ガヤムマイツェンの王城へアスナが正式に入城した翌日、王太子の授位式と婚礼の儀が同時に執り行われた日の夜だ。キリトはようやくシャワーを浴びて寝衣に着替えると、今日から新たに使う寝室へと足を踏み入れる。
そこには既にアスナが昼間のウェディングドレス姿を彷彿させる純白のナイトドレスにガウンを纏ってキリトを待っていた。既に夢うつつのような表情でソファに腰を掛けていたが、キリトの姿を見ると数回、ぱちぱちと瞬きをして眠気を散らし、ふにゃり、と微笑んで立ち上がってキリトの元へ駆け寄る。
とんっ、と腕の中に飛び込んで来た真っ白いアスナを受け止めてキリトはその甘い香りを吸い込んだ。
「疲れたか?、アスリューシナ」
「いいえ、キリトゥルムライン王太子殿下こそお疲れ様でした。広間のお客様方のお相手はもうよろしいのですか?」
今日一日、互いを正式名称で呼び合っていた口調が抜けていないことに軽く苦笑いをしてキリトは栗色の髪に顔を埋め、甘えた声を紡ぐ。
「間違えた……お疲れ様、アスナ」
キリトの優しい声で愛称を呼ばれると知らずに強張っていたままの心が一瞬で溶け、本当の意味で緊張が抜けたアスナが今度こそ綻ぶような笑顔を見せた。
「うううん、キリトくんこそお疲れ様。広間のお客様達のお相手はもういいの?」
「ああ、きりがないからな。オレが早くアスナの元に行きたがってるのを承知で引き留めるから、親父に押し付けてきた」
「キリトくんたら……でも、あんなに大勢来てくださって……それに昼間の王都のパレードでも人が多くてびっくりしたよ」
階下の大広間では今回の招待客が夜通しの勢いで祝いの宴を続けている。
そんな喧噪も王太子夫婦の寝室までは届かず、侍女達も王太子妃が湯浴みと着替えを済ませると、すぐに気を利かせて退室した。
「特にキリトくんが留学中に知り合ったって挨拶をしにきて下さった皆さん、気さくで面白い人達ね」
「ふぬっ!、あいつらいつの間に……何か変な事、言われなかったか?」
「あ……えーっと……」
「アスナ」
少々強めの語気で名を呼ばれ、未だキリトの胸に顔を押し付けたままのアスナが言葉を選ぶようにゆっくりと口を動かす。
「キリトくんが留学中にその国の王女さまやご令嬢方と随分仲良くしてたから……その……私が結婚相手で驚いた……とか」
途端に自分の背中に回っていたキリトの両腕が震えだしたのを感じ、アスナはそうっ、とキリトを仰ぎ見た。怒りも露わに冷たい半眼の瞳でジッと自分を見下ろしている夫の表情に、思わず冷や汗が流れそうになった時だ「誰?」と地を這うような低い声が耳にぞわり、と侵入してくる。
「ふぇ?」
「だから……誰が言ったんだ」
「んー……」
考え込むように口を閉ざすと再び「アスナ」と低く呼ばれた。
「実は……何人かの人から言われたから……忘れちゃった……かも」
わざと軽くそう告げてから「私なら大丈夫だよ。皆さん酔ってたし、悪気はないんだってわかってるから」と付け足すと、いきなりぎゅぅっ、とキリトがアスナを目一杯抱きしめる。
「ひゃっ……んんっ……キ、キリトくん……ちょっと……いたい」
するとキリトは腕の力を弱めて、それでも回した手を解かずに耳元に囁いた。
「痛い思いさせてゴメン……でも、これからは『痛い』時はそう言って。アスナの『大丈夫』はオレが『痛い』」
「うん……わかった……」
「だいたい仲良くしてたって言っても親善の範囲内だぞ。それを勝手に……」
「でもその噂、ユークリネ王国まで届いてたよ」
「ああ……そうだったな……」
確かに仔猫の変化(へんげ)が解けた朝も涙声でそんな事を言われたっけ、とキリトは思い返す。
その弁明を後回しにしてきたのには理由があって、出来ればアスナに本当の事を打ち明けたくなかったからだ。しかしこの状態でそれは無理だろうと覚悟を決め「実はさ……」と重い口を開く。
「留学する時の条件だったんだ」
「条件?」
「正確には留学を終えてアスナを娶るために親父を納得させる為の条件って言うか……」
「国王さまを?」
そうしてキリトはアスナの身体に腕を回したまま留学を承諾した時の話を始めた。
最初に二年という留学期間を言い渡された時、キリトは猛烈に反発した。周辺諸国を数ヶ月から半年単位で移動するなら、その都度帰国しても構わないだろう、と。しかし父であるガヤムマイツェン国王は「二年間国を出て頭を冷やしてこい」と言い、取り合ってはくれなかったのだ。
丸々二年間の帰国を禁じたのには理由があった。
国に帰ってくればキリトは必ず時間を作って馬を飛ばし、隣国のユークリネ王国へ赴くことはわかりきっている。留学の目的のひとつにはキリトゥルムラインとアスリューシナ姫との間に冷却期間を設ける国王の思惑があったからだ。なにせ、キリトがアスリューシナ姫を娶りたいと言い出したのは昨日、今日のことではない。
十年前、ユークリネ王国の離宮で病気療養のアスリューシナ姫の見舞いから帰ってきたその日にキリトは父王に向かって「お嫁さんにするならアスリューシナ姫がいい」と願い出たのだ。
それまではたまに城にあがる歳の近い貴族の令嬢と会っても最低限の言葉しか交わさず、つまらなさそうにしていた王子のいきなりの変貌ぶりに父王は驚くと同時に興味を持った。
「キリトゥルムライン、お前はいつも女の子はうるさいし、面倒だし、弱いと言っていたね」
父王の言葉にキリトは素直に頷いた。
自分の妹にしても、時折遊び相手として連れられてくる貴族の子供達にしても、それまでキリトの周りの女の子と言えば自分の事ばかりを口にして、自分の話を聞いてくれと言い、少しでもキリトが鬱陶しそうにすれば機嫌を悪くして泣き出すという始末に負えない生き物だったからだ。
「アスリューシナ姫はうるさくないのかい?」
「アスリューシナ姫は優しく喋るからうるさくない。いつまでだって話してられるしオレの話を楽しそうに聞いてくれる」
「アスリューシナ姫は面倒じゃないのかい?」
「アスリューシナ姫は色んな事を自分でしようとしてる。オレはそれを手伝ってやりたいんだ」
「アスリューシナ姫は弱くないのかい?」
「弱いよ……でもアスリューシナ姫はとっても強い姫だから、ずっと一緒にいたい」
「ふうむ、アスリューシナ姫はとても素敵な姫なんだね」
「うんっ、だから……」
「それで、アスリューシナ姫はお前のお嫁さんになりたいと言っているのかい?」
「あっ……」
十年前の会話はそこで終わった。
お読みいただきり、有り難うございました。
キリトですからね、留学中にフラグたてまくったんでしょうね。
無自覚に……。