「アスナーッ!」と彼女の名を叫んだキリトの頬にぺろり、ぺろり、と小さくて柔らかい感触が何度も往復して、そのくすぐったさに首をすくめた拍子に目が覚める。
寸前まで見ていた夢のお陰で気分は鉛を飲み込んだように重かったが、ずっと頬を舐め続けてくれる仔猫の存在に気づくとそれも幾分か和らいだ。
驚かさないよう、小さく「アスナ」と呼ぶと、舐めるのを止めた仔猫は目を細めて「ふみゃぁ」と答える。
「よかった。ここにいてくれて……」
ガラス細工に触れるように、そうっ、と両手で仔猫を抱き上げ身を起こすと、キリトは静かに愛しい存在をふわりと胸に抱きしめた。
キリトの腕の中で優しく抱かれている時「ドンッ、ドンッ、ドンッ」と寝室の扉を叩く音が響き、仔猫の耳がぴくんっ、と立ち上がる。
「殿下っ、キリトゥルムライン殿下っ、どうかなさいましたか?」
珍しく声を荒げているのは侍女のサタラだった。
「サタラ?」
小さく首を傾げて呟く侍女の名が分厚い扉の向こうまで聞こえるばすもなく、サタラは続けて強く言葉を発する。
「先程、姫様の名を呼ぶお声が聞こえたとっ」
それで納得したキリトは仔猫を抱いたまま寝室の扉を開け、安心させるように穏やかな声で弁解をした。
「すまない、それ、寝言なんだ」
自分の顔の高さまで仔猫を持ち上げて無事を確認させ、申し訳なさそうに眉尻を下げて笑う。
サタラと同じ目線の高さになった仔猫もはしばみ色の瞳をクルクルッとさせて、可愛らしい鳴き声を上げ、なんでもない事をアピールした。
「寝言……で、ございますか……安心いたしました。控えていた侍女から殿下のただならぬお声がしたと連絡がはいり、もしや姫様に何かあったのではと、無礼を承知で扉を叩き……申し訳ございません」
侍女としてあるまじき行為にサタラが畏まって深々と頭を下げれば、慌ててキリトがそれを手で制する。
「いや、オレが悪かったんだ……それにしても、すっかり寝過ごしたみたいだな」
居間の窓に視線を移せば、陽の光はすでに真上近くから差し込んでいた。
抱き上げられたままの仔猫がキリトに顔を寄せて「みゅっ、みゅっ」と何やら訴えてくる。
「ん?、どうした?……あっ、お腹空いたのか」
「お食事はこちらでお召し上がりになりますか?」
間髪を入れずにサタラが伺いを立てれば、少し考え込んだキリトは「そうだな」と言って「頼む」と言い残すと着替えをするために再び寝室へと引き返した。
昨日の応接室とは違い食事用の丸テーブルにキリトの為の料理が用意されると、そのすぐそばに脚立のような高さの椅子が設置された。
そうっとキリトがその上に仔猫を乗せれば不安そうな視線が縋ってくるが、すぐ隣の椅子に腰を降ろすと、安心したように尻尾をゆらり、と揺らす。
続いて目の前に昨日より冷ましたミルクを置くと、その匂いをひと嗅ぎした後で仔猫はジッとキリトを見つめた。
仔猫の行動に納得いかないサタラが横から覗き込む。
「どうされました?、姫様。今日のミルクは熱くありませんよ」
「ふみっ」
短く反抗的な鳴き方にわけがわからず眉根を寄せるサタラを見て、キリトも心配そうに声をかけた。
「アスナ、お腹、空いてるんだろ?」
「みゃっ」
「だったらちゃんと飲めよ」
「ふみっ」
「……なぜ会話が成立するのか、理解できません」
更に眉間の皺を深くしたサタラがこめかみを指で押さえながら呟けば、仔猫は「ふみゃ、ふみゃ」とキリトに向け鳴き続ける。
「あー、そういうことか」
やれやれ、と言った風に溜め息をついてからキリトは昨日と同じくスープスプーンを手に取った。
「ほら、あんまりこぼすなよ」
乳白色のミルクをすくって仔猫の口元まで運んでやると、満足そうな笑顔で口をつけるその姿にサタラがあんぐりと口を開ける。
「まあ、まあ、姫様が甘えてっ」
「猫の本能って言うより、アスナの本能の部分じゃないのか?」
「……そうですわね、普段はなかなか素直に甘えてくださいませんから。本当はこんなふうにしたい時もあったのでしょう」
「ほら、アスナ。焦らなくても誰もとったりしないから、ゆっくりでいいよ」
口の周りについたミルクをキリトに拭いてもらいながら「まだ飲むのっ」と訴えるように仔猫が「ふみゃ、ふみゃ」と鳴き声を上げていると、ふいに部屋の扉をノックする音が聞こえた。
控えている侍女が取っ手に手をかける前に、すぐさまバタンッと勢いよく扉が左右に開き、同時に少女の声が室内に響き渡る。
「アースーナー!」
「みゃーっ!」
その声を聞いた途端、仔猫が尻尾の先までをびりびりと震わせて、すぐさまキリトの膝の上に飛び移った。
「うわっ」
ミルクの入ったスプーンを手にしていたキリトが突然の事に慌ててスプーンを握り直す。
中身をこぼさずに済んだことにホッとしていると、すぐ目の前に仁王立ちの少女が現れた。
「こらっ、アスナ。のんびりミルクなんて飲んでっ。どれだけみんなを心配させたかわかってるのっ」
見覚えのある人差し指が丸くなって顔を隠している後ろ向きの仔猫の背中にビシッと焦点を合わせている。
「……リズ……か?」
唖然とした表情で少女を見上げれば、少しそばかすの残っている顔を笑顔全開にして「久しぶり、キリト」と元気な声が降ってきた。
「そして、またもやアスナを見つけ出してきたのはキリト、アンタなのね」
「あ……ああ」
「それにしてもよっ。本当にこの子はいつまで経っても自分ひとりで抱え込んでっ。ちょっと聞いてるのっ、アスナ。こっち向きなさいっ」
リズの声に仔猫が丸めていた尻尾をそうっ、と持ち上げてイヤイヤ、を示すように左右に揺らすと更にリズは顔を近づけて「アースーナー」と親友の名をゆっくりと呼ぶ。
それで観念したのか、仔猫はおずおずと顔をあげ、震えながら振り返った。
途端、その鼻先に人差し指がピッとくっついて、思わず「みゅっ」と仔猫が声を漏らす。
そのまま頭から食べられてしまうのでは、と思うほどリズの顔が迫ってきて完全に仔猫が固まると、鼻に押し付けられていた人差し指が離れて、そのかわり優しい手が頭に下りてきた。
「ん、無事でよかった」
泣きそうなほどに顔をくちゃくちゃにしてリズが微笑みながら仔猫の頭をよしよし、と撫でくり回す。
「ふみゅぅぅ、みゃぁ、なぁあぅ」
「なに?、それで謝ってるつもり?」
「リズちゃんの事がわかるのかしら?」
「いやいや、これは動物の本能的に逆らっちゃいけない相手だと認識した声だろ」
「なによ、それ。失礼ね、キリト」
「みゃぅ、みゃぅ……みゃ……」
「リズ、それくらいにしてやってくれ。アスナの首がもげそうだ」
サタラやキリトと会話を交わしながらもひたすら仔猫の頭をぐりぐりしていたリズが「あっ」と慌てて手を離せば、その勢いのまま頭で円を描いた仔猫がよろめいた。
完全に目を回した仔猫がぱたり、と倒れ込む前に「おっと」と言ってキリトがその身体を片手で支える。
そのまま静かに自分の膝の上へ横たえると、仔猫は食事後の眠気も手伝ってか静かに瞳を閉じた。
仔猫の様子を気にしながらも自分の食事にとりかかったキリトは向かいの椅子にリズを促す。
その指示に素直にしたがったリズはサタラから「お食事は?」と問われて「大丈夫、お茶だけちょうだい」と言って、改めて正面のキリトを見つめた。
「で、森の中でアスナを見つけたんですって?」
「中っても、王宮のすぐ近くだけどな……樹の上でカラスに突かれそうになってた」
「またっ!?」
リズも十年前の出来事を忘れてはいなかったのだろう。
呆れ顔で問われて、キリトも少々苦笑いで頷く。
ふぅっ、と一息吐いてからリズは自分の知っている事をキリトに話した。
「アスナが仔猫に変化(へんげ)した途端、王宮から逃げ出したのが三日前……じゃなくて今日で四日目ね」
「それから仔猫の姿のまま、森まで移動したのか。どこに行くつもりだったんだろうな」
「どこって言うか……そもそも姿を変えたのも突発的な感じでアスナの意志かどうかも疑わしいの」
「なんだって?」
「その場にいた侍女の話によるとね、いきなりポンッ、と仔猫になって、驚いたように窓から飛び出して行ったって」
「仔猫になった時点でアスナの意識が封じられていたら、ただの仔猫だしな。そりゃあ逃げ出すか」
「私も一週間ほど前に会ったけど、その時は待ち遠しそうにガヤムマイツェン王国へ赴く支度や、自室の片付けをしてたから、訪問の日程が延びる事を望んでいたとはとても思えないのよ」
「アスナ……嫌がったり……寂しそうにして……なかったか?」
「当たり前でしょ」
「そうですよ、殿下。何より殿下に見つけていただいて以来片時もお側を離れようとしないのは姫様自身のお気持ちでもあるのではないですか?。もしかしたら殿下が駆けつけて下さると信じて森の道まで迎えに行かれたのかもしれません」
彼女の親友と信頼を置いている侍女からの揺るぎない言葉を聞いて、自国の執務室で書状を読んだ時から心に巣くっていた不安が和らぐ。
それでも今朝方に見た夢の中のアスナの姿を思い起こしてキリトは膝の上の小さくて温かい背をそっとさすった。
「その場に居合わせた侍女達はアスナの仔猫姿を知っているから、今まであっちこっちに出向いてアスナを探していたの。昨日、キリトと一緒に王宮に帰ってきたって知らせが飛んでるから何人かはもう戻ってきてるわ。ただ、変化する前、一番最後に近くにいて言葉を交わした侍女はまだ帰ってきてないから、詳しい話は彼女から直接聞いたほうがいいわね」
キリトは最後のお茶を飲み終わるとサタラに視線を移す。
「なら、アスナが仔猫になった場所を教えてくれ」
キリトに向かってサタラは黙って頭を下げ、その願いを受諾した。
お読みいただき、有り難うございました。
仔猫でもリズには頭のあがらないアスナです(笑)