基本的に地球上でも最も辺鄙な場所の一つであろう所に城を構えるカルデア周辺の天気というものは、いつも嵐か雪かのどちらかであり、お日様が姿を表すのは一週間でも数時間だけという時期も珍しくもない。それに夜となればより一層雪も吹雪も嵐も起こりやすく常にカルデアを吹き飛ばそうとするかのような風のうねり声が聞こえるのが日課だった。
しかしながら、運よく嵐も吹雪も雪もそして風さえも吹かない静かな夜も訪れる。
――そう、これはそんな運のいい深夜の小さなお話。
ここにきてずっと騒がしい毎日を送っていたからだろうか、静かな夜は寝られないことが多くなった。たとえ、表がまだ煩い時に寝ても音がなくなるとふと目が覚めてしまう。
――音のしない世界で目が覚めた。
どうやら外の吹雪もいつの間にか止んだのか、風の音も聞こえなくなっていた。部屋に一つだけ置いてあるデジタル時計に目を向ける。温かみの欠片もない静寂な時計は午前2時を少し回った時間をただ示していた。
――酒も入っていない、静かな夜は嫌いだ。
色々なことが勝手に思い出されてくるから……。
しょうがない、気晴らしに酒でも飲むかと、体を起こしたところで思い出した。先日、小次郎とエミヤと一緒にトレーニングルームで模擬戦を勝手に行い、あまつさえ半壊させたことで、禁酒の刑を言い渡されていたんだった。
別に一本くらい酒を飲んだところでバレはしないだろうが、これではジャンヌ達、ひいてはリリィに非常に後ろめたい気持ちを抱いてしまう。それに罰は罰だ。悪いのは全面的に俺たちだ。ならば、ここは我慢するしかない。
――気晴らしに散歩でも行くか……。
どうせ部屋にいても眠れぬ夜を過ごすのなら散歩でもしたほうがよっぽど有意義な時間の過ごし方だろう。部屋を一歩踏み出した俺の姿を下弦の月が静かに照らしてくれた。
風の止んだ深夜のカルデアは非常に静かだ。まるで誰もいない世界を彷彿させるとさせる。昼まではまるで聞こえない自分の足音を鼓膜に響かせ、時には歩き、時には止まり、ゆっくりとカルデアの中を歩く。
窓の外には白銀世界と下弦の月。それらを額縁のように覆うカルデアの大きな窓ガラスはまるで著名な画家が書いた名画のようだった。
――名画か、なるほど面白い。
自分自身で面白い考えだと思った。俺は芸術のことなんて、知らないし、分からない。カルデアでも芸術作品には縁がないほうどころか、ワースト5に入る自信すらある。
この窓ガラスの外の風景も見る人が見ればそこまで素晴らしいものではないかもしれない。
しかし、それでも俺はかまわない。どうせ俺しかここにはいないんだ。すると、その瞬間にこの窓枠は額縁へと進化し、素晴らしい風景は絵画へ化ける。
そして、その何十枚もの絵画の前を、ただいい絵だ、と偉そうに感想を垂れる俺はきっとそこらの富豪よりもよっぽどいい思いをしているだろう。
――たまにはこんな夜があっても罰はあたるまい。
小さく口端を上げたそんな時だった。俺に小さな別の足音が聞こえてきた。
――ん? この時間に珍しい。
足音の主は俺に気づいているのか気づいていないのか分からないが、その音は着実に俺のもとへと向かっていた。
引くべきか、それともここに残るべきかを考える。足音の犯人で困るのがダヴィンチとジャンヌ達だ。いうまでもなくダヴィンチにもジャンヌ達にも昨夜の乱戦の件で小言を頂戴したばかりだ。そんな有難いお言葉を聞いた直後からこうやって夜出歩けば印象も……下がることはないと思うが色々と面倒臭い。行動に制限を付けられる可能性もある。
しかし、この足音からしてそのどちらかでもなさそうだ。まず、ジャンヌ達だがあいつらの部屋は俺と同じ方角なので消去法的に外れる。次にダヴィンチだが、彼女のとの付き合いは短くない。彼女ならまるで自分がこちらへ向かっているぞと分かるような足音を出す。なので、彼女でもない。
足音を消そうと努めて、しかしやはり小さく聞こえてくる足音の犯人としてもっとも妥当なのは……。
時間にしてあれから30秒ほど経った後、曲がり角から姿を表した彼女と目を合わせる。
まるで彼女は俺がここにいるとは露とも思っていなかったようで、大きく目を見開いた。そんな彼女に努めて優しく声をかける。
「こんばんは、マスター。いい夜じゃないか」
俺の声を受けた人類最後希望は、まるで悪戯がバレた子供のようにそのブラウンの瞳を足元へ泳がせた。
「……こんばんは、隊長さん、いい夜だよね」
いつもと同じ声色のはずなのにその声は確かに普段と違って俺には聞こえた。
「吹雪もやんで物は試してと散歩をしていたら、マスターと会えるなんてな今夜はいい日だ」
そういって笑う俺を立香は少し俯きながら見ていた。
――なるほど、ここまでか……。
俺にはここにいる文字通り歴史に名を刻んだ英霊たちのような優れた知識も、力も、カリスマも、腕力もない。
鸞翔鳳集(らんしょうほうしゅう)といっても過言ではない英霊のほとんどは俺よりもは遥かに知識があり、見分に優れている。
俺に分からないことを、俺には持っていないものを誰も彼もが持っている。
――しかし、だ。
――誰にも分からなくても俺にだけ分かることもあるんだ。
英雄だから分からないこと、神だから分からないこと、王だから分からないこと、知識人だから分からないこと、聖女だから分からないこと――そして、俺だから分かること。それは確かに存在する。
「あぁ本当にいい夜だ。静かで本当にね……」
薄く笑みを浮かべる俺の顔を彼女はおずおずと見つめながら、
「あ、あの……私、もう部屋に戻って休みますね! 次の特異点がいつ見つかるかもまだ分かりませんし……」
そう言ってくるりと踵を返して走り去ろうとする彼女の手首を掴む。
「え……?」
掴まれると思っていなかったのか、彼女は驚いた顔になった。
「ちょっと、待ってくれ、マスター。俺はマスターがバイタルの問題から深夜の外出制限がされているのを知っている。そして、俺も実をいうとこの間のトレーニングルーム半壊事件の犯人として深夜徘徊を止められている。お互い規則を破った同士ここは深夜の雑談でも花を咲かせようじゃないか」
もちろん俺に深夜徘徊の制限なんて物はないのだが、ここは嘘も方便ということで許してもらおうと思う。でないと、色々な意味で手遅れになる。そう今だからまだ間に合う。そして、それはきっと今現在においては俺にしか出来ないことだ。
「…………」
俺の誘いに彼女は逡巡するそぶりを見せる。そりゃそうだ、俺が彼女をそうやって個人的に誘い出すのは今回が初めてのことなのだから。
「なに、別にとって食べようとって訳じゃないよ。カルデアの不良同士友情を育もうってだけさ。ほら、お互いに秘密をばらされると困るんだから、裏切られる心配もないしね」
「…………」
「それにほら、」
「それに……?」
小首をかしげる彼女に向かってさらに続ける。
「何、ちょっとくらい夜更かししても罰なんて当たらないさ」
「で、でも、もしもバレたら……」
「その時は――誘った俺が悪いんだすべて俺が悪いことにして開き直っておけ。これでも昔、悪魔と呼ばれた存在だぞ。誰よりも悪役には向いてるよ」
そういって笑って見せれば、
「うふふ、そうですか。ではお言葉に甘えて夜更かししましょうか。でも、駄目ですよ、隊長さん。私と隊長さん両方悪いので一緒に叱られないと」
彼女はようやく笑顔を見せてくれた。
「それじゃあ、行こうか。実は食堂にケーキと上物の紅茶の葉を隠しているんだ。夜間の飲食は勧められた物じゃないんだけどね。どうせ既に決まりを破っている不良なんだ、今日くらい悪さしても何も罰なんて当たらないよ」
「ケーキと紅茶……! いい組み合わせですね! ぜひご一緒させてください」
「おっと、その前に……」
調子を取り戻して彼女に向かって人差し指を立てて言う。
「お互いバレると大変な身、足音を立てずにそーっとね」
「はい、そーっとですね!」
俺と同じく声を落としてしゃべる彼女と目が合い、お互いに小さく笑う。
それを見て確信する。
――あぁ、まだ間に合う。
忍び足で食堂へ向かう二人の背中を下弦の月が静かに照らしていた。カルデアの夜はまだ明けそうにない。