真・恋姫†無双~未踏世界の物語~   作:ざるそば@きよし

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西涼に渦巻く戦いと思惑の気配、董卓は混沌を受けて軍を進める。
(※今回から本作品の独自設定が出てきます。ご注意ください)


思惑

 行軍

 

 軒車に取り付けられた窓の中から、董卓は眼前に広がる景色を見渡した。

 安全が保たれた街道、大地を緑に染める春の若草、田畑で仕事をこなす人々――ここだけを切り取れば、世界はとても平穏であり、これから起こるであろう血生臭い出来事とはとても無縁だった。この光景がいつまでも続けばどんなにいいだろうか。

 

 洛陽を出立して既に数か月。総勢七万の討伐軍はついに旧都長安を越え、目的地である涼州を目前に捉えた。あと数刻もすれば味方が待つ隴県へとたどり着き、そして数週間後には反乱軍の根城である金城郡での戦いが待っている。平穏にあふれた今の景色の中でさえ、血潮と戦の気配がどことなく漂ってくるようだった。

 

「西涼の叛乱……これ以上大きくなる前に何とかしなきゃ……」胸の内に溜め込んだ想いを董卓は大きな吐息と共に絞り出した。その思いは彼女の真意であり、同時に揺るぎない決意でもあった。

 

 有り体に言って、董卓は戦いが嫌いだった。およそ武器を持つに似つかわしくない彼女の容姿もさることながら、大切な人たちが傷付き、苦悶のうちに死んでいくなど、とても認められるものではなかった。

 故に彼女は政治の道を選んだ。誇れる武を持たない自分が、少しでも世界を良いと思える方向へ変えられるように。

 結論としてその選択は正しかった。今はまだ大きな結果は残せてはいないものの、それでもこの道の先に自分が思い描く世界があるのだという確信を彼女は持っていた。

 

「月(ゆえ)、大丈夫?」すぐ隣から柔らかな不安の渦と声。見ると、董卓の親友でもあり頼れる軍師でもある賈駆が心配そうに自分の顔を見つめていた。「顔色悪いよ? 無理してるなら、やっぱり月だけでも長安に戻った方が……」

 

「ううん。大丈夫だよ。詠ちゃん」董卓は静かにかぶりを振った。彼女の優しさはいつも自分を勇気付けてくれる好ましいものだったが、今この瞬間だけは煩わしいもののように感じた。「これは私のお仕事だから。それにこれはどうしても私がやらなきゃいけない事なの」

 

 まるで稚児を持つ母親のように、彼女は自分を心配し過ぎる傾向がある。そう短くない付き合いの中で董卓はそれを肌で感じ取っていた。そしてその中に自分に対する淡い恋慕のような感情があることも。

 彼女が持つ感情が何であれ、それは時に重石のように自分を束縛し、自由を奪う時がある。それが董卓には少しだけ厄介だった。

 

「そっか……」何か言葉を続けようとしていた賈駆だったが、それは口を何度か開くだけで言葉にすることなく終わり、そしてどこかあきらめるような声音で改めて告げた。「……ならボクにできる事なら何でもするから、遠慮なく頼って。月のためなら、ボクはなんだって協力するよ」

 

 董卓は親友から滲み出る感情を嗅ぎ取った。眩しいほど暖かな信頼、親愛、献身。それらが混ざりあった優しくも儚い感情の波。

 嬉しい、と思うと同時に悲しくなった。それはこんな浅ましい自分に向けられていい感情(もの)なのだろうかと。彼女が暖かな感情を自分に向けるたびに、人の心を覗けてしまう自分が余計に虚しく、薄汚いものように見えて仕方がなかった。

 

「ありがとう、詠ちゃん」彼女は頷き、目的地に向かって真っ直ぐ視線を伸ばすと、その先に待っているであろう戦いと自分に科せられたもう一つの試練について思いを馳せた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 思惑

 

 半年前

 

 厳かな趣を持つ宮廷の廊下は、早朝という時間も相まって実に静かだった。動き回る人間は自分達の他には女中と衛兵しかおらず、その数すらもまばらで、閑散としていた。

 見回りや雑用を受け持っている彼らも、こんな時間に登庁してくる者が居るとは思っていなかったのだろう。すれ違う度に人々から物珍しげな視線と詮索の感情を遠慮なく注がれ、それが董卓には少しだけ気恥ずかしかった。

 

「しかしこんな時間に呼び出すなんて、一体何のつもりなのかしら?」隣を歩いていた賈駆がぽつりとぼやいた。欠伸を噛み殺しながら眠たげに眼を擦る彼女には、致命的なまでに朝が弱いという欠点があった。「面倒な事にならなければいいけど……ふぁああ……」

 

「もう。詠ちゃんダメだよ。そんなこと言っちゃ。大切な御用かもしれないのに」たしなめるように董卓が小声で囁いた。宮中には役人や宦官と言った人間たちとは別に、密かに出入りする間者や密使が数え切れないほど犇めいており、どんな発言を耳に入れられているか分からない。用心に用心を重ねておくに越したことはなかった。

 

「それは分かってるけど、流石に時間ってものを考えて欲しいわ。まだ日も出てない時間じゃない」再び口から出そうになったを欠伸を今度はどうにか抑えて賈駆は言う。

 

 彼女たちが朝早くからここにやってきた原因――それは昨晩、突然訊ねて来た使者のせいだった。彼は董卓に手紙を渡し、その中には『明朝、速やかに登庁すべし』という簡素な内容と、自分の上司とも師とも言える人物の名前が記されていた。

 彼が自分を呼びつける理由などまるで心当たりがなかったが、極秘とはいえ正式な要請である以上、拒む訳にもいかない。かくして彼女はこのような朝早くから宮廷に足を運んでいるという訳だった。

 

 そうこう話し込んでいるうちに、二人はついに目的の人物が待つ部屋の前までたどり着いた。豪奢な扉の前には護衛が二人。いずれも屈強な体躯と剣呑な気配を持つ一門の武人である。一介の宦官にこれほどまで厳重な警備が置かれているという事実だけでも、彼が持っている力の大きさが伝わってくるようだった。

 

「それじゃあ行ってくるね」董卓は友人に向かって言った。中に入ることを許されているのは彼女一人だけだった。

 

「うん。頑張ってね、月」賈駆はそう答えると、自らに与えられた職務を全うするべく、己の執務室へと歩んでいく。

 

 その背中が見えなくなるまで見送ると、彼女は護衛に手紙を差し出して扉を叩き、中で待ち構えて居るであろう人物に己の名を告げた。「張中常侍様。中郎将が董卓、ただいま参りました」

 

 数秒の後、扉越しから年老いた男の返答が聞こえた。「――入れ」

 

「失礼いたします」

 

 扉を開くと、果たしてそこで待っていたのは宦官の服を身につけた老年の男と武人然とした壮年の男だった。

 

「朝早くからご苦労だったな。董中郎将」卓についていた老年の男が厳かにそう告げた。彼こそ帝都・洛陽を実質的に支配する中常侍の長、張譲に他ならなかった。

 

「いえそのような……」董卓は首を振り、部屋に居るもう一つの存在を見つめた。彼がこの場にいるのは、彼女にとって全くの予想外の出来事であった。「あの、張司空様も中常侍様からお呼びを?」

 

 司空の座に就く張温とは以前に一度、小さな諍いを起こしたことがあった。軍事的かつ政治的な意見の対立。それはすぐに解決したが、その日を境に董卓は張温に対して強い苦手意識を持っていた。もっとも、相手はそう思っていないようだが。

 

「そうだ。儂が呼んだ」張譲は小さく顎を引き、彼に視線と言葉を投げかけた。「司空も忙しい中、わざわざ来て貰い感謝する。なにぶん儂も忙しい身だ。個人的に取れる時間といえば、このくらいの時分しかないのだ」

 

「何ほどの事も」放たれる雰囲気と同様、重く響く声が男の口から零れ出た。「それで、某らを呼び出された用向きとは?」

 

「慌てるな。茶の一杯も出さぬうちから話を始めるなど早急に過ぎるぞ。中郎将、そなたも掛けるがよい。朝早くに来て貰った礼だ。儂が密かに仕入れたとっておきの一杯を馳走しよう」

 

 促されるまま空いている席に着くと、世話役と思われる一人の少年が急須と湯飲みを持って現れ、全員に暖かな茶を淹れて回った。澄んだ琥珀色と柔らかな花の香り。差し出されたそれを試しに口に含んでみると、驚くほど爽やかな渋みと上品な味わいが口の中に広がった。

 

「おいしい……」董卓は思わず感嘆の声を上げた。これほど美味い茶を飲んだのは生まれて初めてだった。

 

「であろう?」にやり、という音が聞こえてきそうなほど張譲は大きく笑みを作った。もう老境に差し掛かる男の者とは思えぬ、なんとも子供じみた笑み。彼はいつも茶に対してはだけは、まるで童心に帰ったかのように無邪気になるのだった。

 

 それからいくつかたわいもない会話を交わした後、張譲がついに本題を切り出した。

 

「近頃、西涼で乱の気配があると言う話を二人は知っているか?」

 

「西涼……ですか?」董卓が聞き返した。隴西郡で生まれ育った彼女にとってそこはある意味、馴染みの地でもあった。「青州や兗州の黄巾ではなく?」

 

「そう。西涼だ」茶を一口含んでから張譲は言葉を続けた。「涼州刺史からの報告では、西涼に住まう異民族どもが結託して叛逆の機会を伺っているらしい。その数は多く、すでに三万以上の兵員が集まっているという話だ」

 

 彼の言葉に董卓は息を呑んだ。人生の大半を馬と戦いに費やす西涼の人間は幼い子供でさえも屈強な戦士となり、持ち前の機動力と苛烈さで敵を圧倒する。それが三万。たやすく集められる数ではない。その情報がもし本当ならば、西涼からやってくる暴力の規模とその被害は自分の想像を遙かに越えるだろう。想像しただけでも彼女の胸が震えた。

 

「黄巾の軍団に勝るとも劣らぬ数ですな。そのうえ西涼の戦士は皆、精強で手強い。討伐は厳しいものとなる」僅かな緊張と共に張温は小さく眉を顰めた。彼もまた、それがどういう意味を持っているのか理解しているようだった。

 

「全くだ。刺史もそれで手こずっているらしく、連日に渡って援軍要請が洛陽に届けられている。我らとしてもこれには一刻も早く対応しなければならない」

 

「つまり我らに援軍として彼らを救いに行けと」

 

 張譲は大きく頷いた。「司空は話が早くて助かる。事態を重く見られた陛下もすでに勅をお出しになった。これはそなたらが負うべき急務であり、正式な任務でもある」

 

「承知いたしました。この張温、まだまだ未熟な身なれど、ご期待に添えるよう誠心誠意努力する所存でございまする」

 

「期待しているぞ。そして董中郎将。そなたには張司空……いや、車騎将軍の補佐役を担って貰いたい」張譲の重苦しい宣言と視線が董卓を射抜いた。「そなたは確か涼州の生まれであったな。彼奴等については他の者よりも何かと詳しかろう。その知識でもって将軍や刺史を存分に手助けしてやって欲しい」

 

 董卓は不意に張譲から目をそらした。何という事を言うのだろう。自分に西涼の人を討てなどと。彼は自分がなぜ政治の道を歩んでいるのか、なぜ彼を師として仰ぎ自らの秘密を明かしたのか、全て知っているというのに。

 咄嗟に彼女はそのことを言葉に乗せて訴えようとした。だがそれはできなかった。自らの隣には張温がおり、彼はその手の話に最も否定的な意見の持ち主だった。もし彼の目の前で自分の正体を明かせば、彼は間違いなく自分を滅ぼそうとするだろう。それだけは何としても避けなくてはならない。

 

「……若輩者ですが、精一杯務めさせていただきます」董卓は苦々しくもそう答え、次いで彼女は彼に尋ね返した。「時に中常侍様。差し出がましい事だとは重々承知しておりますが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 

 張譲はうなずいた。「申せ」

 

「既に陛下が詔勅をお出しになられたのであれば、わざわざ中常侍様がここで話をする必要も無かった筈。なぜ我らをお呼びになったのですか?」

 

 ぎざぎざとした緊張と若干の不安。どうやらその質問は、彼にとってはある程度予想されたもののようだった。

 

「……よかろう。では今からそなたらを呼んだ本当の所を話すとしよう」張譲は面もちを強ばらせて言った。「先ほど話した刺史の事だ。耿鄙という名の男だが、そなたらはこやつのことを知っておるか?」

 

 董卓は首を振り、次いで隣の張温を見た。彼の表情にはほとんど変化が見られなかったが、どうやら彼も似たような思考のようだった。

 

「であろうな」分かっていたと言わんばかりの顔を張譲は浮かべた。「実はな、儂も知らぬのだ」

 

「……え?」

 

 董卓は咄嗟に彼の言葉の真意を掴み損ねた。今の口ぶりからして、彼は確実にその刺史について何か知っていると思い込んでいた。

 

「いや、知らぬというと語弊があるな。正確に言い表せば、この男の『記録』については十分知っている。どこで生まれ、どこで育ち、どのような経緯で今の地位に就いているのかはな。だが調べたところ、この男が刺史となる前に交流や面識があったという人間は、儂が調べた限りでは誰一人おらなんだ」

 

 彼の言っていることは実に奇妙だった。記録はあるが他人の記憶には一切残っていない。そんな不気味な人間が当然居る筈もなく、それが意味する所と言えば一つだった。

 

 張温の重たい声が響いた。「つまり、何者かがその名を騙っていると?」

 

「分からぬ。儂とて全知全能な訳ではない。偶然その者を見つけられなかっただけかもしれぬし、あるいはお主の言っているように何者かそれを騙っているのかもしれぬ。だが騙りだとしても、この洛陽の記録にそれを生み出せるほどの力のあるものか、それに準ずる人間が関係していると言うことだ」

 

「そのような者が」

 

「それをおぬしらに調べて貰おうというわけだ」張譲の視線が改めて二人を捉えた。「お前達の討伐軍に儂の手の者を何人かつける。好きに使ってよい。耿鄙と合流した後、密かに彼奴の正体を探れ。頼めるか?」

 

 話のすべてを聞いてしまった以上、もう自分たちに拒む事は許されないだろう。そして失敗することも。西涼の戦いに勝った上で、男の正体を掴むまでは心休まる時間など決して訪れない。

 だがその分、与えられる報酬もずっと高くなるということも彼女は確信していた。どこまでの地位が用意されるかは分からないが、少なくとも今よりも低いということはない。

 そう信じながら董卓は拱手を以て承諾の意を示した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 密使

 

 二か月前

 

 自室に届けられた数多くの資料を、董卓は窓から差し込む月明かりを頼りにもう一度目を通した。それは彼女がこの夜に行う最後の仕事だった。

 

 彼女は与えられた期間をすべて費やし、遠征に必要なあらゆる準備を整えた。行軍に必要な糧食や資金は勿論、兵士に支給する武具や非戦闘員に至るまで、大よそ考えうる限り全ての物資や要素を念入りに準備し、その全てに問題ない事を確かめた。あとは戦地である西涼へ向かい、争いの元凶である反乱軍を討滅するだけだった。

 戦を誰よりも嫌っていたはずの自分が、誰よりも熱心に戦の準備を進めるのは奇妙な感覚だったが、それも少しでも余計な戦死者を出さないための努力だと思う事で幾分か気を紛らわすことができた。

 

 もうすぐ戦が始まる。生まれ故郷である涼州の地で。

 

 胸の内に沸いた声をもう一度、董卓は確かめた。それが意味する事実、敵となった西涼の人々を討滅する覚悟、全てに対しもう一度自分に問いかける。

 

 大丈夫だ。自分ならやれる。どちらの戦いも。

 

 董卓の決心は揺るがなかった。故郷の人々と戦いたくないという気持ちが未だに心の底で澱のように残ってはいるものの、それでもやらなければならないという意志は決して揺らいではいなかった。

 

「――董卓様」不意に部屋のどこかから自分を呼ぶ声が聞こえた。

 

 驚愕とも共に彼女は己の部屋をくまなく見渡し、声の持ち主がどこに潜んでいるのかを探った。すると部屋の隅、深い闇溜まりになっている場所から黒い陰影が人の形を纏って彼女の目の前に現れ出た。

 

「貴方は……」

 

 闇の正体を彼女は知っていた。それは張譲からの呼び出し状を届けたあの使者だった。だが一体彼はいつから、そして何処から部屋に入ってきたのだろうか?

 

 人型の闇は董卓の目の前までやってくると拱手の姿勢を取り、恭しく告げた。「李儒と申します。張譲様から今日より董卓様の影として仕えよと」

 

 自分の手のものをつける――仕事を任されたあの日、張譲がそう言っていたのを董卓は思い出した。あの話がようやく動き始めたのだ。「……そうですか」彼女は続いて闇に尋ねた。「耿鄙についてはその後、何か分かりましたか?」

 

「何も」彼はかすかな惨めさと共に首を横に振った。「あれから何人もの間者を送り込みましたが、あの男につきましては未だ何の情報も持ち帰れておりません。にわかに信じられない事ですが」

 

「そうですか……」

 

 あれから何日も経っているのだ、彼らも何かしらの情報を掴んでいるかと一応の期待はしていたが、どうやら耿鄙という人物の砦は想像以上に堅牢であるらしい。

 

「張譲様もやはり、董卓様が持つ『お力』を使う他はないと」絞り出すような苦々しい声で李需がそう告げた。彼が本心からそう言っているのを、董卓は彼自身の心が放つ印象からつぶさに感じ取っていた。

 

 董卓はあえて冷たい口調で聞き返した。「貴方は私の『力』が何なのか知っているのですか?」それは確認と同時に警告だった。

 

 闇は迷わず頷いた。「はい。張譲様から伺いました。あなたが心を読むことのできる『妖憑き』だと。そして貴方が張譲様の占術の弟子であることも」

 

 彼の言葉に董卓は眉を顰めた。妖憑き。生まれながらにして失われた術を行使できる者の異名。人々が忌み嫌う存在の名称。それはこの場ですらあまり聞きたい言葉ではなく、願わくばこの世から消し去ってしまいたいと思っている言葉の一つだった。

 

「どうかこの言葉を使うことをお許しください。私は董卓様の影として全てを捧げるおつもりです。なればこそ、あなたのすべてを理解する必要があったのです」李需は恭しく頭を垂れ、彼女に許しを請うた。

 

 董卓は己のしがらみを振り払うように頭を振った。「……気にしないで下さい。事実ですから」彼の主張は正しかった。影の人間として主を支える以上、彼は自分の主人についてあらゆる事を知っておかなければならない。たとえそれがどんなに禁じられたことであろうとも。そしてそれを裏付けるかのように、彼の思考からは嘘や他意は全く見えなかった。彼は真に信用できる人間だと、彼女の理性が告げていた。

 

「お心遣い感謝致します」彼は言葉を続けた。「それと張譲様より董卓様への言伝を一つ預かっております」

 

「? なんですか?」

 

「『古のものに気を付けよ』とのことです。なんでも、今朝の占いで現れた災いの予兆だと張譲様は仰っていました」

 

 彼女にはその言葉の意味が分からなかったが、師である張譲が警告している以上、それが自分にとって何かしらの意味を持っているのは間違いない。

 

 彼女は頷き言った。「ありがとうございます。肝に銘じておきますね」

 

「それと、私からも一つ意見を具申させていただきます」垂れていた頭を上げ、李儒は真っすぐに董卓の瞳を見て言った。

 

「あなた様は既にお見通しだとかもしれませんが、私はこの耿鄙という人間が恐ろしくて仕方がないのです。記録でしか過去を持たない人間というものが、本当にこの世に存在するとは思ってもおりませんでした。人は誰しも『記録』と『記憶』という二つの過去を持っているものです。人は一人では生きられぬ以上、そのどちらかが完全に欠けるなどという事はあり得ない。ですがこの男にはそれがまるでない……それがたまらなく恐ろしいのです」真剣にそう告げる彼の心の中には、男に対する紛れもない恐れが巣くっていた。「くれぐれもお気をつけ下さい。この耿鄙という男、あるいは本当に人間では無いのかも知れませぬ」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 到着

 

「董卓様。前方に隴の城が見えてきました」御者台に収まっていた部下が振り返って言った。座席から立ち上がると彼の頭の向こう、街道の果てに小さくだが、確かに隴の城壁が映っていた。

 

 董卓は体を乗り出して御者に告げた。「既に将軍が使者を出しているとは思いますが、念のためこちらでも使いの人間を送ってください。続いて周囲に斥候を放って周囲の安全を確保。戦う前から皆さんを危険に晒すわけにはいきません」

 

「はっ!」御者は歯切りの良い返事を返し、軒車の隣で馬を駆っていた別の部下に彼女の指示を伝え、仕事に取りかかるように促した。

 

「いよいよだね。もうすぐ始まるんだ。戦いが」神妙な顔を浮かべ賈駆が言った。

 

 董卓は曖昧に頷いた。彼女が考えている戦いと、自分が行うであろう戦いには多くの食い違いがある事を彼女は知る由もないだろう。だがそれを教えるわけにもいかず、悟られるわけにもいかない。あくまで耿鄙についての件は自分と張温のみで片をつけるべき問題だった。

 

「頑張って少しでも早く戦いが終わるようにしないと。どっちの人だろうと、無駄な血が流れることだけは避けたいしね」

 

 賈駆の言葉に董卓は再び頷いた。その思いだけは彼女と全く同じだった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 合流

 

 隴にたどり着いた討伐軍は補給と共にささやかな休息を甘受し、その間に張温と董卓は、他の将校や軍師たちを連れて城主である耿鄙の元を訪れていた。

 案内された部屋にたどり着くと、そこには巨大な地図や戦場を再現するための駒がおかれた大きな円卓と共に一人の男が静かに腰を下ろしていた。

 

「えー、皆様。この度はようこそおいで下さいました。私が涼州で刺史を務めさせていただいております、耿鄙と申します」男は立ち上がると全員の前でおずおずと名乗りを上げた。

 

 董卓の思わず我が目を疑った。高くも低くもない背丈に薄く蓄えた髭。へらへらとして気の抜けた面。特徴と言えばやや肩幅が広いくらいしか見当たらない凡庸な男――果たしてこれが洛陽の間喋たちを依然として苦しめ続けている正体不明の男なのだろうか? 人を見かけだけで判断してはならないと常々分かってはいても、彼女の目にはとてもそうは見えなかった。

 

 狼狽える彼女とは対照的に、早くも卓に腰を据えた張温が彼の名乗りに対して答えた。「某が車騎将軍の張温でござる。そしてこちらは補佐役を務める――」

 

「中郎将の董卓です……よろしくお願いします」董卓は自分に注目が集まらぬよう、極めて控えめに名乗りを上げた。

 

 それからは将校や軍師たちが各々に自分の名前を告げ、やがてそれらが一巡したところで改めて軍議が始められた。

 

 開口一番、困ったように頬をかきながら耿鄙が言った。「まずは皆さまのご助力に大変感謝いたします。恥を忍んで申しますと、我々だけでは奴らの拠点に牽制をかけるのが精一杯でございまして……」苦笑と共に発せられた彼の言葉は実に弱弱しく、やはり迫力や威信といった要素が欠けていた。

 

「随分と苦戦しているようだが、反乱軍の規模は今どれぐらいなのだ?」少し離れた場所に座っていた一人の若い女軍師が声を上げた。彼の気弱な態度にすでに彼女の言葉も対等であるかのように振舞われている。

 

 耿鄙は頷き、卓上に広げられた地図を指さした。「奴らは現在、金城郡一帯を中心に兵力や物資を蓄えており、今では五万以上の大軍隊となっています」

 

「五万……確かに侮れない数ね……」女軍師の隣に控えていた褐色肌の女将校が難しげに声を上げる。

 

 彼女の声に別の軍師が頷き声を上げた。「だが我々の七万と耿鄙殿の二万、そして後に合流する隴西の二万を合わせれば、こちらの軍勢は十一万だ。決して楽とは言えぬが、数の上では負ける戦ではないだろう」

 

「だが羌の戦士はいずれも機動力のある騎馬隊ばかり。速度による奇襲を受ければ我々の軍もひとたまりもないぞ」更に董卓の近くに座っていた赤髪の女武官が軍師の言葉に異を唱える。

 

 更に彼女の異を受けた賈駆が地図を見ながら指針を示した。「そこは恐らく斥候と地形を利用すれば問題は無いわ。あとはいかに敵を隙を――」

 

 張温と賈駆、そして他の将校や軍師らが今後の行軍について熱心に議論を交わしている間、董卓は決してそれらには混ざらず、代わりに散漫になっているであろう耿鄙の記憶への侵入を試みていた。

 

 他人の記憶に侵入するのは董卓にとっていつでも緊張する瞬間だった。この遠征中も賈駆や御者など身近な人間の思考で密かに訓練を積んではいたが、初めて相対する人間への侵入はそうそう容易い事では無い。記憶とは一人一人が全く別の性質や道筋を持つ迷路のようなものだった。

 

 耿鄙の思考は一言で表せば異常だった。彼の記憶と精神はまるで暴風雨のように強烈で膨大な力を秘めており、僅かでも手順を外せば、自分の精神はあっという間に打ち負かされ、その存在を消去されてしまうに違いない。これが目の前でへらへらと苦笑いを浮かべている人間の思考だとは、にわかに信じられなかった。

 その後も董卓は荒れ狂う精神力の嵐の中を慎重に進み、少しずつ彼の精神の中を見聞していき――そして見つけた。

 

 多元宇宙。そこに存在する幾つもの世界。緻密で膨大な魔力(マナ)の奔流。世界を構築する力線とそれを操る術。久遠の闇。プレインズウォーカー。踏み荒らされた戦場。廃墟と化した故郷と復讐の決意。そのほか幾重にも見つかる意味不明な知識と単語。

 

 これは何!? 別の大陸? 次元? 人間に近い別の生物? 私は一体なにを見つけたの? これは何を意味しているの? 彼は一体何者なの!?

 

 ――見ているな。

 

 瞬間、董卓の心臓が緊張と恐怖で一層強く跳ね上がった。

 胸中で渦巻く感情を必死に抑え、董卓は内なる声が聞こえた方角に目をやった。耿鄙。

 

 視線が交わり合うと、彼は表情を気の抜けたものから心配そうなそれに作り変えて彼女に話しかけた。「どうされました董卓殿? なにやら顔色が悪いようですが?」表情こそ心配そうにしてはいるが、明らかにその目は笑っておらず、漂う思考からは僅かな殺気を放っていた。

 

「あ、あの……いえ……少し遠征の疲れが出てしまったようで……」董卓は口元を震わせながら懸命に首を振った。恐怖のあまりそれしかできなかった。いま僅かでも迂闊なことをすれば、彼からどんな目に遭わされるか分からなかった。

 

「ちょっと月、大丈夫!? 顔が真っ青じゃない!!」彼女の顔色を見た賈駆が慌てて立ち上がると董卓の背中を摩った。

 

「大丈夫……ちょっと休めば平気だから……」自分の体からどんどんと血の気が失せていくのを感じながら董卓は、彼女に類が及ばないように懸命にそういった。

 

 あまりの出来事にすっかり白けてしまった場を見やった張温が言った。「董卓殿がこれでは軍議にならぬな。申し訳ないが耿鄙殿、話の続きはまた明日にでも」

 

 耿鄙は頷いた。彼の表情は先ほどと同じく頼りないものに戻っていた。「ええ。では皆さんも今日の所はひとまずはお休みになって、長旅の疲れを癒して下さい。今から皆さまをお部屋にご案内させていただきます」そして部屋の外を見張っていた兵士を部屋の中に呼びつけると、彼らに将校や軍師たちを部屋に案内するように命じた。

 

 次々と人々が部屋を去っていく中、最後に賈駆の肩を借りて董卓はよろめきながら立ち上がると、一度だけ耿鄙の顔を盗み見た。そこに映っていた彼の表情は先ほどまでの気の緩んだ顔はなく、ただ冷静に何かを思案する策士の顔が映っていた。

 

 ――この男はただの人間ではない。

 

 董卓は李儒から聞かされたその言葉を、改めて胸の内に強く刻み込んだ。

 




※この作品における董卓は『妖憑き』です。『妖憑き』についての詳細は 「プレインズウォーカーのための『外史』案内その1」をご覧ください。

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