英霊記録   作:冬々桃李

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1.交錯三剣

 

 

 英霊記録:

 

    交錯三剣

 

 

      壱

 

 

 あれは間違いなく鬼の類じゃ。

 そう言ったのは一体どこの誰だったでしょう。とにかくそういった話を偶然耳にしました。

 歳は幾つの頃でしたか、慶長の世だったのは覚えてるんですが。一等やんちゃしてた……のはその頃ばっかでもないですね、ハイ。まぁまだまだ若くて弱っちかった頃の話です。

 京の都か、それともどっかの地方でしたか。引っ切り無しに遠征を繰り返していました。そんな時節の折、ちょっとした噂話が立ちまして。

 それはどことも知れぬ島に、月の無き夜、亡霊の哭くというものでした。関ヶ原の亡霊、農民に狩られた落ち武者、いやいや、五年前に転覆した浦人だ、果ては源平の祟り目。

 フフ。関ヶ原は遠すぎですし、今にして思えばどれも脈絡のない話でした。

 コホン、それは兎も角。

 そういった話をちょくちょく聞いていたんです。まぁ普通に考えれば与太話の類。そもそも当時、幽霊話というのは別段珍しいものでもありませんでした。ちょっと違ったのは、結構な数の御坊が祓いに行った様な話だったのですが、成仏したという話がおこらない。

 さもありなん、という具合です。あの方を通常の手順で除霊するなど、さぞ荷の重いことだったでしょう。

 はい? フフ、それはもちろん、委細知っているからこそ、こうして訳知り顔なんです。

 で、それからですね。丁度細川家に呼ばれて小倉に向かっていた時です。京から出立して、馴染みの皆さんと長門の海峡手前まで来まして。海峡超えを明日に回しお宿の世話になりました。

 そこではじめて、その某の亡霊が長州と豊州の間のある島――――まあ要するにそのお宿の程近くですね――――に出るという話を聞きました。それまでも、海峡あたりの島というのは聞いてたんですが、あの場所は島だらけですから。

 流石にお膝元、ちょっと聞きこみをすればその島の名前も直ぐ分かりました。

 そんな鬼、亡霊の住む島。曰く舟島。

 野っ原しかない、狭くてちいさい島でした。しかも岸から見渡せるほどの場所。

 で、ですね。その時お酒を嗜んでまして……「丁度いいから適当に切って捨ててくるわ」なんて言ってしまったわけですね。その場だけはもう大盛り上がりで。店のオヤジさんが良いのを二品くらい追加で出してくれて……。

 コホン。

 幽霊ってくらいなもので、勿論夜に出るものというのが相場です。で、お店でドンチャンしたものだから皆さん酔いつぶれてて……。

 ん? ええ、はい。

 刀は清浄なるもの、神仏に捧げるに足る不浄払いの力を込められています。さらに言えば日本の剣術理というものはそれはもう……あ、興味ないですか。

 え? うーん。

 ……そりゃあ結構怖ろしかったですよ。別に恐怖心がないとか、そういうことでは無いですから。斬っても突いてもダメな、よほど手の負えないものだったらそりゃもう逃げます。私達一門は逃げ足も一流です。

 えーそれで。到着してから気づいたんですが、そういえば結局どれがその島なのか知らずに行ったんですね。

 まあそうですよね。馬鹿です、馬鹿だと思いますよ私も。……色々言ってやりましたとも。

 ――――それはともかく。

 重畳なことに、その件の島、あっさり見つけました。

 

 風鳴りです。

 ブオンブオン、ではないですね。もっとこう…………ヒュン……いえ、ピュン! って感じです。

 ……え? 分かりにくいですか。実演してもいいんですけどここは手狭なので、そういうものと流してください。

 とにかくそう、そんな快音が岸一帯に響いていたんです。

 最初の印象はそうですね……安堵、でしょうか。変わった方もいたもの、と。

 目は良いほう……だったと思うので、見間違いとかでもないんです。

 

 月下。

 蒼い光の下で大太刀を振るう、青年剣士が一人。

 恐ろしいほど艶やかな、居振る舞いとその剣閃。

 まるで流水。まるで水鏡。

 淀み無き手管。風さえ存在しないような、透明なるその一振り一振り。

 きっと斬られたことさえ感じられないような、軽くて、でも鋭く確かな重さも含むような、矛盾をただの腕の上下で体現する太刀筋。

 人が動けば気配が乱れ、風が乱れます。風が乱れれば節理が乱れ、世界そのものにごく小さな、小さな波紋を投げます。その波紋はどんなに小さくても世界の全てに波及していき、そこに生じる目に見えないほど小さな歪を、他者に感じさせます。

 あ、術師の方には釈迦に説法になりますか。

 まあとにかく、その青年剣士。

 彼の所作からは――――未熟もあったのでしょうが――――その歪みが、わかりませんでした。一つの完成形と言っても良いです。私たち兵法家がある意味において夢想するような真の剣です。そのようなものに見えました。

 だから、見惚れてしまったんでしょう。

 空が白く滲んで、周囲に霧の立ち込める、そんな刻限までじーっと見ていてしまったんですね。霧が濃く立ち込めて、いよいよその姿が見えなくなっても、音だけをずーっと聞き続けていたんです。……やっぱり馬鹿ですよね。

 音が聞こえなくなって、それでようやっと正気に戻りました。そして次に考えたことは「そうだ、言葉を交わしてみたい」でした。

 まず剣を交し――――とならないのは兵法家として欠陥……ですか。

 いえ、最悪死んじゃいますし? 目的は幽霊でしたし?

 そういうのは別の時代の、別の人たちに言ってください。

 流石にそこまでバーサーカーな思考だと町では暮らせませんよ。

 ええそれで、その辺の浦人の方たちは既に漁の準備を始めていました。なのでちょっと声を掛けて、島まで渡してほしいと頼んだんです。

 けれどこれがなかなか難儀なことでした。聞く限りそこら辺りの浦人の間でも剣士のことが話に上がるのですが、誰も送ったり迎えてやったりした覚えがないんだそうです。しかも日が昇る頃には忽然と姿を消してて、もはや恐ろしくて近づきもしない、と。

 ということはなんとつまり、その青年剣士こそが件の亡霊……ということでした。ジャンジャン。……あ、やっぱり分かりますよね。

 コホン。

 元々島の直ぐ近くが岩礁で与次兵衛ヶ瀬って恐れられていた場所なんです。そのせいもあって誰も彼も逃げ出しかねない始末でした。

 しょうがないので小太刀一本と、島岸から五間まで近づいてくれれば良いと条件を付けまして、そうやって無理やり島へ渡りました。

 朝靄の中をゆったりゆったり。漕船だったので、眼前の距離でも時間かけて行きました。

 何を話そうかな、なんて考えていたと思います。でもとりあえずは、周辺の人たちが怯えてるし、京に届くほどの怪談話になっているから素振りを別のところでしてほしい、あたりですかね。

 そして約束通り五間で止まってもらい、そこから島へ飛び移りました。

 船には後で大声で呼ぶから帰っていてくださいと伝え、背の高い葦を斬って開けた場所、まあ素振りをしていたあたりですね、そこまで向かいました。

 ……申し訳ないのですが先に夕餉にいたしませんか?

 続きは食べ終わってから……阿呆、飯食いながら喋る奴がどこにおるんじゃ。行儀の悪いことこの上ないわ!

 ――――失礼しました。ええ分かってます、食べ終えたら話しますとも。

 

 

      弐

 

 

 朝靄の中、船から降り立ったのは二本の刀を履いた無頼だった。長い髪をざっくばらんに後ろにまとめ上げ、服を着崩し、見えるだけでも手やら腕やら足やら、刺し傷切り傷の多いこと。

 それだけでも、かなりの修羅場を潜ったのだと分かる。

 後、絶大な知名を誇る、宮本武蔵の若き日の姿だった。

 そんな武蔵は適当に手振りで漁師に去るように伝え、朝靄を肩で切りながら島の中央へと進む。

 朝方の肌寒い空気。朝の露を吸った草を払い、木を避けて進んだその先には、確かに居た。

 青の居で姿。

「ほう。恐れずに向かってくるとは珍しい」

 朝方には消えると聞いていた武蔵だったが、この言葉を聞いて少し嬉しく思っていた。

 どうやら先方は待っていてくれたようだ、と。

「いやなに、お開きの時間を延長していただけたようで。かたじけない」

 島の中央、草原に立っていたのは、深蒼の装束の剣士。

 背には刀、髪を後ろで纏め、袴履きに陣羽織。

 群青の色の濃い形に、はっと目が覚めるほどの面貌。一度見たら忘れられぬ程の傾いた剣士だった。

 剣士。そう。鬼か、亡霊の剣士だった。

「で、お主は某を物見遊山しに来た。と、それだけではあるまいな?」

 そういって亡霊の剣士は武蔵を見、明るい表情を見せた。どうにもやはり、一筋縄ではいかない存在のようだと感じた武蔵は平静ならぬ心を抑えつつ、応と返事をする。

「近頃、亡霊が世を騒がせていてな。拙はそれを心痛し、民草の平安の一助となるべく馳せたのよ。――中略――さてその正体見るや剣に覚えがあると見た。故にその自信を砕き、すればたちまち成仏するだろうと思うのだが、如何か」

 普段の武蔵はとて必要とあれば弁をたてる方だったが、あまり意味もなく、まくし立てる方でもないはずだった。だが、なかなかどうして雰囲気にでも飲まれたか、はてまた相手の面貌に虚を突かれたか、随分と持ってまわった言い回しだった。

 とはいえ途中から面白くなって言葉を盛ったのは武蔵の意識的な所作であった。

 そして「ふむ」と亡霊は口上を楽しそうに聞いていた。片目を閉じて口上を遮らぬ気もないというその姿は聞き惚れているかのようでもあった。

 聴き終えて、亡霊は一拍を置いて応じた。

「なるほど。つまりは我身を清廉なる刀で以って清め、天へと還そうというわけで御座るな。確かに拙者、現世にあってはならぬ身故ながらも留まっている。とはいえそれも宿る無念ゆえのこと。お主にその無念、晴らせるかな」

 紗の音の響き。背に負った刀を、亡霊が抜き放った際の衣擦れの音。

「我が無念は、強き剣士とまみえること。この場にあること、この現世に参上したこと。意味が見出だせるとするならばそれが全て」

 言葉とともに抜き放たれたのは、長い長い刀だった。

 大凡三尺の大太刀。まるで、物干しの竿のようだった。

 普通、立会を求める剣士が持つようなものではない。

 徒歩ではなく、馬上で振るうためのものだ。

 あれを素振っていたのかと武蔵は知り、しかし竦むことすら無く歯を見せる。余裕の現れだった。

 あれほどの大獲物、軽々と振るえるはずもなく。

 そして武蔵の上段は片手ながらも雷光の如くとさえ言われる神速の踏み込み斬。

 流すか避けるか。

 長物の対処は難しいものだが、それは槍などの話であって重心の難しい大太刀では初撃は速く、しかして二の太刀は確実に遅々として振りきれぬ。

 さすれば振らせてしまえば武蔵の勝利は揺るがず、技量を持ってすれば大した難題でもなかった。

 武蔵も、腰から刀を外し、鞘を投げ捨て構えた。速度のまえに空鞘は少し邪魔だったのだ。

 構えは上段。一の太刀を許し、しかし受けも避けも可能な、余裕のある構え。

 一方で亡霊は、一切の姿勢を取らなかった。肩に太刀を構えるという自然な風体のまま、武蔵を見つめている。

 

「岩流の|相伴徒(サーヴァント)、佐々木小次郎」

 

 それが亡霊の名前らしい。ご丁寧に流派にさうばんとなる職まで名乗る。

 どういう亡霊だと武蔵は思いながらも、名乗られた以上名乗り返すは決闘の華である。せいぜい負かしたものの名を刻むと良いと考えながら、名乗った。

 

「円明流、宮本武蔵。参る」

 

 その瞬間の、亡霊の表情ときたら晴天の霹靂とてこれほどでもあるまいが如しだった。

 一瞬間の百面相、つるりと男前の風貌が変わるさまは武蔵としては愉快ではあったが、頓着無くその隙を狙いにいった。

 名乗りは終わった。となれば後に語るは刃の交錯、その煌めきのみであって、不覚悟の小次郎にこそ非がある。

 武蔵の早駆けは、瞬間であれば馬さえ追えず、瞬きの内に相手の懐に入り込む。

 

 こと剣術ごとにおいて武蔵に欠落、弱点は存在しない。

 

 普通、剣術一つ取ってもあれこれと得手不得手あるものだが、武蔵にはない。あらゆる部分を意識し、鍛えてきたその身は一部にも隙無く、あらゆるものが強くしなやかだった。

 恐るべき速度の踏み込み。そして流れるような刺突。

 朝霧を全身で切り裂き、そのまま亡霊ごと切り捨てかねないほどのすさまじい一撃。

 初撃必殺のつもりは武蔵には本来なかった。

 いやしかし流れというべきか、それとも武蔵の意識外の身体的な反応か、武蔵自身驚くほどの突きが出てしまった。

 亡霊であると思いながらも、爪の先ほどには生者の、どこぞの武家の倅であることを疑っていた。既に命を奪う一振りを放ってから、そこでようやっと、どうも疑う余地もなく、この相手が人外のものであるようだと信じることが出来た。近づくことで分かる、その透明感。気配の薄さとでも言うべきか。

(この世のものでなくて良かったか)

 少しの安堵。生きてる相手であれば斬ると後々面倒だったかもしれない。

 そんな安堵の心地の中。

 そしてそのまま。

 武蔵は驚愕する。

 

 視界の端。振られること無く止まっていた筈の小次郎の大太刀。

 それがぬるりと動いた。

 

 意識の慮外、異次元の反撃に対する武蔵の反応は、蜂にでも刺されたかのようだった。

 力強く放たれた突き。

 それがささやかな金属音とともに乱れる。目標の腹部から逸れていく。あまりにも自然に込められた力が虚空へと流される。

 瞬間。

 猫の如き柔軟さでもって、武蔵は全力故に伸びきった体を強引に捻った。

 無理矢理に姿勢を崩し、肩から地面に倒れ込むように姿勢を落とす。

 両手で保持していた刀から右手を離して土を叩き、左の腕力のみで強引に刃先を捩った。

 

 そして、先ほどまで肩に置かれていたはずの、武蔵の突きを受け流したはずの、いつの間にか後頭部に迫っていた大太刀の一振りを迎撃した。

 

 盛大な音を立てて武蔵は転げた。右手から肩、頭と接地して全身で転げて亡霊の脇を抜け、その勢いのまま立ち上がって再び刀を正眼にもっていく。一拍の間で呼吸を整えるが、一滴の汗が額から流れ落ちた。

 大して亡霊は涼しげな顔。

「なるほど流石」

 そういって亡霊――小次郎は武蔵に向き直る。

「今までの手合とは違うか」

 そうして小次郎の目つきが変わる。気迫が変わる。剣気とでも言うべきものが、ちくちくと武蔵の全身を刺し貫いてくる。

 先程のは、言ってみれば戯れだったらしい。

 雷とさえ例えられた武蔵の突きを容易に受け流し、あまつさえそのまま首を落とそうと流水の如く迎撃してきたその、恐るべき剣速。それは、全力ではなかったらしい。

 

 蜂に刺されたかのような、痛みを武蔵は感じていた。

 擬似的なものだ。精神的、魂に来るようなものだ。

 武蔵は生来勘が強く、こういったことにも鼻が利いた。

 それが痛いほどに働いている。

 だから分かる。

 コイツはやばい。今まで倒してきた連中とは違う。

 速さが違う。技量が違う。格が違う。

 皆が水中で棒振りをしている中、一人だけ陸で振っているようなものだ。

 例え幽霊でも、目の前のものは五体を備えているように見える。

 ならそれに縛られているはずで、そこには五体の常識があるはずだった。

 分からない。あるはずのそれが、武蔵には全く虚に見えた。

 

 剣鬼。鬼の類だコイツは。

 

 地を縮む吉岡。

 雲さえ射抜く宝蔵院。

 夢と幻の伊藤。

 空を裂く柳生。

 

 全て名立たる兵法者たちばかりで、死を覚悟するほどに強かった。

 だが、こんなやつは――――こんなどうにもならないようなやつは今までに無かった。

 意味もなく、武蔵は笑いたくなった。

 今回、武蔵は特段の意味もなくこの地に立っている。殆ど気紛れだ。それこそ気の迷い。少し何かが違えば、今頃布団の上で鼾の一つも掻いていた頃だろう。

 それが何を間違ったか、こんなところで命のやり取りをしている。

 それも、相手は人外。更にはただ亡霊ではなく。

 どう考えても、これまでも、これから先も、絶対に出会わないであろうぶっちぎりに強い剣士の亡霊だ。

 一寸先は闇。

 然り然り。

 天運とは目に見えぬ。恐ろしいものだ。

(なるほどこれは……これは愉快。愉快すぎるッ!)

「ハハ、上等!」

 武蔵はもう一振り、腰にあった脇差しを抜き放つ。

 円明流は一刀流、二刀流、共に扱うことの出来る流派だ。

 そして武蔵自身の本懐は二刀の方にある。恐るべき握力が許す独自の戦闘技能、二刀流。

 そこから繰り出されるあらゆる手を行える剣術こそが武蔵の本気だ。

「フッ」

 短い、耳を澄まさねば聞こえない呼吸音。足音さえ極力薄く。

 武蔵は今一度その音超えの速度でもって踏み込む。

 猛禽の急降下の如くだった。

 重力に任せ獲物へ向かう鳥は風を裂き驚嘆の速度で迫るが、奇襲故に音を立てない。

 それは殺意の現れだ。気取られず、最速で以って速やかに対象を殺す。武蔵はまさに狩りの姿勢に入った。

 とは言え狙っているのは小次郎の体ではない。長い刀身を持つ、その大太刀。

 故に奇襲。

 刀を振るう本体よりも刀のが手近だから。そんな短慮とさえ言えない理屈。しかしそこには武蔵なりの理屈がある。

 刀身の歪みは攻撃の精度に直結する。そして、長いということはその中腹は負荷がかかりやすく、一度の衝撃でも自重で勝手に歪みやすいという事。

 そして、あれほどの腕前なら自負が在り、あるならば必ず受けて立つであろうという事。

 

 武蔵は意図的に迎撃しやすいであろう正面から突撃した。

 無論、自分が本気であれば相手の太刀筋を受けれると思ってのことである。

 即ち空いた手で大太刀の刀身を叩き、なるべく歪ませれるならば、一気に勝機となる。

 

 武蔵の打刀も脇差しも、実は通常のものとは異なる代物であった。

 質実剛堅で有名な同田貫のものより更に刀身が厚く、それに合わせて重量も増え、反比例して切れ味は鈍らより多少ましといった具合の特注品。

 自身の剛力によって武器の折れることを嫌った武蔵が特別に頼んだものだった。もともと敵を倒すのに切る事を重視しない武蔵にとっては、頑丈で叩き潰すことに特化したこの刀が実によく馴染んだのである。

 そういった刀だったから、相手の刀を受けることも、そしてへし折るか最低でも叩いて曲げるくらいは容易の代物であった。

 

 無論、小次郎はそういったことを察知しているだろうと武蔵は思った。

 それでも受けて立たざるを得まい。あの亡霊が二刀を相手取ったかどうかは知ることは出来ないが、片手持ち故に一刀より握りが弱く、簡単に弾き飛ばせることは察せるだろう。

 そして、その当然が、実は武蔵に当てはまらないと気づくかどうか。

 

 武蔵は低姿勢、両手の刀を右に寄せ、心持ち左身から突進する。

 小次郎の膝が動く。腰が回り、右の腕が脈動する。前動作から察するは横薙ぎ。大太刀を片手で振り回す。その膂力、その技量には呆れるばかりだ。

 

 しかし。

 

 しめたものだ。それならば威も力も少なく、容易に受けて返すことが出来る。

 打ち合いの音が響く。左からの横薙ぎを武蔵は右手の打刀で迎撃。手首を返し、目前を腕で覆うような辛い体制でしかしその一撃を受けて流す。

 

 太刀筋より運動量が失われ、瞬間的に静止するその一点を狙う。

 

 武蔵は脇差しに力を込める。右脇下に仕舞いこむような構えは刃先に十分な加速を与えられる位置にある。

 風切り音さえ無く、それが振るわれる。

 手首の返し、腕の動きに連動する腰のひねり。大木の幹さえ切り落とそうという豪快な一振り。

「獲った!」

 

 間近で響く風切り音。硬質な、甲高い音。

 

 気づけば武蔵の姿勢は、左腕を振り切った無防備なもの。

 

 何が起きたかを理解するより先に武蔵は上体を後ろへ逸らす。擦り切れかけた草履の右足を同時に蹴り上げる。

 武蔵の目前ぎりぎりを通り過ぎる、小次郎の刀の柄。突き出されたその柄に当たれば一撃で骨を砕かれていただろう。

(持ち変えやがった)

 

 刀を右に持っていた筈の亡霊は、武蔵との打ち合いの瞬間、刀を宙に離したのだ。

 空中で一瞬弾かれた筈の刀をそのまま反対の左手で掴み直し、姿勢を前へ。

 体重をかけた踏み込み。

 そのまま振り下ろすのに無理が生じたか、握りこんだ左手をそのままに柄頭による打突。

 武蔵の脇差しが大太刀を叩こうとして振られたその瞬間に持ち替えをやってみせた小次郎はそのまま攻撃に転じたのだ。

 

 驚愕すべきはその眼の良さ。そして武蔵の動きを読みつつも乗ってきて、返しに転ずるその豪胆さ。

 そして大幅に姿勢を崩しながら反撃を回避した武蔵は、右足からたっぷり土を乗せた草履を放ち、目眩ましをかけて小次郎の追撃を封じてその隙に手を着いて回転飛び。

 なんとか常態を取り戻していた。

(あちゃあ、これは不味いかもしれん、正攻法じゃ厳しすぎるか)

 土が入るのを嫌ってか、両目を閉じていた小次郎。

 ゆっくりと片目を開けた。

「器用な避け方をする。不意を打てたと思ったが、いやはや、なかなか巧くは行かぬな」

「ハン、俺以外なら通ったかもしれんがな。もしくはその糞でかい刀じゃなけりゃ巧いこといけたかもしれないな。全くその物干し竿みたいなのは。いっそ槍でも薙刀でも持ったほうが強いんじゃないかお主」

「いや、拙者はこれしか振れぬ無精者故、」

 言いかけの言葉のさなか、武蔵は先程手を着いた瞬間に握り混んでいた石を投擲。

 スイ、と小次郎が手首だけで刀を振るう。すると何とも起こっていない、というふうに簡単に打ち払われてしまった。

 無論、予想通りのことであったが、さてどうしたもんかと武蔵は頭を悩ませる。

「やっぱ通らんか」

「亡霊故、喰らったところで大したことでもないが、な。……しかし器用なのは避け方ではなくその有り様か。場のあらゆるを用いて有利を取る。なるほど、流石というべきか宮本武蔵」

「ほぉん。俺も少しは有名になったもんか、亡霊にまで名が売れとるとは。翻ってオヌシ、てっきり名のあるものかと思ったが巡らせてみても思い当たらんな、どこの亡霊様だ」

「そうだな……いや。ただの、佐々木小次郎で良い。只々これ一本を素振り生涯を送った、無名の霊よ」

 あまり興味も無さそうに武蔵は相槌を打つ。

 いや、それは武蔵が表情を出す余裕さえなかったからだ。その言葉は武蔵の脳裏を熱く加速させた。

 会話の最中、武蔵が考えていたのは佐々木小次郎の出自やらではなく、その振るう術理であった。

 一刀流やら中条流の剣術がかすかに見えるものの、より古い感じを受ける。それとて本当に芽吹きの音のようなもので本当に微かなもの。これが正解だというかっちりとはまる感じはしない。かつて武蔵は我流剣士を相手取ったことがあったが、そのほうが近いかもしれない。ただし習熟、精錬は比較にならず、武蔵が全く知らない術理の流派を極めていると言われたほうがまだしも理解できる話だった。

 確かに根底には日ノ本の術理があり、大陸方のものではない。しかし既存の剣術では類似しているものが殆ど無い。そもそも無型という時点で解析困難。これが我流とすれば、一体、どのような才能が可能とすることなのか。

 武蔵は当世を生きる剣士の中でも、事さらに経験が豊富だ。なにしろ思い返すだけでも決闘決闘の毎日を送ってきた。それも強者をばかり好んで戦ってきた生粋の兵法狂いである。そして、あらゆる剣士を向うに回して全て勝利してきた。

 恵まれた体、明晰な知能、骨身に煮染められた術理、そして秘剣。

(似ているッ、しかし佐々木が上か!)

 武蔵の持つ技術の基盤は父の仕込み。そして、それを研ぎあげてきたのは多くの決闘、そして山、武蔵のその生き様。

 染み付いた基盤を己自身の手によって作り上げたそれに円明流と名付けたのは武蔵自身だ。

 それはつまり我流剣術だ。二刀が手に馴染むから二刀流。決闘が日常故に作り上げられた猛々しく実戦的な戦闘論理。武蔵の蓄えた経験を円明流という名で結び、一の形をなした。

 天下に轟くは武蔵。

 そして武蔵が鍛え上げし円明流。

 こうでなければと考えたからだ。

 そして、佐々木小次郎の剣はそうではない。恐らく系統立てた仕組みさえなく、本人も一体日ノ本術理として振るわれるその刀の基幹が何であるかわかっていないかもしれない。

 しかし、|来歴(つみかさね)がなく、それでもなお強い。

 そうだ、と武蔵は理解している。あれは剣の純粋技量なら俺より強い。

 朱に交われば赤くなる。返せば、交わらぬものは赤には染まらぬ。

「岩流というのは己で興した流派か?」

「うん? いやこれに名前は無い。今回そこに使役される身故名乗っているが、伊達をしたまでの事。某自身には名乗るほどの流派も身分も無い」

「いや、なるほど。ハハハ……まさか本気で素振りで鍛えたと申すか」

 まるで虚仮にしたかのような声調の武蔵。しかし、その内心は。

(間違いなく、コイツは兵術が相手取るはずの生身の人間を狙っていない。霞か風か亡霊か、何かおかしなものを相手取って、それが切れる水準に叶ってしまっている)

「いやなに、燕をな。何も無い山だった。だから、目についた燕を切ろうとして、結局生涯を使いきってしまった」

 この瞬間であった。武蔵は電撃的に理解した。今は、絶対に勝てぬと。

 そんなわけのわからぬ術理はこの決闘中に理解できない。そんな意味不明な努力を続けられる人間が、この短期間に攻略できようはずがない。

 

 逃げてぇ。

 そう武蔵は考えた。時間が欲しい。それを理解するだけの時間が。

 

「ところで」

 声は間近から。距離のあったはずのものの声が、吐息さえ感じる場所から聞こえた。

「随分後を気にしているようだが、まだ決着はついていない。それともそういった兵術の一種か」

 風切りの音。

「チィ!」

 武蔵は手の両刀を振るう。右から来るは首狩りの太刀筋。いや、小次郎の振るう剣は全てが必殺。牽制は一切なく首狙いの絶刀のみ。

(音もなく距離を詰める、踏み込みまでも速いか!)

 一刀をなんとか弾き返す。全身を使って衝撃を殺す。みっともなかろうとも、四肢の全てで以って受けの反動を地面に逃す。

 そこへ更に追撃。首狙いの横切りの次は兜割り。やすやすと片手で振るわれる大斬撃。

 全身を捻り、武蔵はそれを回避。背を土床に付けて、そのまま海老の如き背筋で一気に立ち上がる。しかし立ち上がった姿勢は小次郎に背を向けたもの。

 掬い上げる太刀が襲い掛かってくるも、脇差しを逆手に持ち替え、股下を通ろうとする太刀筋を受け止める。そのまま跳ねて空中前転。体を更に宙でひねって、見事小次郎の正面に相対した。

 そこへ向けられる突き、突き、突きの嵐。二刀で以って弾き、逸し、それでようやっと互角の速度。そこへ突きならず斬撃まで交わる。

 左右上下。時折武蔵の刀を掻い潜る、最早どこから振られたかも分からぬ高速の太刀筋。

 武蔵はひたすら受ける。右へ左へ受け流し、あるいは跳ねて躱し、刀身の丈夫さを頼みに無理に受け、それでもなんとか凌いでいた。

 そうしている内に、徐々に、小次郎の攻撃は首以外への狙いが増えていた。小手も含め、全ての大血管を断ち切らんとばかりに攻撃の範囲が広がって行く。

(肩掠ったか。……腰帯も薄く切られた)

 そして小次郎の太刀筋は徐々に早くなっていく。

 一方で無論、武蔵も、この程度ではまだまだと牽制さえも交えて振り、ねじ込んでいき、風切り音も金属音も加速度的に増していく。

 足を止めれるような性質の斬り合いではなく、お互い、よく足を使っていた。

 小次郎のそれは攻めのもの、まるでコレほどまでに動けるという事を誇示するようでもあったが、あまりに早い踏み込みが武蔵の影を踏まんと迫ってくる。

 武蔵のそれは、常に相手の正面を向く守りのもの。動いて撹乱することよりも気を合わせて相手の動きについていくためのもの。

 一度攻守が決まればそう易々とはひっくり返らない。隙を突くか、奇策を使うか。

 今、武蔵は耐えるべきなのだろうと受けに回っている。

 武蔵の剣は速さ強さを頼みに攻めることが多い。だから知る者が見れば驚くかもしれない。武蔵が先手を譲り、あまつさえここまで受けさせられている姿を。

(今は防ぐ以外の手がそうそう無いが……このままでは恐らく不味い!)

 薄く皮膚を切られて少し血が出ている。出血は体力を奪うが、しかしこの程度であれば武蔵は一両日を戦い抜くだろう。

 漠然と、武蔵は不安を感じていた。

 不味いのは、ではなにか。

 はっきりとはわからない。そこに相手の作為があるのかどうか。そんなことがこの激しい剣戟の最中に可能なのかどうか。

(徐々に、……徐々に剣閃を誘導されている気がする)

 こうして打ち合っていてもはっきりとは見えない。だが、なんとなくそんな気がする。

 間違いなく武蔵は自分が思うように刀を振り、弾き、牽制を入れて戦っている。小次郎の攻撃は相変わらず急所狙い。太刀筋を入れてくる角度こそ広いが全て必殺、牽制は一つとしてなく、振られる刀は弾くか攻めかの極一択。

 そんなやり取りの中で、相手の太刀筋を思った通り誘導することなどが可能か否か。並の剣士同士なら、技量に差があるなら。

 己の技量が、それほどまで佐々木小次郎に劣るか否か。

(……状況を、打開する。このままでは詰まされる)

 武蔵は、この佐々木であればやってくると、考えた。

 なんの理屈もなく、いっそ恐怖からくる考えすぎで、あまりに異端の剣技にそんな気にさせられているだけ……とすら思わなかった。

 武蔵ほどの技量で気づけ無いほど、さり気なく、何十手先か何百手先か、勝負を決せるほどの状況を準備され、誘導されていると。

 そう武蔵は認めた。

 故に。

 武蔵は秘剣を開陳する。

 二刀故に、どちらか片方で受ければもう片手は溜めを作ることが出来る。

 打刀を掠らせ、右目狙いの突きをほんの指先ほど反らせて迎撃。

 そして、左手の脇差しを己の右脇に仕舞いこむように腰の横に位置取らせる。

「喝ッ!」

 既に何十合目の刃先の触れ合いだろうか。少なくとも、小次郎はまだこの後何合でも打ちあうつもりだったかもしれない。

 しかし、既に武蔵の脇差しは一瞬前のものとは異なる。

 横薙ぎ、に合わせられた武蔵の同じく横薙ぎ。

 交差する両刃。

「ムッ!」

 小次郎が呻くほどの異様な手応え。

 そして刃同士が打ち鳴らすものとは異なる金属音が響いた。まるで甲冑でも叩いたような異様な音。それは脇差しと小次郎の大太刀との接触面から発されていた。

 先程までの脇差しがただの鉄の棒であるとすれば、此度の手応えはまるで鉄板のようだったかもしれない。

 武蔵自身には分からない。打たれたことがないからだ。さらに言えば無理に片手で撃ったせいで感覚が鈍い。

(やればやれるもんだァ!)

 大博打。無理にと言ったが、ぶっつけ本番で試したことさえ無い片手撃ちだった。しかし効果は明白だった。

 大太刀の弾けたその瞬間、攻守が入れ替わる。予想外の手応え、そして、予想外の反発。完全に管理していたのであろう太刀を一瞬逸らされた小次郎。狙い通り、不意を突いた武蔵。

 ここからただ斬りこむのであれば最初の二の舞いだ。

 ……秘剣はここから先に振るわれるものが本来のシロモノだ。

 脇差しが宙を舞う。手裏剣術の要領で武蔵が投擲したのだ。と、同時に踏み込み。再度脇差しを掴めそうなほどの距離詰めによって、武蔵の射程へ。

 無論小次郎は脇差しを打ち払い、しかし攻め手には回れない。いくら神速の斬撃を操れてもどうしても覆せない状況がある。

 そして武蔵は踏み込みの最中、打刀を、先ほどの脇差しの時と鏡写しのように、己の腰下に走らせる。先ほどと違うのが一点。今度は、打刀を両手で保持している。

 遠目から見れば、今の武蔵はまるで尾が生えたようにも映るかもしれない。

(ここを逃せば次は無い。これにて決着。それが上の上!)

 故に防げる攻撃は決して撃てぬ。

 研ぎ澄まされた殺意が走る。

 最初、武蔵は猛禽だった。

 今、武蔵は虎となった。

 構えは虎の尾。

 振るは虎の爪。

 故に技の名を。

「『虎振』」

 そう命名した。

 

 速度は武蔵最初の、雷の一撃と大差ない。つまり十分に速いが、佐々木小次郎は容易くこれをいなしてくる。

 ただし、それはただの刀、ただの太刀筋相手であれば、である。

 

 風切り音が際立った。

 

 それは一刀が風を裂くような、可愛らしいものではなかった。

 刀を、鉄板を、同じ速度で振るえるならば、同じ音を聴けようか。

 

 三太刀七太刀と呼ばれる絶技がある。

 かつての武将、上杉謙信が終生の敵である武田信玄の軍配に放ったとされるものである。三度振るわれただけの筈の刀は、それを受けた軍配に七つの傷跡を残したという。

 

 日ノ本の術理は、極まればこのようなことさえやってのける。

 刹那の際に切る。道理を超えて幾数を切り捨てる。

 二度でも恐るべき剣技。軽く手首を回せる程度、別方向から切れるのならば、手足を全く同時に落とすことも出来るだろう。

 もし三度、一ところを切れるなら鎧はおろか城壁さえも抜くかもしれない。

 そして、武蔵にはそのどちらも出来なかった。

 瞬きの内に別方向から二太刀。そのような速度があればまず一度振るうだけで勝利できるだろう。最速で切り上げて切り下ろすまでが武蔵のせいぜいで、横だの縦だのと縦横無尽に常に最速で降ることなど出来なかった。そもそも、二刀流であれば同時に、別の方角から攻めるのは難しくない。

 瞬きの内に斬撃を重ねる。やはり同じく、最初の一振りで勝負は決するだろう。さらに言えば、寸分違わず完全に同じ場所を通すだけの精度を絞ることが出来なかったし、必要性も感じなかった。

 足りなかったのは才か、執念か。

 分からない。ただの適正なのかもしれなかった。

 それを証明するのがこの虎振だった。

 

 その秘剣の軌跡には周囲に何千何万もの、向きだけが揃った異なる太刀筋が蠢いている。

 打刀本来の太刀筋を中心にその周囲、全く同じ打刀から放たれた、放たれるはずの、放たれるかもしれない、斬撃がずらり隙間なく纏わっていた。

 刀身がブレて揺らめいている、などという生半可なものではない。

 刃先から描かれる一本の太刀筋。その線を幾本も幾本も少しづつずらしながら重ねていけばいつかは、面と呼べるだけの厚みを帯びた斬撃の塊となる。

 これはそういった剣。

 あくまで一定の幅に収まるものでしか無いが、その中にどれだけの太刀筋が含まれているか知れたものではない。

 まさに斬撃の壁。しかも、その一太刀一太刀には、あの打刀の重みと武蔵の膂力が余すところなく乗っていて、それが数えるのも億劫なほど集まっている。

 同じ面積の金槌で打たれる方がまだしも軽く感じられるだろう。

 まさに、数、質量、力の暴力。それがただの一薙の内に封ぜられていて、瞬速の使い手の内から発せられる。重さ故に受けることは不可能、幅が厚く高速の太刀筋故に回避は困難。

 一見して、ただの一太刀。斬撃故に目に写るようなものでもなく、受けて初めて分かるその異常なる一撃。あらゆるを押し潰す鉄塊にして粉砕機。

 破壊の秘剣。まさしく虎の腕が切り裂くが如く、虎振。圧倒の破壊力。亡霊さえ確実に葬り去る、剣士の一振り。

 宮本武蔵という天才が編み出した、必殺。

 

 それは、岩の派閥に使役されるサーヴァント・佐々木小次郎にとっても埒外の剣。

 しかし、しかし――――決して対処出来ぬものではない剣。

 隙を突かれ、姿勢を崩していようとも、である。

 むしろ、一方的に弾かれただけとはいえ、不完全とはいえ、秘剣の一片の手応えを先に感じ取っていたのは小次郎にとっての僥倖だった。

 

「厚み一尺増し」

 

 小次郎の姿勢がおかしくなっていた。大太刀を不完全な片手での虎振で弾いた時点では普通に構えていたはずだった。

 そして更なる牽制として放たれた脇差しが撃ち落とされた時には、既に体勢は変わりつつあった。

 その時点で武蔵は手元の刀を右から左へ振り切るのみで小次郎を両断……否、粉砕できる状況だった。

 下がるには遅く、既にたっぷり殺界に入っている。左右もまた然り。受けにくれば大太刀ごと粉砕する。流すことさえも叶わず。ならば一体どうやってか。

 小次郎は少し腰を落とし、左を半身ほど前に突きだしていた。大太刀は投擲を弾いたためか右に流れていて、迎撃には……いや小次郎であれば間に合わせるか、それも微妙な線。相打ちさえ出来ず、刀、腕、肩、頭まで吹き飛ぶだろう。

 そのはずだった。

 

 虎振が、ようやっと当たるという直前に、ぴたりと静止した。

 

 武蔵の指。右手指の三本に激痛が走った。

 小次郎が左手に持つは鞘。背に負っていたはずの鞘を左手に移し、その鞘が柱となって虎振の、振りかぶりを食い止めていた。おかしな姿勢はその為のこと。姿勢のみで背の鞘を滑らせて左手に移し、ごく正確に武蔵の右手を縫い止めていた。

 武蔵は全力の振りかぶり故に鞘に自らぶつかり、しかしぴたりと静止されたのは。

 小次郎の力加減の賜物だった。

「剣先長さは変わらず。剣自体が加重されるなら止めれぬがその程度であれば」

 非常に楽しげな、小次郎の声。

 まやかしの大質量が乗っているのは斬撃のみ。振られる手、腕には一太刀の分の力しか無く幾合と合わせてきた小次郎の心眼には一体武蔵がどの程度の力で、どのような向きで腕を振るっているかが把握できていた。

 故に、鞘先のみで腕の動きを静止する、などという神業を当たり前のように行って、虎振を止めたのだ。

「秘剣絶剣の類に相違なく、しかし届かぬとすれば、さて、一体どう出る宮本武蔵」

 挑発の言葉。剣の応酬が楽しくて仕方ないといった風情だった。

 そんな様子の小次郎の右手には片手で保持された大太刀。

 それがピュッと風を切り、再度武蔵の首元に振るわれる。しかし姿勢のせいか今までよりも精細を欠き、武蔵は痛覚で握りを離せないせいか柄の底でなんとかこれを受けて後へ跳ね、密着を脱した。

 仕切り直し……とはなっていない。

 強く打ち付けたせいか小次郎の鞘は欠けていたがそれきり。

 逆に武蔵は利き手の指を強打し、脇差しを放おって失い、秘剣を見られ対処された。

 手札の殆どを一方的に見られたというこの状況は、剣士としても兵法家としても詰みの状況であった。もし、武蔵がこれよりさらなる秘剣を持つのであれば事態は不透明だったかもしれないが、そうであることを一番望んでいるのは武蔵本人であったかもしれない。

 打つ手がもうなかった。

 コレが凡百の輩相手ならここからまだ工夫のしようもあるものだったがどうにも手も策も思いつかず、そもそも凡百相手で今更ここまで追い詰められもしないかと武蔵は虚しい心地。

(斬られるか、このままでは)

 これほどの相手ならそれも良い気がしていた。なんだかんだここまで無敗を誇っていたが、上には上が、それも天井知らずの高みってものがあって、それと相見えるなんていうのは一握りに許された幸運だろう。

(関ヶ原で拾った命だ、何時に散っても可笑しくはなかったし……まぁいいか)

 足の速さは少し小次郎側が勝る、と武蔵は見ていた。逃亡とて隙を作らねばできないがその手段がない。そしてあの涼やかな顔の男は決してそんな隙を見せまい。

(足掻くだけ足掻いてみるかぁ)

 武蔵はそう思い、痛めた右手を離して左手だけで刀を握り直した。右手指は握る形だけで痛みが酷く、使わないほうがましだと判断した。構えは虎振。不完全な片手撃ちだが、集中の削がれるより遥かにましだろう。

 ふと、鋭い寒風が両者の間を流れた。

 距離にして大凡十歩分の距離、即ちほぼ無間。お互いの脚力を持ってすれば瞬きの間にするりと入り込んで、斬って捨てられるだけの距離だった。

 その隙間を風が吹いていく。立ち込めていた霧を散らし、草を揺らし、そして。

 武蔵は楽しさを堪えらない、といった表情で言い放った。

「ここらで手打ちにはならんかのう」

「笑止」

 土の踏み抜かれる音。

 少しだけ武蔵の初動が早かった。小次郎はなぜか刀を構えにいったからだ。それを怪訝に思っている暇は武蔵側にはない。

 左足一歩の踏み込み。抜き払われる秘剣・虎振。片手ながら先と変わらぬ精度、威力。集中が呼ぶ、極限化での奥義の習熟。少し姿勢が右寄りに崩れているのは片手撃ちの不慣れ故か。それでも支障がないのはおそらく、武蔵も片手での虎振を研究していたが故だろう。

 

 そして小次郎は考えていた。

 次にあの秘剣が振るわれる時は、自らもまた、それを見せようと。

 

「『秘剣』」

 構えを持たないはずの小次郎が構える。これが一体何を意味するのか武蔵は思いを巡らせなかった。ただ手先の感覚への集中と、これから目の前に映る全てをそのままに受け入れる、そういった心持ちでいたからだ。だから、それが振るわれた時も、そういうものという認識はあっても驚愕や、恐怖は感じなかった。ただ、そういうものとして受け入れただけだった。

「『燕返し』」

 一、ニ、三。

 太刀筋が三本見えた。

 全てが異なる角度から、取り囲むような軌道で振るわれた斬撃。単なる超高速の切り込みではなく、真実、その瞬間には小次郎の振るう刀は三本存在し、それぞれが別軌道をもって襲い掛かってくる秘剣。

 これほどの剣を振るう猛者が、今日びこの国に何人居るだろうか。剣聖であれば至るだろうか。単なる強者では、これほどの絶剣を振るうことは終ぞあるまい。どころか見ることも、実際にその身に受けることさえ出来ないだろう。

 燕なぞを斬るためにはあまりに過剰な、美しく、空恐ろしく、見るものを圧倒する剣。

 なるほどなぁ。

 感情を伴わないまま、武蔵は実感する。これが彼岸の剣か。

 恐ろしいなぁ。

 こりゃ真っ当では避けれんかったなぁ。

 

 刹那の内に、複雑な音色が孤島に鳴り響いた。

 甲高い音。

 武蔵が振るっていた打刀が分割された音。

 土砂の降り注ぐ音。

 虎振が地面を打ち据え、草と土を裏返して小次郎に引っかぶせた音。

「ここは負けだ、引いてやらぁ!」

 武蔵の負け犬の遠吠え。

「ハ、してやられたか」

 嘆息する小次郎の音。

 そして飛び去る小鳥の羽音。

 

 虎振に込められた全ての力を地面に擦り付け、武蔵はその反動で飛んだのだ。

 射程内だったはずの武蔵は辛くもその絶剣の範疇から抜け出し、肌の一枚だけを切り裂かれるのみですんだのだった。

 そうして全力で背を向け、足跡つけて武蔵は走って逃げた。

 

(ヤバイヤバイ、死ぬとこだった)

 全力で走る武蔵。どうも見逃されたらしいというのは既に感じ取っていたが、だから今更歩こうという気にもならなかった。とんでもないものと仕合ったという恐怖と興奮が武蔵の足を勝手に駆けさせていたのだ。

 構えの間、完全に相打ち狙いだった。最初はそのつもりだったのだ。

 ただ、あの風。

 気持ちのいい風だと思った。

 そうしたらなんとなく無心になっていて、そのまま剣を振って、気づけば背を向けて駆けていた。

 よくまた生き残れてるもんだと武蔵は己に感心する。

「おーい、オヤジィー。迎えに来てくれー!」

 地面を抉って目眩ましにしよう、とは考えていなかったはずだ。踏み込んだ位置が、あの長大な小次郎の刀の間合いギリギリだったことは意識の外だった。そして、虎振の反動で後ろにすこし跳んだことに至っては、試したことさえなかった。

 無論、反動があることは道理ではあるが。

 それが功を奏し、あの恐るべき秘剣・燕返しの射程を掠めるくらいで済ませたのは、天稟というよりただの幸運のようでもあった。

 もし完全な間合い内であったなら、あの秘剣を放たれて生き残れはしまい。

 走る武蔵の身に、震えが来た。

 手を見やれば、柄と小刀程も無い刃の残った打刀の残骸を握りしめていた。

 みっともなく震えているし、また、見るまで柄を握っていたことさえ気づかなかった武蔵は脱力した。

「ハァ、ここまでくりゃいいだろ」

 波打ち際。足先が濡れるほどの近さだった。

 後を見れば朝霧と靄の向こうに佐々木小次郎の影が浮かんでいる。いまさら走って追いかけてくるわけはなく、しかし、そこにいると分かるだけでも少し、恐ろしかった。

 武蔵は両手で輪っかを作って拡声器代わりに、声を張り上げた。

「明日同じ時刻! また退治しに来てやる。首を洗って待ってろ!」

 武蔵は、自分でもなにやってるんだと思いながら、そう叫ばずにはおれなかった。

 今回は負けた。次勝てるかは分からない。

 でも、己は、必ず再戦を求めてしまうだろうと思って、武蔵は我慢できなかったのだ。

 遠くに映る影は、肩をすくめたようにも見えた。

 

 

      参

 

 

 えー、ダサいですかね……。ではマスター、そういう状況でしたら素直に死にますか? そりゃぱっと散るっていう美学ってものもありますけど。他人事でしたらいいですけど、事が自分のこととなったら早々受け入れられるものではありませんよ。

 あー、ほら。いえ、素直なのは良い事だと思います。頑固な人に比べればどれ程やりやすいことでしょう。

 いえいえ別に貶してるわけじゃないんです。柔軟性――しなやかさというのは生き物には大事だって単純な話ですよ。生物ってのは動きます、身も、心も。なのであまり固いと動きが悪くなりますし、脆くて壊れやすくて良いこと無いという健康のお話です。

 えー、それから、ですね。

 再戦はちゃんと果たされました。はい? ああ、そうですね。

 結果だけで見れば、生き残りました。けれど他言は無用とその決闘を見た全員に念押してました。

 今では色々妙な話が加わったり変化したり……。いえそれ自体はある意味想定通りの状況なんですけどね。。

 自慢? んー、結構デリケートな問題ですね、口止めしたことも含めて。はい。

 まあ快勝とはいかなかったとか、色々手前事情で申し訳ありません。でも大っぴらに言える感じではなかったんです。

 ……どこまで話しましたっけ。マスターも結構話の腰を折りますね。

 そうそう、それから、迎えの船が来てそのまま帰りました。

 宿までです。夜の騒ぎで寝ている方たちと昼過ぎまでそのまま寝てました。

 ん? ……いえ寝るってそっちの方ではないです、ないです。あの……私そういうのあんまり得意な方じゃないので。控えていただけると……はい、ありがとうございます。

 そして起きてから、ぼんやりしたままお昼飯を頂きました。そのあともずっとぼんやりしてました。多分、ずっと剣戟が頭の中で舞っていました。……あのときなら誰が襲い掛かっても勝てたと思いますよ。お昼の後もぼんやり外でひなたぼっこして、ぼんやりしたままお夕飯を頂いて。そのまま日が落ちて、ぼんやり床につきました。

 そうですね。建設的なこととかできる状態じゃありませんでした。目の前に壁が立ちふさがった時、無心で体動かしてる事が多いんですよ。けどあの時。あの時だけはずっと、なにもしませんでした。できなかったんだと思います。なにしろ衝撃的な体験でした。対策も何もかも、なーんも思いつかなかったんです。そのまま夜明け前に起きて、起き抜けに『ああ行かなきゃなぁ……』って呟いてました。

 ナイーブ……そうナイーブですね。

 それで馬です。今度は皆つれて舟島に向かいました。

 そうです、それです。到着してからです。同じ方に船を頼もうとしたのですが、そこでようやく獲物がない事に気づいて。

 え? いえ、身軽だなあとは思っていたんですが。思っただけでしたね、ハイ。

 ええ、借りればよかったんでしょうけど……。いえいえ、恥ずかしかったんですよ決闘して負けて逃げ帰ったとか恥ずかしいし。し。ってことだと思います。

 さも、思いつきました! っていう体で、いや実際その時思いついたんだと思いますけど。舟屋にでっかい舟漕ぎの櫂が置いてあったんです。そうそう、その有名な奴です。ピンときたって感じでした。

 ささくれだらけだったそれを丁寧に削って。

 刀より軽いんですその木刀。そして長くて。完成したら見る間にテンションがアゲアゲになっていました。勝てる勝てるって、感じでした。

 はい、まぁそう簡単にはいきません。

 

 

      四

 

 

「お父様、いつまでやってるんです? いい加減覚悟決めましょう。お父様は天下無双なんですから、さっと決着して海を渡りましょうよ」

 舟島は目と鼻の先で、しかし武蔵はずっと櫂を削り続けていた。

 すでに日は昇っていて、武蔵の仲間はもう舟島とやらを一目見てもう帰ろうとか、いやいや折角だし磯釣りでもしてこうやとか、雑談に興じていた。

 有り体に言って既に興味を失っていた。

 何しろもう二刻(約四時間)近く、船にも乗らず、浜辺で待ちぼうけを食らわされているのである。朝霧なぞとっくに明けて、舟島が一望出来る状態だった。無論小さな無人島に過ぎず、それらしい亡霊なぞ影も形も見えなかった。

 

 この浜に到着するまで、武蔵の様子が変だったのは一同の知るところだった。普段なら落ち着きがなさすぎる、活発な武蔵が何を話しかけても「あぁ……」とか「ウン……」しか言わずに、ずっと日向ぼっこしていたのだ。一処にじっとしていられない性分のはずの武蔵がそんな様子なのを見て、

(風邪か?)

(幽霊恐怖症かも)

(いよいよ己の馬鹿さ加減を悟ってしまったのでは)

(お父様はそこがいいんです! 悟られては困ります!)

((いや、無いわぁ))

 そういった声も出ていた。

 それが急に、である。この浜に着いた瞬間、置き捨てられていた古い櫂にふらふらと引き寄せられたかと思うと、

「オヤジ、この櫂くれ」

 そういって持ち主の返事も待たずに櫂を握り座り込んだかと思えばそれを削り始めたのだ。

 仲間内では、武蔵が木刀を愛好するのは周知だったが流石にこのタイミングで作り始めるというのは埒外のことだった。

 既に普段使いの一本は持っていて、そこに更に新たに一本作って足すというのも不思議な事だったのだ。

 武蔵がそのまま無心に削り続けてる内に日は昇り、漁師たちも皆漁から帰ってきてしまっていた。それでもまだ、武蔵は作業を止めなかった。

 無言のまま武蔵が立ち上がったのは、座り込んでからきっかり三刻後のことだった。

 武蔵の取り巻きは完全に釣りに興じていて幽霊退治など頭からすっぽ抜けており、武蔵が立ち上がったことにさえあまり気を払っていなかった。

 

「オヤジどの。すまんがまた、頼めるか」

「流石に昼間にゃあ居ないと思うんじゃ」

「構わんよ、居ないなら取って返す。だが居るだろうさ。姿を消してるだけでずっとそこに佇んでおるのさ。大方な」

 削りだしたばかりのものと古い木刀、二本を抱え、武蔵は小舟に乗った。

「あれ師匠、どっか行くんか」

「バカタレ。どっかもなにもようやっと準備が終わった。ケリを着けに行くんだ」

「ほーん、頑張ってな」

 激励未満の腑抜けた挨拶に、ハッと気の抜けたような笑い声を返し、武蔵と小舟は舟島へと向かった。

 とはいえ所詮は目と鼻の先の小さな島。なにしろ岸の声が届く程度のもの。しかも朝霧が晴れてしまえば、亡霊の出るような恐ろしさや神秘性など期待できるはずもなく、単なる足場といった風情であった。

 今度は漁師のオヤジも島に極力近づいてくれて、武蔵は礼を述べながら飛び降りた。

「ちょっと待っててくれ」

 櫂から削り出したばかりの、長い木刀を右に持った。少し握握して感触を確かめる。

 よし。と声を上げて、もう片方を利き腕の左に持ち、緊張した面持ちで島の中央へと歩みを進めた。

 日の照っている舟島は、武蔵の目から見ても昨日と同じ、あの死地とは思えないほどなにもない場所だった。

 だがしかし。

 数歩歩いた先には抜身の脇差しが落ちていて、武蔵はそれを足で払った。

 今は手が塞がっていて、使うすべがないからだ。払った地面をよくよく見れば、武蔵が駆けたであろう足跡がそこかしこに残っている。

 ここは間違いなく、昨日と同じ場所。

 それを確認した武蔵は、大声を張り上げた。

「岩流、佐々木小次郎殿! 約束を果たしに参った故、姿を見せられい!」

 

 対岸から、たけぞうがまたなんかやってるーと小さい野次が聞こえてきた。

 常人から見れば奇矯奇行の者、またさらでも行動力の塊が武蔵である。何か思いつきでもしたのだろうと誰も殊更に熱心だったり感じ入ったりだというのは無かった。

 演劇でも見るような心地で武蔵の動向を見守っていたのである。

 だから、それに「応」という返答があるとは誰も思っていなかったのだ。

 

 ただ一人、武蔵を除いて。

 

「佐々木小次郎、罷り越した。宮本武蔵。いや、随分待たせてくれたものだ」

 超常の光。

 美しい幽玄の炎が煌めいたかと思えば、弾けていく。

 光は色を成し、群青の輝きを織り込んでいく。

 光がは空気に散り、徐々に失せていく。

 しかして代わりに、そこに、美丈夫が佇んでいた。

 側元に立てかけられた三尺余りの大太刀。陣羽織を来た風流物の出で立ち。

 亡霊は木に背を持たれ片膝を立て、さも待ち草臥れたといわん態度で座っていた。

「すまんすまん。俺もああ言ったが、結局勝ち筋を思いつくのにこれだけかかったんだ、許せ」

「フム……いいだろう。その思いつき存分に試すと良い。でなくば死合う意味もない」

「だろう?」

「嘘偽りなく申せば、そうだな。来ないかもしれんと思ったが、いや僥倖」

「流石に来るわい。これでも武芸者やって長いんだよ。お前ほどの剣士相手に早々背を向けれるかい」

「それはそれは……光栄な事だ」

「フン……こちらこそ律儀に待ってもらっていたようで、光栄だ」

 脱力していた佐々木小次郎が立ち上がり居住まいを正した。それに倣って武蔵も、手に持つ二つの武器を構える。

 木に立てかけてあった物干し竿が抜き放たれた。鞘はそのまま。再度背負われることもなく重力に従って地に倒れた。

「鞘は持たんでいいのか」

「あのようなものは所詮曲芸。二度は通じまい?」

「フフン、佐々木敗れたり。鞘さえ無ければこちらのもんよ。大体、俺なんか脇差し無くとも鞘だけでもちゃんと持ってたもんね」

 小次郎は応じず、自然体。

 しかし空気に、先程までは一切なかった剣気ともいうべき雰囲気が混ざり始めた。

(さて、どこまで通じるかの)

 武蔵の目つきもそれを感じて変わる。自己暗示による戦闘への適応。呼吸が自然体のものから強く吸って薄く長く吐く独特のものへと変わる。毛が逆立って、血流がどんどん早くなってゆく。発汗が少しずつ多くなり、そして急にそれが止まった。

 武士と呼ばれる類の戦闘者、兵法者たちは実戦に際し体を戦闘用に書き換える。普段人として生活するには余分な機能を死地にて活発化させ、逆に、人としての機能は戦闘に用いる物以外の極力を停止させる。まさに戦闘機械への変化である。

 武蔵も武芸者故、その心得を持っている。それが死合に臨む武蔵の体を変化させ、戦闘体ともいうべき状態へともっていく。

 その変化の様相は空気を媒介にして拡散し、剣気は逆に鳴りを潜め、恐るべき静寂へと変化していく。

 明鏡止水という言葉がある。曇なき鏡の如く、波立たぬ水の如く。平静の心、あらゆる事象に捻じ曲げられぬ平常の心得である。

 それは命のやり取り、ということも静かな心の内に収める。それが故に剣気さえも収められて、ここが死合の場であることをかき消すかのように、草のかすれる音と風の鳴る音だけの静寂を生み出した。

 呼吸、心音、体温。それがすっと風に溶けていくのを武蔵は感じていた。

(体が宙に溶けて雲になってしまったようだ。これほどの心地というのは……そう、宝蔵院の時以来かもしれんなぁ)

 目前の小次郎もまた、気負いがないように見えた。

 それが宝蔵院との違い。

 どこまでも空へと融けてしまっているみたいに、目の前に立っているようで、ひどく気配が掴みづらい。

 しかしてそれはお互い様。呼吸さえも重なりあって、大気に解けていくよう。双方が、まるで霞でも相手にするかのような状態。

 霞を如何に斬るか。まるで禅問答のようだが、武蔵はそれに思考を割くことをしなかった。

 削りだした木刀は、佐々木小次郎の刀よりも長くなるように作られている。

 故に後の先よりも先を取る。

 それが武蔵の脳内における、最適なる解。

 

「ハッ!」

 裂帛の声は最小限に加工され、武蔵の口から飛び出す。

 その音と共に振られるは木刀。

 芯まで繊維の詰まった代用刀は、切断こそ出来ずとも十分な凶器。

 事実、武蔵は宝蔵院槍術の皆伝者を木刀によって半死の目にあわせたのだ。

 当たれば頭蓋さえ叩き割る事ができる武蔵の手製木刀は、一見すれば単なる侮りと受け取られるかもしれない。しかし、武蔵にとって、木刀こそ、己を伸長し、拡張する、真の刀と考えてるフシさえあった。

 

 踏み込み上段。鉄の刀よりも疾く速く鋭いその一振り。

 しかし無論、その程度では小次郎には届かない。

「フッ」

 小次郎の手元の刀が、まるきり慣性を無視した動きで以って木刀を迎撃する。一切の備え無き無形の型でありながら、恐るべき反射で後の先を狙う。

 いかに質量を持とうと所詮は木であって、切り捨てれば無いも同じ。

 そう小次郎が考えたかは定かではないが、斜めの斬り下ろし。これでもって小次郎は木刀ごと武蔵を切り捨てようとした。

 容易い。

 そういった一抹の予想と、しかしそうではないだろう? という煽りと期待が小次郎の目には宿っていた。

(無論!)

 

 それは雷の落ちる音に少し似ていた。

 発信源は勿論、二つの刀の交点。

 一瞬の交叉の後に、小次郎の長刀は押しのけられ。

「!――」

 腕に残る甘い痺れに小次郎は覚えがあったのだろう、得心したという声を上げた。

「木刀であれば構えさえ要らぬか、器用なものよ」

「油断大敵ってな! 獲らせてもらうぞ!」

 

 虎振。

 それは微小な可能性の集合。

 一度刀を振るう。

 時間を巻き戻そう。

 もう一度振るう。

 それを何度も繰り返す。

 それが陽気に彩られた家の裏手の庭で、素振りでもというならば完璧に重ねることがあるだろう。

 しかし、これが決闘で合ったら、決してそうはいかない。

 剣士は無論、ここぞという場所を狙って刀を振るう。

 幾つもの繰り返しを重ねたとしても、概ねは同じ場所目掛けて刀を振るうだろう。

 けれども、全く同じ線を通ることはない。

 対人であれば、一太刀一太刀は常に状況に流動的であり、そうあるべきだからだ。

 あらゆる一撃は、その背景に豊富な術理を含んでいる。畢竟、何故そこに打ち込む事になったか、という理由が存在する。

 そしてそれは、選択的だ。

 僅かな打ち込みの違いには違うに足る理があり、それぞれの斬撃は振るわれる理由と長所、そして短所が存在する。

 勘、確率、癖。

 理由は様々だがその一振りが常にその時だけのものである以上は最善であろうと思われる一太刀を選ばなければならない。

 武蔵は強欲だった。

 完全に最適なる一太刀は見えず、存在もしないなら、選択出来る数を増やそうとした。

 だから二刀を持ち、溢れる可能性を少しでも掬い取り、理想の太刀筋へと近づけた。

 そしてだから、その一太刀に存在する可能性を全て掬いあげて、秘剣という形に拵えた。

 虎振。

 それは確率でしか存在しない、近似の”もしかしたら振るわれたかもしれない太刀筋“の全てを実体化する魔剣である。

 本来であれば電子雲の如き非実体を、実体とする神変は、そこにあるはずのない無数の可能性の質量さえも生み出して、束ねられた一振りは斬撃とは異なる恐るべき何かとなる。

 しかしそれほどの神変故に、そこには儀式にも似た、強烈な縛りが存在する。

 寸分違わない、構えと型が必要ということ。

 武蔵はこの秘剣を振るうのに、極端に状況を限定しなければならなかった。

 かつて、死中で偶然に振るわれた秘剣。今の虎振はそれを再現したものに過ぎないからだ。

 だから現代における、”型としての虎振“と呼ばれる動作範囲。そこでしか武蔵はこの剣を行使できない。

 いや、できなかった。それが武蔵の枷、だった。

 しかし、武蔵は生粋の戦人であり、それ故に大の負けず嫌いだった。

 己の技が自在にならない。そんなものには我慢がならない。

 

 意のままに、してやろう。

 

 武蔵はそれを可能にしようとしたのだ。

「クッ」

 小次郎の焦り声。

「そらあッ!」

 武蔵の裂帛。

 一瞬の内に攻守は逆しまに。小次郎が剣は武蔵の持つ朴訥なる棒を切り分けられず、どころか切り込みの姿勢さえも崩されて猛攻を凌いでいた。

 響くは風を押しつぶす轟音。空間さえ揺れるような、漣。武蔵の木刀からはその音の絶える事が無い。

 

 木刀が手に馴染む事を武蔵が自覚したのは、宝蔵院との決闘の時だったろうか。その時より覚えたこの、型に縛られない虎振を武蔵は地の剣と、そう、一先ず呼んでいた。

 まるで大地の力を蓄えていた木剣が、武蔵に応えてそれを開放し、太く強靭になったようだから、そう呼んでいた。

 それはつまり、実際には、武蔵が無意識に地脈龍脈気脈に干渉して、武蔵の体に強化と補正を行っているというものであることと、その名前があまり関係ない事を意味している。

 真実の一片端に勘づいている。 

 武蔵自身はそれを意識したことはないが。

 無意識の内に武蔵はあるものへ手を掛けていた。

 五輪の書にはこうある。

 曰く、『剣術に奥義なし』。

 あらゆるは基礎にして、剣術としての骨子を為すものである。奥義と、奥義でないものに区別などはない。

 この言葉の意味が中身を伴い完成するのはこれより三十余年は先の事。

 しかしその骨子は。無意識に携えていたその骨子、それはたったいま、この時に武蔵の中で初めて自覚された。

 この世を構成するものの中に、ある要素だけを取り出して『特別である』と言い張れるものなんて無いのだと。

 それはただ欠けているだけだ。

 土、水、火、風、そして空。何がしかの要素が足りないが故、それに相克・相対するはずの要素が際立っているにすぎない。

 世界も、五体も、心さえも。

 それは言葉ではなく、捉え方だ。

 まだまだ若い武蔵には、それは朧気な直感に過ぎない。

 平静とは、ただ静かなのではなく、激流の打ち消し合いでも起きうるのだということを、まだ、先っちょしか理解していない。

 しかしそれでも。それだけだとしても。

 その境地へ足を一歩踏み入れて。そうして初めて見えてきた。

 

 ああ、決めきれない。

 

 ガチリ、ガチリと異音が響く。

 その音が鋼と木の擦れ合うものだと誰が思うだろうか。

 二本の木の棒が、一本の鉄の棒と殴り合っていると誰が思うだろうか。

 響く異音が加速していく。

 響く異音は一度木の葉が風に揺れ動くごとに一回鳴り散らされ、数を帯びるごとに増えていき、ついには一度の間に五回も十回も撃ち交わされる壮絶な演奏となった。

 武蔵の両手が加速する。風を超え、意識を超え、手に握る荒れ狂う暴風が敵を塵芥にせんんと振るわれ続ける。

 

 その攻撃。その剣閃。それは、一度も小次郎に届いていない。

 

 無論小次郎とて涼し気な顔でそれを受けているわけではない。ないが、武蔵の両手がどれほど加速しようとも食らいついてくる。両刀での振り下ろしも、横薙ぎも、時間差による振り切りも、跳ね跳びから頭上への一撃さえも捌かれた。

 刹那ごとに増していく速度、威力、殺意、しかし小次郎の皮膚を炙るばかりで其の肌を肉を骨を傷つけることが叶わなかった。

 反撃を許してはいない。

 攻め手は常に武蔵にあって、小次郎側が攻めに回れるような隙は一切存在しない。

 しかし武蔵は崩せない。

 戦闘が高速化するにつれて集中するという行為だけでカロリーが極度に消費されていく極限状況の中で、武蔵は小次郎の防御が手薄と思われるその全てを目測し攻撃を叩き込んだ。

 しかしその全てが誘いの手。

 武蔵の攻撃は単なる「隙を見つけたので打っている」というものではない。

 高度の予測結果に基づいた、数手先に生まれるはずの防御を誘導して作ったポイント、もしくは人体構造の当然の限界としてどうしても数手先に隙を晒すポイントを狙っている、はずなのだ。

 だが。

 読めない。途中までは思い通りのはずなのだ。

 しかし直前手になると小次郎の棒振りは全くと行っていいほど読めなくなる。

 一手や二手前のことが本命…………直撃できるはずの拍子の際に大きな壁となり立ちはだかってくる。

 一手前の足さばき、二手前の握りの位置調整、三手前の僅かに首を反らした動き。

 全てが、致命な一撃、防げぬはずの当然の終わりをやはり当然のように阻害する。

 術理というものが狸に化かされている、と武蔵は感じた。

 徐々に酸欠が意識に滲みてきた小さな脳みそを最大限回転させて、武蔵は考える。

 

 恐らくこちらが向こうの剣を一晩噛み砕きあれやこれや考えたのと同じように、向こうさんもこちらについてをあれやこれやと考えていたのだろう。其れは例えば肉の付き方・関節の可動域・背丈や指の長さだったり。其れは例えば性根・考え方・属性だったり。とてもではないがこちらは向こうほどそういうモノを隠蔽できてはいない。だから最後の一線での読み合いにむこうは大胆な手を打ち、こちらを嵌め、考えれば考えるほど柳を相手にするかのように攻撃がすり抜けさせられる。

 一体何合目の打ち合いから、通らないものと思っただろうか。

 響く音だけは猛々しく、しかしそれら全ては意味のないもの。本来はこのような音さえ聞こえぬ決着こそが理想で、打ち合いを続けるなど愚の骨頂なのだ。攻め手は有利を得ておきながらその有利をそこらの肥溜めに捨ててるが如き状態なのだ。

 

 ガサガサと音がした。

 

 足音が数人分。恐らくバカ弟子共がいてもたっても居られずに船で渡ってきたのだろう。

 

 良い見世物だろうなあと武蔵は思った。

 華々しい打ち合いは一見して、白熱した戦いの証と映るだろう。

 そしてこれほどの長きに渡ってやりあった時分などもっと恐ろしく未熟なときでさえなかったはずだ。

 なにをやっているのだ。

 武蔵は思った。そして同時にこうも思った。

 もういいや、考えるの、面倒くせえ。

 体に任せちまおう。本当にやべえのだけ意識でなんとかすりゃいいだろ。

 

 同時、武蔵の斬撃が宙を空振った。

 小次郎はそれを体反らしのみで避ける。予め仕組まれたかのような回避。打ち合わせたかのような攻防。

 無論そんなはずはなく、小次郎側がどこまでそれを察知していたかはともかく、武蔵は致命に近い隙――――小次郎が反撃できるだけの端緒を与えてしまった。

「フッ」

 短い呼吸音。それとともに小次郎の大太刀が武蔵の攻撃の合間を縫って脇の腹を貫こうと放たれる。

 当然、というべきか武蔵はこれを回避。しかし反撃は出来ない。

 カチャリ、そんな音と共に、地に直角だった小次郎の刃先が水平に寝た。

 そして風切り音。半月を描く小次郎の振り払い。

 武蔵はどうしても留まったままではこれを避けれず、後ろへ下がることで回避する。

 間が空き、一拍が空く。

 空白。

 其の空白を埋めるように、小次郎が大一歩を踏み出す。

 

 あの構えだ。刀を肩より上に地に水平に鼻の向きに刃先を合わせ。

 あの魔剣が飛んでくる。

 

「『燕返し』」

 燕を斬るなど諧謔に過ぎぬ。

 これは世に存在せぬ、ただ佐々木小次郎の内側に潜む何かを切り捨てるために生み出された魔剣である。内面にあるものであるからしてこの世の原理・論理・真理に縛られない存在であるものを『斬れる』と確信させるに至った剣はこの世に現出してしまった時点で古今東西過去現在、全ての剣士を向こうに回して首を落とすに足る究極の対人魔剣の一つである。

 いや、ソレすら間違っているかもしれない。彼は何かを斬ろうとして足掻いて生み出されたもの、ではないのかもしれない。

 ただ至る故に至った、そういう剣なのかもしれない。

 神ならぬ身で他者の眼を奪うことなどできず。

 それ故にその領域に至った手法も目的も認識も全て分かるはずがない。

 

 三つの音が全く同時に鳴り響く。

 

 ただ、剣閃が三つ、燕が行く路を封じるがごとく同時に振られるという一点のみが、斬られる身である武蔵に認識できる唯一のこと。

 そして、それは。

 

 形而上にのみ存在する絶対無敗の一太刀を求め、そして否定した武蔵にとって、あまりに身近な考え方だった。

 

 剣閃を増やすお前のその剣。

 それはいいな。

 一度見たときから羨ましかった。

 貰おう、この一度のみ。

 理屈はいらない。

 ただ見たままでいい。

 

 構えを真似よ。剣筋を真似よ。気迫を真似よ。

 目線を、手動きを、姿勢を、体運びを、心理を、憶測を、表現を、質感を、殺気を、状態を、魂を、根源を、その目に映る全てのものを。

 

 二度見せしは秘に非ず。

 

 ――――両手のそれぞれの木刀を手から離した。木刀が地に落ちる。

 

 則ち其の奥義為に無く。

 

 ――――腕が持ち上がり、無手でありながら小次郎と寸分違わぬ構えを取る。

 

 後の構、其を否定せり。

 

 ――――回避と同時に蹴り上げられた『昨日の小太刀』が落下し、手に収まる。

 

 必殺せず破するは必定。

 

 ――――奥義など在らず。ただの三太刀を止めるのみ

 

 武蔵は、何か、流れとも存在ともつかぬ五つの輪――――世を構成する要素ともいうべき心の内にあり、心の外にもあるもの――――が、精細に見えた気がした。

 

 風。空。

 その二つを打ち消せば”丁度良さそうじゃねえか”。

 

「『円明後構奥義無為』『燕返し』」

 

 三つの軌跡があとから出た寸分に違わぬ三つの軌跡と交差した。

 少しの時間的遅れを除けば、全く同質、同量の攻撃。軌跡の長さこそ異なるが、込められた殺意もまた等量。

 次元が屈折することで異なる次元から呼び込まれる三つの太刀は、鏡写しと呼べるほどの攻撃によって防ぎきられた。

 

 二人は一歩、距離を置く。

 お互い驚愕は――――ない。

 少なくとも表面上は。

 ただ打ち消されただけ、ただ打ち消しただけだ。

 お互い構えを取り不発に終わった身、同等の隙を晒した身である。

 ある意味では、決闘の始まりに仕切り直されただけに過ぎない。

 ただ始まりに戻っただけ。

 …………そんな訳はない。

「ハッ」

 小次郎の鋭い呼気。

 あれ程の打ち合いも、最大の秘剣が破られたことさえも小次郎の身上心胆には一辺たりとて曇りとはならなかった。

 それほどの、それこそ秘剣が『破られるもの』と分かっていたかというほどの、身の立て直しであり踏み込み。

 

 武蔵は思う。

 だろうな。

 お前は既に頂きの淵に立つ仙人みてえなやつだ。

 汎ゆるを意に介さずそう来れると思っとったよ。

 

 これは術理ではなく心理。

 剣の打ち合いに収まらない大枠における心の読み合いというもの。

 どうしても、そう、どうしても。予想外のことが起きれば思考の空白が起きる。

 

 そう期待してしまう――――だろう?

 

 足元の木刀。それを無作為に蹴り上げる。

 二本の木刀が宙を舞う。

 片方、長く大きな櫂は手頃な、それこそ丁度右手で掴める高さに浮いて武蔵はそれを掴んだ。

 他方、使い古された木刀は、美しい、弧を描く軌跡とは残念ながら程遠い、乱雑な軌跡を描き殺傷力も碌に持たぬまま小次郎に向かって飛ぶ。

 小次郎はそれをほんの僅かな身じろぎによって避け、足を止めることはない。上段斬り下ろし。最長のリーチと最大の先端速度で小次郎は刀を振り下ろす。

 それは全てを断ち切らんとする一太刀だ。

 斬鉄を可能とする裂帛の太刀だ。

 武蔵が左手に持っている、斬り下ろしを防ぐように反射的に突き出された小太刀ごと武蔵を両断するに足る一撃。

 

 武蔵は更に櫂で突こうとする。

 

 長さわずかに物干し竿に有利なはずの櫂はしかし、突き出すという動作の為に一拍遅れ、小次郎の一撃が葉の一枚分ほどに早い。

 

 接触。

 

 聞き慣れた音が響く。

 

 先程まで響いていた音。

 

 それはつまり、虎振と鋼が激突する音だ。

 

「なっ……」

 にやりと、小次郎が小さく漏らした驚愕を聞いて武蔵は笑みを作った。

 いやらしいとさえ言えるほどの、顎まで裂けそうな大きな笑みだった。

「殺!!」

 そんな顔も一瞬。武蔵は櫂を突き出す。

 致命的な速度。

 鋼鉄ではなく木材であることを差し引いても十分、人体を貫通する一撃。

 板金鎧さえ気迫で壊そうとする、全てを篭めた一撃だ。

 

 そして。

 

 木刀は、小次郎の体に触れることなく、抵抗もなく、その体を透くように通り抜けた。

 

 唖――――、武蔵は完全に失念していた。

 小次郎その本質は亡霊のそれであり、此方のものではないという事。

 鉄を含まぬ木の刀に鬼や霊を払うことなどできるはずもない事。

 あまりに……そう、あまりに『至った剣士』であることにフォーカスしすぎていたのだ、武蔵は。

 あの全てを払う風の剣に食らいつき、絶対の魔剣を不完全ながらも破り、そうして漸く辿り着いたその一撃は。

 何者をも穿てず、虚しいままにあった。

 武蔵の怠慢だ。相手を知り、しかしそれを忘れた。最初の起点からあらゆるすべてが間違えていたその代償。

 

 武蔵は脱力する。

 やってしまった。

 いや、儂らしい。馬鹿のたけぞうのままよ。

 最後はそんなところに敗因があるか。

 左には惜しくも、拾った小太刀。

 こちらを突き出していれば、その瞬間後に斬られるとしても胸を張って相打ちと言えたろうに。

 信頼しすぎていたのだ、木刀を。

 あーやれやれ。天下の大馬鹿だ。しかしまあ、よくやった。

 ここが、どう足掻こうと宮本武蔵の到達地点。

 それを受け入れてしまった。

 

 そして――――物干し竿が突き出された。

 

「……………………ふむ、すまないが時間切れのようだ」

 鋭き刀は、身を刺し貫いた。そのはずだった。しかし。

「な、何」

「いや、耐え切れるかと思ったがまさか土壇場で退場とは、なんとも興ざめな幕切れよな」

 小次郎の持つ刀身は、その先端から宙に溶け出していた。

 それだけではない。体の、衣服の、端々が蛍の光と化けている。

 どう見ても、この世の岸より飛び去ろうとしている。

「ま、て。俺は納得せんぞ、そんな逃げがあるか」

「それはこちらも同じこと。なんとか決着としたかったが……そうだな、宮本何某よ。そちらがここに残り、こちらは消える。故に、そちらの勝利だ」

「そのような詭弁があるかッ!」

 もうほとんど、膝は消えていた。西日の夕焼けが小次郎の体を貫通していて、正体は最早風前の灯火だった。確固たる存在感は瞬く間に薄れていく。まさに亡霊と呼ぶべき、幽世へ果てていく姿だった。

「せめてそなたがもう少し早く来ておればな」

「……まぁ、そうよな。俺のせいか」

「わからん。思えば期限付きの死合は初めてでないし、これも某の天命なのかもしれん。巌流島……フフ、天命か。亡霊となった身でもってそれを悟らされるとは中々。この世とは本当、良くできたものだ」

「随分、意地の悪い天命じゃ」

 カラカラと、快活な笑い声があがった。小次郎のものであった。愉快そうにひとしきり笑った後、面を正して、武蔵を見据えた。

「もし」

「……あん?」

「もしも、そなたが本当に天下無双であれば。時の狭間、今一度見えることもあるかもしれんぞ」

 武蔵はその言葉を理解できず、消えゆく小次郎のその風にはたはたと揺れる後ろ髪を凝視した。

「意味がわからん……」

「いやなに、そのうち分かる日も来る。請合おう。もしも次に見えるときは、正真正銘の決着としよう」

 武蔵は幽霊のいうことはさっぱりわからんとぼやきながらもその言葉を受け取った。

 この亡霊の言うことに疑いは要らない。この局面で言うのであれば、それは確かに、起きうることなのだと、発する言葉とは裏腹に武蔵はすんなり信じられた。

「あいわかった。次こそ。時の狭間で」

 返事は風に流れて溶ける。

 己を超え、真なる天下無双かも知れなかった剣士の、跡さえ濁さぬ退場を見届け、武蔵は嘆息した。

 後に残るのは目をこする門下生共と、泥傷にまみれた武蔵のみ。

 そして、海に横たわる夕日。

 結末は遠く、先の死線もまた遠く。

 潮風を浴びた武蔵は立ち上がった。

「行くぞ。日が暮れる前に宿に戻る」

 

 

 

      伍

 

 

 

「待て、これって勝ってないだろ。実質負けじゃん」

「あ、言ってはならないことを言いましたねマスター! 人が必死こいてぼかしてるところをそうもザッパリ言い切りますか?!」

「いや、諦めろよそこは。なんだ、さんざん剣豪だの生涯不敗だの言っておいて、一番有名な決闘で負けてるって……詐欺じゃん」

「詐欺?! 幾らマスターでも言って良いことと悪いことってもんが、ありますよ! お父……武蔵は紛れもなく超伝説剣豪です!!」

「ふーん……なぁ。結局、佐々木小次郎が一番強かったってことなのか?」

 武蔵の対面に座していた、マスターと呼ばれた青年が武蔵を見た。武蔵の漆黒の瞳が青年の顔を捉え、視線が交錯し、そして――

 武蔵は照れくさくなって目をそらした。

「あーいえ。私、鹿島系流派のなにがしと戦ったことがあるんです。……神道流も混じってたかな。ぶっちゃけ小次郎よりもっともっともーっと強いなあって。無手相手なのに太刀が通らないんですよ。そのまま千日手になると思ったんですが。急にそのお爺さん、鍋食ってけっていうから剣気が抜けてしまって。鍋食って一泊して帰りました。いやあ凄いお爺さんでした」

 怪訝な目で武蔵を見つめる青年。

「は――よく分からないな。そっちのジジイの方はそんなに気にならないってのか?」

「……小次郎を下した後ならわかりません。けれど今はまず目先を倒す事が優先ですね。その為にあれやこれや、いっぱい対策を考えたんですから」

 ふーん、と青年は相槌を打った。

「じゃあ少なくとも武蔵、お前の今の望みはヤツ――山門のセイバーへの勝利ってことか」

「はいです。他に望みとかありませんし……。まぁ二度目の生は少し惹かれますけど、そこはそれ、お蕎麦に海苔が欲しいなあくらいのものなので」

「モチベ低いなあ武蔵。それで本当にボクを勝たせてくれるのか?」

「そこは勿論、頑張りますよ。天下無双の武蔵ブランドに傷はつけられませんからね! 小次郎を倒したら、残ったサーヴァントの皆さんもきっちり片を付けます。……まぁ、私より強いの居たら無理ですけど」

 タハハ、という気の抜けた笑い声。

 はぁ、という青年のため息。

「武蔵はさぁ」

「なんでしょう」

 青年はそこで言うか躊躇ったものの、言い切った。

「父親の名前で戦うことに異論は無いのか?」

「ありません」

 伊織――――宮本武蔵を名乗る娘は即答だった。

「これは生前よりのお父様との約束なのです。なにより、私が存在する理由の全てなのです。私はお父様の為に居るのですから」

 その語気に押されたのか、そうか……と青年は茫然とつぶやく。

 それより、と武蔵は続ける。

「そろそろ刻限ですね。丑三つ時です」

 ああそうか、と青年は頭を振る。

 ちょっとした興味から始まった武蔵の思い出話は、そういえば時間潰しの為に始めたことなのだったことを青年は思い出した。

 すこしばかり集中しすぎてしまったのは、話の中身よりも武蔵の語り口に熱が籠っていたせいだろうか。

「そうだな。そろそろ行こうか、戦場へ」

「はい。……でも実は少し楽しみなんです。小次郎もそうですが、全力で戦う相手というのは生前ついにありませんでしたからね、ワクワクです」

 外への扉が開く。時刻は午前一時過ぎ。冬空には既に星の瞬き。凍りつく風が部屋へと押し寄せるも、二人は意に介さず、各々の獲物に力を込めて、何かを確認するようにして、そうして出陣した。

「さて、じゃあ行き先は」

「無論。まずは佐々木小次郎、いやセイバーです。今宵こそ、いい伝わる巌流島通りの結末を御覧に入れましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      陸

 

 

 

「宮本伊織。お前に策を預ける。お前が倒すは岩流、佐々木小次郎。頂きを征した剣客故、心せよ」

「はい、お父様。私も見ていましたから存じております」

「これぞ我が最大の計、生涯を賭けた大一番。先の五輪書、二天一流、数々の逸話……全ては此奴を打倒するために流布した風説に過ぎん。全てはお前と、破岩の剣を隠蔽するための、だ。あれの言う時の狭間がどこを指すのか、未だにわからんが……いや、そういうものがあるらしいというのは、この歳になって漸く見えてきたか」

「術士の用語では座と言いましたか」

「それだ。そしてお前はその時の果にて宮本武蔵を名乗り……つまり儂の代わりとして奴を打倒してこい。二天一流が到達した最大の剣士がお前だ。儂が行えるその全ての技術をお前には教え込んだ。門下で唯一、お前は全てを吸収し、儂以上に取り扱うことが出来た」

「はい」

「どういう手段であれ勝率を極限まで引き上げられるなら採用するのがこの儂のやり方よ。大体、マジで状況が想像つかんし。やれるだけの手は打ってみたがどこまで生きるか想像もつかん、あとの裁量は任せる」

「いやここまでやれば勝てますよお父様! もし私の剣が及ばなければ其の時は天衣無縫もありますし! し!」

「えぇ……。確かに手段選ばないけど儂まで呼んで二人で袋とかどうかと思うよ」

「いいんです! 勝つため! ですから!」

「ハァー、人選間違えたかのう。というかやっぱ儂自ら出たほうが良いんかなあ」

「お父様は素敵性能以外私以下なんですから、座して吉報をお待ちいただければ」

「……やっぱ育て方間違えたよなあ儂」

 

 武蔵晩年、五輪書を書き終えた日の晩のことであった。

 

 

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