境界線上の飛翼恋離   作:クーゲルシュライバー中尉

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喪失の過去
立ち竦む未来
求める答えの在り処は何処に
配点(選択


そこにいるきみと

『悪いことは言わん──()()()へ来い。否、そもそも貴様はそこに居るべきではないと、俺は常々そう思っていたが』

 

『武蔵を構成するあらゆる自動人形の願いによって、地脈から生み出された存在。艦船ではなく、人型でもない。出自そのものは精霊系とはいえ、人として望まれた貴様は成る程確かに、誰より武蔵に親しい。ただの自動人形にはない自由や可能性に溢れていることだろうなぁ。──だが』

 

『全てにおいて両種のいいとこ取りなどというのは、実に都合の良い話だよなぁ』

 

『貴様に押し付けられた渇望(それ)は──人ひとりが抱える背負うには、余りに重すぎる』

 

『捨てろとは言わん。だが妥協はしろ。今の貴様にとっての苦渋は、未来においては利益となる。それをよく理解することだ』

 

『このまま行けば、全面戦争は避けられんぞ。無論こちらが勝つが、万一そちらが勝ったところでその先には──武蔵撃沈の可能性が常に付き纏うことになる』

 

『もう一度言う──俺の元へ来い。多少の便宜は図ってやれるし、後ろ盾にもなってやろう。そうして然るべき立場と力を得ることで、聖連からの派遣として──()()()()()()()()()()()()

 

『別に不可能な話ではない。こちらとしても、他国の息の掛かった者よりかは余程楽だ。貴様はただ己の実力を示し続けるだけでいい。なんなら、俺自ら教鞭を執ってやろうか。我ながら良い考えだと思うがどうだ、なぁ』

 

『全ては武蔵を守るために、だ。そして俺は、それを選んだ貴様に対して──とても安心出来るというわけだ』

 

『そしてその安心は、未来の武蔵に向けた良い手土産となることだろうなぁ』

 

 ──どうだ? なぁ、おい。

 

 

+++

 

 

 気を取り直して、とばかりに放たれた咳払いの音を先に置き、やがて始まった。 

 

「私の不信任決議を通して、教導院の姿勢──ひいては武蔵の方向性を決める。そういうことなのだな?」

 

「ああ。既に全生徒から同意は得ている。我々で相対を行い、それを以って武蔵アリアダスト教導院の総意と判断する、とな」

 

 誰もが注目していた。校舎や校庭、橋下に集う生徒や一般人。果ては映像越しに他国の人間さえも。

 正純とシロジロ。ふたりの応答が、示し合わせたかのように互いを行き来する。

 聖連に楯突くことが本当に可能と思うのか。と片方が問えば、もう片方が二十年前には酒井がやった、と返す。

 校則法の改定を始めとした変化があった以上、昔と同じ結果が得られるというのは軽率な考えだ。と告げれば、では今のそれが通じるのかどうか、これから確かめよう、と。

 正面、互いを通した対話だというのに、彼らの言葉は自分たち以外の聴者へ向けた言葉こそが主であるかのようで。

 国家としての主役は教導院──学生だ。だが、どのような結果であろうとも誰もが無関係ではいられない。武蔵が聖連に渡れば多くの人々が行き場を失うし、ホライゾンを救うとなれば戦争の道。たとえ非戦闘員、一般人であろうとも、今の武蔵に他人事などという都合の良い立場は存在しない。

 

 シロジロが言った。

 

「相対の結果、聖連側が勝てばホライゾンの自害と武蔵の移譲に同意し、武蔵側が勝てばホライゾンを救いに向かう。そういうことだ。──教師オリオトライ」

 

 呼び掛けに、橋の中央で推移を見守っていた審判役のオリオトライが、はいはーい、と軽い返事を投げた。

 

「じゃ、ルールを説明するわよー? 基本はお互いに代表者を出しての相対戦。方法に関しては戦闘、交渉、芸事、その他諸々──つまりはなんでもあり。それぞれ聖連側は"刃向かう無意味"を知らせ、武蔵側は"抗う方法がある"ことを知らせる必要があるわ。つまり全体としての勝敗は──」

 

 そこまで言い掛け、女教師が動きを停止した。

 

「あー、四人? 四人かぁ……。えぇ……四人、四人って……」 

 

 正純、伊吹、ミトツダイラ、直政──と階段側に立つ自身の生徒らを順番に見回してから、オリオトライがゆっくりと首を傾げ、

 

「先生自分に正直だから素直に言うけど……判定面倒だし、故意の事故で誰か減ってくれない?」

 

「「あんたふざけんなよ!!」」

 

 戦う前に敵味方の心が重なった。

 

 唇を尖らせ不満を隠そうともしないオリオトライだが、数秒して彼女は良いことを思い付いたとばかりに掌を拳で打ち、

 

「じゃ、取り敢えず全員殴り合った後で考えるってことで」

 

「「この審判最悪だ……!」」

 

 武蔵全土からの指差し批難もどこ吹く風な女教師は、いいじゃない、と前置き、

 

「あんたたち全員、各々の立場で言いたいことや、言うべきことがあるんでしょ? だからこの場に立っている。なのに途中で判定勝ちや判定負けで終わりとか、納得出来ないものがきっと後々にまで残るわよ。せんせーはなかまはずれなんてゆるしませーん」

 

 最後だけやたらとウザかったが、しかし考慮する余地はあるということで、昇降口付近の連中が円陣を組んでひそひそと小声で話し合う。

 

「……どう思う?」

 

「まぁ、悪くはないんじゃないかな。あっちは組織や勢力の代表として来ているわけだし、背後を無視しての決着は今後を考えると確かに拙いね」

 

 同じように階段側でもそれぞれが額を寄せ合い、

 

「正直、一理ある。一理はあるが……なんか雑じゃないか……?」

 

「拳で語れば解決する系の、あの蛮族思考はなんだんだろうな一体……」

 

 話し合いが終わったところで再度向き合い、言葉が作られた。

 

「では──」

 

「Jud.、それでいこう」

 

 互いが頷き、合意が成される。

 では一番手は──、と正純が声を上げたのと同時、

 

「俺が──」

 

「私が──」

 

「あたしが──」

 

 ──微妙な空気が場に満ちた。

 正純の背後にいた三人、その全員の誰もが正純を追い越し、半歩前に出たところで固まっていた。

 彼らは無言で互いを見回し、それぞれ他の二者が動かないと見るや、更に半歩を踏み出し、

 

「「…………」」

 

 再び動作が被った。

 正純が、どうしたもんかこれ……、と困ったように頭を掻く。同時に梅組連中も、あいつらやる気溢れすぎじゃね……? と軽く引いた。

 件の三名は誰からともなく無言で集まり、再び小さな円陣を形成し言葉を交わし始めている。

 やがて、

 

「──そういうわけで、一番手は俺だ」

 

 女ふたりを下がらせて前に出たのは、伊吹だ。

 物言いに、どういうわけだ、と皆が内心で軽く突っ込んでいると、言葉が来る。

 

「立場を告げるのであれば、武蔵自動人形代表──ということになるんだろうが。俺としては、ホライゾンを救いに行くというのであれば、個人的に明らかにしておきたいことがある」

 

 己と彼女たちの支持が欲しいのであれば相対し、答えろと。つまりそういうことだ。

 完全に職権乱用の域だったが、武蔵上ではあまりに日常的だったために誰も疑問に思わず、聖連も武蔵側に敵対する位置に立った人物にわざわざ突っ込みを入れる理由はない。見事な総スルーでそのまま通った。

 

 そうだな、と呟いた伊吹が溜めを作り、

 

「少し後悔通り(そこ)で、デートをしようか」

 

 出場権を巡って共食いや自陣を裏切ろうとする奴が現れたため、少し荒れた。

 

 

+++

 

 

 教導院前の橋下階段──そこから後悔通りに続く道を、ひと組の男女が並び行く。

 少女は軽い所作で少年の腕を取り、少年は慣れた足運びで少女の歩幅に合わせている。

 広報部からの映像と共に届く会話は、取り留めもない。

 今朝はなにを食べたとか、起きたら寝癖がどうだとか。村山に新しく店が出来たが少し高くて、でも一度一緒に行ってみようか、なんて。相対とも政治とも無関係な、本当に些細ないつもの会話。

 生徒総会のために集った多くの見物人が、視線と意識を向けていた。こんな時になにをやっているのかと思った者もいる。その上で、言葉に出来る者はいなかった。

 ふたりのそうした姿は、どこか侵し難く、穢してはならないように思えたからだ。言葉には出来なかったので通神端 (スレッド)は回った。

 

 刹那とも永遠とも取れるひとときが、やがて終わりを告げた。

 後悔通りだ。

 そこはかつてホライゾンが失われた場所。そして昨夜、ホライゾンを奪われた場所。

 ──少年が少女の腕を静かに解き、前へ出た。

 振り返る。

 視線が絡み合い。

 言った。

 

「──鬼ごっこをしよう」

 

 かつて無邪気なままにそうしたように。しかし今の相対として。少年がそう望んだ。

 ()()のために申請した調整に"奥多摩"からの表示枠が許可を告げる。通りそのものに限定的な、遊戯の場としての機能を持たせるためのものだ。

 範囲は後悔通り、入り口(ここ)から終わり(あっち)まで。

 術式使用は自由だが、

 

「逃げるのは俺だ。鬼であるお前は──俺を()()()()()()()

 

 つまりは戦闘系の特務級に対し、一般生徒が追い縋れと言っているに等しい。

 特に伊吹の場合、他の役職者から見ても打倒ならば手段を選ばないが、捕獲となれば困難だ。なにせ彼は特段速くはないが、異常に()()。加えて少女には根性がない。

 対等な相対ではない。

 だが──今後において武蔵が聖連と争うとなれば、対等な条件で始まる状況が一体幾つあるというのか。

 戦争へと向かうのならば、立ちは塞がる理不尽に対し、それ以上の理不尽を起こせるようでなければ認めることは出来ないと、少年は暗に告げていた。

 

 呆れの笑みを零すのは、相対する少女だ。

 

「フフ、伊吹──アンタこんないい女を鬼嫁呼ばわりとか、いい根性してるわね」

 

「いつの間に嫁入りしたのかは知らんが……。名前が気に入らないなら、エロごっこでもなんでも好きにしてくれ。──喜美」

 

 応じた少年の言葉に、見物していた連中がヤメロヤメロと掌を左右に振った。

 ともあれ、

 

「問おう。──武蔵と、ホライゾンと、俺たちのことを」

 

 これはきっと、誰もが一度は脳裏に浮かんだ筈のこと。

 誰もが理解しているにも関わらず、目を逸らしたがっていること。

 それは、

 

「これからホライゾンを救いに行って。それで聖連相手に上手いことやって、その結果──皆や、大事な誰かがまた失われるとしたら……その時は一体どうする」

 

 伊吹が言う。かつてホライゾンを失ったひとりが、同じ筈の彼らへ。

 

「辛いね悲しいねって慰め合うのか? そんな現実を寄越した敵を許さないって怒りを燃やすのか? あいつの分も精一杯生きようって胸に誓って前を向くのか? ──出来るわけねぇだろ馬鹿がッ!!」

 

 血を吐くような叫びだった。

 あるいはそれは、自動人形の魂に従っていつも誰かの幸いばかり追い掛けて来た少年が、しかしただの個人として秘めていた感情の破裂。

 名を、悲嘆。それを起源とした、当たり前の恐怖。

 

「割り切れるわけねぇだろ……! トーリは十年掛かったぞ! あいつも、俺も、お前らも、大なり小なりずっとホライゾンのことを引き摺り続けてた分際で、どれだけお目出度い夢を自分(てめぇ)に見てんだ、寝惚けんな!!」

 

 どうか届けと、少年は言う。眼前の少女だけなく、仲間に、皆に、武蔵の総てに。

 解かってくれと。喪うことを哀しめるお前たちは、そんなに強くなんてないのだからと。

 

「きっとなんとかなるって頑張って、それで駄目だったらどうすんだよ!? 返って来ねぇぞ! 失くしたものは! 今度は五年か? それともまた十年か? 喪失の傷を埋めるのに、次は一体どれだけ掛かる? そうしてる間に末世が来て世界が終わるぞ。つまりはそれだけで詰みじゃねぇのか」 

 

 自分で選んだ結果だからと。覚悟の一言で、急に耐えられるようになるとでも?

 武蔵はなにより大事だが、艦船だ。世界に出るというなら戦争上等。壊したら許さないが、壊れても直せる。絶対に許さないが。

 だからといって軽くないのだ。在喜・伊吹にとっての皆だって。愛しい唯一が沢山あって何が悪い。

 魂が武蔵の飛躍を望む。判断は現実を突き付ける。感情が喪失を拒む。坩堝に溢れる望みが器を軋ませて、曖昧な境界線に今にも気が狂いそうで。

 

「俺だってホライゾンを救いたい。生きていてくれた方が良いに決まっている。それでも──そのために、これから先、同じくらい大切なものをまた喪うことに怯え続けるくらいなら──」

 

 死人は、死人のまま。ホライゾンは十年前のあの日にやはり死んだのだと。今までがそうだったように、また日々をやっていくことだってきっと出来る。

 だから、

 

「頼むから、もうこれ以上──俺の世界を寂しくしないでくれ」

 

 喪失の軋みは、どうしようもなく泣きたい程に身を裂くから。

 ゆえに、それを否だと言うのであれば。

 

「それでも過去(ホライゾン)を取り戻し、ここから未来(さき)へ向かうのなら。現在(いま)より失うものは、なにもありはしないのだと──その意志と覚悟を示してみせろ……!!」

 

 ──武蔵に、沈黙が落ちる。

 皆、なにも言えないでいた。

 少年の想いは余りに当たり前の感情で、しかしそれが持つ異常なまでの熱量は、重く深く焦がすようで。

 否、皆なにも()()()()()いた。

 彼に言ってやりたいこと、伝えたいことは多く。しかし今この瞬間、その資格を持っているのはたったひとりの少女だけ。

 

 フフ、と花咲く響きの音が鳴った。

 

「──馬鹿ね」

 

 慈しむような、愛おしむような、そんな陽だまり色の声が届く。

 しかし声とは裏腹に、その表情が完全に据わった半眼であるのに気付いた伊吹がソッコで逃げ出した。

 

 聖連側──在喜・伊吹。武蔵側──葵・喜美。

 種目──逢い引き(デート)

 相対、開始。

 

+++

 

 

 後悔通りの一本道に、ふたつの影が踊る。

 少女と少年。追う影と逃げる影。

 二者が交わることはなく、しかし言葉と意志の連続が互いを結ぶ。

 

「待ちなさい、このお馬鹿伊吹! アンタ今すぐ正座よ、正座! この賢姉の言うことが聞けないっていうの!?」

 

「生憎、俺は愚弟じゃないからそのサービスは適応外だ……!」

 

 生意気、と内心を呟きながらも喜美は足先のステップを刻む。

 眼前、自分に背を向けている生き物に腹が立っているのは確かだ。

 あれだけ言っておいて、その当人が大事なことを解っていないことも許し難い。

 更には自分みたいないい女に対し、手を伸ばして追い掛けるというならまだしも。よりにもよってこちらに背を追わせ、手を伸ばす側になれとか──これはもう極刑モノだろう。

 

「でも、いいわ。今からこの私が、利子付き後払いローンも可でアンタの全部を晒してあげる。いいこと!? マッパよ、マッパ!」

 

 彼は、()()()()()()()と言った。ルールとしての、捕まえてみろ、ではなく、捕まえれば勝ち、でもない。言葉遊びだが、自分はエロとダンスに付随して歌も嗜む。ずっと見てきた相手の、それも感情の乗った言葉を掴み損ねるなどあり得ない。

 つまりは拒絶しつつも、そこには臆病な期待がある。 

 逃げるけど、追い掛けて欲しい。避けるけど、捕まえて欲しい。

 ──って、

 

「アンタ自分から率先してヒロイン面とかどういうわけよ! この私に対する嫌がらせかしら!? つまり喧嘩売ってるのよね、よし買ったぁ!!」

 

 表示枠越しに、あーあ言っちゃったよ、的な気配が来るが、そもそも一番不満なのはこちらだ。

 

 ……フフフやっぱ普通逆よね、これ。全くあのお馬鹿、後でリテイク要求してやるからこれ終わったら覚悟しなさい。

 

 つまり勝って正しいデートだ。浜辺はないが、武蔵だったら重力の海と波ならある。ホライゾンと愚弟を交えてダブルデートというのも良い。

 

 ともあれ、今はその伊吹だ。

 ──もう誰も失いたくない。

 結局はそれだけのことで、きっとそれは、切り捨てたつもりでいる今のホライゾンも例外じゃない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 恐ろしい未来のもしもは、笑って蹴り飛ばせる程度のものだと。希望でも楽観でもなく、自信と確信で示して欲しい。そのためには不可能を可能に変えるくらいはして見せろということだ。

 それすら出来ない程度の意志ならば、世界に挑む資格はない。取り返しがつかなくなる前に、今は痛みに耐えてやり過ごせと。本当は痛くて泣きたい筈の彼が言う。

 

 ……そうよね。

 

「だってアンタ昔は、ホライゾンを交えて皆で遊ぶ時──いつも笑っていたんだもの」

 

 子供の頃、今の自分たちのように鬼ごっこや隠れんぼなどをして、よく遊んだ。

 まだ愚弟じゃなかったトーリは、妙なところに昇っては降りられなくなったり、狭い隙間を通ろうとして挟まったりして。

 ホライゾンは、そんなトーリに冷えた目を向けて突っ込むが、いつもあの子を見つけて捕まえるのは彼女だった。

 既に一部位が発育の兆しを見せていた浅間は走るのが遅くて、半泣きになることが多く。

 意地の悪い伊吹は、ちゃんと届く距離にいながらも、しかし煽って。

 だから自分は、こっちも構えと少し苛立ち、そんな彼をとっちめることが多かった。

 

 世界が寂しくなると、彼は言った。

 ホライゾンが軽いのではない。ホライゾンもそれ以外も彼にとっては全部重くて、だからこの十年で慣れたつもりでいる現実の方がまだマシだと、伊吹自身を誤魔化している。

 だから決めた。

 

「十年──アンタ無駄に我慢強いせいで随分掛かったけど。今は私が、アンタの全部を助けてあげる」

 

 

+++

 

 

 ──思い出すのは、十年前のこと。

 ホライゾンが死んだ事故に巻き込まれ、治療を受けて戻った弟は、抜け殻のような有様だった。

 最初は言葉少なだったのが、やがてほとんど喋らなくなり。食欲がなかったのが、次第になにも口にしなくなり。食べてもいないのに自ら吐くことを夜中に隠れて繰り返した。

 

「たすけて……」

 

 当時家には姉弟ふたりだけで、両親には頼れなかった。それでもこのままでは弟が拙いというのは理解して、子供ながらにどうにかしようと考え──自分は伊吹を頼った。

 別に、周囲に大人がいないわけじゃなかった。浅間の父は散歩と称して健康回復用の符をくれたし、御近所だって温かかった。気遣い以上は踏み込んで来ず、見守っていてくれたことは今でも有り難く思っている。

 その上で喜美が選んだのが、力のない、所詮は同じ子供でしかない伊吹だったのは──多分、同じ子供だったから。

 怖かった、のだと思う。色々なことがありすぎて、正確なところは今でも解らない。

 ただ、日ごとに痩せ細り壊れていく弟。その姿が、毎夜の嘔吐の音が脳裏にこびり着いて離れなかったのは確かだ。

 だからきっと、その時助けて欲しかったのはトーリではなく──自分。

 思い返すと巻き込み事故に近いものを感じるが、それでもあの時の自分は、同じものを同じ価値観で共有してくれる誰かが欲しかった。ひとりじゃないと、そう思わせてくれる誰か。

 

 そして、忘れられないあの日。──その日は、伊吹が夕食を作ってくれることになった。弟は、こちらが見ている間は形だけでも食事を口にすることは知っていたから。まずは一食ちゃんと食べさせることを目標に、ふたりで見張れば大丈夫だろうと、そう思った。

 結果、そうはならなかった。

 これまでは、言えば一応は聞いた弟がその日は違った。なにをしても動かず、匙を持とうともしない。どうしたのかと問えば、

 

「ホライゾンは、もうなにも感じないんだよ」

 

 瞬間的に殴り掛かったのは、喜美だった。

 トーリを椅子ごと吹っ飛ばして馬乗りになり、拳の握りも知らずに、荒れた感情のままに弟の顔面を何度も殴り付けた。

 反応はなかった。その時弟は既に感覚の麻痺が始まっていて、打撃の痛みなど通じていなかったのだ。これはただ肉を叩いているのと同じなのだと、感覚で理解させられる。

 ふざけないで、と叫んだのを憶えている。

 

「ホライゾンが死んだからって、アンタが死ぬ理由にはならないじゃない……!」

 

 言葉に、弟はただ薄く笑った。

 もうなにも感じない、彼女と同じになりつつある己を自覚しているのだ。

 なんだそれは、と思い。ミキサーされた感情に、目尻に浮かぶものを喜美が感じたところに──頭上、影が来た。

 伊吹が、底冷えする程虚無を湛えた瞳でじっとトーリを見下ろしていた。

 

 ……正直、ああ、これは死んだわね。と思ったものだけど。

 

 死のうとしていることに憤った筈が、その時だけは自然な程に「あ、弟死んだわ」くらいにしか思えず。止める気も起きなかったのは、思えば殺気とか感じなかったせいだろう。

 対して弟は、どうあったところで己にはもう関係ないとばかりにヘラヘラと、悍ましい笑みで言う。

 

「──俺はもうホライゾンと同じだ」

 

 伊吹はただ、

 

「そうか」

 

 とだけ返した。

 彼は喜美のことを退かし、

 

 ──夕食のメニューは、麻婆豆腐だった。

 深い理由はない。痩せ細ったトーリに流し込めて、子供でも然程難しくない料理という条件。その中で最初に思い付いたのがそれだったのだろう。

 (マー)(ラー)を除けば、大部分は胃に優しい豆腐とあんかけだ。刺激物は予め別皿にでも避けておいて、欲しければ自分たちで足せばいい。

 

 結果だけ言うと伊吹がトーリの下着の中に()()()()と大量の鷹の爪を流し込み、チンーコ足蹴にしつつ重量掛けて上から押さえつけた。

 数秒の後に反応があった。弟は今までが嘘のように声を上げ、震えと涙と、おまけに涎の泡を撒き散らしながら、必死としか思えない勢いで床上を転げ回った。

 

「あ゛、あ゛あ゛、イ゛ッ゛、ギッ゛、あ゛、ア゛、あ゛ア゛ア゛──!!!?!?!?!?!!」

 

 助走を付けて戻って来た感情のまま、言葉にならない声を響かせたトーリの姿に、伊吹は無表情のまま一言、

 

「うるせぇ」

 

 鼻っ柱にグーが入った。

 そのまま彼はわけも解らず喚き散らすトーリの胸ぐらを掴み上げ、それ以上の叫びを叩きつけた。

 

「ホライゾンと同じになるだと──舐めたこと抜かしてるんじゃねぇぞ、このクソ馬鹿がッ!!」

 

 同時に頭突き。勢いで彼の額が割れ、飛び散った血が僅かにこちらの頬を汚した。

 衝撃で仰け反ったトーリに対し伊吹が、無理矢理視線を合わせるように掴んだ胸ぐらを強く引く。弟の衣服が少し破ける音がした。

 

「そんなに言って欲しいなら言ってやる。確かにホライゾンを死なせたのはお前だよ。お前のせいだ。それをお前は──俺たちからホライゾンを奪っておいて、()()()()()()()()()()()()!? 手前ぇ一体何様のつもりだ! ふざけんなッ!!」

 

 言葉に、弟が呆然と目を見開いた。

 

「事故でホライゾンが死んで、こんな樣になった馬鹿がいるにも関わらず! 手が届く場所にいる手前ぇが死んで、それで誰もなにも感じないと本気で思ってんのか!? 同じように後悔して! 同じように自分を責めて! そんな風になるかもしれない人間を、よりにもよってお前が増やすのか……!?」

 

 勝手だと、喜美は思った。

 こんなのはもう叱咤じゃない。説得ですらない。

 そこには優しさだとか、同情だとか、気遣いの欠片もなかった。これでははただの癇癪と変わらない。()()()()()()()()()()()()()()()()()という、ひたすら身勝手な我侭の押し付け。

 だからこそ、きっとそれは刃のように弟に突き刺さった。

 ふざけるなよ、と彼がもう一度呟いた。拳が一際大きく振りかぶられ、

 

「──なに勝手に死のうとしてんだぶっ殺すぞ!!」

 

 無茶苦茶言い出した。

 吹き飛び、団子虫のように転がった弟が、やがて呆然と顔を上げ、

 

「あ──」

 

 まるで生まれたばかりの赤子のように、大声で泣いた。

 その姿に安堵して、喜びと、言いたいことが溢れて来て。感情の波と一緒に溢れてくる雫が、止めようとしても止まらなくて。でも自分だけがこれを見られるのは、なんだか急に気恥ずかしくなって。

 だから喜美は、目一杯の感謝を込めて伊吹に飛び付き、

 

 ……空気読んでアンタも一緒に泣きなさいパンチ……!

 

 結局、三人一緒にわんわん泣いて御近所さん経由で浅間の家に保護された。

 その後は姉弟で色々と話して、以来トーリは今の愚弟になった。

 けれど、当時はそれでいっぱいいっぱいだったから。まるで意識から零れ落ちるように、考えることすらしなかった。

 

 ホライゾンの死と、この日の出来事が、伊吹の内面にどのような影響を与えたのか──誰も正確なそれを知らない。知らなかったのだ。

 




 死地に向かう恋人に縋り付いて引き止めようとする系のヒロインかな? そう──こいつが複数に攻略されるんだよ……!

 プロットとしては初期からあった動機なんですが、Ⅹ巻で実際におっ死にやがったパティーンとかいう爆弾が出てきたので無駄に重くなった感ある。だから言ったじゃん的なね(言い訳)
 
 出来ればこの話内で纏めたかったのですが、なんか普通に二万字越えやがったので。下手したら三万弱行きかねないのではと。これはキメェと慌てて分割しました。

 そんなわけで続きというか既に現段階で一万五千字越えの後編は明日、同じ時間にお届けします。
 
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