹底的に避け、まるで逃げ回るように己の姿を彼から隠し続けていた。

 それは単に自分の正体に気付いているかもしれない彼への警戒心だけでなく、無意識に覚えた恐怖心によるものだった。

 

 ――得体の知れない存在というものは、ただそこに居るだけで他者の心に強い恐怖と不安を生み落とし、その精神を蝕んでいく。そういう意味で言えば、耿鄙という男は董卓にとってまさに恐怖と不安の固まりとなっていた。

 異様な姿の人型生物、何処の大陸とも知れぬ不可思議な風景、そしてあの男が“プレインズウォーカー”と呼んでいる何か――それらについて董卓は全てを理解できていなかったが、それでも彼女なりの理論でもって情報の整理と推察を進めていた。

 

 思うにあの男は、本当にこの世界の人間ではないのではないだろうか? 誰も知らない場所からやって来た、自分たちとは全く異なる存在――それが彼の正体だとしたら?

 それなら彼を誰も知らない事にも、自分が見た奇妙な記憶の連なりにも全て説明が付く。

 だがそんな事が本当に可能なのだろうか? 『別の世界』などという子供の絵空事じみたものが、果たして実際に存在するのだろうか?

 馬鹿馬鹿しいとすら思える思考が次から次へと頭に浮かぶ。だが董卓にはそうとしか考えられなかった。

 

 いっそ目の前の彼女に思いの全てを打ち明けることが出来たら……。

 

 董卓は賈駆の顔を見つめながら咄嗟にそう考えた。だがそれは叶わぬ願いだった。これは自分と張温に課せられた役割であり、関係ない彼女を巻き込む訳にはいかなかった。

 

「……大丈夫。何でもないよ。心配いらないから」

 

 我ながら何とも弱々しい言い訳だ――自ら口にしながら董卓は皮肉げにそう感じた。そして自分以上に賢い賈駆も、同じように思っているのが手に取るように分かった。

 

「本当に?」

 

 己の能力を証明するかのように、強い疑問と確信めいた否定を含んで賈駆が聞き返した。だが董卓には首を縦に振る以外の選択肢はなかった。

 

「……うん」

 

 董卓と賈駆はしばらく無言でじっと見つめ合った。と言っても、一方は睨むように視線をぶつけ、もう一方はただ黙ってそれを受け止めるだけであったが。

 しばし見つめ合う間、董卓は賈駆の心の奥から熱く粘り付いた感情を感じた。

 

 ――彼女は苛立っている。自分に。そして何の手助けもできない彼女自身に。その心は煮えたぎる油のようであり、いつ燃え上がるとも知れぬ危うい状態だった。

 

 どうしたらいいだろうか、董卓は悩んだ。彼女の気持ちを受け入れる事は簡単だ、望む返答を返すことも。だがそれは同時に、彼女を戦とは違う危機に引き入れる事を意味していた。

 彼女が謀略に向いていないとは思わない。むしろ引き込めば間違いなく大きな力になってくれるだろう。しかし如何な名軍師であろうとも、思考と記憶を脳から消し去る事は出来ない。もし耿鄙の隠された事実を教えれば、あの男は彼女の頭脳を介して自分の目的を――自分が妖憑きである事を知るだろう。いや、もしかするとどちらも既に知っているのかもしれない。

 もしそのどちらも知られているのだとしたら、なおさら彼女を巻き込む訳にはいかない。

 

 どのくらいそうしていたのだろう。やがて刺すような眼差しを脇に逸らすと、賈駆が大きく溜息を吐いた。

 

「はぁ………もうそれでいいわ。月が大丈夫だっていうなら、ボクはもう何も聞かない。それでいいんでしょ?」

「詠ちゃん……」

 

 胸に広がる罪悪感を感じながら、董卓は親友の寛大さに感謝した。それと同時に前方から馬に跨った一人の斥候が姿を現し、状況が更新されたことを大声で告げた。

 

「ご報告いたします! 三十里ほど前方に狄道の城を確認しました!」

 

 賈駆の行動は早かった。彼女はその言葉を聞くや否や、すぐさま兵士たちに指示を出し、彼らに新たな行動を促した。「連絡はもう行ってると思うけど、もう一度城に早馬を向かわせて! 事情を説明して、少しでもこちらの受け入れ準備を急がせるのよ!」

 

 命じられた兵士は心得たとばかりに馬の腹を腿で締め上げ、再び軍団の先頭へとすっ飛んでいく。

 何人か他の兵士にも細やかな指示を出した後、賈駆は再び董卓へと向き直った。

 

「月が色んなものを背負っているのは分かってる。だけどこれだけは覚えておいて。ボクはどんな時でも月の味方だから」

 

 董卓は息を呑んだ。こんな自分に彼女は全面的な信頼を寄せ、あまつさえ隠し立てしていることを承知した上で味方でいてくれると言うのだ。これほど嬉しい事が他にあるだろうか。

 

「詠ちゃん……ありがとう……」

 

 他に何と言って良いか分からず、董卓はただただ礼を言って頭を下げた。今の彼女にはそうすることしか出来なかった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 空気が変わった。草花の香りの中に僅かに混じった鉄と甲鎧の臭い。敵が近づいてきている証拠だった。

 城の物見台から自室へと戻った馬騰は即座に自分の戦仕度を始めた。長年愛用してきた革鎧を引っ張り出し、得物である複合弓と槍を準備する。ここから先はまさに時間との勝負だった。

 

 敵はまだこちらの裏切りに完全には気付いていない。狄道への進軍は遅々としたものだろう。連中がもたついている間に可能な限りの用意を済ませておくべきだった。

 

 出し抜けに兵士が一人、部屋の中へと駆け込んで来た。肩で息をするその様子からして、敵の接近を知らせる使者に違いなかった。「お館様! 二十里ほど前方で、斥候が官軍を見つけやした! 既に何人かの使いが城の中に入り、こちらに軍の受け入れ準備を急ぐよう要請してきてます!」

 

 馬騰はその兵士へと尋ねた。「敵軍の中に耿鄙の奴は居たかい?」

 

「物見の連中は司令官の横に控えているのをばっちり見たと」兵士ははっきりと答えた。

 

「そうかい。なら作戦は予定通りにいけそうだね」

 

 落ち着き払った様子で馬騰は立ち上がると、今までに無い程鋭い声音で命じた。

 

「敵の連絡役には了承の旨を告げてお帰り願いな。理由を付けて居座るようなら、その時は始末して構わない。こっちはその間に最後の仕上げだ。壁の上に追加の兵を配備して、街の人間を城に非難させるんだ。連絡役の連中が消えたのを見計らって門を閉めるのも忘れるんじゃないよ!」

 

 言葉を受け取った兵士はすぐさま頷くと、返事をするのももどかしいとばかりに部屋を飛び出し、城の廊下をひた走っていく。

 駆けていく兵士の足音を見送る事なく、馬騰は再び戦準備に没頭した。

 

 援軍が到着するまでの間、敵の攻撃を耐えきれるかは微妙だった。数字の上では言えば、敵との戦力差は実に四倍以上もあるのだ。まともにやり合っては勝ち目はない。それ故の籠城戦であり持久戦なのだ。

 とは言え、全く勝ち目がないという訳でもなかった。敵はここに辿り着くまでにかなり消耗している。既に気力も体力も使い果たし、兵糧や物資も今や心許無いだろう。そんな人間たちが味方だと思っていた者から襲い掛かられれば、まずひとたまりもない。

 

 負けなければいい――この戦での自分の役割は、可能な限り敵をこの場に押し留め、より多くの消耗を強いることだけだ。

 

 自分の役割に集中しろ。勝機はその先にある。

 

 戦支度を終えた馬騰は部屋を出ると、己の戦場へと向かうべく自らの歩みを強めた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 目の前に映る異常な光景に賈駆は眉根を寄せた。

 長い旅路の末に討伐軍が辿り着いた場所――馬騰が治める狄道の城は疲労困憊の彼らを受け入れる事は無く、代わりに堅牢な鉄扉を向け、頑なにその進入を拒むばかりであった。

 突き付けられた目の前の状況に兵士たちはおろか彼らを束ねている指揮官たちでさえ、不安と動揺を隠せずにいる。今はまだ辛うじて統率を保っているものの、この状態が長く続けば討伐軍の士気は大打撃を受けるに違いなかった。

 

「……どうなってるの? 報告では馬騰は軍の受け入れを快く応じたって話だったのに……」ぐらつくほどの動揺と共に賈駆が言葉を零した。何もかも彼女が想定した状況と食い違っていた。「もしかして罠? 馬騰は既に敵側に寝返ってる? いや、それならもっと引きつけてから油断しているこっちに襲う筈。こんな中途半端な位置でこっちを足止めする理由がない……。中で叛乱でも起こったと考えるべきなのかしら……?」

 

 敵か味方か――幾重もの考察が賈駆の頭の中に渦巻く。だが浮かび上がるどの仮説も、今の状況を正確に捉えているようには思えなかった。

 

 どうする。こちらに被害が出る前に冀県の転進を進言するべきか? それとも敵の攻撃に備えて今から陣地を展開する方が得策だろうか? 一体どうする? どうしたらいい?

 

 情報が不足していた。内情それさえ知る事が出来れば幾らでも手が打てるというのに、その為の手がかりを賈駆は何一つ持っていなかった。

 

 焦燥感と不安が辺りに漂う中、隣に控えていた董卓が突如、意を決したように言い放った。

 

「――詠ちゃん。私、今から狄道のお城まで様子を見に行ってくるよ」

 

 親友の突拍子もない提案に、思わず賈駆は目を剥いた。「何言ってんの!? そんな危ないコト、月にさせられる訳ないじゃない!」

 

 副司令官である親友が敵かもしれない城塞に向かう――たとえ情報を持ち帰るために必要な行動だったとしても、それはあまりにも危険に満ちた選択だった。もし僅かでも判断を違えれば彼女は囚われ、最悪の場合は殺されてしまうだろう。それだけは何としても避けなくてはならない。

 

 賈駆は説き伏せるように言った。「月、落ち着いて聞いて。このままじゃダメだっていう事は分かるわ。でも戦えない月が様子を見に行くなんて無茶よ。別の指揮官に行ってもらった方が……」

 

「それだと判断するのに二度手間になっちゃうから」董卓はかぶりを振った。彼女の口調は穏やかだったが、有無を言わさぬ強さが籠っていた。「それに張温様は私より戦いに慣れてる。もし私が途中で死んじゃったとしても、あの人なら正しい判断で指揮を続けられる。その時は詠ちゃん。軍師としてあの人の力になってあげてね」

 

「そんな……! 今から死に行くみたいに言わないで!」

 

 彼女が死ぬなどあってはならない。断じて。もしそんな悲劇が起きてしまったのなら、自分はもうこの世界で生きていく価値を見出せない。親友が――愛する人の命が目の前で失われてしまったら、自分の全てが崩れ去ってしまう。

 

 青白い顔で慌てふためく賈駆を、困惑混じりの表情を浮かべた董卓が諫めた。「そんなに心配しないで。もしそうなったらっていう仮定の話だから。そうなる前にちゃんと逃げてくるよ。だからそんなに心配しないで。ね?」

 

 その言葉に賈駆は何も言い返せなかった。客観的に見ても彼女の判断には一定の理があり、部下としてはその提案に従わざるを得なかった。「それにしたって……」

 

「――お二人とも。少しよろしいですか?」不意に何者かが二人の会話に割って入ってきた。

 

 声の方向に二人は視線を移した。闖入者の正体は、隴の城から同行してきたあの男だった。

 

「耿鄙……さん……」

 

 彼の姿を認めた途端、董卓の表情は凍り付いた。まるで恐ろしいものにでも出くわしたかのように。

 

「董卓殿。今の話、私も同行させては貰えませんか?」二人の前に進み出ると耿鄙は言った。「親しい、と言う程ではありませんが、馬騰殿と私はお互い面識があります。交渉する際には何かのお役に立てるかと」

 

「……それは……」

 

 先程までと違い、明らかに董卓は迷っていた。彼女は目の前の男に対して異様なまでの警戒心と恐怖心を抱いている。その原因が何なのか賈駆には全く分からなかったが、それでもこの男を彼女と共に行かせるべきではないということだけは、すぐに察する事が出来た。

 

 董卓を庇うように賈駆は前に出ると、目の前の刺史へと言葉を向けた。「耿鄙殿、ここはボク…いえ、私が一緒に――」

 

「それならば、某も一緒に付いて行ってもよいかな?」すると必死な賈駆の声をかき消すように、更にもう一つの気配が新たに声を上げた。

 

「張温様!?」

 

 声の正体に賈駆は再び目を剥いた――何故ならそこに現れたのは討伐軍の最高司令官を務める張温に他ならなかったからだ。

 

 驚きの声を上げる彼女を張温は手で制した。「何をそんなに驚くことがある。某とて向こうの事情が気になっていてな。聞けるものなら是非ともこの耳で直接聞きたいと思っておった所よ」

 

「ですが主要な将が三人も向かっては……」

 

 これには流石の賈駆も顔を苦くした。董卓だけでなく、総司令官である張温までもが偵察に向かうような事体は全く想定していなかった。どちらか一人ならばまだしも、この二人が同時に死んでしまえば軍の統率は一気に乱れ、最悪瓦解する可能性すらある。本命の反乱軍を討滅する前に敗退を余儀なくされる危険すらあるのだ。

 

 そんな賈駆を心配を他所に張温は悠然と言葉を続ける。「心配するな、相手は音にも聞こえたあの馬騰だ。仮にこちらを裏切っていたとしても、少数でやって来る者をわざわざ騙し討ちなどするまい。それにもしそうなった時は何も遠慮することはない。この圧倒的な兵数でもって叩き潰すだけだ」

 

 自らの理論に満足したように張温は大きく笑みを広げると、まずは自分がとばかりに狄道の城へと力強い一歩を踏み出した。「では向かうとしよう。耿鄙殿、董卓殿、付いて来てくれ」

 

 有無も言わせぬ強引さにやや呆気に取られていた三人だったが、進みゆく上官の背中を無視する訳にも行かず、董卓と耿鄙は彼に従い、賈駆はそれをただ見送るしかなかった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 立ちはだかる七万の軍勢は、さながら大地すら食い尽くす蝗の群れを思わせた。

 既に城の周囲は蠢く人頭よって埋め尽くされ、景色全体を鋼一色に染め上げている。傍に控えている歴戦の部下達でさえ、その圧倒的な敵の数を前にただ息を呑むばかりであった。

 

「来たね」城壁の上から敵軍を眺めていた馬騰が呟いた。見れば塊の中から小さな集団が一つこちらに向かって来ている。距離のせいで顔の判別までは叶わなかったが、恐らくは張温とその部下たちに違いないと彼女は予想をつけた。

 

 ぎり、という鈍い音が唐突に城壁の上に鳴り響いた。場の緊張感がそのまま音になったようなそれは、敵の動きを察知した部下たちが反射的に弓を構えた音だった。

 馬騰は軽率な部下の行動に小さく眉を顰めたが無理もない。敵軍の大将が護衛も付けずに目の前までやってきたのだ。これから始まる戦いへの影響を考慮すれば、兵士としてこれを撃たない手はない。

 

 放っておけば今にも撃ってしまいそうになる彼らを、馬騰は鋭い口調で制した。「まだ待機だ。あたしが合図するまでは一発も撃つんじゃないよ」

 

 最初は何を馬鹿な、という表情を見せていた部下たちだったが、刃のような主の声音と剣幕に彼らも恐る恐る鏃を下げる。口では何も言わないが、やはり顔色には口惜しさを見せていた。

 ――戦に慣れている筈の部下たちがここまで取り乱すとは、やはり数の力は侮れないな、と馬騰は改めて実感した。

 そうしている間にも前方の集団が近づいて来る――予想した通り、その顔は敵の総司令官である張温とその部下である董卓、そして耿鄙のものだった。

 

「母さん……」

 

 部下と同じく苛烈な視線で一団を見つめていた馬超が声を発した。その顔色と声は今朝がた馬休に聞かせていた穏やかなものとは打って変わり、燃え上がらんばかりの怒気と憎悪によって震えていた。

 

「翠、お前はこの軍にとって重要な指揮官だ。あんたの感情は全ての部下に伝播する。怒りも動揺も怯えも」馬騰は皆にも聞かせるようにその言葉を放った。「そしてお前が怒りを放つのは今じゃない。だからそれまでは何とも思っていないかのように振舞いな」

 

 指揮官としてこれからの彼女に必要なのは冷静さと狡猾さだった。戦いに必要な技や心は既に十分過ぎるほどに鍛えられている。次に鍛えるべきはその精神――特に軍団を預かる者としての素養だった。

 

 吠えかかるように馬超は言葉を返した。「母さんは……何とも思わないのか!? あいつが……耿鄙の野郎が目の前にいるってのに!」

 

 彼女は既に燃え立つ怒りに囚われていた。それは戦士として当然持つべき感情ではあるが、指揮官として容易に露わにするべきものではなかった。指揮官には計算された怒りが必要だ――そしてそれを自在に操る冷静さが。

 

「むかついてるさ」言葉とは裏腹に平然とした表情で馬騰は答えた。「今にもはらわたが煮えくり返りそうだよ。あたしが総大将じゃなけりゃ、今すぐにも喚き散らしてるだろうね。だけどそんな事をすれば、周りの部下を不安にさせる。この先どうしていいか分からなくなる。それじゃ戦えない。全ては皆の為、勝利の為だ――翠、お前には槍も馬も教えてきたが、戦いで一番大切な事は“自分で自分を操る”って事さ。戦いの中でこれがどれほど重要なのか、しっかりと見て学びな」

 

 馬超はしばらく納得できないと言うように不満の視線を馬騰に送っていたが、やがて彼女の言うことを飲み込むと、歯を食いしばって怒りに耐え、近づいてくる一団を睨みつける。

 

 そんな愛娘を満足げに見届けると、馬騰は城壁の下へと視界を移し、間もなくやって来るであろう客人に再び意識を向けた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 狄道の城は変わらず沈黙を保っていたが、内側では燃え上がらんばかりの敵意で溢れ返っていた。

 賈駆が危惧していた通り、馬騰は既にこちらを裏切っているようだ――しかし、何故?

 

 裏切りの原因が分からず、董卓は小さく唸った。『隴西の馬騰』と言えば突出した武勇ばかり語られがちだが、彼女を一廉の領主たらしめている最大の理由は、領地の民を第一に考えるその政策方針にあった。

 

 ――董卓が幼い日々を過ごしていた頃、涼州では飢饉に喘いだ異民族たちが漢人の村や街に攻め入り、食糧や金品を略奪していくという事件が相次いでいた。

 村の男たちや領主もいくらかの抵抗を示したものの、相手は大陸の誰もが恐れる騎乗と戦いの名人であり、素人が戦った所でどうにかなる相手ではない。だがその問題に真っ先に手を着けたのが、他ならぬ馬騰だった。

 彼女は自ら騎馬隊を率いて出撃すると、屈強な異民族の戦士たちを相手に一歩も引かずに戦いを挑み、その攻撃を食い止めた――そしてその結果、見事彼らを退かせ、数万もの領民の命と暮らしを救ってみせたのである。

 

 その時の様子は涼州を中心に大陸全土で武勇伝として語られ、彼女の名声と権威を今日まで支え続けている。そんな高潔な魂を持つ人間が、果たして何の理由もなく味方を裏切ったりするものだろうか?

 

 この戦いには、まだ何か自分が知らない裏があるのかも知れない――董卓は眼前の城壁を見つめながら密かにそう考始めていた。

 

「静かだな」ぼそりと張温が呟いた。彼もまた、目の前に聳え立つ城壁を思案顔で眺めていた。「ここまで近づいても未だ何の動きもないとは。馬騰殿は一体、何を考えていると言うのだ」

 

 彼の意見は董卓のそれとほぼ同じだった。この場の誰もが馬騰の――敵かもしれない者たちの出方を伺っていた。

 董卓は咄嗟に、城内の敵意を張温に知らせるべきか考えた。既に馬騰軍はこちらの裏切っており、一刻も早く攻撃に備えるべきだと。

 だが今それを自分が口にした所で、容易には信じてもらえない事も分かっていた。彼は超常的な言葉を――特に不確定な要素を嫌う。そして何より、彼は“妖憑き”という存在そのものを唾棄していた。

 しかし、このまま進めば確実に自分達は目の前の敵意と対峙する事になる。今はまだその本質を現してはいないが、それが数秒後に起こらないとは限らない。もしここで攻撃を受ければ全員生きて自陣に戻ることは叶わないだろう。

 

 ――やはりここは何よりも危険を知らせるべきだ。軍のために、そして自分たちの安全のために。

 

「あの、張温様……」

 

 彼女が言葉をかけようとしたその時、城壁の上から突如、覇気を含んだ女の声が降ってきた。

 

「そちらは討伐軍の方々とお見受けする!!」

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 声に反応した三人は素早く視線を動かした。頭上には甲冑姿で毅然と佇む老婆が一人。彼女こそ狄道の城主を務める馬騰に違いなかった。

 

「あれが狄道の馬騰……」董卓は圧巻の声を上げた。実際に姿を見るのは初めてだったが、城壁の上に雄々しく立つその勇姿は、まさに慣れ親しんだ物語に登場する英雄そのものだった。

 

「遠路はるばるよくおいでになった。あたしがこの城を預かっている馬騰さ」彼女の呟きに応えるように、歯切れのいい声で馬騰は名乗りを上げた。「そちらは張温殿と董卓殿だね。洛陽から話は聞いてるよ」

 

 言葉ではそう言うものの、肝心の門を開けるような素振りは一切見せず、こちらを歓迎しているような様子も無い。まるで開戦前の挨拶のような雰囲気である。

 

 あまりに不遜な馬騰の態度に、さしもの張温も顔を不快に滲ませた。「馬騰殿、これは一体どういう事か。なぜ城の門が今も閉ざされたままなのか、そしてそのような戦装束に身を包んでいるのか。納得できる理由を我々にお聞かせ願いたい!」

 

「その質問に答える前に、あたしも一つ聞いておきたいことがある」馬騰は言葉を続けた。「二人は何故この地の人々が反旗を翻したか、その理由をご存じかい?」

 

 その質問は董卓にとって最大の疑問だった。今の涼州には飢饉が発生している訳でも、大きな戦乱が起こっている訳でもない。黄巾党のような民に害を成す存在もここには居らず、人々に戦う理由など無い筈なのだ。

 試しに張温の思考を覗いて見たものの、彼の思考の中にも思い当たる節はこれといって無い。耿鄙については思考を読む代わりにその顔を盗み見るだけに留めたが、それでも彼の表情からは有力な情報を読み取る事は出来なかった。

 

「反乱の理由など知る必要もない」質問など下らないとばかりに張温は質問を切り捨てた。「おおかた蛮族どもが身勝手な理屈で楯突いているのだろう。そのような不遜な輩を誅するべく某は陛下より討伐の任を賜ったのだ。それを知らぬそなたではあるまい」

 

「董卓殿は理由をご存じかい?」老将軍は続いて董卓へと顔を向けた。

 

 董卓はしばらく思考を巡らせたが、やはり答えには至らなかった。彼女はかぶりを振り、馬騰へと真実を求めた。「……いいえ、分かりません。教えてください。この地に一体何があったのですか?」

 

 彼女の問いかけに馬騰は息を一つ吐くと、これみよがしに言い放った。「知りたいかい? なら教えてやるよ。あいつらが武器を取ったのはね、生き残る為さ――そこにいる耿鄙からの奴からね」

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「それは……一体どういう意味だ?」

 

 張温の声が沈黙を破った。そこには多くの疑問が含まれていた。

 涼州の動乱と耿鄙――その二つに一体何の関係があるというのか?

 

「おやおや。お二方は本当に何も知らないのかい? それとも、あえて知らされてないのかねえ?」先ほどまで浮かべていた皮肉めいた笑みを怒りの表情に変え、馬騰は言葉を続けた。「そいつはね、何の罪もない人々を『他民族だから』って理由で片っ端から殺して回ったんだ。そいつが指示した弾圧と虐殺で、何人もの人々が平穏な生活と命を失った。中にはそいつらと親しい漢人だっていた。それなのにこいつは、それすらも殺したんだーーだからこの地の人々は武器に取った。このままだと自分たちが滅ぼされるってね。当然あたしもその考えに賛同したよ。そいつのやった事は上に立つべき者として――いや、人間として考え得る中でも最低の行為さ。もしこの考えに義が無いって言うんなら、あんた達の言う義ってやつを聞かせてもらおうかい」

 

 馬騰が言葉を言い終えると共に背後に控えていた兵士たちから喚声が上がった。空を震わせるその怒気は聞く者を圧倒せんが勢いであり、董卓が感じていた敵意の正体だった。

 

「耿鄙殿……これは一体どういうことだ?」

 

 今やこの場の視線は全て耿鄙に向けられていた――仮に馬騰の言葉が正しいとするならば、この反乱の発端はこの男にあると言う。無論それが真実とも事実とも限らないが、少なくともそれらを確かめる必要はあった。

 

「まったく……張温殿ともあろうお方が、一体何を言い出すのですか」耿鄙の言葉には小さな、そして明らかな皮肉の表情が含まれていた。「馬騰は敵に――反乱軍に寝返ったのです。そんな人間の言葉を容易く信用するというのですか?」

 

 疑いを掛けられているにも関わらず、耿鄙にはいささかの動揺も見られなかった。それどころか、全て見透かしていたような余裕すら感じられる。その得体の知れなさが董卓にはますます不気味であり、言い知れないこの男への恐怖の一つへと加わった。

 

「そうではない。だが貴公の言葉も聞いておかねば、真偽の程は分かるまい。違うか?」

 

「たしかにそうですね」彼は仕方ないという風に肩を竦めると、悠然と弁明を始めた。「ではお答えしましょう。確かに私は彼女が言うように異民族の拠点を視察していました。ですがそれは、彼女がかつて行っていたのと同じく、異民族の軍勢が漢人の民を襲わぬよう調査するだけのものでした。しかしかなり前から叛乱軍を組織していた彼らは、私たちの調査行為に気づくや否や、突然襲いかかってきたのです。仕方なく我々はそれに応戦し、彼らを撃退したというだけの事。それをさも我らが襲いかかり、まるで戯れるが如く殺して回ったなどと、あまりにも言葉が過ぎます」

 

 一端そう言い終えた後、耿鄙は張温へと詰め寄った。彼の瞳にはいつの間にか見たことのない光が輝いていた。「――司令官殿。先ほども言ったように馬騰は我々を裏切ったのです。敵の言葉など毛ほども信じるに値しません。奴らも金城の反乱軍と同じく早々に撃滅するべきです。違いますか?」

 

 彼の言葉には言いしれぬ重みがあった。それはまるで帝が下す勅令のように将軍の耳から精神へと取り込み、彼を意のままに従わせようとしていた。

 

 これがこの男の真の力! 董卓は息を呑んだ。その力の恐ろしさは心の読める自分が一番よく知っていた。だが、まさか人の心を読むだけで無く、思うままにその意志を改竄する事が出来る存在がこの世に居ようとは!

 

「お、お二人ともどうか落ち着いて……」彼の行いを止めようと、彼女は咄嗟に二人の間に割って入った。だがそれは間違いだったと直後に気が付いた。

 

「ふむん? まさか、董卓殿もあのような言葉を信じると?」光に満たされた耿鄙の瞳がこちらを向いた。次の瞬間には豪雨のような力の奔流が彼女の精神を捕らえようと伸びて来ていた。「貴女まで私が民を虐殺したと疑うというのですか?」

 

 耿鄙が向ける精神的干渉は、董卓が今まで味わったあらゆる苦痛よりも激しく、あらゆる災害よりも強烈だった。例えるならば大嵐の中で今にも転覆してしまいそうな小船――それが今の彼女の精神だった。

 

 壊される、董卓の心の中をよぎったのはそんな思いだった。彼は自分の精神など容易く崩してしまうだろう――それこそ子供が砂で作った城をいとも簡単に壊してしまうように。自分の記憶も、思想も、感情も、全てを無意味な情報の断片になるまで切り刻み、そして二度と元に戻せないように。

 

「い、いえ……決してそのような事は……」揺さぶられつつある心を強く握り締めながら、董卓は懸命に首を横に振った。激しい精神攻撃の嵐の中で、もはや彼女が生き残るために残された選択肢はそれしか許されてはいなかった。

 

 彼女がその言葉を口にすると共に、耿鄙の瞳から溢れていた光が消失した。同時に董卓の心に吹き荒れていた嵐は収まり、平静へと戻りつつあった。許されたのだと董卓は遅れて理解した。

 

「ええ。それでいいのです。貴女は実に正しい選択をした。貴女がそれを間違えない限り、私は貴女の存在を許しましょう。なにより、貴女にはまだ有益な使い道がある」にやり、と耿鄙は不気味な笑みを浮かべた。それは人に向けるというよりも都合のいい愛玩道具に向けるそれであった。「さて張温殿、馬騰軍は倒すべき敵です。そうですね?」

 

「……うむ。そうだ……理由はどうであれ、馬騰が我らを裏切った事実に変わりはない……」どこか虚ろな面持ちで張温が言った。それがこの狄道の戦いにおける始まりの合図だった。「直ちに陣に戻り、攻撃を開始させよ……愚かしくも陛下に弓を引いた馬騰軍を討ち滅ぼすのだ」




久しぶりの投稿になります。
中々執筆の時間が作れず、短めになってしましましたが、可能な限り続けていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

※1月17日に原稿を少々修正、タイトルを「開戦」に変更しました。

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