真・恋姫†無双~未踏世界の物語~   作:ざるそば@きよし

5 / 22
叛徒

「明日の行軍でお前たちは寿春の城に向かう。恐らくそこで初めての実戦を経験することになるだろう。生きて戻って来られるかは、お前たち次第だ」仲間と共に耳にした司令官の言葉を、呉桂は再び頭の中で繰り返した。それはあらゆる兵士が越えるべき最初の試練であり、同時にこれから何度も訪れるであろう難関の一つでもあった。

 

 黄巾軍の兵士として、彼は十分に訓練を積んだつもりだった。半年もの時間をかけて武器の扱いに慣れ、集団での行軍を覚え、敵を殺すための技術に磨きをかけた。だがそれでも、初めて挑む戦いの不安は消えることは無かった。

 

 もしかしたら苦悶のうちに死ぬかも知れない。本懐を果たせず殺されてしまうかも知れない――それは恐ろしい事に違いなかったが、重税に喘ぎ、密告に怯えながら故郷で暮らし続ける事に比べれば、遙かに軽い事に思えた。

 

「小僧、ひょっとして戦いは初めてか?」隊列の隣を歩いていた男が出し抜けに尋ねてきた。脂ぎった髭面には捻じれた揶揄の感情がありありと浮かんでいた。「緊張で今にも死んじまいそうって面(ツラ)だぜ」

 

 呉桂は話しかけてきた男に視線を移した。岩のような肉体にいくつも刻まれた戦傷。刃のような鋭い視線は油断無く周囲を警戒しており、一見して戦慣れした兵士だと知ることが出来た。

 

《黄巾の略奪者》https://imgur.com/a/PaoNoVz

 

 なるべく男を刺激しないよう努めながら呉桂は答えた。「これが初めてだ」こういう手合いは下手に関わると碌な事がない。訓練兵時代の経験から呉桂はその事をよく理解していた。

 

「なら一つ忠告しておいてやる。戦場では強い奴が一番偉ぇ。おいしい思いがしてぇなら、頑張って生き残るこったな」一方的に言い放つと、男は後ろに控えていた手下らしき連中を引き連れて列の前方へと消えていった。

 

 “おいしい思い”と言うは恐らく略奪の事だろう。占領した城や村落から金品と食糧を奪い取り、生き残っている女子供を嬲って楽しむ――まるで野盗や匪賊のやることだ。

 通常、ああいう手合いは軍隊という組織の中では真っ先に危険分子として粛正される筈だが、どういう理由か未だ野放しになっているらしい。

 関わると後で厄介な事になりそうだな――徐々に小さくなっていくならず者たちの背中を見つめながら、呉桂は一人そう思った。

 

「あいつらの事は気にしないほうがいい」誰かが再び呉桂に向かって声をかけた。今度は自分の後ろを歩いていた男だった。「奴らは軍の中でもガラが悪い事で有名なんだ。もともと盗賊だった連中で、黄巾に入った今でも略奪や強姦を止められないらしい。そのくせ強さだけは一流だから、上の人間も手を焼いているんだ」

 

 男は痩身の中年で、人の良さそうな性格が全身から滲み出ていた。苦辛や絶望から戦いに身を投じる事が多い黄巾軍において、未だ目の光を失っていない稀有な人種だ。

 恐らく彼は経済的な困窮や世間への失望ではなく、純粋な信仰心から軍に入った口なのだろう。太平道は今でも多くの信者を生み出している。その中でも特に熱心な信者たちは、こうして戦いの中に居場所を見出すこともあるのだ。

 

 呉桂はさほど興味がなさそうな口調で言った。「俺にはやらなきゃならない事がある。その邪魔にならなければ、どうでもいいさ」その言葉は彼の本心を現していた。

 

 男は疑問に首を傾げた。「君は何か目的があってこの軍に入ったのか?」

 

「ああ」彼は頷き、己の目的を告げた。「どうしてもこの手で殺したい奴が居るんだ」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 揚州にある小さな村落――その中でも特に小さな百姓の倅として呉桂は生を受けた。

 両親の他には姉が二人と妹が一人。生憎と男子には恵まれず、呉桂の他に男の兄弟は一人も居なかった。

 一家の暮らしは決して裕福とは言い難かったが、その中には確かな温もりと清らかさがあった。春には皆で種を蒔き、秋には全員で実りを刈り取る。何の変哲もない日常の繰り返しではあったが、家族の一人一人が全員と助け合い、互いを敬い愛しながら生きていく生活に呉桂はとても満足していた。

 

 しかし、その土地を監督する領主が変わったことで彼らの暮らしは一変した。

 

 新たに領主となった唐安という男は、多額の賄賂によって領主の座に就いた所謂“成り上がり者”だった。その仕事ぶりも決して有能ではなく、むしろ前任者の方がよほど統治に優れていた。

 

 ある日、唐安は領民に対する税率を三倍に引き上げた。増税の理由として賊対策による軍備拡張や公共設備増設のための投資など、様々な建前をつけてはいたが、その実体が更なる賄賂を生み出すための金策であることは誰の目にも明らかだった。

 

 当然、住民の大半が過剰な増税に反対の意を示した。中には強行な手段に訴えた人間も居たようだが、反抗を企てた者たちは見せしめとして人々の前で惨たらしく処刑され、その被害は本人だけでなく領内に住まう親戚一同にまで及んだ。

 

 ここまでならどこにでも転がっている話だったかも知れない。だが唐安の行動はそれだけでは終わらなかった。彼は次に起こるであろう叛乱を阻止する為、彼は一揆や反乱を密告した者には税の取り立てを一年のあいだ免除するという触れ書きを出したのだ。

 

 それを見た人々は動揺した。それは助かりたければ他の誰かを売り飛ばせと言っているようなものであり、仁義や人情と言った人間としての感情を真っ向から否定するものだった。

 初めのうちは誰もが抵抗した――こんな物に自分たちは屈しない。今こそ全員で団結し、悪徳領主を追い出す時だと皆が声高に叫んでいた。

 

 しかし、そんな人々の心は最初の密告によって脆くも覆ってしまった。

 

 密告したのは一揆を企てた男の母親だった。彼女は日頃から息子と折り合いが悪く、好き勝手な事ばかりする息子に我慢がならなかったのだ。

 まさか親が子を売り飛ばすとは思っていなかったのだろう。それを知った人々は母親をなじったが、後にその一家が本当に免税を受けたことを知って目の色を変えた。

 その日を境に人々は常に互いを監視しあい、自分たちが助かるため、或いは自分の気に入らない人物を排除するために次々と密告を繰り返し、相手を売り飛ばしていった。

 

 そしてついに密告の魔の手は呉桂の家族にも及んだ――姉と妹が反抗を企てると言う疑いがかけられたのだ。

 呉桂たちは必死に釈明した。事実、姉や妹はそのような事を企てる性格でもなければ企むような人物との繋がりもなく、密告は全くの濡れ衣に過ぎなかった。

 だが必死の釈明も虚しく、姉や妹は唐安が差し向けた官吏によって捕縛され、数日後には他の者たちと同様、目も当てられないような状態で殺された。

 

 何故だ? なぜ姉妹たちは処刑されなければならなかったのだ? 何の罪も犯していない彼女たちが、なぜ惨たらしい死を受け入れなければならなかった? その理由は一体どこにあると言うのだ?

 

 弔った姉妹の墓を見つめながら呉桂は考え続けた。不条理の中にあるはずの理由を見つけようと、必死になって知恵を巡らせ続けた。

 そして何日も何日も考え抜いた末、彼は一つの結論に至った。

 

 彼女たちは犠牲になったのだ。無力と言う名の罪の犠牲に。

 

 この世界において無力は罪なのだ。抵抗する力がなければ、どんなに正しく生きていた所で意味はなく、力を持った理不尽の前にはどうすることも出来ない。

 

 だが逆に力さえあれば――不条理を跳ね除け、自らの思うままに振舞うことが出来る。密告した人間に罰を与えることも、領主に姉や妹が味わった以上の屈辱を与えてやることも。

 

 その日を境に、呉桂は村から姿を消した。失踪に気付いた両親や住民たちが必死に周辺を捜索したが、彼の行方を知ることは最後まで叶わなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「……済まなかった。辛いことを聞いてしまって……」事情を理解した男は呉桂に向かって頭を垂れ、謝罪の言葉を口にした。人当たりの良さそうな顔には声と同じく重苦しい罪悪感が漂っていた。

 

「あんたは何も悪くない」呉桂は平坦な口調で返した。この手の話題は珍しいものではない。黄巾の兵士となった人々の大半は、多かれ少なかれ似たような経験を味わっていた。「それより目的地が見えてきたみたいだ」

 

 彼が顎で前方を指し示すと、視界の先端に豆粒ほどの大きさの建造物が姿を現した。

 

「あれが……」

 

 男は目を細め、彼方に映ったその建物を見つめた。巨大な石壁とそこから淡く見える楼閣。まだ小さいが寿春の城に間違いなかった。

 

「寿春だ」静かに呉桂が呟く。その声音は昏く、力を帯びていた。「行こう。少しでも早くあそこに近づきたい」

 

 呉桂の言葉に男は頷くと、目的地に向けて再び足を動かし始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 最初は鈍色の粒に過ぎなかった寿春の城も、距離を詰めるに従ってその巨大な外見を呉桂たちに見せつけるようになった。

 それと同時に城壁の周囲を黄色い蠢きがぐるりと取り囲んでいる事にも気づく。言うまでもなく他の黄巾たちだ。流石に正規の軍隊と比べると装備や連携の面で見劣りするが、それでも十分な規模の軍勢には違いない。

 

 あそこにあの男が――唐安が居る。

 

 ギリッ、と音が聞こえてきそうなほど鋭い目つきで呉桂は城壁を睨みつけた。生憎と彼の視界には鈍色の石壁しか映らなかったが、その向こう側に目的の男が潜んでいる事を彼は確信していた。

 

 陣営にたどり着いた軍は協議の結果、三方に別れる事となった。各部隊がそれぞれの指揮官の元で人手の足りていない箇所を補充するためだ。

 

「我々は西側の部隊と合流する」部隊長が短い号令を告げた。「数刻後には戦闘が始まるぞ。今のうちに覚悟を決めておけ」

 

 上官の言葉に新兵たちの間に緊張が走る。いよいよ自分たちの初陣が始まるのだ。

 導かれるままに陣内を進んでいくと、人垣の薄い一角にぶち当たった。恐らくここが自分たちの持ち場だろう。所属している兵士たちも人数こそ他の箇所より少ないが、全員が戦慣れした兵士たちばかりで、いずれも相応の実力を持っている事を身をもって示していた。

 

「貴様らが増援か」指揮官らしき男が値踏みするような視線を呉桂たちに送り付けた。切っ先のような鋭い目つきは、あのならず者が放つ視線によく似ていた。「……新人ばかりだな。役に立つのか?」

 

「訓練は十二分に受けさせてきた。新兵の中では役に立つ方だろう」毅然とした態度で部隊長が答えた。彼は黄巾に入る前からこうして新兵を率いる役を請け負っており、彼の見立てに適った新兵だけがこうして戦場に出ることを許されていた。

 

「実戦と訓練は違う。新兵は戦力にならないばかりか邪魔になる事も多い。俺たちの作戦にはどんな無茶にも耐えられる兵士が必要だ。もっと他に使える奴はいないのか?」失望の声音と共に指揮官の男が尋ね返す。

 

 不意に呉桂は周囲に流れるきな臭い空気を嗅ぎ取った。今の言葉に同僚たちが怒りを発しているのだ。瞬く間にその空気は周囲を伝播し、向こうの兵士たちにもひしひしと伝わっていた。

 

「――だったらオレたちが役立たずかどうか、試してみたらどうですかい?」出し抜けに一人の新兵が人垣の中から姿を現した。彼は得物である手甲を自らの両手に嵌め、男に向かって素早く身構えた。「それとも、新入りの拳なんざ受ける価値もないと?」

 

 男はしばらくその新兵を眺めていたが、やがて肩を竦めながら彼の前まで歩み寄った。そして自らも両手で拳を作ると、新兵の前で構えて見せる。

 それを合意と受け取った新兵は攻撃的な笑みを浮かべると、男に向かって右拳を突き出した。

 

 手甲を武器にしているだけあって彼の拳は早かった。恐らく新兵として訓練を受けるよりも前から喧嘩などで腕を磨いてきたのだろう。その動きは極めて正確で力強いものだった。

 空中に描かれた銀線が吸い込まれるように男の顔面に向かって飛び込んでいく。命中すれば当然、無事ではすまない。

 だが彼の動きは男にとって既に予想されたもののようだった。男は襲い来る拳を僅かに身を逸らせて回避すると、回り込んだ横合いから新兵の横顎を拳で思い切り殴りつけた。

 

「がッ……!」鈍い打撃音と共に新兵の顔が苦痛に歪む。

 

 拳を受けた新兵は両顎を抑えて数歩よろめいていたが、しばらくして突然、腰が砕けたようにその場にへたり込んだ。顎骨に受けた衝撃が脳を揺らし、彼の平衡感覚を狂わせたのだと知れた。

 

「それで終わりか?」男は退屈と失望を滲ませた声で尋ねた。

 

 挑発を受けた新兵は苦痛と怒りで顔を赤らめながら立ち上がり、再び拳を構える。だが彼の膝は今も不規則に震え、自重を保つのが精一杯のようだった。

 動かぬ新兵に向かって男は拳を再び差し向けた。左右の拳から繰り出された強烈な一撃が満足に身動きの取れない彼の顔面を直撃し、新兵は再び大地へと叩き伏せられた。

 

 重苦しい静寂が辺り一帯を包み込む。

 

「他に挑戦したい者はいるか?」

 

 投げかけられた言葉に周囲の新兵たちはざわついた。下手に挑めば先の二の舞を踏む事は目に見えている。それだけは避けようと新兵たちは必死になって男の視線から目を逸らした。

 

 そんな中、再び一人の兵士が前に出た。

 

「小僧、お前も地面に這いつくばりたいのか?」先ほどと同じく失望を含んだ視線で男は二人目の挑戦者を見つめた。

 

 新たな挑戦者である青年――呉桂は言った。「あんたに付いて行けば、あの中まで行けるのか?」

 

 瞬間、男の顔に疑問が走った。彼は投げられた質問の意味を捉え損ねていた。

 

「……何の話をしている?」再び男が尋ねた。既に彼の中にあった戦意は彼方へと消え失せていた。

 

 呉桂は質問を繰り返した。「俺はどうしてもあの城の中まで行きたい。だけどそれにはあの分厚い壁を超えないといけない。あんた達はどうやって城壁を破るつもりなんだ? 教えてくれ」

 

 その言葉を聞いた直後、男は背後の仲間たちと目配せを交わした。呉桂は瞬時に理解した。彼らは作戦の内容をどこまで聞かせるべきかを思案しているのだ。

 

 やがて視線を戻した男は彼に告げた。「教えてやってもいいが、その方法を真に知りたければ、まず俺に力を見せることだな」そして両手に拳を再度生み出すと、呉桂に向かって鋭く身構えた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 改めて対峙したことで呉桂は男の強さを実感した。先に倒された新兵や自分にはない強さ――幾つもの戦いを潜り抜けてきた人間だけが持てる強靭さを彼は持っていた。

 

 ――果たして自分はこの男に勝てるだろうか? 勝って前に進むことが出来るだろうか?

 言いようのない不安が呉桂の胸をかき乱す。

 

 否。絶対に勝たなければならない。姉や妹の無念を晴らすためにも、自分はあの城門を抜け、唐安の元に辿り着かなければならないのだ。

 

 心にそう命じながら呉桂は拳で構えを作ると、慎重に男との間合いを詰めていく。

 

 ひゅ、と空を切る音が呉桂の目前で鳴り響いた。新入りを打ちのめした顎狙いの拳が自分を狙って放たれたのだと本能が囁いた。

 

 拳が顎骨に命中する寸前の所で、呉桂は構えていた腕を盾にして軌道を塞ぐ。

 

「……ッ!」呉桂の顔に苦悶が広がった。衝撃を受け止めた腕に痺れが広がる。おかげで大した痛みは感じなかったが、その分動きも鈍くなる。

 

 時を置かずして同じような拳が二発、三発と続けて襲いかかって来た。どれも直撃を受ければ重傷は免れない。

 降り注ぐ暴力の雨を両腕で巧みに防ぎながら、呉桂は時をじっと待った。焦れた男が自分を打ち倒すために大振りな一撃を繰り出すのを。

 

 そして防いだ拳が数十を越えた時、ようやくそれが訪れた。

 中々倒されない呉桂に業を煮やした男が無理な体勢からの一撃を放ったのだ。

 

 呉桂はこれを見逃さなかった。彼は大振りな拳を身体を振って回避すると、感覚が無くなった腕を振りかぶり、彼が新兵を倒した時と同じように彼の顎骨に向かって渾身の一撃を叩き込んだ。

 

「ぐあッ!?」

 

 先刻の焼き回しのように男がたたらを踏んだ。既に膝が笑い、姿勢を大きく崩している。先の一撃が効いている証拠だ。

 呉桂は再び拳を強く握りしめた。腕を大きく振りかぶり、相手に向かって狙いを定める。

 

 再び顎を狙われると思ったのだろう。男は両腕を掲げて盾にすると、衝撃に備えるために震えていた足に渾身の力を入れた。

 

 だが呉桂が狙っていたのは顎ではなかった。

 彼は顔を守る代償としてがら空きになった男の胴体――人体の急所である鳩尾に向かって渾身の一撃を放ったのだ。

 

「………ッ!!」

 

 盾の内側に隠れた顔は苦痛の一文字だった。殴りつけられた横隔膜は即座に呼吸を停止させ、その者の行動を著しく阻害させる。身につけていた革鎧が辛うじて重傷を防いだものの、戦いを続けることはもはや不可能だった。

 

 小さなどよめきが人垣の中で沸き出した。やがてそれは小波のように周囲に伝播し、やがて大波の大合唱に成長していく。

 

 男たちの歓声に囲まれる中、部下たちに肩を担がれながら緩慢な動きで男が立ち上がる。

 

「……やるな。若いの」指揮官が苦悶混じりの声で言った。「侮っていたという言い訳はしない。お前の勝ちだ」

 

「これで満足かい?」

 

「ああ。お前なら俺たちが考えている作戦も成功させられるかも知れないな」男は苦笑いした後、思い出したように告げた。「そういえば名前を言うのがまだだったな。俺の名は徐冒、真名は清秋(セイシュウ)だ」

 

「俺は呉桂。真名は陽(ハル)だ。よろしく頼むよ。徐隊長」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

「忌々しい黄巾どもめ……これでは何のために今まで苦労してきたのか分からんではないか!」既に数える事すら億劫になるほど繰り返した愚痴を呟き、唐安は机に置かれていた水差しを怒りに任せて投げ飛ばした。それは部屋の石壁に当たって割れ砕け、破片と中身を床にまき散らしたが、それで彼の怒りが収まる事はなかった。

 

 黄巾軍との戦闘が始まって既に三か月が経過している。攻城兵器を破壊しつくした事で侵入をくい止めることが出来た事は行幸だったが、未だ敵に包囲され続けている以上、食糧や物資への不安が重くのしかかっている。

 

 本当は戦っている場合などではない。自分は一日でも早く集めた金を中央に送り、更なる地位へと登らなければならないのだ。だがそのためには、まず生きてこの場を切り抜けなければならない――しかし、一体どうすればいいのだろうか?

 

「ああクソ!! この役立たずどもが!」唐安はわめき声と共に一人の文官を呼びつけた。「おい! 朝廷との連絡はどうなっている! もう何度も連絡用の鳩を出したはずだぞ!」

 

 文官の男は視線を彷徨わせながら脅えたように報告した。「ちょ、朝廷からはまだ何も……ただ、『援軍の到着を待て』としか……」彼は焦り、そして自分にぶつけられるであろう怒りに身を震わせていた。

 

 突きつけられた事実に唐安は歯を食いしばった。恐らく朝廷の連中は自分を見殺しにするつもりなのだ。

 自分が悪評を受けている事は既に上の連中も知っている。ここで自分が黄巾に消されれば見返りの地位を用意する必要もなくなり、同時に厄介な人員を都市から排除する事が出来る。そして全てが終わった後におっとり刀で武官を差し向け、残った黄巾を始末すれば、邪魔な要員を労せず一掃できる。実に単純な図式だった。

 

「今まで散々甘い汁を吸わせてやったというのに、利用するだけ利用した後は見殺しか!」甲高い叫び声を上げ、唐安は再び目についた物を片っ端から怒りに任せて部屋中に投げつけた。彫像や陶器が砕け、竹簡が音を立てて壊れていく。たった今まで傍にいたはずの文官も被害を恐れたのか、彼が気がつかぬ内に部屋から消え去っていた。

 僅かな時間の後、ようやく狂乱から醒めた唐安が疲れきった口調で呟いた。

 

「とにかく今は耐えるしかない……奴らも所詮は農民崩れ。城壁が破られない以上、慌てる必要はない筈だ……」

 

 それはまるで自分を宥め伏せるような言葉だったが、その理論が彼の心が鎮める事は決してなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 徐冒は呉桂たちを陣地の奥、兵士たちが厳重に防備している区画へと誘った。そこは武器や食糧をはじめとした軍事物資が保管されている場所であり、黄巾軍の心臓部とも言える場所だった。

 

「今の俺たちには攻城兵器がない。忌々しい門を破るために用意した衝車は敵に全て破壊され、壁の上や内側を攻撃するための投石器も長引く戦いの中で全て失った。今はああして梯子をかけて被害を出しながら上に登っていくのが精一杯だが、それも堅い守りの前に足踏みしている状態だ。この状況を打開するには、まずはあの門を破らなけりゃならん。そこでこいつを使おうと思っている」

 

 徐冒はそう言うと、背後に控えていた一人の部下を前に出した。その青年は他の兵士たちとは違い、鎧の代わりに奇妙な飾りのついた黄染色の衣服を身に纏っていた。

 

「こいつは妖憑きだ。力はそれほど強くはないが、炎を生み出して操ることが出来る。こいつを城の門まで連れて行き、正面から門を破らせるんだ」

 

《異端の紅蓮術士》https://imgur.com/a/ROaXiiP

 

 徐冒の言葉に新兵たちは顔を見合わせた。何人かの妖憑きが黄巾に従軍しているという噂は呉桂も聞いていたが、実際にその眼で見るのはこれが初めてであった。

 

「門を破ると一言で言うが……」呉桂は訝しげな表情を彼に向けた。「あの分厚い門を本当に破れるのか?」彼の疑問は尤もだった。炎を多少操れた所で、城を防護する鉄扉をたった一人で破れるとはとても思えない。

 

 彼に同調するように他の人間も似たような顔で妖憑きの青年を見つめる。幾重もの視線に晒された彼は居心地の悪そうな表情を示したが、何か言い返すようなことはせず、無言のままじっと男たちの視線を受け止めていた。

 

「こいつ一人の力だけでは到底無理だろう。重要なのはもう一つの方だ」彼らの質問を待っていたように徐冒は頷くと、今度はいくつもの大きな木箱を部下に持ってこさせた。中には乾燥した藁束が敷き詰められており、中央には拳大の大きさの金属の塊が何個か納められていた。

 

「……これは?」再び呉桂が尋ねた。こんなものは村の中でも黄巾の訓練基地でも見たことがなかった。

 

 木箱の中を指し示しながら徐冒は説明を続けた。「こいつは魔除けに使われる力を圧縮して封じ込めたものだ。普段は何も起こらないが、強い衝撃や熱を加える事で内部の力が膨張して爆発する。本来は敵兵や攻城兵器の進入を防ぐために地面に埋めて使われるものだが、上手く使えば門を破れる筈だ」

 

《呪術封じの地雷》https://imgur.com/a/JHafvol

 

「そんな物が……」改めて呉桂は箱の中身を見つめた。魔除けの類なら村でも目にしたことはあった。だがそれは獣や害虫の被害を防ぐ程度の効力を持つばかりで、少なくとも大きな物体を破壊するようなものではなかった。「こんな物、一体どうやって手に入れたんだ?」

 

「元々は攻め落とした砦から頂いたものだ。最初は宝か何かだと思っていたが、武器だと分かったので保管しておいた」言いながら徐冒が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。恐らく彼が仕留めた場所から手に入れた物なのだろうと、呉桂はあたりを付けた。「とにかくこれを門にありったけ仕掛け、安全な距離まで離れた所でこいつの炎を使って爆発させる。これが俺たちの考えた作戦だ」

 

「そんなに簡単な作戦なら、どうして今までやらなかった?」説明を隣で聞いていた分隊長が疑問の声を上げた。

 

「敵だって馬鹿じゃない。守りの生命線である城門に細工しようとすれば、当然そちらを狙ってくる。それに門を破壊する前に別動隊が被害を受ければ、この作戦は失敗だ。確実に成功させるためには、敵の注意を十分引きつけると同時に素早く敵の懐に潜る必要がある。理解したか?」

 

 分隊長を含め、説明を受けた新兵たちは一様に納得の表情をした。確かにこれは危険極まりない任務だった。一方は敵の注意と攻撃を一身に引き受け、もう一方はいつ破裂するとも知れない兵器を抱えて敵に向かって突き進む――どちらも一つの油断や失敗が死に直結する作戦であり、途方もない覚悟が必要な戦いだった。

 

「ここまで何か質問のある者は?」

 

 上がる言葉はなかった。誰もが息を呑み、作戦の意味をその胸で受け止めていた。

 

 やがて一人の兵士が恐る恐る質問を投げかけた。「……成功する見込みは?」

 

「お前たちの働き次第だが、恐らくは五割と言った所だ」

 

 五割。難しい数字だった。必死の働きと出されるであろう多くの犠牲を加味した上での五割だ。失敗した時の損出を考えれば、取りやめる事も選択肢の中に十分残っている。

 

「だが撤退する事は許されないだろう。寿春は黄巾がこれからも活躍していくに当たって重要な拠点になる。上層部はそう考えてお前たちを援軍に寄越したはずだ」

 

 その通りだった。援軍として出兵する前、彼らは司令官から強く命じられていた。“寿春を必ず落とせ”と。彼らは今の拠点に疑いを持ち始めている。新たに有益で安全な住処を欲しがっている。それが寿春だった。

 

「やるさ」厳かな口調で呉桂は言った。「俺はそのためにここに来た。今さら引き返すつもりはない。他の奴らがどう思っていても、俺はやるだけだ」

 

 彼の一言は全てを決める言葉だった。実際にはその権限を持っていないにしても、それだけの勢いを今は持っていた。彼の言葉に新兵たちは同調し、決断は下された。

 

「よし。ならば呉桂、お前は俺たちと一緒にこれを仕掛ける役だ。他の新人どもにはその間、敵の注意を引き付ける囮になってもらう。残りの連中は俺たちに向かってくるであろう攻撃を防いで貰うぞ。わかったな」

 

 徐冒の号令に皆は頷くと、作戦に備えるべく陣地の方々へと散っていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 作戦は攻撃部隊が交代した時点から始まった。

 陽動部隊が梯子に取りつき、敵の注意を引き付ける。蟻の行列のように城壁の上を目指して進んでいく彼らは上からの攻撃に晒され、耐えられなかった者たちは転げ落ちて地面に叩きつけられる。

 だが彼らが歩みを止める事はない。生活を失い、故郷を捨て、戦って奪い取ることだけが唯一の生きる道となった黄巾兵たちにとって、立ち止まるという言葉は自分の死を意味するに等しいからだ。

 

 同僚たちの戦いを呉桂はしばらく陣の後方から見つめていた。彼らも自分と同じだった。暗く救いのない思いを胸に秘めてこの軍に入り、当てのない怒りと悲しみをぶつける為に戦っている。散っていった仲間たちの為にも必ず唐安の元までたどり着き、同じ屈辱を味合わせてやると、彼は密かに胸に誓った。

 

 同じく隣で様子を見ていた徐冒がしばらくした後に前に出た。彼は緊張の面持ちで木箱から容器を幾つか取り出すと、衝撃を与えないように慎重に布に包んで背中に結び付け、残りを両手に抱え込んだ。

 

「頃合いだ。全員遅れるなよ」そして目的地である城門に向かって真っ直ぐに足を踏み出すと、迷いのない足取りで駆け出して行った。

 

 彼の進行に続いて盾役の兵士と呉桂たち設置役の兵士も次々と陣地を飛び出していく。

 弓矢が届かない最初こそ、彼らの歩みは軽快だった。敵の注意の大半は壁にへばりつく新兵たちに向けられており、無人の野を進むかの様に走り抜けることが出来た。だが門との距離があと一里ほどに詰まった時点から、次第に攻撃は熾烈さを増し、最後には上空に向けて構えた盾の中に入りながら慎重に歩かなければならない程だった。

 

 遅々とした歩みの合間にも仲間が次々と倒れていく。ある者は盾の隙間を縫って入り込んだ弓矢に居抜かれ、またある者は掲げた盾ごと落石に押しつぶされて事切れる。上空からの攻撃を防ぐため、盾で視界を塞いでしまっている事が、余計に彼らの恐怖心を煽った。

 

 前方から徐冒の鼓舞が飛んできた。「あともう少しだ!」盾の隙間から見える視界には石くれの壁と鉄扉が間近に迫っていた。

 

 最後の一線を越えて門の前までたどり着いた呉桂と徐冒は、腰に結びつけていた杭と鎚を取り出し、それを扉のすぐ横の石壁に向かって打ち付けた。

 

「一カ所ではダメだ。扉の周りに満遍なくしかけるんだ!」金槌の衝撃音と共に杭が衝撃と共に少しずつめり込んでいく。ある程度まで突き刺さったのを確認した後、すかさず二本目に取りかかる。

 

 戦いの喧噪に混じって金属の打ち付ける音が門前に響く。何人かが本当にこれでいいのだろうかと不安そうな表情を浮かべたが、呉桂に構っている余裕はなかった。やると決めた以上、突き進むだけだ。

 

 手持ちの杭をほとんど使い切った兵士たちは次に背負った布を外すと、突き刺した杭に結びつける。

 

「よし! あとは後方まで撤退するだけだ!」再び上空に盾を掲げて走り出した徐冒が妖憑きの兵士に向かっていった。「栄半! あとは任せたぞ!」

 

 声をかけられた青年は果敢な顔つきで応じると、その両腕を分厚い火炎で包み込み、生み出した紅蓮の塊を門に向かって投げ入れた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 戦いが佳境に入った中でも唐安は未だ悩み苦しんでいた。彼はひっきりなしに飛んでくる戦況にはほとんど耳を貸さず、あてにもならない援軍について考え込んでいた。「とにかくもう一度朝廷に掛け合って応援を要請するしかない……金は後からいくらでも搾り取ればいい……私が生き残ることこそが一番大事な問題なのだ……」

 

 うわ言の様に呟きながら、送り付けるための書類をしたためる。不安と恐怖で筆が震えているが、気にしている余裕はない。一刻も早くこの状況を打破しなければ、全ては終わりだった。

 

「唐安様!」先ほど呼びつけた文官が再び部屋へと飛び込んできた。青ざめた顔色は大きな異常が起きたことを如実に表していた。「大変です! 城門が……城門が破られました!」

 

「なんだと!?」唐安は驚きと共に立ち上がった。「一体何をやっているッ!! 相手は歩兵ばかりの叛乱軍ではないか! それを……それをッ!!」報告が正しいものならば、それは一大事だった。敵は一気に城内へと押し寄せてくるだろう。ここに辿り着くのも時間の問題だ。

 

「黄巾は既に街の中まで侵入し始めています! 急いで非難を!」

 

「馬鹿者が! 敵に包囲された中で一体どこに逃げ道があるというんだ!」

 

 唐安は文官を怒鳴りつけると、素早く自分の部屋を出た。向かう先など特になかったが、黄巾の脅威がすぐそこまで近づいている以上、いつまでも城に居続けるわけにはいかなかった。

 

「……いったいどうしたらいい……これから一体どうすればいいんだ……」

 

 虚空へと投げかけられた彼の質問に、答えられる者は誰も居なかった。

―――――――――――――――――――――――――

 

 凄まじい轟音と振動が門の前から伝わってくる。呉桂は砦破りと防衛の訓練を思い出した。あの時は隣で鳴り響く銅鑼の音に鼓膜を破られそうになったが、それもここまで凄まじいものではなかった。

 

 土煙と熱風が晴れていく。見れば門の周囲を固めていた石壁は悉く砕け、街の景色が丸見えになっている。作戦が成功した証だった。

 

「門が開いたぞ!」徐冒が歓喜に叫んだ。「急げ! このまま内部に侵入して四方の門を開けろ! 出来るだけ多くの味方を中に引き込むんだ!」

 

 声に応じた荒くれ者が次々と門を通過して街へ侵入していく。事態に気が付いた敵兵が壁から次々と降りてきて応戦するが、まるで間に合っていない。いずれこちらの勢いに押し切れ、全ての門が解放を許すだろう。

 

「よくやった。お前のおかげで作戦は成功した。この戦は俺たちのものだ」晴れやかな表情で徐冒が近寄ってきた。

 

「隊長。頼みがあります」呉桂は強い口調で言った。「俺をあの城の中まで連れて行ってください」

 

「さっきもそう言っていたな。何がある?」

 

「唐安の首です。あいつは家族の仇なんです。俺はこの時の為に黄巾に入ったんです。仇を取らせて下さい」

 

 僅かな間、徐冒は逡巡するような仕草を見せたが、すぐに首を縦に振って彼に応じた。「……いいだろう。俺たちの隊はこのまま城に乗り込む。一緒について来い」

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 何もかもが悪夢だった。覚めれば消え去る夢である事を願った。本当にそうならば、どれだけいい事だろうか。

 もう出世などと言っている場合ではない。門を破壊され、賊が押し寄せてきている今、自分に出来ることは人目の付かない場所で密かに時を過ごし、頃合いを見計らって街から逃げ出すことだけだった。

 

 小間使いの服装に着替え、懐にありったけの資金を詰め込んだ。万が一の事を考えて洛陽には多くの資金を分散した名義で隠してある。ここの財産を失っても生活する程度の金ならある。

 

 まだ巻き返せる。自分が生きてさえいれば。

 

 鼓舞するように心に言い聞かせながら城を進む唐安だったが、その運命は唐突に終焉を迎えた。

 

 目の前から通路に人の気配。続いてむせかえるような血の臭い。

 

 唐安が恐る恐る前方を確認すると、そこには無骨な剣を携えた一人の青年が幽鬼のように佇んでいた。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

「唐安だな」

 

 鉄のような声音で青年が尋ねた。それは質問というよりも確認に近かった。

 

「な……なんだお前は……」唐安は後ずさりした。目の前の男が何者であれ、自分の命を狙っているという事は一目で理解できた。

 

「名乗る必要はない。俺はお前を殺すものだ。お前に殺された人間たちの無念を晴らすものだ」青年が一歩前に進み出る。手にした剣には血がこびり付いている。ここに来るまでに何人もの人間を殺してきた証だった。

 

「愚かな農民崩れが! お前たちは黙って働いて税を納めていれば良かったのだ! それがお前たちの――」続く言葉は無かった。一足飛びに近づいた呉桂の刀が彼の喉を刺し貫いていた。

 

 ごほっ、と咽せるように喉から血を吐き出すと、唐安は床に倒れ伏し、そのまま二度と動き出す事はなった。

 

 目の前に転がった仇の死体を、呉桂はしばらく無言で見つめた。胸の内に残ったのは後味の悪い気分と血生臭い肉の感触だけだったが、それでも彼は満足していた。自らの手で家族の仇を取ることが出来た。望外の結果だった。

 

「やったのか」廊下の向こうから他の部下と共に徐冒が現れた。全員の手にはいくつもの金品が握られていた。

 

「ありがとうございます隊長。お陰で本懐を果たせました」呉桂は彼に向かって頭を垂れた。

 

「全てはお前の力が成したことだ」徐冒が言った。「その首は持ち帰っておけ。あとで報告する時に使うからな」そして握られた金品を懐に入れると、新たな獲物を求めて城の中を進んでいく。

 

 その場に取り残された呉桂は小刀で唐安の首を切り離すと、それを持って城の外へと歩いて行った。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 戦勝の宴は盛大に行われた。見れば街のそこかしこで女子供を犠牲にした乱痴気騒ぎが起きているが、咎める者は居ない。反抗する男たちは全て殺され、恭順の意を示した者も今では街の一角に隔離され、閉じ込められていた。

 

 唐安の首級を上げたことで、呉桂の活躍は徐冒や部隊長のみならず軍を統率していた将軍たちにも知られる事となった。多くの人間から昇進があるかもしれないと言われたが、彼には興味がなかった。復讐を目的として入った黄巾の立場には、さほど関心がなかった。

 

 これからどうやって生きていくか――今の呉桂の頭に浮かんでいるのはそんな悩みだった。

 

「よぉ、この前の坊主じゃねえか。まだ生きてたのか」不意に聞き覚えのある声が遠くから聞こえてきた。遠征中に話しかけてきたあの荒くれ者の兵士だった。「おいしい思いは出来たかよ?」

 

 どうやら彼も戦勝の恩恵にたっぷりとあやかっているようだ。張りつめていた顔は酒で赤く染まり、鋭かった視線もゆるんでいる。手にした肉の塊を乱暴に食いちぎると、そのまま酒で流し込んだ。

 

 肩をすくめながら呉桂は答えた。「おかげさまで、やりたかったことはやらせてもらえた」初めて会った時は疎ましく感じていたが、今では彼の気ままな振る舞いが少し羨ましく感じられた。

 

「そいつぁ何よりだったな」彼は髭面を歪ませて厳つい笑みを作った。「これから生き残った女どもで楽しむつもりなんだが、お前さんもどうだ?」

 

 僅かな時間、呉桂はこれからどうするべきかを考えた。自分にはもう帰る場所も戻る道もない。復讐を終えた自分はただの悪党に成り下がった。ならばいつか死ぬ時まで、悪党であり続ける道も悪くないのかもしれない。

 

「……いいね」彼は口端を歪めて言った。「なら俺も混ぜてもらおうかな」

 

「そうこなくっちゃな。案内してやるから付いて来な」

 

 翻った男の背中を追って呉桂はゆっくりと歩んでいく。その顔に浮かんだ獰猛な笑みは、目の前を行く荒くれ者のそれと全く同じものだった。





リハビリの短編です。今回は黄巾の物語を一つ。
※前回から誤字を修正しました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。