古井戸を昇って中庭に戻ると、空は既に漆黒の帳に覆われ始めていた。
城壁からは未だに戦いの喧騒が聞こえている。城はまだ陥落していない。その事実に馬岱は僅かに胸を撫で下ろしたが、いつまでも安堵している訳にはいかなかった。敵が生み出した怪物が、いつここまでやって来るとも分からないのだ。
「おじさま……」
最後に別れたサルカンの後ろ姿が脳裏によぎる。彼の義理堅さと精強さは、この半年間ですっかり把握している。おそらく彼は限界が訪れるまで戦い続けるだろう。もしかしたら今も、あの空の上で怪物と戦っているのかもしれない。
ならば尚更ここで足を止めるわけには行かなかった。彼の思いに報いるためにも、持ち帰った情報を必ず仲間たちに届け、城と街を守らなければならないのだ。
蓄積した疲労で鉛のように重くなった両足を引きずりながら、馬岱は最前線となっているであろう城壁を目指して再び走り始めた。
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喧噪が聞こえる。多くの兵士たちが叫ぶ声。馬の嘶きと蹄が大地を蹴る音。甲高い剣戟と悲鳴と怒号。
ここは戦場。今はアブザンの龍鱗隊と交戦中だ。奴らの動きは鈍重だが、その守りは堅く、兵士たちは全員、おしなべて手強い。
いや違う――俺はもうマルドゥではない。ここはタルキールの砂漠ではない。ならばこの音は?
身体が痛む。意識が揺らぐ。感覚を水平に保てない。奇妙な状態。
落ち着け。身体に染み着いた心得を思い出せ。戦士にとって一番必要な事は? 激情と憤怒に身を任せること。そして同時に冷静さを保つこと。
四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く。
呪文のようにそれを唱えて従った。戦名を手に入れる前、心を落ち着けるために亡き祖父から教わった呪い。
四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く。
意識が水底から浮上していくのが分かる。沈み込んでいた感覚が徐々に戻ってくるのが知覚できる。
思い出した――ここは外史。俺は幻影のドラゴンたちと戦い、そして堕ちた。敵のプレインズウォーカーの妨害を受けた事で。
あれからどれくらいの時間が経った? 分からない。だが今すぐにでも起き上がらなくてはならない。まだ戦いは終わっていない。
勝たねばならない。俺を大切にしてくれた人々を守るために……
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サルカンが目を覚ますと、眼前には吸い込まれるような漆黒が浮かんでいた。煌々と輝く星の美しさは戦場においては異質なものだったが、それ故にひどく目についた。
自分は一体どうなったのだろう。幻影に噛まれたはずの身体に大きな傷や流血は無く、さりとて敵に捕らわれた訳でもない。奇妙な状況だった。そもそもあれほどの高さから落ちたというのに、なぜ自分は生きている?
首を振って周囲を見渡すと、動物の骨と毛皮と布を組み合わせた簡素な寝台に横たわっている事が分かった。そしてそれは決して漢人が使うようなものではなく、どちらかと言えば羌の人々が使う代物だった。
「気がついたか」顔の上から声が降ってきた。視線を動かして頭上を見ると、そこには平原で別れた筈の顔があった。
「……周吾」サルカンは餓何の顔を認めた。彼らがついにここまで追いついてきたのだと遅れて悟った。「なぜお前がここに? それに、どうやって俺を見つけた?」
「お前が落ちてくるのが見えた」彼は答えた。混乱している自分にも理解できるよう、出来るだけ簡潔に答えようとしているのが、サルカンにも分かった。「龍の姿となったお前が、透き通った青い化け物と戦っていたのも遠目から見えた。運が良かったんだろう。俺たちが助けに向かった時、お前の身体はちょうど森の木々に受け止められ、枝の一つに引っかかっていた」
「そうか……」彼は頷き、痛みを堪えて身体を引き起こそうとした。「時間がない。急いで俺を城まで連れて行ってくれ。あの怪物が――城を落としてしまうかもしれない」だがその意志に反して彼の身体は起きあがることはなく、代わりに背中に激痛を走らせただけだった。
「落ち着け。まずは身体を癒やす方が先だ」呻くサルカンを餓何は寝台に押しつけた。「傷口はもう塞いだが、それでも動くのは危険すぎる」
苛立ちと共にサルカンは吠えた。「身体がなんだ! 街が無くなるかどうかなんだぞ!」ドラゴンが持つ圧倒的な力を知らない者に、その恐怖は分からない。こうしている間にも、敵は城を落としているかもしれなかった。
「分かっている。だがその身体で、一体何が出来る?」餓何が強く囁いた。言い含めるような口調だった。「……夜の行軍は危険だ。何一つ見えない森の中で、いたずらに進めば大事故は免れない。お前もそれくらいは分かっている筈だ」
「…………」
もっともな指摘に彼は口をつぐんだ。確かに彼らを失うことは、戦いを制する上で絶対に避けなくてはならない事だった。
黙りこくったサルカンを説き伏せるように餓何は言葉を続けた。
「馬騰殿が心配なのは俺も同じだ。だが今は身体を休めることだけに専念しろ。お前の力が必要になる時は必ずやってくる。その時に万全の活躍が出来るようにな」
サルカンは己の中の衝動が徐々に小さくなっていくのを感じた。全ては勝利のため。だがその衝動をぶつけるのは今、この若者に対してではないと、正しく感じ取れていた。
「……すまない」
「気にするな」彼はサルカンの肩を軽く叩くと寝台の横に金属の器を置いた。「中に酒が入ってる。痛みで眠れないようなら飲むといい」それだけ言うと、彼は立ち上がって他の野営地へと歩いて行った。
しばらく戦場の事を考えていたサルカンだったが、今は休むべきだと心を決めると、器を手に取り、中に入っていた馬乳酒を飲み込んだ。強い匂いのそれはサルカンの喉を強く灼いたが、それ以上の眠気を身体の奥から引き寄せると、彼を速やかに回復の眠りへと追い落した。
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マナリスに残ったマナを全て引き出し、幻影を修復した頃には完全に時を失っていた。
こんな状況に陥るなど、思ってもみなかった。まさかプレインズウォーカーがこの場に奇襲を仕掛けて来るとは!
偶然の出来事とは言え、倒せたのは本当に幸いな事だった。もし敵を取り逃がしていたら、相当に苦戦を強いられていただろう。
予定外の事ばかりだが、勝負の運はこちらに傾きつつある。ならば今のうちに全てを片付けてしまったほうがいい。
「耿鄙様」闇の合間から声がした。振り向いた先には連絡役と思しき兵士が一人立っていた。「孫策隊をはじめとした本体は攻撃を一時中断しました。皆、あなたが幻影を率いてくるのを待っています」
「分かってる」彼は頷き、幻影に警戒待機の合図を送った。「夜明けと共に合流し、そのまま攻撃を開始する。それでこの戦いは終わるだろうだと本隊に伝えておけ」
兵士は沈黙を肯定に踵を返し、そのまま兵舎に向かって歩き出していく。
その背中を見つめながら、耿鄙はぼそりと呟いた。
「そう。どちらが勝とうが負けようが、この戦いはそれで終わりだ」
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「まったく……お前ってやつは、どこまで人に心配かければ気が済むんだよ!」苛立ちと呆れが混ざった声音を馬超が発した。拳が震え、今にも振りかぶられそうになっていた。「勝手に居なくなったせいで、こっちは色々大変だったんだぞ!」
非難の矛先は勿論、早朝から姿を消していた馬岱であり、戦闘が一段落してから戻ってきた彼女に怒りを示していた。
「んもぉ、ごめんってばぁ……」対する馬岱も痛い所を突かれたとばかりに困り顔を浮かべた。「でもたんぽぽがおじさまに着いて行ったおかげで色々分かったんだから、その辺は差し引きしてもいいじゃん」
実際、馬岱が持ち帰った情報は最重要なモノばかりであり、サルカン一人だけでは決して持ち帰る事が出来なかったであろう事は馬超にも十分承知している。だとしても、部隊を率いる指揮官が、誰にも相談せずに勝手に戦線を抜け出した事が許せないのだった。
「そういう問題じゃ無いだろ!」
最初より更に大きい声で馬超が怒鳴り散らした所で、横合いから鋭い指摘が飛んできた。
「過ぎたことをいつまでもグチグチと続けるんじゃないよ」口を挟んだのは馬騰だった。有無も言わさぬ思い声音に、二人の娘たちはすぐさま口をつぐんだ。
「“術師を集めろ”。あの男は間違いなくそう言ったんだね?」改めて馬騰は馬岱に尋ねた。
「うん」彼女は強く頷いた。残された言葉に希望を見い出していた。「“幻影の弱点は呪文だ”って、おじさまは言ってた。そこを突くことが出来れば、皆を守ること出来るかもしれないって」
「それだけ分かれば十分さ」馬騰は力強い笑みを浮かべ、ついで手近に立っていた兵士を捕まえて命じた。「あの男を信じるとしよう。城に控えてる術師を全員、朝までにここに集めな! いいかい、一人残らずだよ!」
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そびえ立つ山々の合間から太陽が再び顔を覗かせた時、孫策はようやくか、と小さく息を漏らした。
耿鄙に命じられて攻撃隊に加わったものの、肝心要の幻影は一向に姿を現さず、一日が終わった時は流石に苛立ちを隠せなかった。あれほど勝ち誇った顔をしておきながら、まさか何もせずに終わるとは。
だがそれも、後続からの連絡が届いたことで矛を収めた。敵の奇襲によって時間を失ったというのであれば、無理からぬ事だと認めるしかなかったからだ。
朝日に照らされた城壁を見つめる。幾日にも及ぶ激しい戦闘によって傷付き、砕け、一度は敵の登頂を許したものの、それでもなお気丈に聳え続けている巨大な壁。
忌々しいが、同時に美しい、と思った。不撓の精神は戦士にとって大きな美徳だ。たとえそれが相対する敵でろうとも。
「いよいよ決戦だな」いつの間にか、周瑜が隣に控えていた。眩しそうに朝日を仰ぎ、息を大きく吸い込んでいる。血生臭い戦場の空気が、少しだけ清まった気がした。
「ええ」孫策も彼女に倣って大きく息を吸い込んだ。草木の中に混じった血と鉄の香り。幼い頃から嗅ぎ続けてきた、馴染みの匂いだった。「来たわね」
昇りゆく太陽と共に巨大な青白い輝きが近づいてくるのが見える。耿鄙の作り出した幻影に間違い無かった。
孫策は腰に履いていた剣を抜いた。南海覇王と名付けられたそれは、亡き母・孫堅から受け継いだ宝剣であり、いつの日か孫家が故郷の地を再び統べる事を願って託されたものだった。
「母さん……」
一族の悲願は必ず叶えてみせる。だがまずは、この戦いを生き残らなければ。
朝日に輝く剣に僅かな祈りを捧げた後、孫策は部下を率いて眼前の城壁へと進み始めた。
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夜明けと同時に敵が押し寄せてくる事は分かっていた。強力な切り札を手にした以上、戦いを長引かせる理由は無い。正真正銘、ここが最後の正念場だった。
「来たね……」
馬騰が眺める景色の先には、討伐軍の他に強大な青白い影が二つ浮かんでいた。象を超える巨体。丸太のような手足。剣を敷き詰めたような口腔。それらは以前見たサルカンの龍姿によく似ていたが、放たれる敵意は明らかにこちらに向かっていた。
「……ッ!」
迫り来る怪物の恐怖に、歴戦の兵士たちでさえも思わず息を呑む。以前は心強い味方だった龍が、今度は敵にーーそれも倍の数で攻めてくるとなれば、怯え竦むのは当然と言えた。
「ビビるんじゃないよ! それでも西涼の男かい!」全身に沸き立つ恐怖を押さえつけながら、馬騰が叱咤を飛ばした。「いいかい、あの怪物が城壁まで近づいてきたら作戦開始だ! 防衛隊は何としても術師を守るんだよ!」
指揮官の鋭い命令に男たちはいくらかの冷静さを取り戻し、前もって用意したおいた円形の盾を掲げた。その背後では緊張と恐怖で青白い顔を浮かべた術師たちが、いくらか控えめな返答の声を上げていた。
これでいい。戦士の心はまだ萎れてはいない。挫けなければ、まだ希望はある。
戦士たちが固唾を呑んで待ち構える中、龍たちは遂にやってきた。巨大な羽ばたきを轟かせ、恐怖を纏い、城壁の上から一つでも多くの死を引き寄せとしていた。
両足を突き出し、一体の龍が急降下の体勢に入った。前面に生えた三本の爪は山に生えた木々よりも太く、鋭さは研ぎ澄まされた刀以上だった。
龍が呪文の間合いに入るまで、馬騰は決して慌てなかった。巨大な恐怖と戦いながらも最適の瞬間を見極め、敵にもっとも傷を負わせることが出来る時を見極めていた。
――まだだ。もう少し引き寄せろ。
極限の集中に包まれながら、馬騰は更に目をこらした。死と生の狭間に見える龍の姿は、やけに緩慢に見えた。
「母さん!」
隣に立つ娘たちの声が幾重にも折り重なって聞こえたが、馬騰は無視した。気を急いてはならない。決して避けられぬ間合い、敵がそこに入り込むまではあと数瞬を要すると確信していた。
永遠に思える刹那。そして、ついにその瞬間が訪れた。
「今だ! 撃てぇぇ!!」
怒号に近い命令に従い、術師たちは己の最も得意とする呪文を唱えると、それを幻影に向かって次々と撃ち放った。色とりどりの呪文が青白い怪物に向かって影を伸ばし、マナで形作られた身体を削り取ろうと殺到する。
偽物の龍が呪文に弱いというのなら、必ず効果は現れる。
馬騰はサルカンの情報に全てを賭け、彼女の判断に反乱軍は全てを委ねた。
幾線にも絡み合った呪文の軌跡――それは果たして凄まじい勢いで怪物に向かって行き、透き通った身体の僅か手前で弾かれ、そして消えた。
馬鹿な。
馬騰は我が目を疑った。目の前の現実を嘘だと信じたかった。
だがそれが現実だった。怪物は依然として迫ってきており、迎撃はもはや不可能だった。
轟音と振動。そして悲鳴が城壁中に響き渡った。
衝撃に煽られ、馬騰はその場によろめいた。同時に壁が抉られ、暴力の犠牲になった兵士の身体と壁の残骸が城の内側にこぼれ落ちていくのが見えた。
「く……」
戦況が一変したのを馬騰は肌で感じた。理由はなんであれ、作戦は失敗に終わったのだ。
轟くような咆哮が空を割った。一匹目に続き、二匹目の龍が攻撃を仕掛けるべく、こちらに急降下の体勢に入っていた。
彼らは甘んじてそれを受け入れるしか無かった。