これは数日前のこと。
黒髪に黒い瞳、黒い神父服に身を包んだ人物――言峰綺礼は教会から、任務を言い渡された。
「聖剣を盗んだ者から聖剣を取り返せ。不可能ならば破壊せよ」
電話口から聞こえる、低くも通りの良い重々しい声。その声の主の名を綺礼は知らない。知る必要も無い。ただ、この人物が教会で幅を利かせているのは、わかる。
この身に与えられた代行者という称号。その称号を与えられる原因が、この人物がいるある程度の身分を如実に物語る。
「盗まれた聖剣の銘はなんです?」
「逸るな。
「……コカビエルが? ということはこれは――」
「いや、堕天使の総意ではない。証拠に簡単にだが謝辞のメッセージが送られてきた。――同時に、殺しても構わん、とな」
電話口から数秒の沈黙。
「――任務は聖剣の奪還もしくは破壊、及び――」
「可能ならば、だ。そのためにはあの馬鹿高い兵器の金を払うのも構わん。だが、しくじれば無しだ」
「了解しました」
綺礼がそう言うと、電話がすぐに切られた。普通ならば最後になにか言って切られるべきなのだが。しょうがない、と綺礼は特に深く考えることなく、受話器を置いた。
自室に入り、机の上に充電されていた携帯電話を手に取る。用途はもちろん他者への電話。電話帳のメニューを開き、「同僚」のグループを選択する。
そしてそこの一番初めに載っている相手へと、電話をかけた。
「もしもし綺礼ー? 電話なんて珍しいこともあるわね」
「そうだな。と――」
綺礼の声が遮られた。
「だけど声を聞くのも久しぶりだよねえ。最後に私達が会話したのっていつだっけ?」
「……それはねん――」
綺礼の声が遮られた。
「ああそうそう、年末だったわね! 新年早々私が紅白歌合戦見ながら、綺礼に電話をかけたんだっけ? 歌合戦どう? 見てるー? って。やっぱり年越しそばを食べながらの歌合戦は良かったな。今年はどんな歌手が出ると思う? 綺礼は」
綺礼は一拍置いて、それに答える。断じて携帯電話がピシリなどという危ない音を立ててはいない。
「ああ、そうだな。今年は誰も出ないんじゃないか」
「えっ!? それどういうこと!?」
「今年の分はイリナのせいで放送中止だ。日本が戦争になってな」
「そ、それは一大事よ! 綺礼、どこからその情報を!?」
「私の記憶からだ」
「原因はなに!?」
「イリナだな」
「いったい私のなにが原因にっ!? ううんっと……、あ、もしかして私が六年前に綺礼への差し入れのお菓子を食べたから!?」
「そんなことで戦争が起こるか!!」
そんなことがあったのかよ、綺礼は内心でそう叫びつつ、実際にも叫んだ。思わず叫んでしまった。
電話をしている相手の名前は紫藤イリナ。綺礼のかつての幼馴染の一人であり、今では同僚という間柄の人物だ。
「だったらなに! これまで私がしてしまった悪事はこれしかないのよ!?」
「……落ち着け。冗談だ」
「なんだー、冗談かよかったよかった……って良くないわよ! よくも騙したわね綺礼! 嘘つきは駄目なんだから!」
「本題に入るぞ」
「あっ、ちょっと待ちなさい!」
「聖剣が盗まれた」
電話口からピタリと音が止んだ。
一拍だけ。
「えええええええええええええええええ!!!!?」
咄嗟に綺礼は携帯電話を耳から離して、それの口を押さえる。
「そういうのは最初に言いなさいよ!」
「言おうとしたのを誰かに邪魔されたのでね」
「――それは誰かしら綺礼。今から天誅を下してくるわ」
「お前だ、紫藤イリナ」
「……や、やあねえ、綺礼。冗談でしょ?」
「事実だ」
「どこからそれを?」
「記憶だ。……ところで君は日本語を忘れてしまったのか? 若干怪しいが」
「大丈夫! 外国には半月前に一ヶ月いただけだから」
イリナの頭だと忘れてはいなくてもおかしくはなっているだろうな、綺礼はそう思った。
「――――で、どうして聖剣が盗まれたの?」
「理由は不明だ。ただ犯人はコカビエルとだけわかっている」
「あの堕天使が!?」
「ああ。盗まれたのは三本。ラピッドリィとトランスペアレンシー、そしてナイトメアだ」
「……最悪の組み合わせね」
それに加えて
この二つを同時に使用されればまず、真正面からは勝てない。聖剣そのものの威力と姿を捉えさせないようにするその効果。単純だが、これほどまで恐ろしいものは無い。
そして
「で、それ盗まれたからー、奪還? それ、誰がするの?」
「私だ」
「そうかー、言峰綺礼かー……。無謀でしょ!!」
そうだな、と綺礼はイリナの言葉に首肯した。
「どうする気よ? そりゃあ、綺礼は勝つ確立が高いけどさ、強いわけじゃないじゃん。さすがに聖剣使いと堕天使幹部のパーティーは無謀じゃない? 手の内はあまり知られていないけど、綺礼のようなエクソシストがいるっていうことは知られているでしょ?」
「――そうだな。そこがネックだ」
「――で、こうし――――ああ! 止めて! 今電話中! ――え? 誰って? そうねえ、綺礼と――キャアアアアアアアアア!!?」
「……」
がちゃがちゃがちゃがちゃがつんっびたーん。
ガシッ!
「久しぶりだなキレイ! いやあ私は嬉しい! 尊敬する人とこうして会話ができるのだから! ――で? なぜ私じゃなくてイリナなんです?」
「紫藤イリナの「し」と、ゼノヴィアの「ぜ」、どちらが電話帳の上にきている?」
「……それを言われると返す言葉がないが。だが、キレイならイリナに電話をかけた時に矢継ぎ早に無駄話をされる、と解るんじゃないか?」
「解っていたとも。だがな、それは二人とも同じだ」
「失礼な。私はイリナほどおしゃべりじゃない」
電話の向こうでイリナが騒ぐ声が綺礼の耳に届く。どうやらイリナはゼノヴィアの自分に対する評価になにやら不満があるらしい。
「イリナは随分と不満があるようだが」
「そんなものは聞こえない」
ぴしゃり、とゼノヴィアはそう即答した。気のせいだ、とも。
「ああ、ところでキレイ。用件は何かな? イリナに電話してきた、ということは私にも用事があるんだろう。というか無いと――」
「なるほど。怒るか?」
「――いや、ごねる。さあ良いのか、キレイ。可愛い可愛い後輩が今から子供のように駄々をこねるんだぞ? こんな良い年した後輩の女性が駄々をこねるんだぞ?」
綺礼は若干間を置いて、嘆息した。
「……今、なにか任務についているか?」
綺礼は先ほどのゼノヴィアの言葉は無かったことにしたようだ。やや重苦しい声音で尋ねる。
「いいや、特に」
「ならば――」
■
ざあざあと雨が降る。
その中を一人の青年が、傘を差して歩いている。黒を基調とした駒王学園の制服。青年は高校生だ。そしてその青年の名前は言峰綺礼。
綺礼は今、学園からの帰宅途中である。
雨の中の帰宅。少し憂鬱な日常の出来事。
それは――刹那にして非日常へと変貌する。
降りしきる雨を斬り、見えぬなにかが襲い来る。風を斬り、気配を断ち。今まさに綺礼のその身を断ちて殺そうと、なにかが迫る――。
傘が綺礼の手から離れた。
代わりに銀光が三筋――もはや代行者の代名詞にもなりつつあるその細身の剣。黒鍵がその手に三つ握られている。
「――ッ」
迫り来る何かを下から上へと流して、黒鍵をそこにいるであろう姿の見えない襲撃者に投擲。風を斬る銀閃。甲高い金属音。黒鍵は弾かれた。しかし危機は脱した。
「ギャハッ」
「……フリードか」
姿は見えない。しかし声は聞きなれたもので、綺礼――代行者は襲撃者の正体を判断した。
フリード。フリード・セルゼン。凶悪なエクソシスト。並外れた戦闘のセンスの持ち主だ。
綺礼はそのフリードの姿が、正面にあるはずなのに見えないということに気づき――言った。
「聖剣を今すぐ私に渡せ。――大丈夫だ、追いはしない。私の任務は聖剣の奪還だからな」
「……まぁだ、気づいてねえのかよ。代行者」
フリードは笑った。
「ヒヒッ、テメエはいつもそうだな。テメエは吐き気がするほど、いつもいつもどこでも聡い。そのくせ肝心なところは気づかない」
「――――問答は不要だ。もう一度言おう。聖剣を私に寄越せ。無意味な争いはしたくない」
「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!! おいおい、おいおいおいおいおいおいおいおい、いい加減冗談はよせよ! 仲間じゃねえか。同士じゃねえか。なァ――にまだ、代行者なんて無価値な
雨風を斬り、黒鍵が飛来する。狙いは見えずとも違う事は無い。その証拠に甲高い金属音が鳴り響く。
「問答無用たあ素晴らしい趣向だなァおい! そぉらこいよ代行者。この俺様が! テメエの殻を剥いでやる――! 光栄に思えよ代行者ァ!」
代行者の姿が薄くなる。雨雲による視界の悪い悪天候。この中で、代行者は姿すらも気配共々にほぼ完全に隠蔽した。
――しかし。
「それで隠れたつもりか代行者! テメエの位置は、しっかりとわかるぜえ! この雨の中ならなァ!!」
雨の中では、それはどうしようもなく浮かび上がる。不自然に雨水が流れる場所。そこに、代行者はいる――。
しかしそれは同じこと。フリードもその手に持つ二本の聖剣のうち一つ、トランスペアレンシーを使い、自身を透明にしているが、同じ理由で場所は敵に知れる。
雨が断たれる。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハハハはハハハハハハハハハハッヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハヒャヒャヒャヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――!!!」
笑う笑う笑う笑う。
哄笑を上げ、フリードが嵐のように斬撃を繰り出す。見えざる神速の刃。速いだけでも厄介だというのに、その斬撃は見えない。
とても狂っているとは思えないほどに二本の剣を巧みに操り、執拗な斬撃を以って攻め立てる。蛇蝎の如く執拗に、狼のように獰猛に、しかし熟練の戦士のように冷静に。
敵が息絶えるまで、けっして手を抜くことなく斬撃を繰り返す。
それだけの猛攻。普通ならば、既に死んでいて当然だ。
――が。
「
生憎と、代行者は普通などではない。むしろ普通などとははるかに遠い。はるかに遠い、異端中の異端。異常も異常。伊達に教会最悪と、狂人と、悪魔憑きと囁かれている代行者などではない。
代行者は全ての斬撃を一度もくらうことも掠る事も無く、その攻撃を全て凌いでいた。
なけなしの魔術回路に火をくべて、チリチリとうずく違和感を抱きながら。魔術による強化を最大限に、たったの一合ともたない黒鍵を瞬時に形成しなおしながら――。
「――――――我らを誘惑に陥らせず、悪から救い給え」
「! ヒヒッ! させると思うなよ代行者ァァァァァァァァァァァ!!」
金属の擦れる音が雨を裂く。
フリードの姿が一瞬、代行者の視界に映る。水を吸った黒衣が翻り、その直後に白夜叉が直線の最短距離を駆け抜ける。
雨のカーテンが一点にのみ切り裂かれる。なるほど、突きか。
「――――――主よ憐れみたまえ。罪深き我らのために、今も、死を迎える時も祈り給え」
合気を使い、その突きを黒鍵で絡めて逸らす。白夜叉はそこから跳躍。代行者の頭上高くを飛び越え、光の銃弾を浴びせた。
「――――――主よ憐れみたまえ。栄光は父と子と聖霊に、始めのように今もいつも世に」
白刃が煌き、それらをことごとくかき消す。その上で、距離を詰めた。それに応えるように、フリードも足を踏み出して――すぐに飛び退った。
「――――――主よ憐れみたまえ」
黒い影が雨を弾き、死神のようにゆらりと接近したからだ。
――中国拳法における一つの歩法、一歩で五歩を渡る箭疾歩。代行者はそれを駆使し、一瞬でフリードに追いすがる。
「
フリードは引き金を引き、光の銃弾を浴びせつつ、もう片方の手でまるで別の生き物のように聖剣を振るう。
「――――
キィッ、と黒い影が一瞬だけ強い輝きを放った。
――
この神器に関しては、記録があまりにも少な過ぎて、詳しいことはわかっていない。ただ、わかっていることは魔力を特殊な形で溜め込み、それを任意に使うことが出来るということだけだ。
なぜ詳しいことがわかっていないかというと、この神器の所有者のことごとくが、戦いを嫌う穏やかな人物であったからだ。
神器は所有者の強い意思によって進化し、更なる力を発揮する。
その性質上、善く言えば穏やかな、悪く言えば気弱な人物には神器の力を充分に発揮することは不可能にも等しい。そういう経緯で、この神器に関してはなにもわからないのだ。
それはさておき――、そんな歴代の所有者達だ。禁手化などできるわけがない。よって、この神器の進化に道標など無い。どのような進化を辿るかどうかはまったくの予測不能。
――――――故に、この神器の禁手化は、この代行者の神器は、誰よりも――。
「チィッ!!」
フリードは銃を投げ捨て、聖剣を両手に構えなおす。ここから先、この代行者相手に小細工はするだけ無駄。無駄であり――それは、致命的な隙となる。
雨が一層強く降り始めた。雨雲も不穏な音を、雷鳴の予兆を奏でる。
その雨を、黒い影が――撃ち抜いた。
――雷鳴が如き轟音が
――暴風が如き爆音が
一時では〝雷〟とまで称され恐れられた、あの兵器が如く。
代行者の拳はその雨を撃ち抜き。
――大気を貫いた。
黒い影が大砲が如く唸る。漆黒の薄い影。曇天が覆い隠すその黒い影。
それはまさしく、大砲の弾そのものだ。
フリードはすぐにその前に聖剣を交差させ、それを受け止め――吹き飛ばされた。
「――!」
衝撃がフリードの体を貫く。聖剣を持つ腕がその衝撃に痺れた。すぐさまこの手を放して、この場所から逃げるべきだ。代行者は神出鬼没。幽霊のように眼の前に現れる。
教会の影。代行者。
それが、この隙を逃すわけが無い。
白刃が煌く。黒鍵が投擲された。都合三つ。回転し、こちらの動きを制限するかのように、ギロチンのように迫ってくる。
これを弾くことは、さほど難しいことではない。難しいことは、この先に来る、代行者の攻撃だ。
――禁手化、主よ賜えよ。
これは非常に単純なものだ。能力は実にシンプル。それは、刻印を一つ消費することで、自らの体に常に限界量の魔力を受け入れ続けるというもの。
要は、擬似的な魔力量の無限化である。
この神器の特性は魔力を溜め込むということ、つまりは常に周囲から魔力を吸収し続けているということだ。これの禁手化はその特性を、破滅的なまでに強めただけのもの。
つまり、今の代行者は、魔力の消費をためらうことが無く魔術を行使することが出来るのだ。
感覚を更に鋭敏に。筋力のリミッターを完全に外す。痛覚を遮断する。自己治癒能力を高める。体の細胞一つ一つを強靭に。
魔術回路の限界を超えた、過剰な魔術の複数同時行使。魔術回路が悲鳴をあげる。しかしそれは気にすることは無い。すぐさまその魔術回路によって行使された魔術によって回復する。
更なる薪をくべて、炎を強大に。ただひたすらに強く、強く、強く強く強く強く――。
代行者の体から水蒸気が噴出する。この雨は代行者にとって都合が良かった。体温を下げる魔術を使わずに済む。その分、体を動かすエネルギーになって消費された栄養を魔術を以って改めて生成する。
箭疾歩の連続行使ですぐさまフリードへと疾駆する。
あと数回。それだけでフリードと代行者の距離は0となる。そこは代行者の中国拳法が最も効力を発揮する領域。フリードは必死で代行者と距離を取ろうと図るが、数秒後には捕まる。そしてそのたったの数秒では腕の痺れは取れない。
まさしく絶体絶命だった。
だが、そんなことでこの――気に食わない代行者にやすやすと負けるような白夜叉などではない。
口を大きく開け――ガブリと、自らの腕に歯を突き立てた。血が出てフリードの口腔に鉄の味が充満する。それと同時に鋭い痛みが走り、その腕の痺れが取れた。否、痛みが痺れを超えた。
片腕だけで、代行者を迎え撃つ。
狂気に濡れた瞳を爛と輝かせ、更なる猟奇的領域へと歩を進めんと――ラピッドリィの柄を強く握った。聖剣が一際強く輝く。それは邪悪なれど、純粋で力強い願いを受諾した輝きだった。
――――――――――――遅い
爆ぜる。
爆ぜる。
爆ぜる。
爆ぜる。
天から降りる雨粒がその形を饅頭型に変えるよりも速く、フリードの足元が爆ぜる。
箭疾歩よりも速く、フリードは周囲を飛び跳ね、片腕のみで先と変わらぬ――否、先よりも数段も速く鋭い斬撃を浴びせる。
しかしだ。それで限界ギリギリまで強化を成した代行者が止まるわけがない。
禁手化以前のように防戦一方ではなく、対等に聖剣と四肢と黒鍵とを打ち合わせる。その四肢で受け流し、黒鍵で絡めとり――同時に、攻撃を加える。
大樹が如く地面を力強く踏みしめ、そこから放たれる一撃必殺の打撃。
限界まで鍛え上げた鋼の肉体を、魔術を以って更に限界まで強化されることによって生み出された膂力。その膂力を効率良く運用する技量。その膂力と技量が混ざったそれは、名高き名器を以ってしても衝撃を貫き通す。
豪腕が唸る。
フリードの耳は、肌は、それを当たらずとも脅威を感じ取っている。まさしく一撃必殺。ともすればドラゴンの一撃よりも破壊力があるのではないかと思わせるようなそれ。しかしそれでもなお、フリードを捕らえることは叶わない。
フリードのもう片方の腕の痺れが取れた。
「シッ――!」
右方から斬り下ろし斬り上げ袈裟斬り逆袈裟斬り振り下ろして跳ね上げて上から突き刺し横に薙ぎ、左方から突き突き突きて横に薙ぎ刃を返して再度薙ぎ振り下ろして跳ね上げて身を翻して振り下ろす。それらを同時。一切の呼吸を入れず休みを入れず、一瞬一刹那のうちに繰り出した嵐すら生温い、疾風怒濤、羅刹天が如き、八面六臂が如き斬撃。
それを再び、一拍の呼吸を置いて繰り返す。
それより更に速く。
それらを防ぎきった代行者を細切れにする為に。
だが――――。
「――――――――――くはっ――――」
フリードは地を蹴って代行者と距離を取る。
「やっぱ変わらないねェ、お前。俺の攻撃全部を防いできやがる」
代行者はそれすらをも防いでいた。
一拍の呼吸も許されない、深海のより深い奥底で行われるような息が続かなくては死に、息を次いでも死ぬような状況。フリードのあの斬撃の嵐はそれそのものだった。
「……」
「だんまりな上にすぐさま戦闘かよ。楽しめよ、戯言も」
黒鍵が煌く。今回は回ることなく、串刺しにするための投擲――だけではない。
黒い影が一瞬縮み、すぐさま疾駆する。黒鍵に追いつき追い抜いて、大砲以上の破壊力のある拳打が振るわれる。
「チィ――」
不可視の聖剣が振るわれる。二筋の剣閃。一つは黒鍵への対処、もう一つはこの代行者への対処として。
が。それがまずかった。
下段から上段へ。しかし、黒い影の
すなわち――蹴りだ。
「アグッ――――――!?」
顎へと放たれたそれ。それをフリードはギリギリで知覚し、ギリギリで喉を逸らして顎から狙いを外させた。しかし、そこから振り下ろされる踵は避けられない。
胸に踵が突き刺さる。だが、幸いにも角度が悪い。衝撃は一瞬だけで、内臓は傷ついていない。
ラピッドリィの柄を強く握りしめ、柄の部分で代行者のこめかみ辺りへと殴打。しかし腕で受け止められたのか鈍い衝撃があるだけ。それと同時に、後方へと跳躍。
――肋骨が折れやがったな。
フリードは胸に広がる痛みを確認してそう思う。内臓まで潰されなかったのは不幸中の幸いだ。腕を動かせば少し痛む程度。これくらいならば、多少の無茶などは苦ではない。
だが――いくらか動きに支障が出る。
誰にも見えぬ雨が降りしきる空間。そこにあるのは二つの不自然な雨の流れ。その中で――フリードは口の端を吊り上げた。
そんなことは露知らず、黒く薄い影が――なんの挙動を見せる事無く、フリードへと疾駆した。零から百への、唐突で誰にも読めぬギアチェンジ。それこそ武術の真骨頂にして到達点。
代行者は白夜叉との距離を詰める――。
フリード・セルゼン。元ヴァチカン法王庁直属のエクソシスト。弱冠十二歳でエクソシストとしての素質を開花させ、十三歳になった時点では悪魔や魔獣の討伐の最前線に躍り出た天才。
本能にて敵を殺す――フリードの殺害能力は高かった。誰もが狂喜し、誰もが畏怖するほどに。阿修羅に愛された子供、一時期はそう囁かれたこともあるほどだった。油断していたとはいえ吸血鬼を一人で屠ったこともあった。眼を閉じながら勘だけで熟練のエクソシストの攻撃を避けたことがあり――そのエクソシストを殺害したこともあった。
――悪魔の申し子――――。それが天使勢力の傘下にあるエクソシストの、フリードに対する忌み名である。
言峰綺礼。堕天使側と天使側、そのいづれにも属することができない教会側の代行者。幼い頃から各方面で聡明さを発揮。そして十二歳でエクソシストとなり、そのわずか一ヵ月後に代行者となった秀才。
理性にて敵を殺す――代行者の殺害戦術は巧みだった。誰もが賞賛し、誰もが畏怖するほどに。非常に聡明な子供だと、とある事柄が発覚するまではそう囁かれていた。常に好成績を維持し、その上で大人でさえも避けるような厳しい鍛錬に挑む。数年前のあの事件では、白龍皇に相打ちながらも重傷を負わせ、生き延びたということがあった。
――教会最悪――――。それが教会に蔓延する代行者の数々の忌み名の内で、最も知られているものである。
二人の戦闘スタイルは対極にある。
攻めのフリードと守りの代行者。手数と必殺。速度と読み。どちらもどちらが戦闘スタイルに重点を置くものが真逆だった。
そして真逆だからこそ、二人は拮抗した。互いが互いの弱点であり、倒すべき敵の典型。
だから――その要因の一つである速度が落ちつつあるフリードに、代行者に勝てる道理が無い。
戦況は振り出しに戻るが、しかし立場が変わっていた。フリードが劣勢にあり、代行者が優勢にある。
先の戦闘の焼き直し。フリードは防戦一方で、代行者の攻撃を辛くも凌ぎ避けている。衣服には常に、代行者の拳が付きまとい、薄く裂かれている。数箇所、特に人体の急所が密集している胴の部分ではそれが顕著だった。
圧倒的な劣勢。どう贔屓目に見ても、素人目に見ても、フリードはこのままでは負ける。
「――」
ふと、なにを思ったか綺礼は攻撃の手をピタリと止めた。
「あン?」
「聖剣を捨てろ、フリード。これ以上の闘争は無意味だ」
綺礼の言い分はもっともだった。フリードの速度はなぜか下がりつつある。この状態がいつまでも続けば、いつか代行者の拳はフリードの生命を殴殺する。
それは、どことなく、綺礼にとって後味の悪い展開だ。
あまり知られていないが、フリードと綺礼は面識が有り、交友がある。過去、互いに期待の新人として引き合わされた時に知り合った仲だ。何度かタッグを組んだこともある。
「今更温ィこと言ってんじゃねェよ、代行者。アァ? 殻を被ってやがるからって、俺の殺気がわかンねえほど落ちぶれちゃねえし、鈍かァねェだろうが。それともあれか? それは俺に殺してくださいってか? ひゃははははははは! なんなら素直にそう言えっての! ――――むごたらしく、殺してやるからよ」
粘つくような声で、フリードはそう嘲笑った。
ガチャリ、と金属音がする。
「オラ、テメエから来ねえんなら俺から行くぜ?」
ダンッ、と道路を強く踏みしめ――代行者は駆けた。
――ああ、そうか。そうなのか。それが貴様の答えだな。フリード・セルゼン。
ならば、ならばもはやもう、情けはかけまい。
一踏みで五歩をわたる箭疾歩――それは魔術の恩恵によって、人外の領域へと歩を進める。
そこは一種の異界だった。人の身でありながら、人外を屠る為に人外へと足を踏み入れた二人の領域。そこに人の常識が通用するわけが無く、人外の常識のみがまかり通る。
――貴様にもう用は無い――――。
綺礼はそう、内心で冷徹に宣告した。
フリードが前傾姿勢になった瞬間に、代行者は既に懐にもぐっていた。
「――読めねえとでも?」
しかし、そこには聖剣が置かれていた。透明の、一撃必殺――否、一撃必滅の聖なる刃。だがそれは、あまりにも――早過ぎて遅過ぎた。
ビキッ、と乾いた樹木の砕ける音がする。発生源は言わずもがなフリードの右手から。フリードの右手は代行者の膝によって、上に跳ね上げられると同時に砕かれた。
右手に持っていたトランスペアレンシーが弾かれ、フリードの姿があらわになる。
そう、フリードの読みは当たっていた。だが、だがだ。今の、魔術で本来の三倍以上の能力を引き出している代行者に、失速しつつある常人のフリードがついてこられるわけがない。
――振り上げられた脚が地を突き、地面を鳴動させアスファルトを踏み砕く。黒い影はフリードの腰ほどまでに縮こまる。嵐の前の静けさが一瞬その場を支配し、フリードは次の瞬間に来る災厄を免れようと残った左手で――。
それすらも黒い影によって跳ね上げられる。
「――――――――――!!」
フリードの両腕は天を仰ぐように広げられていた。それは、どことなく十字架を彷彿させ、フリードが罪人であることを如実に表していた。
――ヤバい
警鐘が鳴る。鳴り響く。走馬灯が駆け巡り、視界に入るもの全ての動きがモノクロに、緩やかになる。感じられるのは死の気配。死神が鎌を振るっている気配。
ねっとりと、自分を犯すように絡みつく濃厚な悪寒。極限まで引き伸ばされた生き地獄のようなこの感覚――。
それを――
―――――――
「ギャハッ」
チャキリと、フリードの左手で、小さな金属音がすると同時、代行者の攻撃は――矛は、砕かれた。
代行者の矛、それすなわち自らの極限まで鍛え上げた拳。生身の、何の神聖も加護も持たないむき出しの拳。
それに今、フリードが撃った光の銃弾に耐え切れると思うだろうか。否、思えない。いくら魔術で強化しようと、しょせん生身。たかだか拳で、正面から針を壊すことはできても、無傷でそれは成しうることなど不可能だ。
――フリードは、左手に光の銃弾を吐き出す銃を持っていた。では、それまで左手に持っていた聖剣――ラピッドリィはどこにあるのか。答えは――。
「俺の勝ちだ。言峰綺礼」
――上空。微かに大気を切る音を奏でて落下。それは砕かれた左手におさまる。激痛が走り、フリードの表情が苦悶と喜悦に歪みに歪み――哄笑を上げて白銀の軌跡を描く。
ここにきての超加速。聖なる刃は黒き影の肉を切り裂き骨を断つ――寸前、避けられた。だが――遅い。少なくとも、この今のフリードにとっては。
避けた次の瞬間に、代行者の腹にそれが鍔元まで深々と突き刺さる。
「ヒャハッ――――ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハハハハハハハハギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハ!!!!!
ど――――――ぅだ代行者! 眼は覚めたか!? 心は冷えたか!? 肝はどうだ!!? ギャハハハハハハハハハハハハ!! そら! ――躊躇うからこんなことになるンだよ」
黒い影が姿を現す。制服のいたるところを切り裂かれ、腹から下が真っ赤に染まっている青年――代行者の姿。
その代行者の表情を下から睨みながら嘲笑を浴びせるフリード。
「これでいつぞやの借りは返させてもらったぜェ。もうお前はいつ死んでも構わねえよ。ご苦労言峰綺礼! てめえは俺にとって存分に興味深い存在で――腸が煮え返るほどにムカついた奴だった」
だが――
「――ああ、呆気ねえなあ、お前。結局、お前は俺じゃなかった。期待はずれだよ、代行者。そら、これまで迷惑かけた侘びだ。てめえの親への遺言くらい、聞いてやるよ――」
「―――――――――ァ……………………」
「あン?」
「――――」
――――私が、殺す…………。
フリードは眉をひそめた。なにを言っているのだ、この瀕死の代行者は。
――私が生かす。私が傷付け私が癒す。
我が手を逃れうる者は一人もいない。我が眼の届かぬ者は一人もいない――
「なに物騒なこと――つか気色悪ィこと呟いてんだよ、てめえ。脳までやられたか?」
「……打ち砕かれよ。
敗れた者……、老いた者を…………私が招く。私に、委ね……、私に学び私に従え」
「――――テメエ…………!」
フリードはすぐに代行者の意図を悟った。
まだだ。まだコイツは――生を諦めてなどいない!
「……休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず……、私を忘れず私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」
フリードはすぐに代行者から離れようと地面を蹴ろうとして――足を踏まれて動かすことを妨げられた。ならば次にある手は一つ。この聖剣を動かしてこの敵を完全に亡者へと――だが、それすらも妨げられた。
「テメエ、どこに……!」
万力のように締め付ける代行者の両手。右手はフリードの手を、腕の動きを束縛し、その上で、左手でもう片方の手すらも掴まれた。
コンクリートに動きを縫いとめられたような、そんな錯覚を感じさせるその力。
「――装うなかれ。
許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」
滔々と紡がれる代行者の
「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ、印を記そう。
永遠の命は死の中でこそ与えられる」
それはフリードの耳に嫌でも入り、心を蝕み――
「――――許しは此処に。受肉した私が誓う」
世界すらも蝕む。
「――――
瞬間、フリードの体を代行者の魔力が覆う。
「チ――――イイイイイイイイイイイ!!!」
覆って、フリードの全身から血の雨を降らせた。それは雨と混ざり、真っ赤な水溜りを下に作る。
「ア――ガ――……グ、ガァ、ア、ア、ア、ア、ア、アアアア――――――!!」
激痛が全身を苛む。皮膚という皮膚が傷を作り、血管という血管が切り裂かれる――否、
「――私を舐めるな、フリード・セルゼン……!」
腹に一撃膝を見舞って、聖剣を奪おうとする。しかし、それより速くフリードは代行者に頭突きをくらわせ、同時に拘束を振りほどく。
両者とも蹈鞴を踏んで後退し、もう一つの聖剣へと奪取するために駆ける。
その途中で、代行者は身を翻した。これはフリードの方が速い。そう判断した為だ。フリードが聖剣を掴むこの一瞬のうちに、代行者はその場から血を流しつつ体に鞭を打つ。
雨の中、コンクリートで固められた塀をつたい、人目の着かない所へと向かう。ここから家である教会は遠い。ならば念話がとばせるまで人気の無い場所で安静にするのが、ケータイの壊れた今の状態の最善。
血が足りない。頭が朦朧とし、視界が定まらない。
グラリ、と代行者の体が傾き、そのまま地面に倒れた。
腹から致命的なものが流れるのがわかる。温かいもの。命を維持する為に必要なもの。それが今、この腹から流れ出ている。
魔術でいくらか治癒したものの、完治には程遠い。聖剣の力がそれを阻害している。
――いや、これマジで死ぬ。
死にたくない――そう思った。しかしそんなことで死なないのなら世話は無い。
ゆっくりとゆっくりと、視界が狭く明るくなり、同時に雨の音が遠のく。湿った空気が肺に流れるのを感じて、それきり何も感じられなくなった。
視界が閉じる。
――――その寸前、白黒のなにかが視界を掠めたのは幻覚だったのだろうか?