アスナからうるうると懇願の瞳で見つめられたキリトはすぐさま国元に使いを出した。
結果、ユークリネ王国離宮での滞在を「数日なら」と国王から許しを得て、その夜は大急ぎで用意された客室のベッドに身体を横たえる。
翌朝、連れてきた従者に起こされて身なりを整え食堂に行ってみれば、そこには既にリズの姿があった。
「おはよう、キリト」
「ああ、おはよう、リズ」
キリトの着座を待って給仕の侍女達がスープを運んできた。
「よく眠れた?」
「うん、最初は夜行性の鳥や動物たちの鳴き声が気になったけど、いつの間にか寝てたな」
「ならよかった」
「……アスナは?……朝食は一緒に食べないのか?」
「ああ……アスナね……うん、あの子はいいのよ」
「王女だからって一人で食べてるなら、違うと思うぞ」
「そうじゃないんだけど……」
どう言おうか、とリズが思案顔になっていると、後ろに控えていた侍女が一歩踏み出して「リズちゃん」と声をかけた。
「キリトゥルムライン殿下は姫様の為に離宮に留まっていただいているのですから、正直にお話したら?」
その助言に後押しされたようにリズが背筋を伸ばし、改めてキリトの顔を見つめる
キリトもその表情から何かを察して手にしていたスープスプーンを静かに皿に戻した。
「アスナはね……夜半からまた熱が上がったの」
「えっ」
動揺が手からスプーンに伝わり、カチャッとスープ皿の縁を引っ掻く耳障りな音が響く。
驚いたキリトに向け、ほんの少し困ったように笑うリズは軽く手を振りながら「毎日なのよ」と言うと、目の前のスープを口に運んでから「アンタも温かいうちに食べなさい」と食事を促した。
「最初に言っておくわ。アスナは病気療養ってことでココに来てるけど、周りの人間にうつるような病気じゃないから安心して」
その言葉にキリトは素直に頷く。
うつるような病気だったらアスナの私室に入ることなど出来ないだろうし、そもそも父王が王子である息子を見舞いには行かせないだろう。
「あの子ね、王宮にいた時から夜中になると熱を出してたの。でもあの性格でしょ。周りの人間には言わずに我慢してて、でもそんなの隠し通せるはずないじゃない。それでしばらくは王宮で様子を見てたんだけど、家族は王族としての仕事をしてるのに自分は具合が悪くて寝ているのがいたたまれないみたいで……」
「そんなの、病人なら当たり前だろ」
「本人もそう思ってくれれば私達も助かるんだけどね」
焼きたての香ばしいパンの匂いに我慢出来なくなったのか、キリトがそのひとつに手を伸ばしながら「それで」と話の先を請う。
「元々アスナは自分が役立たずだって思い込んでるところがあって、それで勉強も人一倍してるし、王都に出向いたりしてみんなの生活ぶりを観察したりもしてるし、私から見れば十分やってると思うんだけど本人は全然納得してないの……だから熱の原因はストレス。自分の一日を他の王族の一日と比べて、まだまだだって思っちゃうのね。だから国王様が家族の様子が気にならないよう離宮での療養を言い渡して下さったんだけど、こっちに来ても気持ちが焦るばかりで」
「それで夜になると熱が上がるのか?」
「そう、その日一日を反省して、悔やんで、落ち込んで……とまあそんな感じなのかしらね。だから朝はベッドの上で軽く食事を摂って薬を飲むのが毎日なのよ」
そこまで説明してからリズは握っていたスプーンをプルプルと震わせて「でも、まさか昨日は何も食べずに木登りまでするとは思わなかったわ」と怒りを再燃させている。
怒りにまかせてリズもむんずとパンを掴むとちぎりもせずにあむあむと口に押し込んだ。
キリトはふわふわのオムレツをパクリと食べてから「ならさ」と行儀悪く食べながら話しかける。
「今日、王都から来るっていう調薬師見習いの……なんて名前だっけ?」
「シノン」
「そう、そのシノンが持ってくる薬は?、飲んでも治らないのか?」
「薬は熱を抑える為よ。飲めば熱が出なくなるなんて薬、あるわけないでしょ」
「……そうだよな」
リズが呆れた顔で「キリト、アンタって王子なのにバカなの?」と口にした時は、さすがに控えている侍女が小声で「リズちゃんっ」と窘めた。
リズは侍女に言い返したいようだったが、ぺろっ、と舌を出すだけにとどめて話を戻す。
「だからアスナの病気が治るようにキリトも協力してよね」
「協力って?」
「とりあえず、これ以上頑張らなくていい、とか、十分努力してる、とかはダメ」
「な……なるほど」
「無理のない程度に頑張らせて、自信をつけさせてやって欲しいの」
「うーん……要はアスナがしたいって事をさせてやればいいんだろ」
「ま、病人がしていい範囲でね」
「りょーかい。ならさっさと食事を済ませてアスナに会いにいこうぜ」
キリトは皿に残っていたミニトマトをパクッと口に放り込むと、そのままにやり、と笑った。
コンッ、コンッとノックをして、昨日とは違いリズを後ろに従えたキリトが「アスナ、入るぞ」と声を掛けてからガチャリ、と扉を開ける。
ベッドサイドには一人の侍女が座っているだけだ。
アスナに読み聞かせていたのか、枕元のすぐそばにある椅子から本を閉じて立ち上がった侍女はキリトに一礼をしてその場を彼に譲る。
当然のようにアスナに最も近い場所に身を置いたキリトはうすぼんやりと瞳を開けている彼女に「おはよう、アスナ」と声をかけた。
彼女の唇の僅かな隙間からは短めの息が薄く吐き出されている。
顔全体が火照ったように淡い朱に染まっているが、それは羞恥や怒りからくる色ではなく持てあました感情がジワジワと彼女自身を炙っているかのようだった。
キリトの声に反応したアスナが顔を動かして漆黒の双眸を見つけると、徐々に瞳に光を宿して嬉しそうに弱々しく微笑む。
「お……はよう、キリトくん」
少し掠れ声ではあったがしっかりとした物言いに安心したキリトは微笑み返してから片手をアスナの額にあてた。
「今日はちゃんと朝食食べたか?」
「うん……キリトくん……は?」
「食べたよ。オムレツが美味(うま)かった」
「近くの人達が……朝、卵、届けてくれるの」
「新鮮なんだな。食後の薬は?」
「飲んだ……よ」
そこまで会話をしてから額の上の手を優しい手つきで左右に動かす。
「アスナ……苦しい?」
「うううん……平気」
「アスナは、強いな」
「うん……王女……だもん」
二人のやりとりを聞いていた侍女がリズの分の椅子を用意しながら痛ましげな表情でこっそりと耳打ちをした。
「今朝はお薬の効きが悪いみたいで、なかなか下がらないの」
「耐性がついちゃったのかしら。そのこと、伝えてある?」
侍女が頷いたのを見て「なら今日持ってくるシノンの薬に期待するしかないわね」と呟く。
これ以上は手立てのないことを背後から聞き取ったキリトが「アスナ、手、出せるか?」と尋ねた。
首までしっかりとアスナを包んでいる布団がゴソゴソと動いて脇からほっそりと白い手がでてくる。
昨日のお転婆のせいで未だ数カ所に傷があるが、どれも軽く触れる程度なら痛みは走らないだろうと判断してキリトはそっと握った。
「アスナ、頼みがある。アスナが頑張って頑張って、それでも動けなくなったらオレが手を引っ張ってやる。そのかわり、オレが困った時はアスナがオレを引っ張って欲しい」
「……昨日の……木の……上の時……みたいに?」
「そう」
「うん……わかった」
キリトの手の中でアスナがゆっくりと握り返す。
自分の隣に椅子を持ってきたリズが座るのを確認してから、キリトは「じゃあ約束通り、ガヤムマイツェン王国の話をするか」と言って静かにアスナに問いかけた。
「何が聞きたい?、王都の事か?」
「王都も……だけど……昨日、食べた……イチゴが……なってる所の……お話……」
「いいよ。オレも二、三回しか行った事がないけど、そこはガヤムマイツェンの王都よりほんの少し北にあって……」
そうして途中でリズの質問にも答えながらキリトが自国の話を披露する間、アスナはうんうんと時折頷くだけで静かに話に聞き入っている。
キリトが知っている限りの事を話し終えると、アスナがふぅっ、と息を吐いた。
聞いているだけでも身体が辛いのだろうか?、とキリトの表情が心配げな色を帯びると、それを否定するようにアスナがふわり、と笑う。
「キリトくんは……色んな場所に……行ったこと……あるの?」
「そうだな、ガヤムマイツェンの国内なら」
「国の中だけでも相当な広さだものね」
リズが以前にガヤムマイツェンの王都まで行った時はユークリネ王国の首都から馬車で5日かかったと言えば、アスナは目を細めた。
「いいなぁ……私も……行ってみたい」
「来いよ。オレがアスナを案内してやる」
アスナの願いにすぐさま応じたキリトはその未来を想像したのか、キラキラと黒い瞳を輝かせている。
しかしそこに水を差したのはリズの一言だった。
「無理よ」
「なんでだよ」
「知らないの?、王女はたとえ外交目的でも自分の国から出たらダメなの。唯一出られるとしたら他国にお嫁に行く時ね」
「お嫁……」
無意識にアスナの手を包んでいたキリトの手にキュッ、と力が入った。
「そっ。ユークリネ王国には貴族がいないからアスナが降嫁する事はまずないでしょ。多分友好国のどこかの王子のお嫁さんになるんじゃないかしら」
リズの言った『王子のお嫁さん』の部分でキリトの手に包まれているアスナの指がそっと絡んでくる。
それに気づいたキリトが愛おしそうにアスナを見つめれば、アスナは熱ねせいではなく頬の朱を深くした。
「まっ、アスナがお嫁に行く頃には、私もウチの商売の規模をもっと大きくしてアスナの嫁ぎ先の国にも自由に出入りできるくらいにしてみせるから」
目の前の王子と王女の密かなやりとりなど吹き飛ばす勢いでリズが胸を張って「絶対、会いに行くからね」と宣言すると、アスナはその心強い言葉に「うん」と嬉しそうに頷く。
友好国からやり手の女商人がガヤムマイツェン王国で手広く商いに勤しむ姿を想像していたキリトの耳に廊下から入室許可を求める侍女の声が飛び込んできた。
「姫様、シノンちゃんが到着しました」
お読みいただき、有り難うございました。
手をつないでいるだけでも立派にイチャコラできる「ちびイチャ」
さすが「キリアス」と言うべきか……。