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白い石灰で引かれたレーン前にあるスタートラインに立つ。視線の先には、私の行く手を阻むようにしてある障害物がある。
私は自分の恋路を邪魔する恋敵のように見えるそれに対して、射殺すような視線を向けた。何人たりとも、私の恋路を邪魔はさせない。
それでも立ちはだかるというのなら、蹴散らしてやるまで――今回に限ってはそうすることはできないけれども。
軽く屈伸運動をしてから、地面にある金具に足を引っ掛けてクラウチングスタートの体勢をつくる。集中するために、一度目を瞑る。
「ミカサちゃん、頑張って」
「お前の出す記録なら十分逆転できるぞ」
真っ暗な視界。どこからともなく聞こえてくる男女がする応援の声。私はその声を中から彼の声を必死に探す。
「位置について――」審判員の声が聞こえる。
瞑っていた瞳を持ち上げる。ジリジリと身体を焼くように降り注いでくる太陽の光。少しだけ脚に力を入れるとジャリッという砂を踏みしめる音が聞こえた。
ここは陸上競技用のグラウンド。学校ごとに異なるユニフォームに身を包んでいる私。そうだ――今日は陸上部の助っ人として大会に参加していたのだった。
優勝するにはこの障害物走で一位になる必要があった――私にはその自信がある。
「用意――」ゆっくりとピストルを持つ審判員の腕が掲げられる。
そのとき一瞬、私は観客席にいる学校応援団を見た。ちょうどラインの先に陣取っている応援団の中に――彼がいた。種目を終えている選手や補欠の選手に混じって一際大きな声で応援してくれている彼の姿を私の目はしっかりと捉えていた。
全身がブルッと震えた。怖気ついたり、不安に思ったりしたからではない――これは歓喜による震えだった。身体の奥底から不思議と力が湧き上がってくる。
「頑張れ、ミカサ」確かに彼の声援を耳でも捉えた。「うん――私は負けないよ、エレン」と、私は一人呟く。
うれしさのあまり、口角があがったのに気付いた。まだ走ってもいないのに、ゴールを駆け抜けた気分だった。
万の応援よりも、エレン一人の応援だけで私は頑張ることができる。今の私を阻むことができるものは――いない。
スタートを告げるピストルの発砲音が競技場に響き渡る。
思いっきり金具を蹴り、最高のスタートダッシュを決めた。
* * *
私は昔から運動神経がよかった。かけっこをしても誰よりも速かったし、おにごっこをすればすぐに逃げる子を捕まえることも、最後まで逃げ切ることもできた。
勉強だってそれなりにできるつもりだ。テストの成績を見ても、廊下に張り出される成績発表を見れば大抵上位に名前があった。
だから、周りのみんなは私がなんでもできる子だと思っているみたいだった。特に運動にかんしては練習試合はおろか、大事な大会に助っ人として呼ばれるほどに。
「ミカサ、お前なんで部活に入らないんだよ」と、彼に尋ねられたことがある。彼も他の子と同じように、私が特定の部活に所属していないことを不思議に思っているみたいだった。
その疑問に対して「だって……部活に入ったらエレンと一緒にいられる時間が少なくなるから」と、その相手に向かって素直に言えるほどの勇気が私にはなかった。答えないことには彼も納得しないと思うから「だって……部活に入ったら色んなことができなくなるから」と言い訳がましく呟いた。
「そっか、そうだな」彼は一人納得するように頷いている。「だって部活に入ったら、それ以外の試合に出られないからな」と見当違いなことを言った。だけど、変な誤解をもたれるよりはマシだったので、それを否定することはしなかった。
エレンも他のみんなと同じように、私のことをみているのかな。
もしそうだとしたら、エレンにとって私っていったいどんな存在なの?
幼馴染? 親友? クラスメイト?
そのどれでも私は満足できない。一緒にいて、仲が良いだけなのは嫌だ。
私にとってエレンは特別な存在。それならエレンにとっての特別な存在に、私はなりたい。
ねえ、エレン――あなたにとって、私ってどんな存在なの?
私は怖くてとてもではないけど、その疑問を口にすることはできなかった。
* * *
小さい頃、一度だけエレンとの距離がゼロになったことがある。
ゼロといっても、身体的なものであり、気持ち的なものではなかった。それでも、当時の私にとっては小躍りしてしまうほどうれしいことだったし、今でも良い思い出だ。
怪我を負ったり、風邪をひいたりしても元々我慢強いということもあり、無理をして遊びに行ったことがあった。エレンと一日でも会えないというのは、私にとっては拷問にも等しいものだった。大げさな例えなどではなかった。
かなり高い熱だったらしく、身体がだるくてほとんど遊びに参加できなかった。無理をしてエレンのそばにいようとしても、様子がおかしいことに気付いたアルミンの言葉を聞いて、エレンがじっとしていろと言ったのだ。
私はエレンの言葉を素直に聞くことにした。
エレンたちが走り回っているのを、私はベンチに座って見ていた。
寒かった。ブルブルと寒気で身体の震えが止まらなかった。
雪は降っていなかったけれども、冬の頭ということで気温が低かった。低気温もあってか、いくら身体を縮こませても変わらなかった。
着ていたコートに顔を埋めさせた――首辺りにやわらかいものが当たり、少しだけ温かくなった。大好きな匂いが、私のことを包み込むようにしてあった。埋めさせていた顔を上げた。――そこには走り回って顔を真っ赤にさせて、白い息を弾ませているエレンが立っていた。私の首に巻かれていたのは、エレンのお気に入りのマフラーだった。
「温かいだろ?」ぶっきらぼうにエレンが言う。「……温かい」半分だけ顔を埋めさせ、ボソボソと私が呟く。大好きな匂いに包まれて、私はいつの間にか寒気を忘れていた。
その日の帰り道、私はエレンの背中におんぶされていた。
私は一人で歩けると言ったのだけど、エレンは頑なにそれを却下した。「俺が背負って行く」ぶっきらぼうな口調だけど、その言葉にはエレンなりの優しさがこめられていた。私はそれがわかっていた。
小さなエレンの背中が大きく感じられた。温かくて、いい匂いがして。私はついウトウトとしてしまった。優しさに包まれて、私はいつの間にか眠りに落ちてしまった。
* * *
「痛い……」と胸中で呟く。けっして口にはしないし、表情にも苦痛を表さない。
競技場にある医務室のベッドに座り、私は医師の手当てを受けていた。
足首に巻かれた白い包帯。ツンッと鼻をつくような薬品の臭いがする。
「軽く捻ったようだね」頭が薄くなっている男性医師が言う。「そうですか」淡々とした口調でそれに答え「ありがとうございます」とお礼の言葉につなげた。
医務室の外から、どこかの学校の校歌と思わしき音楽が聞こえてきた。
「負けた」ベッドに座ったまま、顔を俯かせて呟く。「エレンの前で、負けた」せっかく彼が応援に来てくれたのに。優勝して、一番彼に喜んでもらいたかったのに。
私は唇をかみ締めて、ただ悔しさに耐えるしかできなかった。
* * *
「エレン、ごめんね」私は帰り道、沈んだ声で彼に謝罪した。「せっかく応援に来てくれたのに……」ユサユサという揺れを感じながら、最後の言葉を萎ませる。
「運が悪かったんだろ」そういう時もあるさ、そんな風に彼が励ましてくれる。「おしかったな、あと少しだったのに」彼の声からも、残念がっているのがわかった。私はまた少しだけ気持ちが落ち込んだ。
逆転優勝が決まるかもしれなかった障害物走。ゴール手前まで、完全に私の独走劇が展開されていた。しかし、そのゴール手前で私は転倒してしまった。
その結果――二位。総合でも準優勝という結果だった。
軽く擦りむいた膝と捻った足首がエレンに代わって、私のことを責めている。チクチクという痛みが走る。身体よりも、心が痛かった。
ゴール手前、私の目はしっかりとエレンの姿を捉えていた――それも、隣に立つ見知らぬ女も一緒に。
ねえ、エレン。あの女は誰なの?
そう思った瞬間、足がもつれて転倒してしまった。私の横を、後ろから走ってきた一人が追い抜いた。慌てて立ち上がり、ゴールした。
「あいつらも残念がってたけど、ミカサを責める奴なんていないぞ?」肩越しにエレンが私のことを見てくる。お互いの息が顔に当たる距離だった。「次、頑張ろうぜ?」どうせまた助っ人で呼ばれるんだろ――彼はそう軽口を叩くように呟いた。
今回はエレンに私が勝った姿を見せてあげられなかった。次は絶対に勝つ。エレンに応援してもらいたいから。褒めてもらいたいから。
「それにしても、お前、少し重い」その言葉はいただけない。「エレン、私だって女の子。女の子にそう言うのは駄目」と少しばかり首に回す手に力がこもる。
エレンの口から搾り出すような呻き声が聞こえる。
頑張ってエレン。女の子をおんぶすることくらい、男の子ならできるでしょ?
「み、ミカサ絞まる、絞まる……」今にも倒れそうだったから、少しだけ力を抜いた。「頑張ってエレン。あと少し」私の言葉に、彼はため息をついて肩をすくませる。
「しっかり、掴まってろよ」彼の背中は昔と変わらず大きく温かくて、いい匂いがした。