【完結】光ささぬ暗闇の底で   作:御船アイ

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第二部 残されしもの
第4話


 その日、大洗学園艦は快晴に恵まれた。

 基本洋上に存在する学園艦において晴れの日というのは何も珍しくもないものだったが、雲ひとつ無い空というのはそれでも学園艦に住まう人々の心を陽気にさせた。

 広々とした空に浮かぶ太陽は街を優しく包み込む。煌めく陽日の恩恵は、そのマンションの一室にも与えられていた。

 開かれた窓からはうららかな陽光が差し込み、部屋を優しい暖かさで満たす。また、爽やかな風がその窓の隙間から入り込み、部屋を循環する。

 その窓の側には、一人の女性が安楽椅子に座っていた。彼女の髪は長く色は輝く銀色で、端正な顔立ちをしている。彼女は柔和な表情を浮かべながら、編み物を編んでいた。

 一見すれば、何の変哲もない、穏やかな昼下がりの光景。

 しかし、その光景の中心にいる彼女には、一つだけ普通の人とは異なる点があった。

 彼女には、窓の外に満天の青空が広がっていることも、太陽がさんさんと輝き彼女と部屋を照らしていることも、知ることができないのだ。

 なぜなら、彼女の瞳は、暗闇に閉ざされ、ものを見ることができないのだから。

 彼女の名は、逸見エリカ。

 彼女はかつて、彼女を嫌うものからの心ない悪戯によって、その視力を失ってしまった。

 そして彼女がその視力を失ってから、すでに十二年の時が流れていた――。

 

 

 エリカは今でも鮮明に思い出すことができる。視力を失ったあの日のことを。

 エリカは、かつての戦車道の名門黒森峰の隊長でありながら、隊内で孤立していた。前年、前々年における敗戦の責任、そして隊内の腐敗の原因を背負わされていたからである。もちろん、当のエリカ自身には何の責任もなかったが、そんなことは当事者達にとっては何の関係もなかった。

 そして、その歪みの行き着いた先が、部下の心ない悪戯を原因とする、エリカの失明であった。

 エリカは視力を失うと共に、深い絶望に落とされた。一時は生きる意味を見失い、死のうとまで考えた。

 しかし、そんなエリカを救うものが現れた。かつてのエリカの好敵手であり、憧れの存在、西住みほである。みほはエリカに救いの手を差し伸べた。

 エリカはその手を握り返し、彼女の住む大洗へと移り住んだ。そこで、エリカはみほ、そしてみほの友人達によって、だんだんと心を覆い隠していた暗い闇から救われていった。

 そして、エリカはいつからかみほを女性として意識するようになる。

 何もかもが上手くいっていたはずだった。しかし、その矢先、みほはエリカの前から姿を消した。川に溺れた子供を救うためにその身を投げ出し、そのまま行方知れずとなってしまったのだ。

 エリカはみほがいなくなった後も大洗学園艦に住み続けた。そして、いつしか十二年の歳月を積み重ねることとなった。

 

 

 ピンポーンと、インターホンの音がエリカの部屋に鳴り響く。家主であるエリカに来客を告げる知らせだ。

 

「どうぞ、開いているわよ」

 

 エリカは安楽椅子に座ったまま、少し大きな声を上げてその音に応える。すると、玄関の方からガチャリとドアノブを開く音が聞こえてきたかと思うと、とすとすとエリカの元に歩いてくる足音が聞こえてきた。その足音の主は、ある程度、エリカに近づくと、陽気な声でエリカに声を掛けてきた。

 

「やっほーえりりん、どう? 今日の調子は?」

 

 訪問者はエリカの大洗での友人の一人、武部沙織だった。沙織はエリカに笑いかけながら、エリカの近くにある椅子に腰掛ける。

 

 エリカは、見えるはずのない窓の外に顔を向けていたが、沙織が座ると共に、沙織の方に顔を向けた。

 

「ええ、沙織。今日もつつがなく快調よ」

「そう、それはよかったー。ここ数週間は寒い日が多かったのに、最近は様子を見に来れなかったからちょっと心配してたんだよー」

 

 沙織はよくこうしてエリカの様子を見に来ていた。理由は簡単で、目の見えないエリカの生活を手助けするためである。エリカは沙織の手助けを得て、長い間学園艦で生活をしてきたのだ。

 

「大丈夫よ。おかげさまで、いたって健康に暮らしてるわ。この目以外はね」

 

 そう言って、エリカは自分の目元をトントンと指でつつく。

 それがエリカなりの冗談であることを、沙織はエリカとの長い付き合いの中で理解していた。

 

「もー相変わらず冗談きついよえりりんー!」

 

 だからこそ、沙織はエリカに笑って返す。こんなやりとりを、エリカと沙織はもう何百回と繰り返していた。

 

「ふふ、ごめんなさいね。……それで、どうなの? “彼”との関係は」

 

 “彼”という言葉を出した途端、沙織は困ったような笑みを浮かべ、言い出しづらそうに頬をポリポリと描き始めた。その姿をエリカは目にすることが出来ないが、沙織の雰囲気が少し変わったことを、肌で感じていた。

「あーその、それがね……実は私達……結婚、することになったんだ」

 

 その言葉に、エリカは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐさま破顔しまるで自分のことのように嬉しそうな声をあげた。

 

「あら、そうなの! よかったじゃない、彼とはまだ数回程度しか話したことがないけど、それでも分かるぐらいにはとてもいい人だしね。それに、あなたが常々言っていたように、ぎりぎり三十前に結婚することができたじゃないの。まぁ、あと三、四ヶ月ほどで三十になっちゃうから、ほとんど三十みたいなものだけど」

「もうー、そういう意地悪言わないでよー! ……まぁでも、確かにとっても嬉しいんだよ、ずっと夢だったお嫁さんになるっていうのが、とうとう叶うんだから。……でも、でもね。結婚しようってプロポーズされたときに言われたんだ。……一緒に、陸の上で暮らそうって」

 

 最後の言葉を紡ぐとき沙織の声と姿は、とても申し訳無さそうにしていた。

 エリカは、そんな沙織の様子を把握しながらも、まったく気にしていないように声をかける。

 

「いいじゃない。学園艦よりも、陸の上の生活のほうがずっと快適よ」

「そうだけど……でも、でも! 私が陸に行っちゃったら、えりりん、一人にしちゃうんだよ……!?」

 

 沙織は悲痛そうな表情と声色で、手のひらを膝の上でぎゅっと握りながらエリカに言った。沙織は心苦しいのだ。エリカを一人、学園艦に残してしまうことが。

 そしてエリカも、沙織のその気持ちを十分理解していた。しかし、エリカはそんな沙織から顔を背け、見えないはずの目で遠くを見るように、窓の方へと顔を向けた。

 

「……そうね。華も、優花里も、麻子も、みんな陸へと行ってしまった。最後に残ってくれたのは、あなた一人」

「うん……。ごめんね、えりりん……」

「別に謝る必要なんてないわ。私はあなた達を責めたりなんてしてない。ただ、ちょっとだけ寂しいだけ。……おかしいわよね、二度と会えないわけでもないのに」

 

 そう言ってエリカは再び沙織の方へと顔を向ける。その表情は、とても穏やかで、そしてどこか悲しそうな笑みだった。

 そんなエリカを見て、沙織は胸の内が張り裂けそうになる。そして、今日ずっと言おうと思っていたことを口にすることを、沙織は決めた。

 

「ねぇえりりん。私と一緒に、陸の上に行こう? 確かにえりりんにとっては全然知らない土地かもしれない。でもね、陸の上にはみんながいるし、きっとえりりんのこと支えていけると思うの。だから、ね。お願い」

 

 沙織はエリカの手を握りながら言った。それは、沙織の心からの願いだった。大切な友人を一人残しては行けない。どうにかして、助け出したい。そんな気持ちに、沙織は突き動かされていた。しかし――

 

「……ごめんなさい。私は、ここから離れるわけにはいかないの」

 

 エリカは、あくまで落ち着いた声でそう返した。

 そして、さらにエリカは、こう続けた。

 

「だって、私はあの子を待っていなきゃいけないんだもの」

 

 その回答は沙織にとって予想していた答えだった。だが、それでも沙織はそのエリカの言葉によって、ひどく悲しい気持ちへと沈んでいった。

 沙織は今にも泣きそうになりながらも、エリカの手をより強く握りなおして、なんとか重い口を開く。

 

「えりりん……みぽりんは、みほはもう――」

「わかってる! わかってるわよ……」

 

 エリカは沙織の言葉を遮るようにぴしゃりと、しかし消え入るように言い放つ。そしてエリカは、自分の手を握る沙織の手を、優しく包み込んだ。

 

「でもね、それでも、私にはなんだか彼女がいつか帰ってくる、そんな気がするの。……だからね、私は待ち続けるの。この場所だって、彼女いた寮に近いから選んだのよ? 彼女がすぐ私を見つけられるように……。わかってる、おかしいわよね、こんなの。でも私は、どうしても彼女を待ち続けなければいけないのよ……」

「えりりん……」

 

 沙織は思い出す。エリカが初めてみほがいなくなってしまったのを知ったときのことを。そのときのエリカの取り乱しようは尋常ではなかった。初めは信じられないといった様子で唖然としていたが、やがてそれが現実だと分かると、目が見えないために危うい足取りで沙織達に寄りかかり、大声で悲痛と怒気が混じった声で必死にその現実を否定しようとし続け、そしてひとしきり叫んだ後、力なく倒れさめざめと泣き始めた。そしてその後、数週間の間人形のように物言わなくなり、動くことすらしなくなった時期があった。その期間は沙織達が必死に介抱したために、なんとか大事にはならなかった。

 しばらくして感情を取り戻したエリカは、まるで喜怒哀楽における怒りと哀しみという感情が鈍くなっていた。ただただ笑みを浮かべ、どんな辛い事が起きてもまるで風を受けた柳のように受け流すのみ。穏やかな性格になったと言う人もいる。しかし、それは違うと沙織は思っていた。エリカは、悲しむことを、苦しむことをやめてしまったのだ。それは、決して健常な状態とは言えないことも、良くわかっていた。そしてエリカは、先ほどの発言の通り、いなくなってしまったみほの帰還を待ち続ける存在となっていることも分かった。そのことは沙織達にとってとても衝撃的なことだった。だが、沙織達にはどうすることもできなかった。ただ、友人としてこの一二年間を一緒に過ごすことしかできなかった。

 沙織には、そのことが、とても歯痒かった。友人であるのにエリカの深いところには入っていくことができない、そのことが。

 

「ねぇ沙織。私はあなたには幸せになって欲しいの。これは大切な友達としての願い。華も、優花里も、麻子も、みんな陸に行って幸せになった。だからあなたにも、私は幸せになって欲しい。大丈夫よ、彼はいい人だわ。私が保証する。私のことは心配しないで――幸せになって、沙織」

「えりりん……えりりん……!」

 

 とうとう我慢することが出来ず、沙織はエリカの手の上に涙をこぼしてしまった。

 沙織は嬉しかった。エリカが本当に友人として、自分のことをそこまで考えてくれていることに。

 沙織は悔しかった。自分の大切な友人が、どうしようもなく壊れてしまっていて、それを自分ではどうにもすることができないことに。

 

「ごめんね……! ごめんね……!」

 

 だから沙織は泣いた。泣いて、エリカに謝り続けた。色んな感情がないまぜになった謝罪の言葉を吐き続けた。

 エリカはただ黙って微笑みながら、その言葉を受け止めた。

 


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