王子と姫と白い仔猫   作:ほしな まつり

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王子と姫と白い仔猫・14

キリトと仔猫の食事が終わり、テーブルの上が茶器だけになるとサタラは次の提案を告げた。

 

「殿下、湯浴みの用意ができておりますが?」

 

仔猫はすっかりお腹を膨らませてキリトの膝の上で顎の下をくすぐられている。

その言葉を聞いたキリトは手を止め、改めて自分のくたびれた服装をしげしげと眺めた。

とても王宮の応接室に腰を降ろしていい格好とは言えない有様だ。

 

「あ……すまない」

 

この姿で王宮に乗り込んで来た事、そのまま応接室に入り込んだ事、あまつさえ食事まで済ませた事……思い返せば謝罪しなければならない事が次から次へと浮かんでくる。

 

「いえ、殿下が謝罪をする事などひとつもございません。あの書状をご覧になってすぐに馬を走らせてくださったのですね。姫様への想いの深さを感じ、今回の事件を知る者達は殿下のお心に感服いたしております。大国に嫁ぐ姫様を心配する者もいたのですが、皆、安心いたしました」

 

サタラからの言葉を受け、照れたように頬をポリポリと掻いたキリトは「じゃ、風呂、もらうかな」と言えばニッコリと微笑んだサタラは「はい」と返事をした。

 

「では、姫様をこちらに……」

 

サタラの手が伸びてくると仔猫はパッと起き上がってキリトの腕にしがみつく。

仔猫の態度に、ふぅっ、と軽く息を吐き出したサタラは視線をキツくして顔を近づけた。

 

「姫様、ダメですよ。さあ、こちらにいらしてください」

「ふみゃっ、ふみゃっ」

 

自分の腕から必死の形相で離れようとしない仔猫の姿に今度はキリトが苦笑いで鼻から息を抜く。

 

「どうやらオレから離れる気はないようだな」

「どうしてでしょう……姫様の意識は現れていないはずですのに……」

 

心底不思議そうに首を傾げるサタラへ、キリトが頬を染めつつも誇らしげに言い放った。

 

「そこは、まあ、本能でもオレの傍にいたいんだろ……だから、風呂へは一緒に連れて行く」

「いけませんっ」

 

即座にサタラが反対する。

 

「なら、どうする?、アスナをオレから無理矢理引き離すのか?」

 

さっきの泣き叫ぶような仔猫の悲鳴が脳裏に蘇り、知らずにサタラの顔が歪んだ。

 

「でしたら、せめて姫様のお身体は侍女達が清めます」

「……オレの入ってる風呂場に侍女達も入って?」

「っ……それならば侍従を……」

「アスナを侍従に触れさせるなんて冗談じゃないぞ」

 

言うキリトの口元は楽しそうに弧を描いているが、細められた目は全く笑っていない。

それから腕に短い尻尾まで巻き付けて離れまいと頑張っている仔猫に視線を落とし「アスナ」と優しく呼びかけてから片手で抱き上げると、キリトは立ち上がって「だから二人で風呂に入る。誰も邪魔するなよ」と言い応接室の扉へと向かった。

 

 

 

 

湯浴みを済ませた一人と一匹は両者ともくたくたにくたびれていた。

客室に案内されたキリトはくたり、と膝の上で脱力している仔猫同様、ソファにだらしなく座り背面に両腕と頭をもたれさせている。

 

「……いかがなさいました?」

 

見た目は随分とさっぱりして石鹸の良い香りを漂わせている一人と一匹だったが、その疲労感の滲む姿に疑問を覚えたサタラがおずおずと問いかけた。

 

「いかがも何も……アスナが風呂を嫌がって嫌がって大暴れだった」

「姫様が?、あの湯浴み好きの姫様が、ですか?」

 

にわかには信じられない、といった口調でサタラが繰り返せば、糸が切れたようにキリトがカクンッ、と頭を落とし、肯定の意を示す。

 

「そこは猫なんだな」

「ああ……そういう事でございますか」

「洗うのは大変だったけど湯船に浸かった時は大人しくしてたから、そこは気持ちよかったらしい」

「……姫様用に簡単な入浴桶でも用意しましょうか?」

「少しずつ慣れるだろ」

 

とは言え、この状態がいつまでも続くのは問題だ。

アスナと風呂に入る……密かに生まれていた不埒な気持ちも風呂場での悪戦苦闘で見事に消え去っていた。

仔猫でも猫は猫、当人ならぬ当猫にその気がなくとも暴れた拍子に爪が牙が当たれば痛くないわけがない。

力で抑え込むことは簡単だったが、キリトが小さな存在を完全に仔猫と割り切ることなど出来るはずもなく、結果、いたるところに小さな生傷を作りながらの入浴となったわけである。

自国からの疲れを取るために入ったはずの風呂が、余計に体力を使った気がする、と溜め息をつきそうになれば、自分の膝の上で更にふわふわの毛並みになった仔猫が安心しきった様子で丸くなっているのが目に入り、途端に顔が緩んでしまうのは惚れた弱みというのだろうか。

無意識に顎の下を指を入れ、そっとさすると寝ているはずの仔猫がうっすらと目を細めゴロゴロと喉を鳴らした。

そのとろん、とした表情を見ているだけでこちらまで眠気に襲われる。

仔猫を構いながらもキリトの頭が不安定に揺れ始めたのを見たサタラは「殿下」と声をかけた。

 

「今日はもうベッドでお休みください。詳しいお話はまた明日に」

 

頭ではそうのんびりとしている場合ではないとわかっているのだが、いかんせん目を開けている事さえ困難な状態になってきたキリトは「うん」と素直に頷いて仔猫を抱き上げると奥に続く寝室に入りバタリ、とベッドに身体を投げ出す。

そして片手でしっかりと仔猫を抱きしめ、もう片方で上掛けをたぐり寄せるとすぐさま意識を手放した。

居間に残ったサタラが寝室に消えたキリトの後ろ姿を見送った後、少々不満げに「当たり前のように姫様を連れて行ってしまわれましたわね」とぽつり零したのも知らずに。

 

 

 

 

 

真っ白い霧がキリトの周辺を覆っていた。

右を向いても左を向いても視界は全て白ばかり、もちろん上下を向いても白しかない。

しかしどこを見ても霧しか見えないというのに不思議と不安はなく、その霧はなぜかとても明るかった。

まるで自分の周囲が霧の薄い膜で覆われていて、そのすぐ外側は光で満ちているのではないか、と思えるほどに。

だが手を伸ばしてみても、何かを掴むことは出来ず、何にも触れることもなかった。

手で霧をかき混ぜるように動かしてみるが、対流を産み出す気配もなければ、かき混ぜた先に何かが浮かぶこともない。

だいたい霧に触れているのかどうかさえも感覚がないのだ。

このまま動かずにいた方がいいのか、一歩を踏み出した方がいいのか、悩んでいるキリトの耳に小さな、小さな声が届いた。

あまりにも小さな声は人のものなのか、動物のものなのかもわからない。

だが、唯一感覚を刺激するその声にキリトは迷わず足を向けた。

霧は行く手を阻むことなくその道を譲る。

一歩、また一歩と歩く度にその声がハッキリと聞こえ、声の源に近づいている確信を得てキリトは足を早めた。

すると、突然、霧が晴れる。

そしてキリトの視線の先には膝を抱えて小さく身体を丸めているアスナの姿があった。

白いドレスの上に長い栗色の髪が広がり、肩を振るわせて「ひっく、ひっく」としゃくり上げている。

声の主を認めた途端、彼女が泣いているのだとわかった途端、キリトは「アスナ!」と叫んだ……はずだった。

彼女の元へ駆け寄ろうと足を動かした……はずだった。

だが、口からは何の声も出ず、足は全く動かない。

「アスナ!、アスナ!、アスナ!」と何度も彼女の名を呼ぼうと口を動かすがキリトの耳が自分の声を聞くことはなかった。

びくともしない足に苛ついて、手でいくら叩いても足は言う事をきかず、それどころか痛みさえ感じない。

焦るキリトのすぐ目の前でアスナは泣き続けるばかりだ。

少しでも、ほんの少しでも顔をあげてくれたらオレの姿が見えるのに、と思ってみてもアスナは同じ姿勢のままただ泣くばかりで、その泣き声だけがキリトの耳に入ってくる。

「アスナが動けなくなったらオレが手を引っ張ってやる」そう約束した日の彼女の笑顔を思い出し、キリトは自分の爪が食い込むほどに拳を握りしめた。

全身が焦りとも自身への怒りともわからない感情で打ち震える。

キリトはあらん限りの力を振り絞って彼女の名を呼んだ。

 

「アスナーッ!」

 




お読みいただき、有り難うございました。
キリト、起きていても、寝ていても大変だね。

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