那雲邸に到着し、私達はこうして敷地の中に立っている。晴天の蒼の下、光を浴びて。
今日は使用人には暇が出されて、家族も皆が皆出掛けているのだそうだ。邸は無人となっていた。風と太陽だけが私達親子を見つめている。
トラックから降りた父が、荷運びを始めた。最初は段ボール箱に詰めた食器類だ。一番重いだろうものを選んだみたいだ。そういう無言の行動に、父性を少し垣間見たように思う。
こちらだ、と背中で教える父を、私達も適当な荷物を持って追いかける。私が衣類の一番、翔鶴姉が衣類の二番。かたや洋装、かたや和装の入る箱である。
白い建物は、こちらもしっかりとした造りだった。使用人には勿体無いほど。それだけ待遇の良い屋敷ということか。戸を開けると、綺麗な板張りの廊下が続く。
内装も外側と同じく、白。壁は漆喰ではなくて壁紙で白になっている。その下に土壁が隠れているのかもしれないけれど、この壁紙というものの雰囲気は何とも言えず、だけど好きだ。何しろ手触りが滑らかそうだし、ボロボロ崩れそうもないし。「高級」とはこのことか、と意を得る気持ち。
父が足を止めたのは、一階の端の部屋。ドアは鍵付きだが、今日は掛かっていない。左手に重い段ボール箱を抱え、右手でノブを捻って戸を開けた。
部屋に入ると、まず下駄箱が左手にある。
背が高いような気がする。私の胸より少し下くらいの高さ。少なくとも、私達の持っている履物を全て入れてもガラガラの状態になるだろう。行き場のない何かが増えたらここに来るかもしれない。すこしみっともないけれど。
そして、段差。これと下駄箱合わせて、ようやくここは履物を脱ぐことが出来る家だと分かる。洋館のようでも、やはり日本の住宅ということか。
上がるとすぐにさっしが横に走っている。襖が通るのか。洋館調の見た目なのに、中身はかなり国風だ。折衷というより洋の皮を被っているだけみたい。
父がまた先に上がる。
中は畳敷きの一室、それと襖が二面。
父が箱を畳の上に置くと、襖の両方を開けた。
片方は押入れ、そしてもう片方は板張りの部屋。こちらに台所があった。
控えめに言っても、立派すぎる部屋だ。二人で暮らすにしても広すぎる。少なくとも、今までを六畳一間で過ごしていた私達にとっては。
こんなに良い部屋に暮らして良いのだろうか。そんな不安が顔に出ていたのだろうか。父はそれに否と答えた。
「使用人の皆が同じ部屋だ。むしろ、君らは二人で使うのだから狭いくらいでな」
凄い屋敷だ。そして、あまりに優しい屋敷だ。おそらく、ここで暮らすことは本当に幸せなことなのだろう。現金な考えは我ながら情けないが、来て良かったと本心から思う。むしろ、その優しさにこそ不安を覚えてしまうくらい。
それをも見越したのか、
「娘に与えられるものとしては、これでも僅かに過ぎる、そう思うよ」
父に遠慮などいらないと、むしろ情けないと、この人は言ってくれる。
そう言われても、降って湧いた親子の関係だ。遠慮はどうしてもしてしまうし、ぎこちなくなる。
親に甘えるというよりも、好意に甘える感じだ。
「私は、彼女の忘れ形見である君たちをこの手の内で守れることが嬉しい、それだけだ。君達もそれだけで良い。取り返しは付かないが、せめてこれからの事くらいは、世話を焼かせておくれ」
父親たり得ないとしても、それでも父親として在りたい、その心は無碍に出来ない。
ならば、私達は遠慮してはならない。親孝行の第一歩のために、父の言うその僅かなものを受け取るべきだ。いや、受け取りたいし、それに感謝を返したい。私達には、その方法まで用意してもらっている。
だから、
「ありがとうございます、お父様」
そう言って、頭を下げた。
奇しくも姉も同時、示し合わせたようにぴったりと。
それに破顔して父は、
「いや。…なあに、気にするな」
父性というものを私達に示した。
●
月の青い光は窓のさんで十字に切られて四つ。
二つは枕元、もう二つは顔を照らしている。
初めて見詰める天井を、変わらぬ寝床から見詰めている。月の色だって変わらないまま。二人の夜は、何も変わることはない。
冷房が効いて寝苦しくないこと、それ以外は。
「瑞鶴」
「なに」
「頑張りましょうね」
「そうだね」
どうということもない言葉を交わして、仄明るい目の前を見ている。
ふと、思った。翔鶴姉は私とどう違うことを考えているのだろうか。私より利口で立派なこの姉は、私とどう違う思惑でこの道を是としたのだろう。この道にどんな未来を見たのだろう。私には見えない、この先を。
「翔鶴姉、どうしてこうすることに決めたの」
「こうするって、何を」
「お父様の所に来る、ってこと」
しばしの沈黙が起きた。それに戸惑うのは私、そして姉。
私の言葉は意表を突いたし、姉の無言に私は困惑した。
何故?
それを問われて窮するのは、何故?
応えのないままに、静かに夜は更けていく。
そのうちいつのまにか、私達は眠りに落ちていった。
●
朝が来た。
次には、目覚めが訪れた。
続いて温かい布団と心地良い気怠さが包み込んでくる。
朝だ。そう、朝。これほどまでに心地良い朝。
湿っぽくない布団、鼻歌のような機嫌で稼働する大タービン、空調は湿度を吸い上げる。快適度数、これ青天井なり。
干しても乾かぬ布団、むわりと不快な空気、纏わり付かれて寝汗は滲み、布団が一夜毎に重くなっていく……そんな悪循環とはおさらばだ。
布団も枕も変わっていないが、全てが違う。こんな目覚めは初めてで、世界観の違いを感じる。これが扶養下ということか。まぁまるで本質ではないのだが事実ではある。
さて、寝返りを打って右隣の姉を見る。
いつもシャンとしていた姉は、今日に限ってそれ以前の問題。深く眠り込んでいて、正に昏々と言ったくらい。
姉には数々の敗北を喫してきた。というか毎朝それを積み重ねていたのだけれど、今回で連敗は打ち止め。おお、妙な達成感で鳥肌が。自然と口許が吊り上がる。
嬉しくなって、つい子供のように隣の布団を揺すりたくなった。というか気がついたらもう揺すっていた。
「しーずーるーねーえー、もう朝だよー、とっても気持ちのいい朝だよー」
ごそごそごそごそ。
布団の衣が揉まれて、低い衣擦れの音がする。姉は揺れに合わせて寝息を乱し、虚ろな唸りも漏らしている。
「……ううん、朝……朝?」
「そうだよ、気持ちのいーい朝だよ」
「朝……」
眠たげな声。十分癒やされたろう、と問い詰めたくなるくらいにいきなり疲れた抑揚。
「……ごめん……瑞鶴、もう少しだけ寝かせて……」
「ええ?翔鶴姉、どうしちゃったのよ。早起きで私に負けたことなんてなかったのに、今日に限ってなんで」
あまりに元気のない姉には合点がいかない。こんなに気持ちよく寝れたのに。
そこで、ようやく答えが分かる。
「私の感覚だとね……今はまだ四時台だと思うの……」
「へ?」
虚を付かれて、慌てて部屋の時計を見る。
部屋の隅に寄せた机の上で、規則正しく針を進めるそれを。
そしてそれが指した時間は、姉の言うとおり確かに四時台だった。四時半を回ったくらいだ。いつもなら六時半より少し前に起こされてきたのに、今日はそれより二時間くらい早い。
「……ああ、そうか。私が寝れてないってコトなのか」
そう、寝たのはともかくだ。こんなに早く起きてしまうとは全く考えていなかった。精々僅差で勝っていたくらいだと思い込んでいたから。
ようやく状況が呑み込めると、急に眠気がやってきた。たぶん、興奮もなにもまるでなくなったからだ。
やたら急に落ち着いてしまった。むしろ落ち込んでしまった。なんだ、これは。おかしくなってきた。
「起こしてごめんね、翔鶴姉……」
そう言って、布団をかぶり直しもせずに丸くなった。
意識のなくなるその一瞬。体の中が、灼熱と悪寒でせめぎ合うのが分かった。
●
「……風邪、ね」
「うん……」
ようやく六時前を迎えて翔鶴姉が起き、私の様子を窺う。額や首に手を当てたりして熱を測って。翔鶴姉の手は冷たくてすべすべしてて、やたらにくすぐったい。そのせいで息が詰まったり咳き込んだりしてしまった。別に、身内の手で性欲を催すとか、そういうことはなかったけど。あってはならないけれど。
ともかく、これからお仕事を教えていただこうと言うのに、私は初日で躓いたというわけだ。私は思ったより緊張しいなのかもしれない。心が弾んで仕方なかったのは、そうなんだけれど。自分の背景が分かって、闇に光が差したようだったのだ。どういう形であれ、親子、家族でいられるというのは私の望むところであったし、それに息巻きすぎたんだと思う。トドメが慣れない冷房だ。いろいろな変化の結果が、この風邪、このざまだ。ああ、なんてバカなんだろう。新世界への一歩がこんな体たらくで始まるなんて。でも、
「……翔鶴姉、準備しよう」
「瑞鶴……無理しちゃだめよ」
翔鶴姉は心配そうな声で私を諌めようとする。でも、ここは私達の家であると同時に仕事場なんだ。そこで下手をすることは、父の顔に泥を塗ることになる。新しい家族。そう、本当はずっと欲しかったお父さんの前で、私は立派にしていたい。何にもなりたくなかった私の、初めての一歩だから。だからどうしても譲りたくなかった。
けれど、
「……加減は、どうかね?」
「お父様……」
その、父がやってきた。娘を招いて初めての朝だ。使用人と遇するとは言っても、まだ私は客人なのかな、と思った。早くここに馴染みたい。ここの一員になりたい。そう思って、
「大丈夫、です。お父様」
私の自慢のお脳の足りない笑顔で、笑いかけた。でも、
「お父様、瑞鶴は熱を出していまして……」
「翔鶴姉!」
「熱を」
翔鶴姉は私の折角の空元気を無為にして、お父様に私の具合のことを言ってしまった。どうしよう、私、こんなところで躓きたくない。だから、笑顔も忘れてしまって、布団の上で土下座の体勢になった。必死になって。
「お父様、私、大丈夫ですから、働かせて下さい、お願いします」
「瑞鶴!」
翔鶴姉は私を案じてこう言ってくれている。けれど、初めてなのだ。私がこんな強情になれたのは。こんなにも欲を出したのは初めてなのだ。きっと翔鶴姉だってこの特別に気付いてくれるはずだ。だから、
「お願いします、働かせて下さい……」
そう言って、頭を地べたじゃなくて布団だけど、擦り付けた。
するとお父様は、ふーむ、と重々しく鼻を鳴らし、
「無理をするではない」
そう言って、私の頭を撫でてくれた。
でも、それじゃあ、いつまでたってもお客様だ。そうじゃなくて、私は、家族のために頑張りたい。だから私はまだ頭を擦り付けていたままだったのだけれど、
「娘を虐げるような親には、させなんでくれるか」
それを聞いて、ハッとなった。
そうだ、私はこの人の娘になったんだ。その娘が、フラフラで仕事をしていて心配を掛けるよりは、休んだほうがよっぽどいい。……焦りすぎだ。単純なことだっていうのに、自分の事ばかりで忘れてしまっていたんだ。
私は自分で自分が情けなくなって、より一層頭が上がらなくって、
「ごめんなさい……」
そういうのが精一杯だった。なのにお父様は剛毅に笑って、
「なぁに、男親冥利に尽きるものよ。娘の世話を焼ける、これに優る喜びが、あろうものかと」
そう言って、私の髪を優しく撫でてくれた。
「今日は休んで、元気な姿をみせておくれ」
それに、私は顔を上げる。着衣が乱れて、肉付きの悪い体が見え隠れしてみっともない。けれど、私はお自慢の笑顔で精一杯喜ばせようと思って、
「ありがとう、お父様……」
それだけ言うと、私はまた布団に沈もうとしていた。
体を支える力が強くって、男親の力強さ、暖かさってこんなんだ、って安心して、私はもっとニッコリとしていただろうと思う。情けない顔になったかも。でも、今の私にはそれしかないから、でも、それだけは自慢だから。お父様には見せてみたかった。
「おやすみ、瑞鶴」
ゆっくりと布団が私の上を覆っていく。そして、私の口元に水差しが差し込まれて、それをちゅうちゅうと赤ん坊みたいに吸うと、喉が潤って落ち着いた。多分、翔鶴姉がやってくれたんだろう。
……眠気が、少しやってきた。このまま眠ってしまえそう。頑張って治そう。きっと夜にはもう元気になっていられるように。
「おやすみなさい……」
そう言って、私はきっと笑顔で眠りについた。
二人の静かな笑い声が私の子守唄になって、すぐに深い深いところへと沈んでいった。