アスナがふう、ふう、と息を吐き出しながら「もう、食べられないよぅ」とイチゴを手にしている鬼の形相のリズとキリトに告げると、やっと納得してくれたのか、リズはアスナのベッドの上についていた手をどけた。
「まあ、このくらい食べられれば、いっか」
「こんな少しでいいのか?」
未だ納得できない表情のキリトが諦めきれずに持っていたイチゴでつんつん、とアスナの唇をつつく。
「こらこら、キリト。無理に餌付けすると嫌われるわよ」
「え゛っ」
アスナのぷるんっ、とした唇ばかりを見つめていたが、そっと視線を上にずらせばはしばみ色の瞳にはじわり、と涙が滲んでいる。
「キリトさま……も、無理……」
息をするのも苦しいといった様子でイチゴののっている皿を侍女に渡すと、アスナは自分のお腹をさすって、ふぅっ、と息を吐いた。
本当にこれ以上は食べられないんだな、と認めたキリトがようやく浮かしていた腰を椅子に落ち着ける。
ふと自分の手にあるイチゴを見て、皿に戻す事など考えも付かなかった勢いで、パクリ、と己の口に放り込んだ。
持参した見舞い品を自ら頬張りながら「アスナ」と呼びかけるのとほぼ同時に、お腹に手をあてていたアスナから「ごちそうさまでした、キリトさま」と御礼の言葉が紡がれる。
アスナの言葉にキリトの眉間に皺が寄った。
「それ、それ」
「え?」
「オレの事は『キリト』でいいって。さっきから気になってたんだ」
「でも……」
「リズが呼んでるんだからいいだろ」
「しょうよ、あしゅな……」
リズもキリトと同様に持っていた最後のイチゴを自分の口の中で堪能中のようだ。
二人からの要望にアスナが言いよどむ。
「なら……、なら……」
そこまで言って目をギュッと瞑り、必死に何やら考え込んでいる。
アスナの脳裏にはついこの前、この離宮に近くの村から食材を運んで来てくれた農夫と子供達の姿が浮かんでいた。
離宮が物珍しくて付いてきたのだろう、兄妹ではなさそうな男の子の名前を女の子が親しげに呼ぶ声が蘇る。
「キ……キリト……くん……」
今まで耳にしたことのない呼称に一瞬驚いた表情のキリトだったが、すぐに満足げな笑みに変わった。
唯一、アスナだけが口にする自分への呼び方……否を唱えるはずもなく「うん、それでいいよ」と笑えば、アスナも安心したように頬を緩ませる。
しかしアスナはすぐに表情を引き締めると目の前の二人に向かって背筋を伸ばし、元来の生真面目さを発揮した。
「でも、みんながいる所では『キリトさま』って呼びます。リズもだよ」
そう釘を刺すように言われたリズはボソボソと「私が公衆の面前でキリトの名前を呼ぶことなんてないわよ」ととぼけた口ぶりだ。
三人のやりとりを黙って聞いていた侍女が「ふふっ」と笑ってアスナに顔を近づける。
「では、今回の離宮の中では黙認いたしますね」
味方になってくれる言葉に嬉しくなってアスナは笑顔で侍女を見上げると「うん、ありがとう」と声を弾ませた。
「ああ、それと」と思い出したように侍女は言葉を続ける。
「明日、シノンちゃんが来るそうです」
「えっ?、シノのんが?」
アスナの驚きに、リズがふうっ、とため息をついた。
「もうアスナの薬がなくなる頃だもの。当たり前でしょ」
「……まだ、お薬、飲まなきゃダメ?」
途端に眉をハの字にしたアスナが上目遣いで侍女に尋ねれば、困ったように笑う侍女は一言「はい」と答える。
「もう飲まなくても大丈夫だと思うの。ちゃんと大人しく寝てるから。シノのんだって大変だよ」
何とか侍女の説得を試みるが、侍女は意見を変える気はない事を無言で示していた。
基本、アスナに甘い侍女達のことだ、出来る事なら彼女の願いは叶えてやりたいに違いない。
違いないのだが……こればかりは王女の健康に関わること、と心を鬼にしてアスナの願いを申し訳なさそうな笑顔で拒んでいる。
何も答えてくれない侍女をジッと見つめているアスナに痺れを切らしたリズが口を開いた。
「アスナ……平熱でいる事の方が希なんだし、無理よ。それに食欲だってないんでしょ。オマケに部屋から抜け出して木登りしてるんだから、薬飲まないと悪化するわよ」
脅しでもなんでもないのだ、と真剣な眼差しで言い聞かせれば音がしそうなくらいにシュンッと気落ちしたアスナが項垂れる。
その様子に再び、ひとつため息をついたリズが首を傾げた。
「だいたい木によじ登って何してたのよ」
「……ヒナが……」
「ヒナが?」
木霊のように問い返せば、アスナはこくん、と首肯してから再び口を開く。
「お部屋の窓からお庭を見てたら、木の根元に鳥のヒナがいたの。きっと木の上の巣から落ちたんだと思って……」
「それで助けに行ったってわけ?」
もう一度アスナが頷けば、それを見たリズが今度こそ深く深く「はあああーっ」と息を吐き出した。
「ヒナもだけど、アスナ、アンタに何かあったらどうするのよ。普段は『自分は王女なんだから』ってしつこい程言ってるくせに。だいたい侍女が侍従に頼めばよかったでしょ」
「一人でなんとか出来ると思ったんだもん」
「それ……木の上でも聞いたセリフだな」
遠い目をしたキリトが口をはさむ。
挽回するように「はしご、一人で運んだんだよ」と言えば「それを片付けたのは私よっ」とリズが言い返した。
「それで挙げ句の果てに木から下りられなくなって、キリトに助けてもらったんでしょう」
「……その前に、カラスに突つかれているのを助けてもらったの」
初めて知った真実にリズと侍女達が「えっ!?」と頬をひくつかせる。
「アスナー!」
「姫様ー!」
その後は大変だった。再びアスナの元に集った侍女達が「どこっ、どこですかっ、どこを突かれたんですかっっ」と口々に言いながら顔を覗き込み、栗色の髪の毛を次々と一房ずつ持ち上げて頭皮を確認した。
リズはリズで「アンタって子は、アンタって子はーっ」と要領を得ない言葉を繰り返すばかりだ。
きょとんっ、とされるがままだったアスナはハッと我に返ると「大丈夫、大丈夫だから」と何回も訴えた後、頬を軽く染めてポソポソと「キリトくんが守ってくれたから」と告げれば、その言葉にキリトはあの時のアスナの感触や匂いを思い出したのか同じように頬をポンッと赤くする。
二人の反応に侍女達が「あらあら」「あらまぁ」と含み笑いをしながらアスナから身を離せば、アスナは少しボサボサになった髪のままキリトを正面から見つめた。
「あの……木の上でも、助けてくれて、ありがとう」
「うん」
照れたように一言だけで返してから手を伸ばして乱れたアスナの髪をゆっくりと梳く。
「ホントに大丈夫なのか?……痛がってただろ?」
「髪留めを突かれてたから、直接は……でも突かれると金具が頭に当たって痛かったの」
安心させるように笑うアスナを見て「ふーん」と返事をすると、キリトは髪留めのあった後頭部を優しく撫でた。
止まらないキリトの手の感触にアスナの顔が徐々に赤みを増す。
それに気づいたキリトが「あれ?、また熱が上がったか?」といぶかしんで撫でていた手を彼女の額に移動させた。
途端、一気に顔を赤くしたアスナを見てリズが「やっぱりシノンに来てもらわなくっちゃ」とこぼす。
リズの呟きを聞いていたキリトが「さっきから言ってるシノンって?」と聞けば、リズは少し間を空けてから答えた。
「王都にいる調薬師見習いの子よ」
「私達よりちっちゃいのに、ちゃんと一人でお勉強やお仕事してるの」
常日頃から『一人で出来るようになる』を目標に掲げているアスナにとっては年下であろうと尊敬に値する人物なのだろう、なぜか少し自慢げに「いつもお薬を王宮まで持って来てくれるの」とか「とっても良く効くのよ」とキリトに話しているが、その度にリズが「まだ見習いだから王宮までおつかいに出されてるのよ」とか「薬を調合してるのは師匠だけどね」と解説を挟んでくる。
その言いように堪りかねたのかアスナが声を荒げた。
「リズっ、シノのんは頑張り屋さんのいい子だもんっ」
「誰もシノンが怠け者の愚か者だなんて言ってないわ。ただちょっとばかり愛想がなくて無口でとっつきにくいけど」
「大人しくて少し口べたで人見知りするだけだよっ」
「うん、そうね。だからアスナが気にしてる王都の様子なんかもシノンが事細かに教えてくれる事はないわね」
「リズぅ〜、いぢわるぅ〜」
何度目かわからない程、はしばみ色の瞳にじわり、と涙が浮かべばキリトがポンポンとアスナの頭を軽く叩いてよしよしとなだめる。
リズもいい加減にしとけよ、と視線で諫めれば、ひょいっ、と肩をすくませてその視線をかわしたリズが、んべっ、と舌を出した。
「でもどうして王都が気になるんだ?」
キリトの問いに答えたのはリズだ。
「アスナはまだ一人でユークリネ王国の地方まで視察には行かれないの。だから王宮のお膝元の王都には頻繁に行って国民の様子を色々と気遣っているってわけ。王都に来られない時は私が報告してあげるんだけど……」
「今回はリズも一緒に離宮まで来てもらっちゃったから……ゴメンね、リズ。お家に帰りたいよね」
「別にいいわよ。店の手伝いしなくてすむもの」
「ウソっ、リズってばいつもお店のお仕事のこと、嬉しそうに話してくれるもん。お手伝い、好きなんでしょ」
「まあ、あっちこっち行かれるのは楽しいわね……あっ、ならキリトに話してもらいなさいよ」
「オっ、オレ!?」
「ガヤムマイツェン王国の事、アスナ、聞きたいわよね?」
「うんっ」
期待に満ちた瞳で見つめられ、うぐぐっ、と唸るキリトだった。
お読みいただき、有り難うございました。
ご本家(原作)さまの設定通り、シノンはアスナやリズより三歳年下の
女の子です。