沛国
大地が震えていた。
幾重にも重なった兵士の足音は大地を揺るがし、凄まじい土煙と音を空へと響かせる。彼らの表情や体つきもその音に負けず、感嘆するほどに屈強であった。
兵士たちは一糸乱れぬ陣形を維持しながら荒野を三度、四度と往復していく。そこには戦の気配こそないが、みな兵士特有の血気に溢れていた。
「帝に楯突き、天を乱す黄巾党を討滅せよ、ね」曹操は自軍の訓練を眺めながら、何度目とも分からぬため息を付いた。それは己に与えられた任務の馬鹿馬鹿しさが吐き出させたものだった。「自らが捲いた種だというのに、奴らはなぜそれを理解しようとも改めようとも思わないのかしら」
彼女は朝廷からの要請により、各地で反乱を起こしているという賊の討伐準備を行っていた。
黄巾党と名付けられたその賊は、太平道と呼ばれる邪教が発足したものだが、その構成員は重税や圧制が元で身をやつした農民たちが大半であり、元を辿れば傍若無人な宦官や役人たちの被害者でもあった。※1
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《黄巾賊/Yellow Scarves Troops》
現在、朝廷内部では地位や役職を金で売買する不法行為が横行しており、宦官や役人たちは自身や血縁者に新たな役職や地位につけるべく、上役へと賄賂を送る。そしてそれによって生まれ新たな宦官や役人たちもそれに続き、自身がよりよい階級や職にありつくため、または血縁者を新たな役職や任地に就かせるために領地の民から重税を貪り、賄賂の為の私腹を肥やすのである。
そうして繰り返された負の連鎖によって生まれた破滅者たちが寄り集まったのが、他でもない黄巾党であった。
「華琳様」横合いから誰かが曹操の真名を口ずさんだ。
真名というのは最も親しい間柄の人間のみが呼ぶことができる本当の名前であり、本人の許可なくそれを口にすれば即座に斬り捨てられてしまう程に重要で、故に人々が最も信頼の証としているものだった。
異を唱えたそれは自身の腹心を務める従姉妹、夏候淵の声だった。「他の者たちも近くに居ります故、あまり滅多なことは申されませぬよう」彼女は辺りを見渡し、曹操の声が自分以外の誰にも届いてないことを確かめると小さく胸をなで下ろした。
曹操は彼女のそんな用心深いところを気に入っていた。細かな気配りや用心深さといった素養は腹心には必要不可欠だ。そして夏侯淵はその素質を余す所なく兼ね備えていた。
「分かっているわ。秋蘭」曹操はうんざりするように言葉を返した。これならまだ持病の頭痛に悩まされている方がましだった。「ただ、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて果てていただけよ」
本来、民や税を管理し乱や賊の発生を抑えるはずの役人たちが、自ら重税や圧制によって民を疲れさせ、乱さずともよい平和を乱し、無辜の民を悪しき賊軍へと変貌させている――むしろ今の世界における悪というのは賊ではなく、それを次々と生み出しながらも平然としている朝廷や役人たちの方ではないのだろうかと、曹操は思わずにはいられなかった。
新しい秩序が要る。金さえ積めば簡単に手に入るような陳腐で安っぽいものではなく、高潔な思想と確固たる力に基づいた新しい秩序が。
曹操の胸の内で膨らむその思いは、日を追うごとに強まっていくばかりだった。
曹操と夏侯淵が会話を交わす中、訓練を終えた軍の中から一人の女性が二人へと近づいてきた。「華琳様、我らが兵はいかがでしたか?」
黒蜜のような長髪を持った彼女は夏候惇と言い、夏侯淵の姉にして曹操の脇を固めるもう一人の副官であった。
「問題ないわ。流石は春蘭ね」曹操は満足げに頷いた。彼女の軍事に関する手腕に疑いはない。部隊をまとめる統率力もさることながら、彼女自身の戦闘力も軍で右に出るものが居ないほどであり、曹操はしばしば彼女に先陣を切ることも任せていた。
「……ところで華琳様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」ふと、夏候惇が疑問の表情を主である従姉妹へと向けた。「先行している朱儁軍から連日に渡って援軍要請が届いているにも関わらず、なぜ我らは出撃しないのでしょうか?」
曹操は思わず笑みをこぼした。彼女は妹に比べていくらか短慮ではあったが、そこが彼女のかわいい所でもあった。「馬鹿ね。こんな下らない戦いで貴重な曹家の兵力を失う理由などないでしょう? それに援軍として向かう以上、それ相応の時期というものがあるのよ」
「はぁ……」
と、夏候惇は返事を返したが、どうやら言葉の意味を真に理解しきれてはいないようだった。曹操は微笑みを苦笑に変えて言葉の意味を噛み砕いた。
「両軍が疲れ切った所で私たちが援軍に来れば、相手はこちらを最も感謝する上に、自分たちは疲れ切った敵と戦うだけでいい。簡単な理由でしょう?」
単純かつ明快過ぎる理由に夏候惇はしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがて言葉の意味を理解すると、童女のように目を見開き、感嘆の意を示した。「なるほど! 流石は華琳様です!」
「……これくらいはすぐに思いついてほしいのだけれどね」曹操は肩をすくめた。武勇も結構だが、指揮官として更に飛躍してもらう為にはそういう部分も伸ばさなくてはならないようだ。「でも確かにそろそろ頃合いかもしれないわね。春蘭、出撃の準備はどうなっているかしら?」
「そちらは万事問題ありません。今すぐにでも出撃できます」今度は色よい返事を告げた。
手に入れた情報によれば、先行している朱儁軍は地の利を生かす黄巾党に苦戦し、既に敗色撤退の気配を見せ始めている。こちらが救援として到着する頃には恐らく包囲されている頃だろう。そしてそれは味方に恩を売り、敵との消耗を避けようと考えている曹操にとって最も都合が良い時期だった。
「ならば明日の明朝より出撃する。兵たちにもそう伝えておいてちょうだい」
「了解いたしました!」夏侯惇は踵を返すと、承った命令を下すべく集合していた隊を呼び集めるべく男たちの中へと戻っていった。
その背中を見送った夏侯淵は曹操へと近づくと念を押すように言った。「華琳様、分かっておいでですね? 殺してはなりません。救うのです」
曹操は首を振った。言われるまでもなかった。
「二度も言わせないで頂戴。分かっているわ。すべてね」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
潁川
周囲を囲む夥しいまでの敵。援軍は未だに到着していない。敗北の気配は背後にまで迫って来ている。兵たちの士気はすでに下がり始めている。何とかしなければならない。
状況を打破しろ。包囲を突破しろ。敵を撃破しろ。……だがどうやって?
朱儁は檄声を飛ばしながら城壁の上から身を乗り出して戦場を覗いた――武器を手に自分たちへと殺到する人々を。その気迫と形相たるや、見るだけでも勇気が要るものであった。※2
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《陸軍元帥/Field Marshal》
油断した。相手が賊だと侮った。考えを改めなければならない。この敵は決して怒りと憎悪に任せるだけの無知な賊ではない。彼らは優れた指揮官によって統率され、効果的にこちらを殺しにかかる恐るべき軍団だ。
「相手はたかが賊軍だ!所詮は烏合の衆に過ぎん! こちらの精強さを見せつけてやれ!」怯む味方を思いとは逆の言葉で鼓舞しながら、朱儁は必死に敵の事を考えた。
向こうはこちらを完全に包囲している。戦えば戦う程こちらの兵士たちは疲れていく。兵糧も物資も残り少ない。味方。味方はいつ来るのだ?
新たな風が必要だった。状況を変える強い風が。だがその風は未だに吹かない。ならば吹くまで耐えるしかない。全てを観察しろ。敵に主導権を奪わせない方法を考えろ。
「もうすぐ援軍が来る! それまで何としても持ちこたえろ!」兵士たちに声をかけ、朱儁は再び戦場を見回した。状況を整理する必要がある。
四方には城壁を囲むように展開された二万の敵。民上がりの賊軍とは思えないほどに統率されていて士気も高い。これを自力で突破するのは容易ではない。
要請した救援はまだその気配を見せない。ひょっとしたら来る途中で接敵したのかもしれない。そうならば到着するのには更なる時が必要だろう。
耐えなければならない。敵の攻撃と士気の低下を凌ぎ、兵士たちをより慎重に酷使し、一刻でも長く戦わせなければならない。
「動ける者はあとどれくらい残っている?」朱儁は横で兵士に指示を送っていた副官に尋ねた。物資や兵数の正確な管理は主に彼女に一任していた。
「非戦闘員を含めておよそ八千ほどです」副官――屈強な顔つきの女はその表情を苦くしながら答えた。それは紛れもなく受け入れがたい事実に耐えている顔だった。
八千、心許ない数字だ。二万に届いていた最初と比べて、既に半数以上の兵士が大きく傷を負っている。彼らを運び出す手間や非戦闘員の護衛も考えれば、戦闘に動かせる人数はさらに少なくなるだろう。厳しい状況だった。
今日や明日はまだ問題なく戦えるだろう。三日四日後も恐らく耐えていられる。だが五日以降は士気が、何よりも先に兵站が持たない。
「厳しい……か」朱儁は決して口に出さないと誓っていた本音を思わず零した。自分がそう言ってしまえば必ず敗北に繋がるであろう言葉を。
だが結果として、その心配は杞憂に終わった。
「朱儁将軍! 緊急のご報告です!」不意に一人の兵士が駆け寄ってきた。顔色は朱儁や副官の顔色とは逆に歓喜の色に染まりきっていた。
二人は顔を見合わせた。まさに風の気配を感じ取った瞬間だった。
「南方より旗が見えます! 文字は「曹」! 要請していた曹操の援軍に違いありません!!」※3
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《機を見た援軍/Timely Reinforcements》
次の瞬間、朱儁は城壁の上を飛ぶように駆けていた。今まで敗色と疲労に鬱屈していた自分の体が、こんなにも息を吹き返すのかと驚くほどに。
そして南方から上がる土煙が確かに味方のものであると確信すると、兵士たちへと大声で新たな指示を送った。
「勝機は今、我らに移った!!」すべての条件は覆った。新しい風が吹き、敗北の気配を彼方へと消し去ったのだ。「こちらも打って出る! 生き残っている騎馬隊は曹操軍と協力して敵を挟撃しろ!! 敵の包囲を突破するのだ!」
兵士たちは歓声をあげ、敗色と疲れに染めていた表情を喜びと勝利への確信へと変えた。
朱儁は自分もその勢いに乗るべく場の士気を副官に任せると、出撃準備の為に城壁を降りていった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
黄巾党の兵士は大半が農民ばかりではあったが、実際はそれが全てではない。
稀にだが太平道に己の居場所を見出した将や悪徳な朝廷を倒そうと義憤から身を投じる流浪の武者、はたまたこの期に乗じてさらなる悪徳を重ねようと暴れ回る無頼者など、様々な者が混ざり込んでいた。
そしていま、見事な手腕で官軍を包囲せしめている将軍・波才もまた、太平道に自分の道を見出した武将の一人だった。
きっかけは些細な事だった。貧しい身の上が原因で己の才が認められず、腐って野盗まがいの事をしていた所を黄巾党に将として迎え入れられたのだ。
己の頭脳を用いて敵を翻弄し、手玉に取っていくのはまさに快感だった。それが他の仲間のためになり、自分の才能を認めなかった連中への報復にもつながるのだからこれほど面白いことはない。
波才は自らの天運と機転の良さに笑みを浮かべた。
野戦を仕掛けてきた官軍を首尾よく撃退した所まではよかったのの、不手際で敵を城へと落ち延びさせる結果になってしまった。だがとっさに他の場所から来た味方と連携した事で逆に敵を城へ釘付けにし、包囲することに成功したのだ。
焦らずともここで待っていれば向こうは勝手に自滅する。そうなれば後はこちらの思うがままだ。
「仕上げは順調、あとは待つだけか……」波才は更に唇を上向きに歪め、脳裏でゆくゆくの人生を夢見た。「ここで勝てば張角様への覚えもめでたい。そうなれば俺はもう黄巾党の名軍師だ。 ゆくゆくはもっと大きな軍団を率いて……」
その時、周囲を見張ってた兵の一人が駆け寄ってきた。息の荒れ具合からして緊急の報告であることは疑いようもなかった。「波才様! 大変ですだ! おら達の後ろから敵軍が近づいてきてますだよ!」
「何!?」驚いた波才は駆け寄ってきた兵士の肩を揺らして怒鳴った。「どの方角だ。敵はどこから来ている!! 今すぐ出撃して敵の合流をくい止めろ!」
その見張り、頬に唾が弧を描いて飛んできた若い男は波才の剣幕に当てられたように、震え上がった。「み、みみみ、南ですだ! しかも敵はこっちの陣地に火をつけながら向かって来てますだ! 今みんなは火を消すのに必死で、戦うなんてとても……」
「火だと!」波才は掴んでいた兵士の肩を投げ捨てた。「……まずい」
黄巾軍で使っている兵舎は掘っ建て小屋に干し草をかぶせただけの簡易極まるものだ。しかもここ数日以上は雨が降っておらず、木も草も乾ききっている。そこに火矢を撃ち込まれればどうなるかなど、まさに火を見るよりも明らかだった。
天秤は傾いた。勝機は既に自分の手の中には無い。こうなった以上、ここに居続けることは愚策でしかない。
「……陣を捨てる。急いで隊をまとめて北にいる味方と合流するぞ」波才は努めて冷静な声を喉から絞り出した。指揮官であるには常に冷静である必要があった。「城に残っている敵の数はそこまで多くはない。奴らはこちらの包囲で疲弊している。追って来るとしても数は多くないだろう。援軍さえ捌く事が出来れば、生き残る手はまだある」
それを聞いた兵士は縋るような顔をしばらく浮かべていたが、やがて自分のするべき事を見つけると、他の陣地へと走っていった。
「なんとしても生き延びるのだ……そうでなければ俺に未来はない……」
波才は弱気になろうとする自分を叱咤するように呟くと、味方に撤退命令を下すべく自分も行動を開始した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
炎は瞬く間に敵陣を紅蓮に染め上げた。その熱は何もかもを飲み込んで焼き尽くし、武器も敵も食料も全てを等しく無価値な燃え殻へと変えていく。
曹操軍は混乱する黄巾軍をほとんど一方的に討ち取った。背面からの奇襲と火計によって戦闘能力のほとんどを失っていた敵は、まさに赤子の手を捻るようにいとも簡単に打ち破られていった。※4
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《火攻め/Fire Ambush》
「華琳様。城の中から出陣する部隊があります。旗の文字は「朱」。おそらく朱儁軍のものに間違いないかと」隣で馬を駆っていた夏侯淵が近づいてきて言った。瞳には攻撃的な輝きが溢れていた。「いかが致しますか?」
彼らが出てきたという事は、こちらの出現を察知して即席の挟撃を狙ったということになる。中々悪くない考えだ。
曹操は口端を機嫌よく曲げ、馬の足を速めた。「いい判断ね。全軍このまま前進!! 出陣した朱儁軍と連携して挟撃に入る! 混乱する敵の背後を思う存分食い破ってやれ!!」
「はっ!」背後を走る味方に向け、隣を走っていた夏候惇が吼えた。「全軍突撃! 我ら曹操軍の強さを見せつけてやるのだ!!」
彼女の号令に従って背後の兵士たちも返答の大合唱を返し、慌てふためく敵の元へと殺到していく。
鬨の声に押された兵士たちは土煙を旋風とともに巻き上げ、まさしく風のように進軍していった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
突如として現れた敵援軍によって、黄巾党は数刻と経たずに崩壊した。彼らは朱儁軍を包囲こそしていたが、野戦から間を置かずに包囲戦を行ったことにより、彼らもかなり体力を消耗していた。危うい均衡で保っていた有利が新たな敵の登場によって完全に崩れたに過ぎなかった。
「官軍め……やってくれたな」
波才は唇を噛みながら僅かな部下と共に鬱蒼とした山の中を馬で駆けていた。彼が指揮していた部隊は火計と挟撃によってなすすべもなく打ち取られて既にない。彼らは一瞬にして手負いの敗将へと成り下がったのだ。
とは言え、まだ希望が完全に断たれた訳ではなかった。潁川で生まれた波才にとって、このあたりの土地は庭も同然だ。今は知っているこの山は複雑に入り組んでいて、大軍はもちろん入って来れない。追手を撒くならばここを通るのが一番だった。
潁川を抜ければまだ勝機はある。黄巾党の同志は他の州や土地にも大勢控えている。彼らと合流さえできれば自分は再び兵力を手にできる。その時が来ると信じて今は耐え忍ぶしかない。
「仲間たちと合流さえできれば……俺にもまだ挽回の好機が……」
そう言いかけたところで、不意に誰かがその言葉を否定した。「ほう? まだそんな希望があると思っているのか?」
波才は足を止めた。彼らの目の前、細い山道の先には大剣を背負った女が一人、馬に跨って静かに佇んでいた。
敵の追手――状況を察知した波才と部下たちは佩いていた剣を引き抜いた。
「貴様……官軍か!」怒気を孕んだ波才の声が山道に響き渡った。
「我が名は夏候惇。華琳様の刃にして、曹操軍最強の戦士だ」夏候惇は背負っていた大剣を素早く引き抜くと、その切っ先を波才へと向けた。「貴様が黄巾軍の指揮官だな。お前に恨みはないが、華琳様のためにその首貰い受けるぞ」
ぞくりと肌が粟立った。こいつは強い。おそらく今まで出会ってきた誰よりも。突き付けられた刃の冷たさと殺気から波才は瞬時にそう感じた。
恐らく自分はこの女戦士に敵うことはないだろう。だが敵わないのと勝利できないのは別の話だ。頭を使って勝機を探れ。今までそうしてきたのと同じように。
「……お前一人で何が出来る」そうだ数だ。相手は一人。確かに強いだろうが、こちらにはまだ仲間がいる。「かかれ! 相手は一人だ! 数で押せば何とでもなる!」
波才の号令に従い部下たちは女めがけて殺到した。彼らは自分が率いてきた部下の中でも特に武勇に優れた者たちばかりだ。それが七名。敵とて無傷でいられる筈がなかった。
だがそれが波才の計算違いだと気付くのはすぐ後の事だった。
「甘いな。雑兵どもがこの私が倒せると思ったか!」夏候惇は冷ややかな視線と共に微笑むと、襲い掛かる部下たちに向かって鋭い剣筋を浴びせかける。
皮肉にも女の剣は非常に美しかった。それは一つ一つが誠に感嘆せざるを得ないほど鋭く、美しく、そして残酷だった。
最初に襲い掛かった部下は一合も斬り合うことなくその首を飛ばされ、一丈ほど進んだ後どさりと転げた。二人目は振りかぶった所を両腕を寸断され、馬から崩れ落ちるとその場に蹲った。続く三人目と四人目に至ってはほとんど同時としか思えないほどの勢いで胴を両断され、馬上から上半身を地面へと投げ出した。残った五人目と六人目と七人目は円陣を組んで襲い掛かったが、誰もが一太刀も入れることなく斬り刻まれると、最後は無残な骸を晒すに終わった。
「残るは貴様一人だぞ。さあどうする?」返り血によって紅蓮に染まった夏候惇が静かに吼えた。血風をまとった言葉はまさに死の宣告に等しかった。「何か言い残すことはあるか?」
完敗だった。彼女の力は自分の予測の範疇から完全に外れていた。まさか全員が一斉にかかっても適わないとは。
「我が名は波才! 貴様ごとき雑兵に討ち取られるような器ではないわ!」波才はせめて死に際の格好がつくように形ばかりの言葉を上げると、馬を走らせ斬りかかった。「賤しい官の雌狗め、我が刀の錆にしてくれる!」
女はそんな情ない自分を嘲笑うかと思ったが、礼を尽くすかのように真摯で容赦ない殺気を放つと、振り放たれた斬撃を大剣であっさりと受け止め、一薙ぎで己の首を跳ね飛ばした。
「敵将波才、この夏候惇が確かに討ち取ったぞ!!」
宙に跳ね飛んだ波才の耳に最後に届いたのは、夏候惇が誇るそんな勝ち台詞だけであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
降伏した黄巾軍の収容を済ませた朱儁は、合流した曹操たちを城の中へと迎え入れた。
曹操軍の兵士は一目で分かるほど高い練度を誇っており、その精強さは朱儁の軍と同等かそれ以上にも感じられた。もし援軍に来たのが彼らでなかったら、戦闘はもう少し長く続いていたかもしれない。
先の戦闘で疲弊した彼らをひとまず休ませた後、朱儁と曹操――それに互いの副官を含めた四人は城の一角で改めて会合を開いた。
「此度は援軍感謝する。自分が右中郎将の朱儁だ」朱儁は感謝の意を込めて曹操へと手を差し出した。「実に危ういところに来てくれた。君たちが居なかったら今回の勝利はなかっただろう。本当に感謝している」
「曹操よ。援軍が間に合ったようで何よりだわ」曹操は朱儁の丸太のような腕と野性味にあふれた風貌に何か感じるところがあったのか、形式だけの弱い握手を済ませるとすぐに手を引っ込めた。
曹操の反応に朱儁をいささかもの悲しい気分を味わったが、他人のそういった反応には何度か経験があった。それと同時に気軽に握手を求める己の悪い癖をそのうちにでも直さなければならないと朱儁は自らに言い聞かせた。
すると背後に控えていた副官が噛みつくような言葉を放った。「以前から曹操軍には何度も援軍要請を出していたはずです。もっと早く来て頂ければ、我々はここまでの損害を出さずに済みました。なぜ援軍が遅れたのですか? ひょっとすると貴女がたは、あえて援軍を滞らせていたのではないのですか? 我々に対して最も大きな恩を売りつけるために」
彼女がこのような態度を取るのは非常に珍しいことだった。少なくとも朱儁の記憶の中では。今までこんな態度を彼女が他人に取ったのは、目の前に居る敵に対してのみだった。
そして彼女はこうも言った。「援軍を遅らせたのは、我々に最も大きな恩を売るためではないのか?」と。
朱儁はそんな発想があるということを考えたことすらもなかった。人を助ける行為――そこに価値の大小があるということに。
副官が怒気を孕んで喋るなど欠片も想像していなかったであろう曹操と、その背後に控えていた青髪の女副官は一瞬の間、その気迫に目を剥いていたが、一方は不遜な彼女に対して憤慨の表情を浮かべ、もう一方は実際に口を開いて答弁を行った。
「返答にも書いたと思うけど、遠隔地で募集した兵士が集まるのに思ったより時間が掛かってしまったのよ。悪かったわね」朱儁の時とは打って変わって、曹操は明らかに副官に好奇の目を向けていた。「ところで貴女は?」
顔に硬い怒りを纏っていた副官だったが、やがて自分が己の名前すら名乗っていないことに気が付き、改めて名乗りを上げた。
「……これは失礼しました。私は朱儁様の副官を務めております、李蓮と申します」
曹操はしばらく李蓮の顔をじっと見つめた。その瞳の奥に潜んでいるであろう何かを見定めるように。
彼女はそこに何を見出したのだろうか?
「李蓮。この曹操に臆せず意見を叩きつける度胸は買うけれど、人の行いに腹を立てるならまず自分の未熟さを省みるべきではなくて?」身長差からして曹操は李蓮を見上げていたのだが、朱儁には逆に彼女が李蓮を見下ろしているように感じられた。「私たちは本来、西側で戦っている皇甫嵩将軍の援軍に向かうように指示されていた。それを貴女たちが黄巾軍に包囲されているという要請を受けたから急遽行き先を変更して駆け付けたのよ? 貴女たちには感謝される事はあっても、文句を言われる筋合いは無いはず。まして遅れて来たことを理由にそれに疑いをかけるなど、恥を知るべきだわ」
彼女の理論は李蓮の批判的意見よりも正しく聞こえた。だが彼にはその真意も真実も分らなかった。本当にただ遅れただけなのか、そこに何かの意思があるのか。だが少なくとも、それはこの場で言及するべきことではない気がした。
「やめろ鞠。もう終わった事だ。いくら詮索しても仕方がない」朱儁は李蓮が自分へと呼ぶことを許した真の名をあえて口にして止めた。
「しかし、礼仁様!!」
なおも食い下がろうとする李蓮を手で制すと、朱儁は曹操に頭を下げた。「曹操殿。悪いが俺たちにはもう捕虜の面倒を見るだけの力も残ってない。すまないが、降伏した黄巾軍の事は君たちに任せてしまっても構わないか?」
曹操は頷いた。「問題ないわ。こちらの部隊を一つ護衛につけるから、貴方たちは西に居る皇甫嵩軍と合流して。ここの守備と降伏した連中の後始末は私がしておくから」
「恩に着る。いつかまた共に戦える日を楽しみにしている」
「ええ。私も楽しみにしているわ」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「……あの二人、指揮官と副官にしてはいい組み合わせね。使えるなら面白い手駒になるかもしれないわ」
朱儁軍を城から送り出した曹操は、あの二人の関係とその使い道について考えていた。
素早く機を見る事が出来る指揮官と、思惑有る味方に正しい疑いを持てる副官――部下にするならば、これほど役に立つ存在は居ない。
真名を預け合っている所からして、ひょっとしたら何かしらの関係を持っているのかもしれないが、逆にそこを突けば、己の物にすることもそれほど苦労することはないだろう。利用できる機会があれば揺さぶりをかけてみるべきだ。
「またお悪い癖が出ていますよ。華琳様」夏候淵が軽い揶揄を横から飛ばした。「そのように次から次へと欲を出されますと、我ら姉妹は嫉妬で身を焦がしてしまいます」
「あら? 貴女たち姉妹は別格よ」くすり、と曹操は笑みをこぼした。「とは言っても今はまだまだ人手不足。優秀な人材はいくら居ても困ることはないもの。確保できるならそれに越したことはないわ」
「それはそうですが……」夏侯淵は複雑な表情を浮かべた。
「まあ、あの二人を手に入れるとしてもそれは当分先の話ね」「まずは既に手に入れている方からこなしていきましょう。秋蘭、収容した黄巾兵たちを城に集めてちょうだい」
「は。かしこまりました」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
数時間後、曹操は収容した黄巾の捕虜たちを城の前へと集めた。
敗れた黄巾党の兵士は逃亡したごく一部の連中を除き、大半は手のひらを返すようにあっさりと降伏を受け入れていた。陣地と物資のほとんどを焼かれ、指揮官をも失った今、彼らには降る以外の選択肢はなかったのである。
生き残って降伏を受け入れた黄巾兵は全員で一万五千以上――数だけ見れば、これだけでも曹操軍の三倍以上である。
不安の表情で自分を見つめる彼らは曹操にとって既に敵ではなかった。彼らは元々、無能な帝と税を貪る悪人たちの犠牲になった無辜の民だ。ならば彼らをあるべき方向へと導き、再び自立させる事こそが自分の役割であると、曹操はずっと考えていたのだ。
「我が曹操である」ゆっくりと、だが大きな声で曹操は彼らへと語りかけた。「黄巾をつけた民たちよ。我はそなたらの力になりたいと考えている」
黄巾の人々はお互いに仲間の顔を見合わせた。彼らには彼女の真意が分からなかったのである。
曹操は言葉を続けた。ゆっくりと。はっきりと。「我はそなたらに新たな大地を与えよう。そなたらはそこで新たな田畑を起こし、実りを刈り取り、自らの力でもって健やかに暮らすのだ」
「……おらたちに畑をくれるってのか?」ざわついた黄巾の中の誰かが曹操に向かってそう尋ねた。その質問はまさしく全員が頭の中に思い浮かべていた疑問そのものだった。
曹操は大きく頷いた。「そうだ! 黄巾の民たちよ! 我と共に来るがいい! もうその手を憎しみと怒りに染める必要はない! そなたらの手は、大いなる実りと平穏な明日を掴むために存在しているのだ!」
その叫びは地震のように黄巾全体を揺るがした。初めは信じられないという風にざわざわと。やがて時を隔てるにつれて次第に大きくごうごうと。終いには城中を震え上がらせるほどの大歓声となって曹操たちを包み込んだ。
「おお……曹操さま!」「曹操様!!!」黄巾の民たちはこぞって曹操の名を呟き、それを湛えるように幾度も叫んだ。幾度も幾度も。
「民たちよ! 我はそなたらと共にある! 今こそ憎悪の黄巾を捨て去り、我に付き従うがいい。そなたらが求めるならば我は与えよう。平穏を!実りを!そして明日を! 今この時より、そなたらは黄巾兵ではない。我が曹操の兵士、すなわち曹兵となるのだ!!」
曹操の宣言に黄巾は大歓声を上げて応え、城中の空は彼らが脱ぎ捨てた黄巾が埋め尽くされた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
兗州
黄巾党討伐から数ヶ月後、曹操はその功績によって首都・洛陽の東に位置する兗州の刺史(州全体を管理する長官)へと任命されることとなった。出撃前の地位は騎都尉(有事に軍を率いて出撃する中央の指揮官)だったので、これはかなりの出世と言えた。
「華琳様。このたびは兗州刺史への就任、おめでとうございます」夏侯淵は、まるで自分の事のように嬉しそうに頬を緩めた。
「喜んでばかりも居られないわ。黄巾軍の襲撃で逃げ出した前任者の引継も含めて、今は手を借りたいほど忙しいもの」曹操の野心に燃え上がる目を机の上の書類から夏侯淵へと向けた。「ところで沛国に置いてきた潁川兵たちは今どうしているかしら?」
夏候淵は意を得ているとばかりに頷くと、手にしていた巻物を手渡した。「は。現在は曹家の兵士と共に荒地の開墾と農作に励んでおります。先日は姉者も楽しそうに鍬を振るっていましたよ」
「そう……春蘭がねえ……」
曹操は頭の中で大地に鍬を立てている夏候惇の姿を想像したが、それがあまりに不釣り合いだったので、脳裏でその姿が完成するのを諦めた。代わりに手渡された巻物を受け取ると、ざっとその中身を確認した。
報告によれば潁川兵による荒地再生作業は順調に結果を見せ、すでにいくつかの田畑には作物が植えられている。このまま順調に進めば彼らから実りを手にする日も、そう遠くはないだろう。
収容した捕虜――潁川兵と名を変えた彼らに曹操が最初に命じたのは、他ならぬ黄巾党によって破壊された田畑の再生だった。※5
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《剣を鍬に/Swords to Plowshares》
「破壊された田畑を蘇らせることで与えるべき農地を確保し、同時に新たな税収と食料を確保する……さすがは華琳様です」
「屯田は武帝がかつて行った政策よ。私が最初という訳でもないわ」曹操はつまらなそうに手を振った。「とはいえ、皆がやる気になってくれているなら何よりね。でもこれはまだ始まりに過ぎないの。私がいつか天下を取り、この腐り切った世界を力で以って一新する――この野望が達成されるその日まで、付いてきてくれるわね。秋蘭?」
「はい」夏候淵は曹操の瞳を見つめると、躊躇いもなく頷いた。「我らが姉妹、どこまでも貴女様について行きまする」
※1 黄巾賊/Yellow Scarves Troops ポータル三国志
※2 陸軍元帥/Field Marshal コールドスナップ
※3 機を見た援軍/Timely Reinforcements 基本セット2012
※4 火攻め/Fire Ambush ポータル三国志
※5 剣を鍬に/Swords to Plowshares 第4版