気がつくとキリトはまた白い霧の中にいた。
耳を済ませば、すぐに昨日と同じアスナの泣き声が聞こえてくる。
キリトは何の迷いもなく、すぐにアスナの元へと向かった。
すぐさま霧は晴れて、その先には昨日と全く同じにアスナが白いドレス姿で膝を抱えて泣いている。
ゆっくりと近づいてみると昨日は動かなかった足が、今日は何の抵抗もなくアスナのすぐ隣まで辿り着いた。
驚きと嬉しさで「アスナ」と名を呼ぶ……いや、呼ぼうとした。
しかし口はパクパクと動くだけで、声は全く出てこない。
ならば、と自分に気づいてほしくて彼女に触れようと手を伸ばす……いや、伸ばそうとした。
手はピクリとも動かない。
それどころかさっきまで動いていた足も身体も全く言う事をきかなくなっていた。
すぐ隣にキリトがいるというのに、アスナには足音も気配すらも届いていないのか、ただ一人肩を震わせるばかりだ。
彼女の隣にただ突っ立ったまま、キリトは彼女の泣き声を聞き続けた。
なんだか鼻がむずむずとしてキリトは「っくしゅんっ」と発した自分のクシャミの音で目が覚めた。
いや、覚めたはずの目の前が真っ白だった為、まだ霧の中なのだろうか?、と思いつつ、ぼんやりとした意識の中でその白を見ていると、それがもぞもぞとうごめき、その動きに合わせて再び自分の鼻が刺激され、その原因の白がふわふわの毛並みだと判明した瞬間「アースーナー」とリズ口調で仔猫の名を口にする。
寝る前は腕の中に収まっていたはずの仔猫がいつの間にかキリトの目と鼻を覆う位置にまで移動していたのだ。
キリトのクシャミと自分を呼ぶ声で目覚めたらしい仔猫が「ふみゅ?」と寝ぼけたような声をだす。
キリトはベッドの上で仰向けになり、両手で仔猫の両脇をすくい上げるとめいっぱい腕を天井に向け、伸ばした。
前足と後ろ足がぷらーんと垂れ下がる。
このままだと再び寝てしまいそうなくらい細い目の仔猫を愛おしそうに見つめると、キリトは腕を曲げて仔猫を引き寄せ「おはよう、アスナ」と言いながらその鼻先にチュッとキスを贈った。
その途端、驚いて目をパッチリと開いた仔猫が恥ずかしそうに「みゅぅぅぅっ」と消え入るような声で鳴くと、クックッと笑ったキリトは「早くちゃんとアスナにキスがしたい」と小さく零してから、ガバッと仔猫を抱えて上半身を起こす。
「さあっ、今日は一緒に王都へ出てシノンに会わないとな」
その言葉に仔猫も「みゃっ」と気合い十分で答えたのだった。
サタラから適当な服を持ってきてもらい、散々「護衛を」と迫ってくる侍女や従者達を押しのけて王都まで一人と一匹でやってきたキリトは歩き疲れて座り込んだ広場の木製ベンチでふぅっ、と息を吐き出した。
ここは王都でも飲食店や雑貨店が建ち並んでいる区画で、目の前を行き交う人達が耐えることはない。
昨日、人通りの多い場所、という条件で王都で暮らしているリズが教えてくれたのだから間違いはなかった。
ところが手当たり次第にあちらこちらで聞き込んでみたものの、シノンの存在は皆が知っていたが、その居場所となると首を横にふる者ばかりだ。
中には数名、他国から帰ってきた旦那が原因不明の熱病にかかった時、使い魔がやって来てシノンの元まで薬をもらいに行った事のあるおかみさんや、王都の外れで馬車が河に落ちそうになった時、使い魔と一緒にシノンが現れて助けられた経験のある商人など、シノンと直接会ったことのある者もいたが、全員がどこに行けばシノンに会えるのかは不思議な事にすっかり忘れてしまっていると言う。
その話を思い出したキリトは「さすが、長だな」と、昨日と同じ言葉を繰り返した後、「そこまで無駄に魔力を使う余力があるんだもんな」と付け足した。
一方、肩の上の相棒は興奮気味にキョロキョロと視線をせわしなく動かし、王都見物を満喫しているばかりで全く何の役にも立ってくれない。
アスナならシノンを呼び出す事が出来るとリズから聞いたキリトは、仔猫と一緒に王都へ出向けば使い魔がやって来てくれるのではないか、という淡い期待を抱いていたのだが、それもこの数時間の徒労で跡形もなく消え去っていた。
さて、これからどうしよか、と思っていた矢先、広場にお昼を告げる鐘の音が響く。
その音で時刻を知った途端、空腹を自覚したキリトはそろそろと立ち上がり「とりあえず昼食でも食べてから考えるか」と仔猫に告げ、ふらふらと通りを歩き始めた。
広場からほど近い場所で、店の外の通りまで賑やかな声が漏れている食堂をみつける。
その繁盛ぶりと店から出てくるお客が皆一様に満足そうな笑みを浮かべているのを見て、期待できそうだ、とふんだキリトは『風林火山』と看板のかかっている食堂に足を踏み入れた。
入ってすぐ近くにいた店の男に肩にのっている仔猫を見せて「いいか?」と軽く尋ねる。
男は何でもないといった風に頷いて「じかにテーブルに乗せなければ犬でも鳥でも何でもありっすよ」と笑って答えてくれた。
活気溢れる店内はお客と従業員でごった返していたが、運良く二人掛けの空席をみつけ、そこに座るとすぐさま頭に臙脂色の布を巻いた若い男が水の入ったコップを持って現れる。
「いらっしゃい。お兄ちゃん、見かけねぇ顔だな。旅の人か?」
「まあ、そんなとこかな」
「へぇぇっ、そんなべっぴんさんな仔猫ちゃんと一緒に旅とは羨ましいぜ」
人なつこい笑顔でキリトの前にコップを置くと、そのまま肩にいるアスナへと手を伸ばしてきた。
「みゃっ」
慌てた仔猫がキリトの反対側の肩へと飛び移り、その手を回避する。
ぴとり、とキリトにしがみつく姿に男性店員は「ほぇっ?」と意表を突かれたような顔になったが、途端に手をひっこめて笑い出した。
「すまなかったな、別に驚かすつもりじゃなかったんだけどよ」
「いや、こっちこそすまない。どうもオレ以外には懐かなくて」
「へぇっ、ぞっこん惚れられてるってわけだ」
ニヤニヤとキリトを見つめる男の顔は不思議と不快な印象はなく、キリトも自然と気を許したのか、ニヤリと笑ってから「この店のおすすめは?」とメニューを尋ねる。
「うちは看板の絵の通り、辛いもんが売りだけどよ、他にも色々とあるぜ」
それを聞いてキリトは店の外の看板を脳裏に浮かべた。
言われてみれば『風林火山』の字の上には噴火している火山の絵がでかでかと描かれていたな、と思い出す。
「オレは辛くても大丈夫なんだけど、出来ればア……仔猫にも……」
そこまで言うと店の男が合点承知とばかりに自分の拳で手の平を打った。
「おうっ、まかしとけ。店の勝手口にも毎日野良猫がエサを貰いに来るからよ。いやいや、気にすんなって。どうせアイツらの為に取ってあるんだ。それを分けてやるからちょっと待ってな。あと、お前さんには辛口の自慢料理を持ってきてやるよ」
「えっ?……あっ……ちょっと……」
キリトが呼び止める間もなく頭の布の先をひらひらとなびかせて男は厨房へと消えてしまう。
後に残されたキリトとアスナは唖然とした面持ちで人の話を最後まで聞かない男が入っていった厨房のドアを眺めていた。
「あれ、大丈夫なのか?」
「なぁぁぅ」
不安な予感のする仔猫の鳴き声は数分後に的中することとなる。
とんっ、とんっ、どんっっ、と置かれた皿を見回してキリトはもちろん、仔猫までもが頬を引きつらせた。
キリトの目の前には真っ赤なスープの上にたっぷりの野菜と肉の煮込みがのった深皿がある。
中に麺が隠れているというこの店自慢の一品はいいのだ、辛味だけではない香辛料の深い香りが空腹のキリトの嗅覚と胃を激しく刺激している。
問題はその隣に置かれた小さな二つの皿の中身だった。
ひとつは煮込んで出汁を取ったのだろう、僅かに身のついている頭付きの魚の骨がのっている。
もうひとつは茹でた麺のすくい残しとぐちゃぐちゃに煮崩れた野菜の切れ端を混ぜた物がべちゃっ、と盛ってあった。
「べっぴんな仔猫ちゃん、遠慮しねーで食えよ。おかわりもあるからな」
少し得意気に笑う男に対して、仔猫は今にも泣きそうな瞳で尻尾をふるふると振りながらキリトに訴える。
「みゃうっ、みゃうっ、みゃうっ」
「うん……さすがに、これは……ちょっと……無理だよな」
安心させるようにキリトは肩の上の仔猫の頭を二本の指で優しく撫でた。
一方、お世辞にも喜色満面といった表情ではない仔猫の様子に疑問を覚えた店の男が首を傾げる。
「どうしたんだ?、野良猫共は喜んで食うぜ」
「折角用意してもらって悪いんだが……食べられない、と言うか……」
どう説明したものか、と悩んでいると、腑に落ちたとばかりに再び男が手の平を打った。
「そうか、そうかっ、オレ様としたことが……こーんなちっちゃな仔猫ちゃんだもんなぁ、まだミルクしか飲めねぇか」
「あっ……ああ、そうっ、実はそうなんだ。なんせ、仔猫なりたてだから……」
「おいおい、それを言うなら『生まれたて』だろうがよ」
「そっ、そうだな」
乾いた笑いでキリトが失言を誤魔化していると、仔猫用の皿を引き上げてくれた男がほどなくして温めたミルクを持ってくる。
意外にも気働きのいいことに、頼むまでもなく大きめのスプーンも添えてくれた。
そこで仔猫はキリトの膝の上に移動して、いつものようにスプーンですくってもらったミルクを堪能したのである。
お読みいただき、有り難うございました。
「風林火山」の「火山」って、そーゆー意味じゃないからっ(焦っ)