夕方、一通の書状を託した使者を自国へ遣わせるとキリトは未だ少しだるそうにしている仔猫と一緒に食事を済ませ、風呂に入って寝室へと向かった。
体調が戻りきっていないのか、寝室へと移動する途中で既に仔猫はキリトの腕の中で微睡み始めている。
ベッドに腰掛けた頃にはすっかり夢の中となってしまった仔猫を見ながら、キリトはそれまでの笑みを消して抱き上げた仔猫の額に自分のそれを押し付けた。
(今からちゃんと説明をしに行くよ)
そう念じて仔猫と一緒にベッドに横になる。
いつもより強く抱きしめれば、その温かいぬくもりがキリトをすぐさま夢の世界へと誘った。
気づいた時には既に目の前にアスナがいた。
これまでと同じ、白いドレスに身を包み、うずくまって泣いている。
しゃくりあげる度に跳ねる肩へと両手を伸ばし、正面から彼女をふわり、と包み込んだ。
それでも彼女が顔を上げることはない。
かまわずに豊かな栗色の髪に唇を落とす。
これほどの距離にいるというのに彼女の髪の香りは感じられず、ただ泣き声だけが耳に入ってくる。
彼女の頭に頬をすり寄せて目を瞑り、キリトはゆっくりと問いかけ始めた。
「アスナ……何を泣いてるんだ?……また、カラスに突っつかれたのか?……オレを呼ばないのはなんで?」
肯定の反応も、否定の反応もみせない。
「泣いている原因が……オレだから?」
触れている肩がぴくり、と震えた気がしてキリトは話し続けた。
「アスナの他に妃を娶るって聞いたから?……他の側室の妃達と正妃の座を争わなくちゃいけないから?」
キリトの頬が密着している小さな頭がゆっくりと左右に揺れる。
それからくぐもった声でまるで自身に言い聞かせるような言葉が聞こえてきた。
「……わかってるの……ちゃんと、わかってる……キリトくんの国は大きいもの。安穏とした国を維持する為に王族との婚姻で国政が安定するなら妃だって何人も娶るって」
「……アスナ……」
「王族なんだから……キリトくんは王子なんだから……そして、私は王女なんだから……そんなの当たり前だって、ちゃんとわかってる」
「アスナ……だったらなんで泣いてる?」
小さい頃のような苦しい言い訳すら出てこず、アスナはただ頭を横にふるばかりだ。
「相変わらず意地っ張りだな……全然大丈夫じゃないんだろ?……オレがアスナ以外に妃を迎えて……平気なのか?」
「……へっ……平気……じゃない……でも……平気じゃなくても……」
「自分は王女なんだから、我慢する?……そういうの、やめろ、て言ったのに……アスナは本当に、もう……」
駄々をこねる子供をあやすように更に身体を引き寄せて、背中をぽふぽふと叩き、すりすりと頬で頭を撫でる。
それでもアスナは顔をあげないまま、ぽそり、と零した。
「王女じゃなかったら……我慢しなくていいのかな」
「アスナ?……ああ、それでか……王女が嫌になった?」
けれど、その問いの答えなのか、自身の言葉を払いのけるようにアスナは頭を振る。
「でも、私……王女だもの」
「そうだな。留学中、あちこちの国を巡って何人もの王女に会ったけど、アスナほど誇りを持っている王女も、国民から慕われている王女もいなかったよ……そんなアスナが一時でも王女である自分を否定したんだな……」
いきなりキリトはうずくまったままのアスナをぎゅっ、と強く抱きしめ「ごめん、アスナ」と囁いてから片手でゆっくりと栗色の髪を梳き始めた。
「それでも、オレが王子じゃなかったら、アスナが王女でなかったら、出会うことはなかったかもしれない。オレは王女であるアスナを丸ごと大事にしたいんだ。だから、アスナ……戻ってきてくれ、ユークリネ王国の王女として、それから未来のガヤムマイツェン王国王太子妃として……」
ここ数日、目覚める時に自分の傍にあって安らぎを与えてくれる小さくて温かい存在が、今は全身で感じられ、大好きな甘い香りがいつもより濃く漂っていることに疑問を覚えつつキリトは両手で抱いているぬくもりをそっと引き寄せた。
すると頬に当たるはずの感触がふわふわの毛並みではなく柔らかく滑らかな人肌である事に気づき、途端にぱちっ、と音がする位の速さで瞼が上がる。
と同時に自分のすぐ近くから「ふぅ……んっ……」という声が耳に届くやいなや、キリトは思い切り笑顔になって両手に力を込めそのたまらなく愛しい存在を包み込んだ。
「アスナ……おかえり」
途端に目の前の長く整った睫毛が二、三度、ふるるっ、と震えるとスローモーションのように瞼が持ち上がりはしばみ色がぼんやりとこちらを見つめる。
しかし、すぐにその色をハッキリと濃くすれば、今度は驚愕で更に大きく見開かれた。
「ふえっ?……えっ?、なにっ?、キリトくんっ?」
「うん、アスナ、おはよう」
いつものように鼻先に、と思ったキリトは寸前で場所を変えて、少し下の桜色の唇に軽くキスをする。
「んっ、なにっ?、なんで?」
完全にパニック状態のアスナに向け、キリトはニコリ、と微笑んでから順番に答えを口にした。
「『おはよう』のキス。一緒に寝るようになってから毎朝してるだろ。覚えてないのか?」
どうやら仔猫に変化(へんげ)していた時の記憶は残っていないらしい。
真っ白なナイトドレスを着ている彼女はそれこそあの時の仔猫が人間に変化したような容貌だったが、キスを受けるとすっかり恥じらいを纏ってしまい、それがかえってキリトにとってはアスナらしさを実感できる反応だった。
求めた返答から納得や安心を得られず、頬を染めたまま更に混乱したアスナへキリトはますますいたずらっ子のような笑みを深めていく。
「アスナが嫁いで来てくれたら、毎朝こんな感じなんだな」
キリトの言葉を聞いて、もしも仔猫の耳が残っていたら途端にへにょん、と伏せてしまったであろうほどにアスナの意気が沈んだ。
「嫁ぐ……うん、そうだね。もうすぐキリトくんのお嫁さんになれるんだよね」
「ああ、たった一人のオレの大事な妃だから」
「えっ?」
視線を下げていたアスナがいきなり顔をキリトに向け、確かめるようにジッと見つめてくる。
「そういう仕草は仔猫の時と一緒だよなぁ」
ひとり楽しそうに笑うキリトにわけがわからず、そのまま彼を見続けていると直接言葉を届けるように額を合わせてきた。
「そう、オレの妃はアスナだけだよ」
その言葉に自然とアスナの瞳から涙が溢れてくる。
「うそ……だって……お見合いしたって……」
「だから、それ、見合いなんかじゃないんだって」
「留学中だって、他の国の王女様達とすごく仲良くしてたってみんな言ってて……」
「ああ、やっぱりその勝手な噂、ここにも届いてたか」
「ユークリネ王国と婚姻関係を結んでもガヤムマイツェン王国には何の得もないから……」
「どこのどいつだよ、そんな事言ったの…………あと聞きたい事は?」
「だって……だから…………ほっ、本当に?」
一旦、額から離れると二つの漆黒の眼がまっすぐに潤んだはしばみ色を捉え、溶かし、内に入り込むように熱を注ぐ。
「本当に……アスナしかいない……アスナしか欲しくないし、アスナでなきゃダメなんだ…………だから、オレの隣に来て、アスナ」
答えの代わりにアスナが泣き濡れた顔をキリトに押し当てる。
しがみついてきたその身体を優しく受け止め、夢の中と同じように髪を梳き、背中を摩った。
夢と違うのは、もう悲しげな泣き声は聞こえず、白い霧ではなくアスナの甘い香りがキリトを包む。
その香りを胸一杯に吸い込んでからキリトはもう一度小さく囁いた。
「おかえり、アスナ」
それから彼女が落ち着くのを待って「それにしても」と口を開く。
「アスナ、手、見せて」
その真意を測りかねた様子のアスナだったが、素直に両手をキリトの目の前に持って来ると、左手の手首には黒い石がはめ込まれた赤いブレスレットが輝いていた。
「ああ、こっちの腕か。仔猫の時は首輪だったけど、元に戻ったんだな。このブレスレット、シノンに作ってもらったんだろ?」
「そう、よくわかったね」
「それにオレが渡したこの石、意味知らなかったのか?」
「えっ?」
「ガヤムマイツェン王国の王族が自分の瞳と同じ色の石を贈る相手はひとりしかいないんだ」
「それって?」
「自分のパートナーと決めた相手だよ。だから最初からアスナには正妃として授位式にでてもらうつもりだったのに……」
「ええーっ、じゃあ私が悩んでた事って……」
「まあ、オレも側妃なんて考えもしてなかったからわざわざ『正妃』とも言わなかったけどさ。でも、先の事を考えて授位式の誓文に一文を加えるよう指示を出しておいた」
「一文?」
「王太子としてただひとりの妃を娶り共に国に尽くす、って……これなら他に妃を押し付けられた場合、オレは誓いを破ることになるから王太子の位は返上することになるだろ。王太子でなくなったオレに嫁いでも利はないから、結局アスナ以外、妃が増える事はないよ」
「キリトくん……」
「だから安心してオレの所に来て、アスナ」
「うん」
再び互いにきつく抱き合うとどちらからともなく唇を重ねる。
互いの気持ちを確かめるように深く長く口づけた後、再びキリトの腕の中に身を預けたアスナは静かに目を閉じるとやがて穏やかな寝息を立てたのだった。
お読みいただき、有り難うございました。
夢の中でキリトの言葉がアスナに届いていたのか、独白なのかは……ご想像に
お任せします。
そしてやっとちゃんとした「イチャコラ」になりましたー(笑)