――そこは、地獄絵図だった。
「うっ……」
この部屋に真っ先に入ってきた赤い籠手の茶髪の少年――兵藤一誠はそれを見て吐き気を催しながらも、後ろに続く三人にそれを伝えた。
最初に鼻を突いたのは死臭だ。湿っぽく生々しい血と臓腑、中途半端に焦げた肉、乾いた硝煙の臭い。嗅覚だけならば、さながら紛争地域にいるような、そんな感覚に襲われる。
「……これは酷いわね」
手で口元を覆い紅色の長い髪を揺らしながら、一人の女性が一誠より前に出る。彼女の名前はリアス・グレモリー。茶髪の少年、一誠の主である。
目に付くのは様々な死に様を晒した死体と肉塊。白刃に急所を貫かれたものもあれば、生きているとは思えないほどに首が変形したもの、胸元にぽっくりと穴の空けられたもの、挽肉に成り果てたもの。
その二人に続き、三人の人物がその地獄に足を踏み入れる。
黒く長い髪の女性と、銀髪の小柄な少女と、金髪の少年。姫島朱乃と塔城小猫と木場祐斗。三人が三人とも、一誠と同じようにリアスの眷属である。
「――これは、貴方が?」
「そうだ」
地獄の中心。黒い翼の少女の死体が伏したすぐそこの場所。
そこに、黒い影がいる。
「代行者、ね」
「ふん。是非ともそれをどこで聞いたのかを知りたいが――おおよそ、アーシア・アルジェントか。まったく、厄介なことをしてくれる」
代行者は言葉とは裏腹に、口調はさほど困った様子ではない。むしろ、それをなんとも思っていないような、抑揚に乏しい口調だ。
「グレモリー家次期頭首、この土地の管理者リアス・グレモリーとして、貴方に話を聞かせてもらうわ。大人しくついてきてちょうだい」
「断る。その必要が無い。事情ならば後に『教会』から説明される」
「それは無理よ。貴方が教会関係者だということは私にはわからないもの。そんな、奇妙な術で姿を隠しているのならね」
「――ふむ。なるほど」
白刃を納め、ゆっくりとした足取りでリアスに代行者は歩み寄る。腕を伸ばせば相手に届く距離、そこで代行者は立ち止まった。
戦闘になるかと身構えていた後ろの四人は、どうやら何事も無くすみそうだと、警戒はそのままに構えるのをやめる。
「え……?」
ふ――と、代行者の姿が視界から消えた。
「後ろです!」
それに真っ先に反応したのは俊足の
――しかし、それは空振りに終わる。
祐斗は手応えが無いのを歯噛みし、すぐさま次のモーションへと移行する。無論、その隙を逃す代行者ではない。ではないのだが、今は多対一。祐斗より少し遅れて反応した二人の拳がそれを阻む。
一誠と小猫だ。
しかしそれも空振りに終わり――代行者はこの部屋から本当にいなくなった。
「朱乃!」
「大丈夫ですわ。……ですけど、代行者は随分逃走が上手ですのね」
「……すみません、部長。取り逃がしました」
「……すみませんでした」
「そんなこと言ってないで速く追うわよ!」
リアス達は階段を全速力で駆け上がり始める。
人外である悪魔の脚力だ。魔力を使い、それを強化すれば更に速くなる。
「……おかしいです」
「まったく姿が見えないね」
先行しているのは、
「普通、ここまで足は速くないはずだけど」
祐斗は一番疑問に思っていることを口にする。それは先行しているはずの代行者の姿が少しも捉えられていないということ。ほぼ全速力に近い速度を出せば、すぐに捕まえることはできずとも、少しもすれば視界に捉えることは簡単にできる。
先のフリードとの戦闘のように、四方を自由に動けるのならばともかく、ここは一本道。直線勝負。多いテクニックの要らない純粋なスピード勝負。それで、どうして姿すら捉えることができないというのか。
小猫と祐斗はそのまま階段を上り終え、地上の崩れた教会へと着いた。
「……ここから黒い人影はでませんでしたか?」
「人影? んなもん見てないよ」
祐斗の問いに答えたのは、階段の一番近くにいた白髪の少年――匙元士郎。いぶかしりながら、元士郎は祐斗に尋ね返す。
「代行者とやらは見つけたのか?」
「うん。見つけたよ。見つけて、逃げられた。――階段の方にね」
「階段って……俺らは見てないぞ、なにも。お前よりも先に階段を上がってきた人間は知らねえ。――……ですよね、会長?」
自分で断言するように言いながら不安を覚えたのか、元士郎は後ろにいる自らの主に確認を取る。
「ええ。誰も見てないわ」
黒縁眼鏡をかけた黒髪の少女――
「……おかしいですね。僕らは代行者を追ってここまで走ってきたんですけど」
「……もしや――!」
蒼那の脳裏に嫌な予感が思い浮かぶ。それは代行者がまだ地下にいる可能性。それも、今頃は祐斗と小猫に先行させたリアス達三人が代行者に――。
「ソーナ! 代行者は!?」
「………………ふぅ」
杞憂だったようだ。蒼那は小さく胸を撫で下ろした。
「代行者らしき人影は見ていないし、その代行者の仲間らしき人影も見ていない」
「……嘘」
リアスは呆然と呟く。小猫に目線で尋ねかけるが、返されたのは無言の否定。代行者らしき気配はどこにも無いらしい。
「……もしかして、まだ地下にいるのかしら?」
「そうかもしれない。けど、また行くのは止めた方が良いわ。さっきまでならともかく、今はなんらかの罠が仕掛けられている可能性が高いから」
「わかってるわ。それくらい」
今ならば代行者がでてきたところで、打倒ないしは捕縛をすることは容易い。ここには二組の上級悪魔の眷属がいる。
しかしそれは、真正面からぶつかりあった場合の話だ。
代行者は隠密性に非常に優れている。とある技術を持つために気配の察知が上手な小猫に気づかれないほどの技量だ。そんな代行者が攻勢――それも暗殺のみに集中したとしたら、ゾッとするものがある。
そんなふうに思案するリアス達の一方で、一誠はアーシアに話しかけられていた。
簡素な白いドレスを着た金髪の少女――アーシア・アルジェント。
「あの、代行者様は?」
「……ああ、大丈夫そうだった。敵を全員――やっつけてたよ」
「そうですか……」
あの光景を思い出してしまった一誠は、表情が硬くなるのを感じる。その表情を見ていたアーシアは、教会の地下でどのような惨劇が起こったのかをなんとなく察した。
「え、えと、一誠さんは大丈夫ですか!?」
「俺は大丈夫だな。最悪の展開にはならなかったから。まあ、全力疾走をしたから少しは疲れたけど。……アーシアこそ大丈夫か? 多分、徹夜だろ? 眠くないか」
「少し眠いですけど、大丈夫です」
ふと、一誠はリアスに視線を向けた。リアスはなにやら難しそうな顔をしている。なにか考え事をしているのだろう。
「――部長、そろそろ帰りませんか。代行者の情報は手に入りませんでしたが……」
「……そうね、イッセー。それに皆も眠そうだし。よし、じゃあ、皆で帰り――」
ふっとその場にいた全員の気が緩んだ瞬間、一発の閃光弾がそこに撃ち込まれた。
「――――アーシアを!」
「はい!」
視界が不自由な中、一誠はアーシアの手を握る。このタイミングでの襲撃。何が狙いなのかは一誠には皆目検討がつかない。だが、自らの主がそう言うのであれば、襲撃者の狙いは――。
「あぐっ!」
「イッセーさん!?」
一誠の手が、黒い影によって捻られた。突然の痛みでアーシアの手を離してしまう。アーシアは視界がはっきりしないなか、何者かによって動きを封じられ、抱えられる。
あわやそのまま連れ去られるのかと思ったその時、アーシアの体すれすれに、幾筋もの雷が落とされた。
「視界を封じられたからといって、そうやすやすとやられませんわ」
雷――雷の巫女、姫島朱乃。
「僕もね」
黒い影が雷を避けるためにアーシアから離れた瞬間、その黒い影に疾駆する最速の騎士《ナイト》――木場祐斗。
「さっきはまんまとやられたけど、次はそうはいかない――――!」
祐斗の手には二振りの魔剣。速度と手数を重視した二刀流。黒い影は両手に細身の剣を一本ずつ持ち、祐斗に応対する。
が。
「悪いね」
黒い影の剣はたったの一合で砕け散った。しかし、祐斗は油断しない。敵の本領はおそらく徒手空拳。ならば、ここからが本番だ。
そう思い、祐斗が腰を構えて敵の攻撃に備えた矢先、黒い影は突如として踵を返し、そのまま逃走した。
「……え?」
それに祐斗は呆気にとられた。いや、よくよく考えてみればその手は間違いでは無いのだが、とにもかくにもなんらかの形で攻撃されるだろうと思っていた祐斗は拍子抜けした。
「……いつつ。なんだったんだよ? あれは」
一誠がその場全員の気持ちを気持ちを代弁した。
その後、一人のシスターを加えた悪魔一行は、周囲に気を配りながら、しかし何事も無く、波乱の夜を終えた。
■
「――アーシア・アルジェントです。よろしくお願いします」
駒王学園の制服に身を包んだ少女がそう言って丁寧にお辞儀をした。長い金髪に碧眼、この可愛らしい少女の名前はアーシア・アルジェント。
すると、途端にあがる大きな歓喜の声。
「イイイィィィィィィィィィィヤアッホオオオォォォォォ――――――!!!」
ここ、駒王学園は元女子高であるため、女子の方が比率は高い。高いのだが、その分、異性に飢えた男子がいる。そう、例えばこのクラスにいる三人とか。
その三人が自分のクラスに、アーシアのような美少女が入ってきたとすれば、こうなることはある意味必然だった。
雄叫びをあげる坊主頭の少年――松田。見た目は爽やかスポーツ少年とそれほど悪くないのに、奇行がそれを台無しにしている。その隣で満足気にキザッたらしく前髪をかきあげる眼鏡をかけた少年は元浜。松田と同類である。
その二人ともう一人に、クラスにいる女子達から傍迷惑そうな視線が向けられた。その視線を向けられたもう一人のほうは、おいおい俺は何もしてないぞ、と制服を着たアーシアを凝視している。それがダメだというのになぜ気がつかない。
午前の分の授業が終わり、昼休み。
アーシアを凝視していた茶髪の少年――兵藤一誠は教室を出ようとして、後悔した。
「やあ、イッセー君」
「邪魔するぞ、イッセー」
すっごく爽やかな笑みを浮かべる金髪の少年――木場祐斗と、相変わらず無愛想な表情の黒髪の青年のような少年――言峰綺礼。
二人が入ってきたからだ。
「……木場はともかく、どうしてキレイがここにいる」
「海外からの転入生と聞いてな。色々と不慣れなところがあると思い、来た次第だ」
「ケッ。お前が必要なほど、困ってねえよ」
一誠は綺礼に悪態をつきながらそう答える。それを祐斗はどことなく楽しそうに眺めている。祐斗はこのやり取りを、仲の良い友人間での軽い挨拶だと思っている。なぜなら綺礼がそんな一誠の悪態に、困っているようではなさそうだからだ。
「――まあ、それは建前だ。どうかな、イッセー。久しぶりに共に昼食を取るというのは。祐斗と共にやってきたのが理由だ」
一誠は綺礼の顔を呆気に取られて凝視し、尋ねた。
「なにか変なものでも食べたか?」
「今朝は泰山の麻婆を食べたな。いつも通りの味だった」
「そのいつも通りの麻婆食べているのがおかしいんだが、お前にとっては普通だから敢えて、あ・え・て、俺はお前がお前にとって変なものを食べていないと断言してやる」
「……あれだね」
綺礼の麻婆という言葉に反応する二人。一誠は非常に苦そうな表情になり、祐斗は非常に疲れた表情になる。二人とも非常に不本意そうだ。
「……えっと、麻婆がどうかしたんですか? 麻婆は中国の辛くて美味しい料理だと聞いていますが」
「うん。アーシアさんのその認識は正しいよ。だけどね、何事にも例外は存在して、たまーにその例外が美味しいという人がいるんだ」
「???」
アーシアは祐斗の言葉に首を傾げる。
かくして、和やかなといえば若干の御幣がある会話もそこそこに、いつもの一誠の昼食のメンバーに加え、綺礼、祐斗、アーシアの三人で昼食を食べた。
その時に、ふと、一誠は綺礼に尋ねる。
「キレイ、四日前の夜中、なにしてた?」
「いつも通りだ。宿題を終わらせて床に就いた」
綺礼は軽くそう言って、弁当の蓋を開けた。
結論として――アーシア・アルジェントはリアス・グレモリーの下僕悪魔に転生した。そしてここ、駒王学園の生徒として通うことになったのである。
その理由は――。
「……結局、代行者は貴女を迎えに来なかったわね」
日が少し傾いてきた、その日の放課後。中世の貴族のような内装のオカルト研究部部室内。そこには二人の人物がいる。
「魔女」アーシア・アルジェントはあの騒動の後、三日間リアス・グレモリーによって保護されていた。
リアス・グレモリー。紅色の長い髪を持つ女性。グレモリー家の次期党首で、現魔王の妹。駒王学園の近くの土地の管理者。
「はい」
代行者は迎えに来なかったと、告げた時のことだ。リアスはなんら気負うことなく返事をしたアーシアに驚きを禁じえなかった。
「貴女……わかってる? 貴女は代行者に見捨てられたのよ?」
リアスはそう問わずにはいられなかった。
代行者。
代行者はアーシアを死の寸前から救出した。大勢の悪魔を騙しとおしたその技量を存分に振るい、堕天使とエクソシストを殺して、アーシアをそこから助け出した。
助け出した。そう、それだけだった。
代行者はアーシアに行く当てが無いことを知っていながら、助け出すことしかしなかった。もしかしたらなんらかの事情があるのかもしれないが、助けただけで終わり、というのはあまりにも酷いことでは無いだろうか。
リアスはそれを調べて知っていたからアーシアを保護した。当然、そのことは教会に連絡はいれていない。
アーシアは教会にいたから、あのような事になってしまったのだ。それを理解していながら、アーシアを教会に預けるようなことをするほどリアスは悪魔ではない。
哀れに思った。リアスはこの眼の前にいる少女のことを。アーシアは教会から特異であることを理由に祭り上げられ、次に異質であることを理由に追い出された。
アーシアの人生は周りに振り回されるばかりの運命だ。そしてやっとその運命が終わりを告げたと思えば、本当に、本当にあと少しのところで――その運命はアーシアを絡めとった。
リアスがアーシアを保護した本当の理由は、その運命を哀れに思ったからだろう。同情を禁じえなかったからだ。
しかしそんなことは口が裂けても言えない。グレモリー家次期頭首が、敵を同情心から保護するなど。故にもちろんのこと、表向きの理由は堕天使の勢力を助長させないためである。
「いいえ。代行者様は私を本当には見捨てていません」
「……どうしてそんなことが言えるの?」
自らがしていたことを途中で放棄したことが、どうして見捨てたことにならないというのか。
「もし、代行者様が私を見捨てていれば、こうして生きていることはないでしょうから」
「……そんなこと、ないわ。貴女は、代行者がいなくても助かっていたわ」
リアスはその自分自身の言葉を自分自身で否定した。
おそらく、アーシアは代行者がいなければ――人間として死に、悪魔として生きていた。代行者が先行していなければ、アーシア・アルジェントは死んでいた。そしてもし、あの白い神父の言っていたことが本当ならば、アーシアは人間としての尊厳だけでなく、女性としての尊厳も失っていた。
リアスは罪悪感を感じている。リアスには何もできなかったことであっても、こうして眼の前に気持ちの悪い「IF」を突きつけられれば、罪悪感を感じるのも無理は無い。それはまだリアスが甘いという事実ではあるが、同時に、純粋で優しいということでもある。
「……そうかもしれませんね。ですが、私は――」
「ああもう、もしもの話は終わり。終わりったら終わりよ。それよりも、一つ、確認するわ。改めて、ね」
リアスはやや気持ちの沈んだ表情のアーシアを見て、強引に話題を変えた。
今現在、いや、少し前からでも気になっていたあのことを訊くために。
すう、とリアスは深呼吸した。そして、酷く気の進まないような、酷く口にするのが躊躇われるような、重苦しい雰囲気で――しかし、意を決して尋ねた。
「アーシア」
「はい」
ぐるぐるとリアスの頭の中で無駄に何かが動き回る。正体はわからない。けど、心地良いものではないことは確かだ。
「アーシアは悪魔になったこと、後悔してる?」
「いえ。お祈りをすると頭痛がするのは少し残念ですが、後悔はしていません」
照れくさそうに、しかし決然と、アーシアはそう答えた。それを聞いて少しリアスは安堵して、そしてもう一つ、自分の中の何かと決別するために問いを重ねた。
「アーシア、貴女はそれで幸せ?」
――ふと、アーシアの脳裏にあの夜の会話が思い浮かんだ。
それは少し前の、アーシアが囚われていて、それに足掻こうとしなかった時のこと。そんな自分に足掻こうと思わせるきっかけを与えられた、あの運命の夜のこと。
そう、あの夜も自分は同じように尋ねられたのだ。
その時、自分の言った答えは今でも鮮明に覚えている。
――――幸せなんかじゃ、ありません…………・!
語り合える人達はいなかった。笑い合える人達はいなかった。遊び合える人達はいなかった。
信用できる人達はいた。信頼できる人達はいた。
周りに誰よりもたくさんの人に囲まれて――周りに誰よりもたくさんの孤独に囲まれた。
「――――――」
でも、今は違う。あの時ほどたくさんの人達はいないけど、あの時よりたくさんの友人が――仲間が、いる。
「はい」
木場祐斗。
塔城小猫。
姫島朱乃。
言峰綺礼。
リアス・グレモリー。
そして、兵藤一誠。
まだ六人。だけど、もう六人。
ここにはたくさんの人達がいる。ここには「聖女」や「魔女」ではなく「アーシア・アルジェント」がいる。
「――幸せです」
一人の少女が願った日々はそこにあった。