妄想が暴走し爆発した短編集   作:鈴北岳

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旧外道神父.9

 金色の真っ直ぐな長い髪の、幼さの残る可愛らしい少女は、白い簡素なドレスを着ている。

 

 彼女の名前はアーシア・アルジェント。神器、聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)の宿主。聖女と呼ばれたほどに、慈愛に溢れた心優しい性格の一人の少女。

 

 そんな彼女は――魔女と呼ばれる聖女で、聖女と呼ばれた魔女である。

 

 彼女の神器、聖母の微笑は、本来ならば神に祝福された存在である天使と人間の傷を癒す。しかし、彼女のそれは違っていた。

 

 ――神を裏切った悪魔と、欲に堕ちた堕天使。双方とも神と敵対する存在。神に捨てられた存在。

 

 彼女の神器は、その者達すらも癒すことができてしまい、そして、彼女の優しさは、その者達にすら及んでしまっていた。

 

 だから、彼女は一人の悪魔の命を救い、同時に、魔女と呼ばれ蔑まれるようになってしまった。聖女で無くなった彼女は魔女となり、教会から追放される。そして、今夜。

 

「アーシア、貴女に電話よ」

 

 彼女と同じ同年代のような、しかし、彼女よりも数段と大人びた表情の少女が入ってきた。黒いワンピースに白いブラウス。偽名、天野夕麻、本当の名前はレイナーレ。

 

 黒い鳥の翼を持つ、堕天使。

 

「……私に、ですか……?」

 

「ええ。――代行者からね」

 

 アーシアは代行者という単語に、ビクリ、と肩を震わせた。

 

 代行者。外法を使う、悪魔殺し。

 

「代行者の噂は知っているわね?」

 

「……はい。でも、なぜそんな方が私なんかに電話を……」

 

「貴女()()()電話をかけてきたのよ。聖女と呼ばれた魔女さん。……ああもう、いちいち泣かないでよ」

 

「泣いてません……」

 

「……そ。……あぁもう、代行者。虐めてなんかいな――誰が八つ当たりするか! 私は誇り高き堕天使よ!」

 

 瞳に涙を溜めたアーシアは、受話器に怒鳴るレイナーレに不思議そうな視線を向けた。レイナーレは気づかず、受話器からきているであろう慇懃無礼な皮肉や嫌味に怒鳴る。

 

 しばらくして、レイナーレは怒鳴ることをやめた。荒い息をしながら、疲れたようにアーシアに受話器を渡す。

 

「儀式に行くまでの間、好きに会話していて良いわ。電話代は向こう持ちだから、せいぜいたくさんふんだくってやりなさい」

 

「え? え、えと、はい……?」

 

 レイナーレはそれだけ言うと、残業帰りのサラリーマンのような歩き方で来た道を戻って――。

 

「あ、あの……」

 

「……なによ?」

 

「……私の神器、使いましょうか? その、疲れ方がお婆ちゃ――」

 

「そこから先は言わない! 失礼よ! そして必要無いわよ! 私はまだ若いんだからね!」

 

「は、ははははいぃぃぃ!」

 

 アーシアはレイナーレに怒鳴られた。

 

『……君が聖女から魔女と呼ばれた理由がわかった』

 

 ため息交じりのその、受話器から突如聞こえた低い声。びくり、とその声にアーシアは体を強張らせた。受話器を握る手に力が入る。

 

『なに、そう緊張するな、アーシア・アルジェント。私は君と話をしたいだけだ』

 

「え、ええと……。その前に、一つ、良いでしょうか?」

 

『なにかね?』

 

「代行者……様ですよね?」

 

『そうだ。レイナーレ様もそう仰っていた通り、私は代行者だ。それがどうかしたのか?』

 

「いえ、その……。全然、想像していた方と違っていて」

 

 ほう、と、受話器の向こうから、どことなく楽しそうな声が聞こえた。

 

『君の想像していた代行者は、どのような方かね?』

 

 うぅ……、とアーシアは口につまった。これは言っても良いものなのだろうか、彼女はそう思う。なにせ、彼女の想像していた代行者は――。

 

『鬼のように怖い方か?』

 

「……え? ええ!? な、なな、ななななんでわかったんですか!? 私が代行者様を粗野で乱暴で下品で外道な鬼のような人だと思ってたのを!?」

 

『……………………ハァ』

 

 クツクツ、と受話器の向こうから暗い笑い声……自嘲気味な笑い声が聞こえてきた。ああ、そうか、私の教会での噂はそのような悪鬼のようなものだったのか……、などと、冥界の瘴気のように不気味な声で呟いている。

 

「え、えとえとえとえとええっと…………、で、でも今話した感じ、代行者様はとても優しそうな方です!! だからですねええと、私なんぞの戯言は流ひてくだひゃ痛!?」

 

 夜中、捨てられた教会の一室で、受話器片手にうずくまる簡素なドレス姿の元シスター。舌を思いっきり噛んだために、涙目で痛みをこらえる回復用の神器所持者。

 

『……神器を使いたまえ』

 

 受話器越しの呆れた声が聞こえると、アーシアの口元を覆う手から、綺麗な緑色の淡い光が漏れた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

『礼を言われるほどではない。こちらこそ、先ほどは見苦しい所をお見せした』

 

「えと、気にしないので大丈夫です……。というか……ぅぅ、私のせいですよね、すみません」

 

『こちらこそ、気にしないでもらいたい』

 

 アーシアは一つ深呼吸した。

 

「あの、ところでお話というのは……」

 

 

『――――今夜、君は死ぬ』

 

 

 受話器から聞こえた、死神のような言葉。それは、アーシアの心臓を握った。

 

「……はい」

 

『ほぅ? 意外と冷静なようだ。寿命や病気以外の人の死を見たことの無い君には、とても辛い話だと思っていたのだが』

 

「……はい。とても、辛いです」

 

 アーシアの言う通り、アーシアの視界は揺れていた。胃がひっくり返るように気持ち悪くて、頭がぐわんぐわんしている。

 

『ならばなぜ、そう毅然としていられる? 死とはえてして万人の恐れるもの』

 

 心底不思議そうに、代行者は尋ねた。

 

『君の反応は正常そのものだ。普通の人間なら、誰だってそう思う。君は聖女と呼ばれていたが、君がただの人間であることには変わりなかろう。泣き叫んでも良い、ここで私に死にたくないという思いをぶつけても良い。君は――――』

 

 代行者の台詞は、遮られた。

 

 

「――――魔女、ですから」

 

 

 アーシアのその答えによって。

 

「私は、魔女――……ですから」

 

 アーシアがその問いに、笑みの表情を装って答えたことによって。

 

 アーシアは続けた。

 

「魔女は……いてはいけません」

 

『それはなぜかね?』

 

「魔女は、誘惑に負けた人々の象徴で、人々の恐怖の対象ですから。魔女がいる限り、人々は安らげません。……なら、私は聖女と呼ばれていた者して、その魔女を――」

 

 一瞬の重い沈黙。

 

「――消さなければなりません」

 

『……』

 

 受話器の向こうからは、何の言葉も無い。

 

 アーシアはそれが酷く不気味に思えた。

 

『君はそれで幸せなのか?』

 

「……はい」

 

 ズキリと胸が痛む。思い出されるのは一人の、生涯で初めての友人。

 

 幸せなわけが無い。

 

 そんな思考をアーシアは隅に追いやった。それだけは間違っても思ってはいけない。あの友人と過ごした時間に幸せを感じることは、聖職者において禁忌だ。

 

 クツクツと、暗い笑い声が受話器の向こうから聞こえた。

 

 それは長く、アーシアの一室に満ちていく。

 

「……なにが……、おかしいのですか……!」

 

 それはどこか、嘲りを含んだものだとアーシアは感じたのだろう。受話器の向こうの人物に、怒りのこもった声を投げかける。

 

 その静かな、しかししっかりと怒気の孕まれた声に、受話器は嘲るように言った。

 

 

『――――それのどこが幸せだ』

 

 

 と。

 

『アーシア・アルジェント。貴様のそれは模範的な聖職者のそれだ。決まり文句ともいうな。――私はそのような答えが知りたいのではない。私が知りたいのは、お前の本当の答えだ。今一度尋ねよう、アーシア・アルジェント』

 

 受話器から重苦しい声が一拍、間を置いた。

 

『君はそれで幸せなのか?』

 

 

 

 

 部長、本当に感謝します……!

 

 俺、イッセーこと兵藤一誠は教会の前にある茂みに隠れながら、本当に――ホンットーにそう部長に感謝している。

 

 夜中、俺と木場と小猫ちゃんの三人は、木々が周りを囲う寂れた教会の前にいる。ここはずっと前に捨てられた教会で、今はある堕天使達の拠点となっていて、ここに……アーシアがいる。

 

 ことの発端は、数時間に前にさかのぼる。

 

 俺は今日の昼間、アーシアに出会った。ファーストフード店の前で日本語がわからず右往左往する金髪美少女シスター……、目立たないわけが無い。人助けは大切なこと、むかつくが言ってることは正しいあの腐れ縁の野郎の言葉通り……ではなく、悪魔は悪い奴ばっかりなんじゃないんですよーということを知らしめるために、俺はアーシアの悩みの解決を実行。へんっ! グレモリーの悪魔はあの殺人狂のエクソシストみたいに狭量じゃないんですよーだ。

 

 ……正直な話、あの夜の出来事以降、会うことは無いだろうと思っていたから、会ったことにはびっくりした。それで話しかけるのにはかなり勇気が必要だったなあ……。今思っても、凄く緊張した。

 

 まあ、そこで、俺はアーシアを連れて遊んだ。理由はアーシアが浮かない顔をしていたから。ゲームセンターに行って、ダンスゲームをしたりプリクラ取ったりクレーンゲームをしたりして遊んだ。……そのせいで財布が寂しくなったけど……美少女と遊べたんだ! 気にするな! 俺!

 

「……!」

 

 そこまで思い出して、歯を強くかみ締めた。……今はどうしようもない怒りが沸々と湧き上がってくる。体に力を込もる。……あぁ、大丈夫だ、痛くない。

 

 ――ゲームセンターから出て、俺は噴水のあるあの公園にアーシアと行った。そこでアーシアは、フリードにやられた俺の怪我を神器で治してくれた。神様が悪魔や堕天使に対抗するために作ったという、その神器で。

 

 ……アーシアはもともと捨て子だったらしい。ヨーロッパの小さな教会の前に捨てられたのだと。そこである時、自分に傷を癒す神器が宿っていることが発覚した。すると、大きな教会に連れてかれて、その教会に訪れる信者達をその神器の力で癒していた。その働きから、少し最近まで聖女と呼ばれていた。

 

 呼ばれていた。

 

 そう、過去形だ。

 

 聖女と呼ばれないようになった理由は、悪魔独りの大きな傷を癒したから。偶然にも、アーシアの神器は悪魔すらも癒せるものだったのだ。それからアーシアは教会を追放され、流れ着いたのがあの――堕天使の所だ。

 

 今日、この眼の前の教会で、アーシアを使ってなんらかの儀式をするらしい。儀式の内容は知らないが、あの堕天使のことだ。絶対にろくでもない儀式だろう。

 

 だから俺は今日、部長にアーシアの救出に行かせてもらえるよう頼んだ。結果としては、部長は俺を行かせてくれた。小猫ちゃんと木場も一緒に。しかし直接的な許可は無い。だからこれは、俺の暴走となるだろう。

 

 失敗しても、成功しても。

 

 その後、俺がどうなるかはわからない。もしかしたらまだ部長の眷族でいられるかもしれないし、もしかたら部長の眷属から外されなんらかの形で死ぬかもしれない。

 

 だけど。

 

 それがどうした。

 

 俺は馬鹿だ。どうしようもないほどに俺は馬鹿だ。こればっかりはあの腐れ縁に言われても否定しない。

 

 部長はとても優しい。俺みたいな馬鹿にも優しくしてくれる。自惚れかもしれないけど、勘違いかもしれないけど。少なくとも俺はそう思っている。そんな部長が俺にアーシア救出の許可を出してくれた。ということは、部長はなにか、良い終わらせ方を考えていらっしゃるはずだ。

 

 俺は馬鹿だから、駆け引きなんてできやしない。頭を使うことなんてどだい無理な話だ。だから俺は――成功させる。成功させて、アーシアを救い出す。そうすればあとは部長がなんとかしてくれるはずだから。

 

「……よし」

 

 腹は括ったぞ。こっから先はもう後戻りは不可能。

 

「そろそろ行くかい?」

 

 木にもたれた金髪のイケメン――木場祐斗がそう声をかけてきた。木場はすでに剣を鞘から抜き放っている。戦意は充分なのだろう。

 

「ああ」

 

「じゃあ、これからすることの確認だ。君はアルジェントさんの救出を、僕と小猫ちゃんはそこまでの道を作る」

 

 本当は、この中で最もスピードの速い木場がアーシアの救出に適任だった。だけど、俺がそれをすることになっている。その理由は……。

 

「兵藤君は一度も戦闘をしたことが無いだろう? 大勢とならなおさらだ」

 

 俺は木場や小猫ちゃんと比べて、戦闘経験が圧倒的に低いし、弱い。そんな俺が、木場がアーシアを救出するまでの時間を稼ぐことはかなり難しいし、小猫ちゃんに負担がかかり過ぎる。

 

 だから、戦車(ルーク)にプロモーションした俺がアーシアを救出する。本当は騎士(ナイト)にプロモーションして、できる限り速く脱出した方が良いのだろうが、その場合だと万一に攻撃をくらったらまずい。俺の防御力はかなり低い。光の銃弾が一発でも直撃すれば、その瞬間にお陀仏となる可能性が高い……とは木場の弁。

 

「……そういえばさ」

 

「なにかな?」

 

「なんでエクソシストは人間よりも能力の高い悪魔に勝てるんだ? いくら悪魔の弱点の光力が使用できるっつったって、魔力を使って防御するとか、そもそも使われる前に倒されるだろ」

 

 レベル1の主人公が終盤で手に入れられる強力な武器を持ってたって、それの一撃で倒れない敵や、主人公よりも速く動ける敵相手ではすぐにやられるのと同じように。

 

 普通に考えて、人間であるエクソシストが、悪魔の身体能力を上回ることはありえないだろう。

 

「その理由は簡単さ。聖書の神が、ある条件を満たした人間に力を与えるシステムを構築しているからだよ」

 

「……力? システム?」

 

「そうさ。前に神器のことを話しただろう? それは聖書の神が作った、人間が悪魔や堕天使に抗うための武器だって」

 

 そう、神器は聖書の神が作り出したもので、人間にしか宿らない非常に強力な力だ。その中でも神滅具(ロンギヌス)といわれる……ええっと、十三種類の神器は、強力な力を持つ神すらも殺せるほどに強力だ。

 

「その神器が人間にしか宿らず、そして、強力な力を与えるのはひとえに聖書の神の創ったシステムのおかげなんだよ」

 

「……それがどう関係するんだよ?」

 

 さっさと率直な説明プリーズ。くそ、頭の良いイケメンはこれだから始末に負えない。

 

「ああ、ごめん。あまり関係なかったね」

 

「ならそんな話をするなよっ」

 

 俺がそう小声で怒鳴ると、木場は苦笑する。畜生、勝てる気がしねえ……。

 

「まあ、そんなシステムを世界中に張り巡らすことのできる力の持ち主だ。そんな神が、神器ではない力を与えるシステムを創ることくらい、造作も無いとは思わないかい? ……いや、多少は苦労するかもね」

 

「……おぉ、なんとなくわかった」

 

 つまり、エクソシストが悪魔と戦いあえるのは、聖書の神の創ったシステムから力を与えられているから、と。

 

「ちなみに名前は〝神の加護〟。条件は悪魔等の存在を知り、かつ、聖書の神を心の底から信奉していることだね。僕にはまだ本当に強力なそれしか知覚できないけど、部長みたいな上級悪魔はいくら微弱でも知覚できるそうだ」

 

「……」

 

 ……これだから頭の良いイケメンは始末に負えない……。

 

「あれ? 小猫ちゃん?」

 

 ふと、前を見れば、銀髪の小柄な少女が一人、茂みから出ていた……って。

 

「ちょっ、小猫ちゃん!」

 

 エクソシストに見つかったらどうするの!

 

 俺はすぐに小猫ちゃんの後を追って、肩をつかんだ。そして、先ほどの茂みに戻ろうと――ってできねえ!

 

「……兵藤君、こういうのはあまり言いたく無いけど」

 

「言うなっ! わかってる!」

 

 どう見てもこの図は、いたいけな美少女を茂みに引きずりこんでやましいことをしようと画策している不審者――変態のそれだ。これが木場とかのイケメンや、そういうのに無縁そうなアイツならそうは思われないだろうが。

 

「……向こうも気づいてるはずです。それに、入り口はここしかないでしょうし」

 

「……いやまあ、たしかにそうだけどさ。ほらこう……、なんか爆発とか起きた時に行った方が――」

 

「――馬鹿ですか? そんなこと起きませんよ」

 

 グサリときた。

 

 ……こう、馬鹿っていうのは自分でもわかってるけど、こんな小学生のような声で蔑まれるように言われるとかなり辛っ――。

 

「――いぐっっふ」

 

「……失礼しました。つい」

 

 ……思いっきり肘で内臓叩き上げられた。

 

 

 

 

 兵藤一誠、木場祐斗、塔城小猫が教会に足を踏み入れた頃、今ではすっかり途切れてしまった携帯電話を険しい顔で見ている男がいた。

 

 適度に切りそろえられた黒髪の、神父服姿の青年――のように見える少年。名前は言峰綺礼。教会の代行者。綺礼は暗闇の中、じっと手元にある携帯電話を注視している。

 

 その理由は、先ほどかけた電話にあった。

 

 アーシア・アルジェント。綺礼と同じ年齢の、金髪のシスター。特異なものと変貌してしまった神器、聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)の持ち主。そして、その特異な神器の被害者である。

 

 彼女は死に逝くのが怖いと言った。最初こそ気丈に振舞っていたが、やはり歳相応。ただ、意思の強さは並ではない。彼女は死を恐れど、それを回避しようとはなおもしなかった。

 

 魔女である自分が死ぬことで救われる人がいるとでも信じているのだろう。自分の神器を手に入れた上司がそれでたくさんの人々を救うと信じているのだろう。

 

 しかし綺礼は、その思いは絶対に叶うまい、そう思っている。

 

 優しい心の持ち主が死ぬことで救われる人はいない。なぜなら、優しい心の持ち主が生きているからこそ、人は救われるからだ。

 

 人間よりもはるかに長い時を生きるあの堕天使の上司が、あの神器を手に入れても、出世の道具としてか使われない。もしかしたら長い時を生きた結果として、彼女よりも沢山の人を癒すかもしれないが、それは彼女よりも限られた種類の者達だけだろう。彼女の望むような、万人への救済はそこには無い。

 

 ()()の言峰綺礼なら、絶対にそれを彼女に告げただろう。しかし、綺礼はそうしなかった。なぜならそうすることで、ある一つの線から飛び出そうな――なにか、自分にとって致命的なものが、消えてしまうのではないかという不安があったからだ。

 

 だから綺礼は言えなかった。言わなかった。アーシアの心を揺さぶるようなことを。アーシアの尊ぶべき純真な心を、賞賛されるべき良心を、揺さぶるようなことを。

 

「……?」

 

 携帯電話の着信音――は鳴らず、代わりに振動した。画面を開き、その液晶画面に表示された名前を確認する。

 

 その名前を見て、一瞬綺礼は逡巡した。何事かが起きそうな、そんな程度の曖昧な予感がしたからだ。そんな程度。だから、綺礼は携帯電話を耳に当てる。

 

『配置に付いたよ』

 

「そうか。では、なにかあったら頼む」

 

『頼まれた』

 

 電話から聞こえてきたのは、優しげな低い男性の声だ。

 

『ところで綺礼君。お互い敵を認識するまで、通話させたままにしておかないかい?』

 

「……それはなぜ?」

 

『そっちの方が動きやすいだろうと思ってね。前衛の君と、後衛の僕。コンビを組んだことがあるのは、後にも先にも四年前のあの日以来だし、今では僕と君の実力の差は大きなものだろうから』

 

 綺礼と電話の相手は一つの事件で、敵対と共闘、その両方を経験した。二人はそれ以降、度々顔を合わせこそすれ、手合わせの類は一切していない。

 

「戦闘が始まればただの邪魔になる。それに、通信ならば耳につけたものがあるだろう」

 

 綺礼は彼にそう告げた。綺礼の言う通り、三人とも小型の無線通信機を耳につけている。それを介せば、いつでも会話できる。

 

『それじゃあまりにも殺風景じゃないか』

 

「戦場は殺風景なものだ」

 

『君の考え、ではね。だけど、普通に考えてここが戦場となることは無い』

 

 そうだろう? と電話の相手は続ける。

 

『堕天使の一派がここで怪しい動きをしていることを悪魔が知っていても、関わって来たりはしない。いくら自分達の管轄地であろうとも。なにせ、堕天使のグループが容認したものと錯覚しているからね。それを悪魔が邪魔したとなれば、すぐさま堕天使と悪魔の戦争となる。そうなったら、関わってきた悪魔が悪い、となって天使と堕天使が手を組むかもしれない。天使が邪魔した場合も同じようになる』

 

 まあ、と付け加えるように。

 

『この堕天使の動きを上が知らないこと、その動きの実態の二つを、誰かが知ったらすぐに攻めそうだけど……。少なくとも、僕なら攻めるね。――――それに』

 

 彼は言う。

 

『あんな優しい子を殺すと知っているから』

 

 冷徹な声だ。綺礼はそう思う。

 

 しかし実際、彼の口調は先ほどとさほど変わってはいない。未だ優しげな声だ。

 

 聞く相手によっては冗談ととるような口調だが、綺礼がそう冗談のように彼の言葉を捉えることは無い。綺礼は彼の人となりを、痛いほどに良く知っている。もう一つの彼の可能性と、ここの彼との会話で。

 

 彼が現役時代だった時、彼ほどに恐れられたフリーの殺し屋はいなかった。

 

 その理由は神器を持たないにも関わらず悪魔や堕天使を殺したのもあるだろうが、なにより恐れられたのはその手段の非道さだ。彼は公衆の面前での暗殺を一切躊躇わず、時には無関係の人々すらも巻き添えにして殺す。

 

 金のためならどんな手段でも用いる極悪非道な殺し屋。

 

 それが、彼の殺し屋としての評判だ。

 

 しかし綺礼は知っている。彼がどれほどの苦悩の末、その行動に出たのかを。そして、その行動の根幹にある信念がどのようなものかを。

 

 彼が自分の信念を貫き通すのならば、我が身を顧みることは無い。

 

 どのような手段を用いてでも、その信念を貫き通す。

 

「……貴方は――」

 

『おっと。お客さんが来たようだ。悪いね、綺礼君。僕は今から、()の仕事を始めるとするよ』

 

 彼が通話を一方的に断ち切った。

 

 綺礼の手には先と同じ、通話の途切れた携帯電話が手の中にあるだけ。

 

「……()は――――」

 

 ――俺は、なにがしたいのか。

 

 殺戮か?

 

 恋愛か?

 

 殺し合いか?

 

 鍛錬か?

 

 原作介入か?

 

 ――なにをして、なにを手に入れたいのか。

 

 金か?

 

 愛か?

 

 スリルか?

 

 達成感か?

 

 名誉か?

 

「……」

 

 答えは出せない。以前の俺ならば、すぐに出すことができたはずなのに。

 

 …………いやそもそも、俺とは――――。

 

「少なくとも」

 

 綺礼は走りだした思考を切る。それ以上は今考えることのできる時じゃない。

 

 綺礼は走り出す。

 

「このまま切嗣にやられるのは、気に食わん」

 

 これは彼――衛宮切嗣という名の殺し屋からの挑戦だ。

 

 切嗣は綺礼との共闘を行った事件の後で、殺し屋を辞めた。殺し屋を辞めて、家族と共に暮らすと決めた。

 

 その切嗣が、なぜあんなことをわざわざ綺礼に言ったのか。

 

 綺礼はその意図を簡単に理解する。理解した上で、行動を起こす。

 

 

「私は神父だ。なれば、悪魔(修羅)の道を再び歩まんとする者を止める義務がある」

 

 

 エクソシストとして、悪魔を祓うのも大事なのだろうが、それ以前にそのような悪魔を生み出さないようにするのは神父の役目。

 

 そのためにはどうすれば良いか。

 

 綺礼は走る。

 

 その先に何があるのかはわからない。本当にわからない。だが――――。

 

 その先にはきっと何かがある。それだけはたしかだ。

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