夜闇が途切れ始める日の出頃、馬超は城の中庭で日課である槍の稽古をしていた。
彼女はこの時間が何よりも好きだった。静かに流れる黙動の時間は心地よい集中と静寂を自身にもたらし、物思いに耽るには絶好の機会だった。
黙々と長槍を振るう間、彼女は脳裏で馬岱とサルカンの事を思い浮かべた。
二人が隴西の街を旅立ってから早くも五日が経過している。順調に進んでいれば今頃は涼州の草原帯を抜け、羌が支配する乾いた平地に入っている事だろう。そして彼らが目的地にたどり着く頃には、ここも随分と騒がしくなっている筈だ。
「稽古中に考え事かい? 翠」不意に聞き覚えのある声が馬超の背後から響いた。自分の真名を呼ぶその声には、いやと言うほど聞き覚えがあった。
馬超は動かしていた体を止め、ゆっくりと声の方へと向き直った。そこには漢服の代わりに無骨な稽古着に身を包み、鉄槍を携えた馬騰が静かに佇んでいた。
「……母さん」物々しい母の格好にやや驚いたものの、馬超はそれをあえて口にはしなかった。その原因は既に十分過ぎるほど知っていた。「ああ。どうも蒲公英たちの事が気になっちまってさ」
さもありなんと言わんばかりに馬騰は小さく頷いた。「あんな口やかましい娘でも、居なくなってみれば案外寂しいものだってことさね」
「そうかも」馬超は肩を竦め、続いて惜しむように目を細めた。「だけど……もしあいつが一緒に居てくれたらって思うと、どうしてもね」
「仕方ないよ。あの男はあたしらの揉め事とは無関係だ。それに一番懐いてる蒲公英を引き剥がしてまで置いておく訳にもいかないだろう?」
馬超は頷いた。それについてはあの男に手紙を託す前に母と何度も話し合い、語り合った末の判断だった。異論はない。だがそれでも、副官として頼れる従姉妹に残って欲しかったという思いが全て消えたわけではなかった。
「あの子が抜けた分、お前たち三姉妹には期待してるよ。あたしが直々に仕込んだ槍の腕、まだ錆びちゃいないだろう?」馬騰はにやりと笑みを作って見せると、持っていた鉄槍を馬超に向かって鋭く構えた。「どれ、久しぶりに稽古をつけてやろう。かかってきな」
母の挑発に馬超も揶揄を以て返す。「いいのかい? 何年もまともに動いてない母さんとあたしじゃ、勝負にならないかもしれないぜ?」
「はっ。そういう事はまともに一本取ってからほざくもんだよ。小娘」果敢なその言葉を最後に馬騰は口を閉じ、そして次の瞬間には全身の毛が逆立つほど濃厚な剣気を馬超に向かって放っていた。
老いてなお血気盛んな母の気質に馬超は小さく肩をすくめたが、やがて息を一つ吐くと馬騰と同じく構えを作り、己の中に研ぎ澄まされた剣気と集中を作り出した。
―――――――――――――――――――――――――
「蒲公英、羌族の領地は一体どんな所なんだ?」揺れる馬上からサルカンが尋ねた。その顔色には幾ばくかの退屈と僅かな疲れが滲み出ていた。
出立から四日目を越えた辺りで、二人を取り巻く景色は新芽が茂る草原から荒涼とした平地へと変わっていた。時折、背の低い灌木や頂に雪化粧を残した山脈が周囲に彩りを加えたが、それもしばらく進んでいく内に遥か後方へと流れ去り、また同じような荒野が目の前に姿を現す。
最初は長い旅路を喜び走っていた飛龍もあまりに変わり映えのない背景にすっかり飽きてしまったようで、今ではつまらなそうな表情で地平線を駆けるばかりであった。
サルカンの質問に隣を走っていた馬岱が眠たげな声で答えた。「んっとね、やっぱり岩山とか荒地が多いかなぁ……あ、でも、少し移動すれば近くに湖とか草原もあるし、うーん……一言で言うと“荒れてるけど豊かな所”かな?」
「……俺の故郷に似ているな」ぽつりとサルカンが呟いた。彼女が言う土地のイメージは、かつて自分が暮らしていたタルキールのそれにどことなく似ていた。「俺が住んでいた所もそんな場所だった。もっとも、近くに湖は無かったがな」
すると馬岱の顔が興味深そうな表情へと変わった。「そういえば、おじさまの故郷とか昔の事って聞いたこと無いなあ。どんな暮らしだったの?」
その質問に今度は逆にサルカンが考えるように唸った。
今まではあらぬ誤解を招かぬよう、自身の過去についてはなるべく語ることを避けてきた。だがこうして面と向かって尋ねられてしまっては、何かしらの受け答えをせざるを得ない。
しかし異なる次元の――それも今は歴史にすら存在しない世界の事を、果たしてどこまで話していいのだろうか?
見ず知らずの人間に全てを語り、狂人の妄想だと笑い飛ばされる分にはいい。だが親しい人間にそんな突拍子もない話を語るのはどうにも躊躇われた。
かと言って安易な嘘を作り出し、誤魔化すような真似も出来ればしたくはない。
いっそ下手に隠さず全てをありのままに伝えてしまってもいいのではないかとも考えたが、何の知識も持たない馬岱にそれを聞かせた所で、正しく受け入れてくれるかどうかは限りなく微妙だった。
口ごもったサルカンを見て、馬岱が気まずそうな表情を浮かべた。「あ……もしかして、あんまり聞かれたくない事だった?」
「いや……」サルカンはかぶりを振ったが、その後に続く言葉が口から出ることはなかった。
そのまましばしの沈黙が流れた後、サルカンは自分の過去の一部を言葉を選びながらもゆっくりと語り始めた。「……俺の故郷は、鋭い山と澱んだ沼、後は荒れた平地ばかりでな。常に乾いた風が吹く荒涼とした場所だった。そこにはマルドゥという恐ろしい氏族が住んでいて、俺はその戦士として生まれ育った」
《マルドゥの隆盛》https://imgur.com/a/IJOIq19
彼が語ったのは自身にとって遠く過ぎ去った記憶の一部だった。プレインズウォーカーの灯が点火するよりも更に前――まだ彼がマルドゥの戦士として一翼を率いていた頃の物語。それは記憶として彼の中で既に薄れつつあったが、それでも彼がタルキールで暮らしていた頃の記憶には違いなかった。
「おじさま、戦士だったんだ」馬岱が意外だという顔をした。「てっきり狩人か何かだと思ってた」
「狩人か」自嘲気味にサルカンは笑った。確かに馬岱から見れば、外史での自分の振る舞いは狩人の類だと思われていても不思議ではなかった。「確かに狩人と言えなくもないな。俺はそこで長い間ずっと狩り取ってきた。多くの敵の命を」
彼の剣呑な言葉に馬岱が眉を顰める。「……敵って?」
「他の氏族たちだ。俺の故郷では、もう何百年にも渡って氏族同士が互いに争っていてな。俺たちの生活は来る日も来る日も毎日が戦いだった。征服のための戦い、生き残るための戦い、攻め込んでくる者を倒すための戦い――俺はそんな風に繰り返される戦いに嫌気が差して氏族を抜けた。もう随分昔の話だがな」
《戦名を望む者/War-Name Aspirant》http://imgur.com/a/mYB04
「……ごめん。そんな事まで聞くつもりじゃなかったんだよ。たんぽぽはただ、おじさまがどんな風に暮らしてたのか聞きたくて……」話を聞き終えた馬岱が力ない声で言った。どうやら彼女はサルカンに開いてはならない記憶の扉を開けてさせてしまったと考えているようだった。
「気にするな」頭を振り、努めて柔らかい声音で彼は答えた。「さっきも言ったが、もう随分昔のことだ。それに――」
そこまで言い掛けてサルカンは一瞬だけ躊躇した。その先を言うべきか、それとも伏せておくべきか。
「……それに?」横合いから菫色の瞳が彼を見据える。透き通った彼女の両目は遠慮がちにではあるが、紛れもなくサルカンに言葉の続きを求めていた。
しばらく逡巡した後、サルカンは喉の奥に押しとどめていた言葉を吐き出した。「――それに氏族を抜けてからの方が、個人的には色々あった」
その言葉は彼女の過去への興味をより一層強くしてしまうだろうが、構わなかった。彼女にならいつか全てを語ってもいいと思える自分が心の中に存在している事を、サルカンは言いながら半ば認識していた。
「そうなんだ……」馬岱の表情に僅かな明るさが戻った。「ねえ。もしおじさまが良ければでいいんだけどさ、その話、また今度聞かせてくれる?」
「そうだな」サルカンは首を縦に振った。「気が向いたらまた話すとしよう」
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陽が傾き、夕闇がたれ込み始めたのを合図にサルカンと馬岱は馬から降りた。夜の冷え込みは春先と言えども容赦がなく、二人は思わず纏っていた砂塵避けの外套を強く体に引き付けた。
体を冷やさぬよう風の当たらない岩場の陰に馬を繋いだ後、二人は焚き火で暖を取りながら夕食にありつき、続いて互いに交代の時間を決めて睡眠を取ることにした。
最初はサルカンが見張り役を務め、しばらくしてからは馬岱が、そして順番は再びサルカンへと回ってきた。
夜の平地は無音だった。砂塵を巻き付けながら吹く風も今は無く、炎が薪を舐め焦がす音だけが岩場の中でただ静かに響いた。
赤く揺らめく炎をじっと見つめながら、サルカンは旅立つ前にかわした馬騰とのやりとりを頭の中で思い返していた。
彼女は自分が信頼に足りるかどうか試すために羌への手紙を預けた。だが本当にそれだけだろうか? サルカンにはどうも違う意味や目的があるような気がしてならなかった。
加えて気がかりなのが、彼女と共にあの場に居た馬超だ。あの場において何も語らなかった彼女だが、あの場に居た以上何らかの意味があったに違いない。
だとしたら、それは何だ?
サルカンは懐から例の手紙を取り出して見つめた。厳重に封印の施された小さな竹簡を。
これを見れば全てが氷解する――そうだと分かっていても、彼には封を開ける事ができなかった。運び屋が中身を勝手に改めるなど、決してあってはならないことだ。
「手紙、見る気になったの?」不意に眠たげな声が炎の向こうから聞こえた。目を覚ましていた馬岱がいつの間にかこちらをじっと見つめていた。
手紙を懐に戻し、サルカンはかぶりを振った。「いや、中に一体何が書かれているのかと見つめながら考えていただけだ」
「もう、おじさまってば固いんだから」体を起こした馬岱が呆れたように言った。「少しくらい見たって分かりっこないよ」
「信用の問題だ。馬騰殿は俺を信用してこの手紙を任せてくれた。ならば俺もその信用に応えるのが礼儀というものだ」
「そんなこと言って、本当はとっても気になってる癖に」
「気にはなっている。彼女が本当はどういう意図でこれを俺に預けたのか、中には一体何が書かれているのか、知りたい事は多い。だがそれは届け終えればいずれ分かることだ。別に焦る必要はない」
「それはそうだけどさぁ……」手紙が開く気配がない事を悟った彼女はしばらく不満そう表情を浮かべていたが、不意に真剣な顔をして話題を変えた。「……じゃあさ、昼間の話の続き、もっと聞かせてよ」
「もうか?」今度はサルカンが呆れたように言った。確かに話すとは言ったが、こんなに早くせがまれるとは思っていなかった。「我慢しろとは言わないが、もう少し後の楽しみに取って置いたらどうだ?」
彼の揶揄が気に触ったのか、馬岱はむっと膨れ、強い口調で言い返した。「だっておじさまってば、今まで自分の事なんてちっとも話してくれなかったじゃん。半年も一緒に暮らして、真名だって預けたのにさ。……信用されてないのかなって、少しは考えちゃうよ」
彼女の言葉はサルカンの心に強く突き刺さった。
何の過去も語らない人間――確かにそれは、相手を信用していないと取られるのも無理はなかった。
「それは……すまなかった」彼は俯いた。「俺の過去は……人に話すのが難しい。決して言えない訳じゃない。だがそれを誰かに話したとしても、正しく信じて貰えない事の方が多い。昼間話したのはその中でも最も信じられる内容だった」彼の説明は随分と言い訳じみたものだったが、それは同時に紛れもない真実でもあった。
自分が住んでいる世界の他にも世界が存在し、その間を自由に行き来する事ができる存在が居る――そんな馬鹿げた話を素直に信じられるのは、実際にそれを見たことのある者か、あるいはそれができる人物を知っている者に限られた。
彼はそれを多くの人に語った訳ではなかったが、それでも彼の話を素直に信じた者はごくごく僅かだった。
「信じるか信じないか、それを決めるのはおじさまじゃなくてたんぽぽだよ」馬岱はそんなことなど知らないとばかりに言い放った。「じゃあ約束する。たんぽぽは絶対におじさまの話を疑ったりしないって」そして彼女は体を起こすと、サルカンの隣へと座り、そこで小さく笑みを作った。その顔は少女というよりも、どこか母親を思わせる柔らかさがあった。「だからさ――おじさまの本当のこと、たんぽぽに教えて?」
―――――――――――――――――――――――――
自分の物語を他人に聞かせるのは、サルカンにとっても久しい出来事だった。最後に語った相手はジェスカイのカンのナーセットだったが、今や彼の物語の軌跡は、かつて彼女に話した時以上にその複雑さと奇妙さを増していた。
過去のタルキールへの旅路、運命の再編、それに伴った歴史の改竄と、変わり果てた人々との再会――他のプレインズウォーカーですら巡り会ったことの無いであろう不思議な出来事を、サルカンはあの旅の中でいくつも体感していた。
サルカンが語る荒唐無稽かつ不可思議な物語に、馬岱は静かに耳を傾けていた。時折聞き慣れない言葉や単語に質問を挟む事はあったが、それでも彼の話を馬鹿らしいと一蹴する事も、狂っていると断じる事も決してなかった。
「別の次元かぁ……」やがて物語を一通りを聞き終えた馬岱がしみじみと呟いた。彼女の顔色には異世界への強い憧憬と羨望がありありと含まれていた。「そんなものがあるなんて、今まで考えたこともなかったなぁ……」
「俺を疑わないのか?」逆に驚いたようにサルカンが尋ねた。今まで話を聞かせた人間の大半は、この手の話には懐疑的な反応を見せるのが常だった。
「さっきも言ったけど、おじさまの言うことだし、たんぽぽは信じるよ」あっけらかんとして馬岱は答えた。そこには疑惑や侮蔑といった感情は微塵も見当たらなかった。「おじさまが嘘付くような人じゃないって知ってるし、それにおじさまってさ、どこか他の皆とは違うなってずっと感じてたんだ。どこか人と違う所を見てる雰囲気が特にさ」
「……気付いていたのか」
「本当に何となくだけどね。でも正直に話してくれて、たんぽぽは嬉しいよ。これでやっとおじさまのこと、全部信じられるかな」そう言った後、彼女は不意に真剣な眼差しを向けた。「ねえ、たんぽぽもいつか別の次元に行ったりできるかな?」
どう答えるかしばらく悩んだが、やがてサルカンはかぶりを振った。「分からない。何人か他のプレインズウォーカーを知っているが、その数は決して多くはない。それに素質があるからと言って、必ずしも全員がそうなれるわけでもないんだ。かつて知り合いにも一人、その才能を持っている者がいたが、彼女はそれが目覚める前に戦いで命を落としてしまった」
彼女の期待を削ぐのは偲びなかったが、それが動かぬ事実だった。プレインズウォーカーになれるのは幸運にも――あるいは不運にも――その要素を持って生まれついた者だけであり、そして灯と呼ばれるその要素を強い衝撃によって覚醒させた者だけだった。
《チャンドラの灯の目覚め》http://imgur.com/a/9d73W
「……そっか、やっぱり誰でもなれるって訳じゃないんだね」馬岱は落胆したように呟いた。「いつかおじさまと一緒に色んな世界を旅できたらいいなって思ったんだけど、それだとちょっと無理かな」
サルカンは何か慰めの言葉をかけようとしたが、結局それは音として口から出ることはなかった。
「話してくれてありがとう。もう時間も経ったし、今度はたんぽぽが見張り番をするよ。おじさまはしばらく休んでて」
馬岱の言葉に彼は頷くと、沈黙から逃れるように体を横にした。長く喋っていたせいか、彼の意識は目を瞑ると同時に溶けるような深い眠りへと落ちていった。
―――――――――――――――――――――――――
夜が明けたのを見計らって、二人は再び平原の中を進み出た。相変わらず周囲の景色は全く変化しなかったが、それでも春先の心地よい風と暖かな日差しは、疲れが溜まり始めていた二人の心と体をいくらか癒してみせた。
「もう少し進んだ辺りに羌族の小さな村があるからさ、今日はそこで休ませてもらおうよ」昼食を含めた二回目の休憩を挟んだ時、馬岱がそう提案してきた。
サルカンもその考えには賛成だった。野宿でも問題は無かったが、屋根のある寝床にありつけるならばそれに越したことはない。
食事と休憩を済ませてから更に数刻ほど馬を走らせ、再び太陽が大地を茜色に染め始めた頃、ついにサルカンと馬岱は平地の向こうに昇る一本の煙を見つけた。
「ほらあそこ。煙が立ってるでしょ? 村まであともう少しだよ」彼方の空に立ち上る煙を見た馬岱がはしゃぐようにそう言った。
しかしサルカンは目を細めると、何かを確かめるようにじっと煙を凝視する。朦々と登るその黒煙には、どこか違和感があった。
――あの煙を俺は知っている。あれは食事を作る為に昇ったものではない。あれに似たものを戦いの中で幾度となく見てきた。あの煙は……。
「蒲公英、村には行かない方がいい」突如サルカンが忠告するようにそう告げた。
馬岱が驚いたように聞き返す。「え、なんで? 急にどうしたの?」
「煙がおかしい。あれは食事のためのものには見えない」サルカンは黒煙を指さして言った。「あれは何か別の物が燃えている煙だ。もしかしたら、村で何かあったのかもしれない」
言われた馬岱は再び煙を見つめた。「……確かに。言われて見ればなんか変かも」彼女は馬を止めると、サルカンに向かって強く言い放った。「でも何かあったのなら余計に見に行くべきだよ。もし村の人が困ってるのなら助けてあげなきゃ」
緊迫と興奮の面持ちを見せる馬岱の顔をサルカンが見つめる。
例えもう一度言葉を変えて止めた所で、彼女は恐らく一人でも村へと向かって行くだろう。ならば万が一の事に備え、自分もついて行った方が安全だ。彼女に危険に遭うことだけは極力避けなければ。
「……分かった。だが気をつけろ。俺が危険だと判断したら、すぐにその場を離れるぞ」
彼女は頷き、二人はそれぞれの愛馬を煙の方へと向けると、煙が上る方角へと馬を走らせた。
―――――――――――――――――――――――――
煙の根本にあった村は、目を背けたくなるほどの地獄と化していた。
質素な造りの家屋は見る影もなく徹底的に破壊され、周囲では老若男女関係なく住人たちがその凄惨な最後を晒している。立ち登っていた黒煙の正体は火矢を打ち込まれ、燃え殻となり果てた建物の残骸だった。
《廃集落/Corrupted Crossroads》http://imgur.com/a/IIb2W
「酷い……」廃墟と化した村を見つめながら馬岱が呆然と呟いた。その声は小さかったが、強い怒りと悲しみに震えていた。「誰がこんな事を……」
彼女が惨劇の場で立ち尽くす中、サルカンはその退廃的な光景にかつての暮らしを思い返していた。
荒廃、殺戮、崩壊した村――かつて見慣れた光景。生き残る為に自らの手で生み出してきたもの。それが今になって自分の目の前に戻ってきた。
マルドゥの戦士として戦いと略奪に従事していた日々が脳裏を駆け巡る――その虚しさと不毛さに嫌気が差して氏族を出ていった筈の自分が、まさか再びこのような光景を目の前にすることになるとは思ってもみなかった。
「どの次元でも人間のやることは変わらないな……」
自らを嘲るように彼がそう呟いたその時、やや遠くの方から馬岱の緊迫した声が聞こえた。
「おじさま!!」
姿を探すと、少し離れた所に崩れた土蔵のような建物と仰向けに倒れた小さな人影を見つけた。彼女はその隣に屈み込んでいた。
「子供か」服装や体格からサルカンは瞬時にそう判断した。「生きてるのか?」
「そうみたい」かすかに上下する胸を確認した馬岱が答えた。「おじさまは他に生き残った人がいないかどうか見てきて。私はこの子を見てるから」
サルカンは頷くとその場を離れ、まだ残っているかもしれない生存者を求めて村の中を巡り歩いた。
崩れた家の中、梁と柱だけが残った燃えさしの小屋、瓦礫でできた小山の隙間――ありとあらゆる場所をくまなく探し、僅かでも息のあるものが居ないか探し回る。
だがしかし、どこをどう見渡しても見つかるのは悲惨な最後を迎えた者たちばかりで、命を宿した人間が見つかる事は一向になかった。
念のため村の中を更に二回りほど巡り、生き残りが誰もいないことを確認すると、サルカンは報告のために馬岱の元へと戻った。
「あ、おじさま」彼の気配に気づいた馬岱が顔を上げた。「どうだった?」
サルカンはかぶりを振った。「他の生き残りは一人も見つからなかった。恐らく助かったのはその子だけだろう」
「そっか……」無情な事実に馬岱は悲嘆の表情を浮かべるが、いつまでもそうしても居られないと、すぐに元に戻して言った。「この子は大丈夫。調べたけど大きな怪我とかしてないし、しばらく休ませておけば目が覚めると思う」
「なら今日はここで休むとしよう。その子供からここで何があったのか聞かないといけないからな」
サルカンの提案に馬岱は一も二もなく頷いた。彼女も彼と同じ意見のようだった。
―――――――――――――――――――――――――
辛うじて原形を留めていた小屋を見つけ、そこに馬たちを繋ぎ止めると、馬岱は野営の準備に取り掛かり、サルカンは村人たちの埋葬に着手した。
村人の遺体はどれも酷いものばかりだった。負傷で手足や頭部を失った者だけでなく、何人かの女子供はまるで玩具のように弄ばれ、壊されていた。サルカンもかつて多くの戦場やその跡地を見てきたが、これほど凄惨なものは数える程しか見たことがなかった。
サルカンは村人たちを可能な限り丁寧な形で埋葬すると、彼らの為に僅かな祈りを捧げた。他に天使や癒し手のような存在が居れば何か他にもできたのかも知れなかったが、今の彼にできることはそれくらいしかなかった。
村にたどり着いたのが夕方だったこともあり、空が暗くなるまでに埋葬できたのは僅かに十人程度だった。サルカンは一度作業の手を休めると、彼らに燃え残っていた筵を掛け、馬岱の所へと戻った。
「あ、おじさま」
半壊した家の中に彼女は居た。見れば家具や道具こそあちこち派手に壊されてはいるが、竈をはじめとした設備はある程度生き残っており、彼女は周りの家から無事だった調理道具やら家具やら食材やらをかき集めて夕食を作っているようだった。
サルカンは傷だらけの椅子を手元に引き寄せると、もたれかかるように腰掛けた。「何人かの埋葬を済ませたが、いかんせん数が多すぎる。全員を弔うには明日一杯はかかるだろうな」
「明日はたんぽぽも手伝うよ。それが終わったら急いで羌族の所に行こう。この村の事を一刻も早く伝えないと」竈の上の鍋をかき回しながら馬岱が言う。
そこでふと、サルカンは馬岱が保護したあの子供のことを思い出した。「ところで、あの子供はどうした?」
「まだ寝たままだよ。今は奥の部屋で休ませてる」馬岱は家の奥を指した。「もう少しでご飯も出来上がるから、そしたらあの子も起こしてあげようと思って」
「……そうだな」
あの子供が目を覚ましたら、自分たちを含めた様々な事情を説明しなければならないだろう。当然あの目を覆いたくなるような村の惨状と住人たちの末路も。そう考えると、さしものサルカンも気が重くなった。
そうこうしている内に鍋の中から濃厚な肉の匂いが漂い始めてきた。城から持った干し肉と麦を湯で戻した特製スープである。
「できたよ。それじゃあ、あの子を起こしてくるね」言うや否や馬岱は奥の部屋へと足を運び、御座の上に寝かせていた子供の体を揺さぶった。
「起きて。ほら起きてってば」
「ん……ううん……?」
刺激を受けた瞼は一度強く絞られた後にゆっくりと開き、中から透き通った鳶色の目が姿を現した。しかしその瞳はまだ自分の置かれた状況を完全に理解しては居ないようで、ぼんやりとあたりの景色に視線を彷徨わせるばかりだった。
「あ、気が付いた?」子供が怯えてしまわぬよう、馬岱が努めて優しげな声で呼びかけた。「大丈夫? 何か気分が悪いとか無い?」
「う、うああああああああ!?」
瞬間、子供は驚いたように目を見開いて立ち上がると一目散に背を向け、家の入口から勢いよく飛び出した。どうやら馬岱を村を襲った者と勘違いしているようだった。
「あ、待って!逃げないで!」逃げ出す子供の後をすぐさま馬岱が追いかけ、その体に抱きついて動きを封じる。「大丈夫!ここにはもう怖いものはいないから!」
「放せ!!! 放せってば!!」
馬岱の制止の声も聞かず、子供はしばらくの間狂ったように暴れ回っていたが、その状態が長く続くことはなく、やがて疲れ果てて動きが弛めると、ようやく彼は自分が捕まっているわけではないと理解した。
子供はどうやら少年のようだった。その怯えと戸惑いの混じった表情や体つきからして、あまり活発な性格ではないのだろう。二人は自分たちがここから登る煙を見てやってきた旅人であること、そして村の唯一の生き残りとして彼を保護した事を説明すると、安堵の息を漏らした。
「……ありがとう。おじちゃん、おねえちゃん」状況を理解した少年は申し訳なさそうに頭を下げた。「さっきはごめんなさい。ぼく何がなんだかわかんなくって……」
「大丈夫大丈夫。気にしてないから」馬岱がスープの入った椀を少年に手渡しながら尋ねた。「君、名前はなんて言うの?」
「ぼくは李門。でも村の皆は阿門って呼ぶから、二人もそう呼んでよ」椀を受け取った少年――阿門はそう答えると、受け取ったスープを一口啜り、しばらくして感嘆の声を上げた。「……おいしい」
「でしょ? 今日のは特に自信作なんだよ。あ、おかわり入れてあげるね」馬岱の顔に笑みが咲かせ、早速空になった阿門の椀にスープのおかわりを盛りつける。「何があったかは後でゆっくり聞くからさ、今は何も考えずに食べよう? お腹が一杯になれば少しは元気も出てくるよ」
彼女の言葉に阿門は力なく頷くと、再び盛りつけられたスープを己の口へと運んだ。
―――――――――――――――――――――――――
食事を終え、人心地がついた三人は居場所を奥の部屋へと移し、そこで改めて質問の場を設けることにした。
「教えてくれ阿門。この村で一体何が起こったんだ?」
俯く阿門に向かって、ゆっくりとサルカンが言葉を切り出した。その疑問は二人が村に辿り着いていた時からずっと持ち続けていたが、今の今まで聞けずにいたものだった。
「……あいつらが……あいつらが皆を殺したんだ!!」押さえ切れぬ怒りで肩を震わせながら、阿門は今にも掴みかかるような勢いで答えた。
「……あいつらって?」殺気にも似た彼の怒りに若干気圧されながらも、馬岱が先を促す。
「役人だよ! あいつら、いきなりやって来て、村に叛乱の疑いが掛かってるなんて言いがかりをつけてきたんだ! そんな事は無いって皆で説明したけど、ぜんぜん信じてくれなくて……そしたらあいつら、今度はぼくみたいな子供や女の人を集めて見せしめにしたんだ!」
「ひどい……!」想像を絶する様な役人の蛮行に、馬岱が吐き捨てるように吠えた。「許せない! 役人がそんな事をするなんて!」
阿門の話を聞きながら、サルカンは自分がこの村やってきたばかりの時の光景を思い返した。あのむせるような血の臭いと殺戮と破壊の景色。思わず目を背けてしまいたくなるような地獄の映像を、役人たちはただ疑わしいと言う理由だけで作り出したというのか。
胸に沸いた不快感を押し隠し、サルカンは再び質問を投げかけた。「だが、それなら君はどうやってその場を助かったんだ?」
「ぼくは蔵の下にある物入れに隠れてて、奴らには見つからなかったんだ」悲しみの表情をまとい、阿門は顔を背けた。「だけどその代わりに父ちゃんと母ちゃんが……」
「すまない。辛いことを聞いてしまったな……阿門、最後にこれだけ教えてくれ。その役人たちの名前や顔を、君は一つでも見たり聞いたりしたか?」
「うん。聞いたよ。忘れるもんか」阿門は頷いた。「一番偉そうな奴は程球(テイキュウ)って名乗ってた。耿鄙(コウヒ)ってやつの命令で来たって。顔も少しだけど、ちゃんと見たからはっきり覚えてるよ」
「え!? 耿鄙ってあの耿鄙!?」その名を聞いた途端、隣の馬岱が驚いたように目を剥いた。
サルカンの視線が馬岱へと移った。「知ってるのか?」
「知ってるなんてもんじゃないよ! そいつ、涼州の刺史だよ!」
声を張り上げ、馬岱が言った。刺史とは州全体を監督する役人の事であり、隴西郡太守である馬騰の上司にあたる役職でもあった。
「おばさまの所に何度か査察に来てたから、たんぽぽもそいつのことは覚えてるよ。……確かに前から漢人以外の事を良く思ってなかったけど、まさかこんな事までやるなんて……こんなんじゃ戦争になったっておかしくない。ううん……ならないはずがないよ!」馬岱は立ち上がると、居ても立っても居られないとばかりに強く言い放った。「急いで隴西に戻っておばさまにこの事を伝えなきゃ! おばさまだって半分は羌族なんだし、もしかしたら耿鄙のやつが手を出してくるかもしれないよ!」
「落ち着け。この村に阿門一人を置いていく訳にはいかない。それにいま隴西に戻れば、途中でそいつらと鉢合わせする可能性だってある」
「あ、そっか……せっかく助かったのにまたそいつらに出会っちゃったら、今度こそ何されるか分かんないもんね……」
「そういう事だ。――阿門。俺たちは村人の弔いが終わったら、すぐに羌の里に向かう。悪いが、君にも一緒に付いてきて貰うぞ」
阿門は真っ直ぐサルカンの視線を受け止め、首を縦に動かした。「うん。おじさんたちと一緒なら、ぼくは平気だよ」そして信頼の眼差しを二人に向けると穏やかな顔で言った。「二人とも助けてくれて、本当にありがとう」
しばらくの間、サルカンは彼の言葉をじっと胸の内で噛みしめていた。
ありがとう――この次元の以外でそんな風に誰かに感謝の言葉をかけられたのは、一体何年前の事だっただろうか。外史に来て、初めてサルカンは人間としての充実感を得られているような気がした。
「いいんだ」胸の中で暖かく広がる感情を感じながらサルカンは立ち上がった。「二人は先に休んでおけ。俺は少し外で見回りをしてくる」そして出入り口に向かって踵を返すと、そのまま家のへと進み出た。
―――――――――――――――――――――――――
夜の村は夕方以上に静寂と死の匂いに満ちていた。未だに村の中には弔い切れていない死体が点在し、あちらこちらで無残な最期を披露している。雲一つない夜空に昇った青白い月だけがそんな彼らの姿を見下ろしていた。
村の中を一通り見て回ったサルカンは入口近くの瓦礫に腰掛けると、昨日の夜と同じように懐の手紙を取り出し、それをじっと見つめた。
羌族の村を襲った涼州の役人たちと、羌族に手紙を届けるように自分に頼んだ馬騰――果たしてこの二つには、何の関係もないのだろうか?
自分が持っている情報は決して多くない。もし手がかりがあるとすれば、それはこの手紙だけだ。
だがもしこれを開けてしまえば、自分の信用は脆くも崩れ去ってしまうだろう。
不意にかつて自分が追いかけていた屍術師の女の事を思い出した。彼女のような力を持っていれば、死した村人たちから何か聞き出すことができただろう。あるいは幻視を使うことができれば、何が起きたか直接見ることが出来ただろう。だが自分にはそのどちらの使うことはできなかった。
一体何が起きたのだ? そして役人たちは、馬騰は一体何を考えているのだ?
サルカンの胸の内に様々な疑問が浮かんでは消えていく。だが残念なことに、その疑問に答えられるものは誰一人としてこの場に存在してはいなかった。
お久しぶりの投稿になってしまいました。
次回はもうちょっと頑張って更新していきたいと思います。
(サルカンさんが妙に白っぽくなってしまったのはご愛敬ということで)