瑞の鳥は片想う-蒸気浪漫の世界で-   作:黒灰

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本作は大体6,000字、3場面程度を目安に進行させていこうと思っています。
前作と違いボリュームは大幅に下がっていますが、ご留意下さい。


彼女の新世界が開くまで

 

 翔鶴姉はその日からお仕着せを貰って仕事を始めていた。

 

 私が昼に一度起きると、彼女は既に丈夫で動きやすい黒の綿着物と白い割烹着を着ていて、私はそれに些か以上の憧れと焦りを持ったと思う。心の片隅で、少しだけ置き去りになったような孤独を感じた。

 でも、それは杞憂だ。翔鶴姉は一足先を行ってくれただけなのだ。私は、それに付いていけばいい。このことに気付くと、私の甘えが首をもたげていたことにも同時に自覚したのだけれど、不安の二感情を押し流す安心で落ち着いた。

 いつもどおり。優しい姉にお世話になる。それが私のあるべき姿。決めたことは決めたこと。流されるべきには流される。それでいい。

 

 朝食は私が寝たばかりということで抜きになっていた。

 私が起きた理由の一つは喉が渇いたということと、それ以上の空腹感からだった。まぶたを開けると、やはり綺麗な天井が広がっている。見慣れた曇り空を透かして差してくる陽光は部屋を照らしていて、冷房の効いた部屋でも灼けるように熱かった。枕側に窓があるというのも困りものだ。こういう、午後の眠りを楽しむには少し厄介だと思う。私の場合、今回は楽しむ間も泣く病魔によって伏せらされているからもあるだろうけれども。

 

 今は外が少しざわめいている気がする。

 今日は那雲邸に人が戻ってきていて、使用人たちがこの建物で昼の休みを謳歌しているところなんだろう。知らない人の気配は私を落ち着かなくさせている。

 

 翔鶴姉は食事を持ってきていて、台所でそれを私の食べさせる準備をしている所だった。今日はコメ以外の食材がないから、多分どこかで分けてもらってきたんだと思う。

 私と彼女の間、畳の間と板の間を分けるふすまのサッシが私達の距離を必要以上に演出しているようにも思えた。後ろ姿は機嫌よく、細く赤いリボンでまとめた銀髪がゆらゆらと揺れている。

 

「翔鶴姉……ありがとう」

 

 私が起き抜けの掠れた声でそう言うと、彼女が振り向いて微笑んでくれる。真新しいお仕着せは心地が良さそうで、私はまた少し劣等感が湧き出た。……出遅れている、それは安心の材料であるけれども、やっぱり情けなさがないわけではない。

 

「いいのよ、瑞鶴。今、お昼を厨房で分けてもらったの。……鶏肉と大根の照り煮。嫌い?」

「ううん」

 

 嘘を吐いた。

 鶏肉は嫌い。なんでって、やせっぽちの私が小さい頃に悪童たちから”鶏がら”呼ばわりされていたから。自他ともに認める貧相な私の体だけれど、それを気にしていないなんてことはない。惨めで貧乏なだけの私を思い出すから、なんとなく鶏肉も嫌いだったのだ。音に聞く七面鳥のように丸々と太っていたら……それはそれでなんとなくだらしなくって嫌い。

 だから鶏肉は嫌い。

 訳もわからない論理だとも思うけれど、小さい頃に身についた価値観というものはこうして大人になりかけた今でも影を引き摺っている。食べれば、嫌いじゃない。共食いじゃないんだから、忌避することもないのだから。気付かないうちに食べさせられていたことなんていくらでもある。吐き気を催したことなんてこともない。ただ、その名前が嫌いなだけだ。鳥の肉。鶏肉。なんとなく、忌々しい。文句は言わないけれど。

 

 翔鶴姉が湯気の立つ器と匙を持ってくる。蒸気焜炉にかけた鍋から立ち上る湯気を切って、こちらに歩み寄ってくる。

 

 私は布団を捲くって重い体を起こすと、それを受け取った。彼女が私の右脇に座る。

 

 中身は、細切れの鶏肉がいくつも浮かんだ薄茶色の粥だった。透明の塊は大根らしい。……どうやら、煮汁も一緒にして米を煮たらしい。翔鶴姉らしい、気の回る一品だった。……嫌いと言いつつも、味まで嫌いなわけじゃないのだ。香りもいいし、食欲は唆られる。

 具合が悪くても腹は減る。私は、

 

「ありがとう、翔鶴姉。……いただきます」

 

 そう言って、口をつけた。

 

 美味しい。素直にそう思う。けれど、なんとなく忌々しい。この鶏肉め。はしたないのは分かっているけれど、肉を避けるようにして米と大根を口に掻き込んでいく。時々思い出したように嫌いな肉を掬って口に含む。悔しいけれど美味しい。

 

 ……美味しい。これは翔鶴姉の作り変えの手腕もあるけれど、なにせ元が美味しいのだ。なんだか、恐れ多くなってきた。そしてそれを病人のためとは言えこうして材料として使ってしまえるところに、豪胆だなぁと子供のようなことを思った。

 

 それはともかく、本当なら私のことなんて放っておいて休むべきだ。慣れない仕事で疲れもひときわだろうに、看病までしてもらって。

 

「ごめんね、風邪なんて引いちゃって……」

「いいのよ。明日は元気になってね。仕事の仕方は夜、私からも教えるから。ちゃんと覚えて私を助けて、ね」

 

 茶目っ気の溢れる微笑みでそう言って、私の失態を許してくれた。私もいつもどおりのへらへらした笑みを浮かべる。情けない。

 でも、私の内心はよそに、彼女は機嫌をもっと良くして、

 

「美味しい?」

「美味しい」

「良かった」

 

 微笑みを深くする。そして、私の緑がかった灰の髪を右手で掻き分けて、額を触る。

 手はやっぱりいつも通り冷たくて、頭の煮えている今は気持ちが良かった。目を猫のように細めてしまう。

 

「……少し、具合良くなったかしら?」

「うん、少し」

 

 実際、今は休めたせいか少しだけ気分が良くなっている。この調子なら夜にはなんとか持ち直せそう。私の返事を聞くと、翔鶴姉は頷いて、

 

「じゃあ、私はまたお仕事に行ってくるわ。大人しく寝ていること、ね」

「はいはい、分かってます」

 

 立ち上がって、玄関へと向かっていった。……私は粥をまた頬張ると、靴を履き直してドアを開けた彼女を見送った。匙を器に置いて右手で。やっぱり微笑んで返してくれた。

 

 さて、残りも片付けたらまた寝よう。水も飲んでから。

 布団の上で転んで倒れないように、しっかりと気を持って……。

 

 

 ●

 

 また目を覚ます。

 今度は電灯の灯りの中で。天井で白熱電球が空気に合わせてわずかばかりに揺れている。

 布団の中で、ごそごそと蠢いてみる。手、足と少し動かしてみた。力んでみたり、緩んでみたり。かつてカフェーで見たことのあるピアノ演奏のように指を跳ねさせてみたり。……その一挙一動に私は特段の疲れを感じなかった。昼に立ち上がったときとは違う。

 私の体は軽くなっていた。まだ肌が悪寒で少しばかり過敏なきらいはあるけれど、ひとまず山を越えて朝には治る見込みが出来た。これで私も明日からは働ける。その希望は私を明るくした。

 

 また台所から鍋の煮える音、蒸気焜炉からの噴出音が聞こえている。翔鶴姉が料理をしている。

 夕食だ。多分粥のような病人食じゃなくって、普通のご飯が食べられる。首を右に回してみて、台所の方を見てみる。

 

 お仕着せを脱いで、いつもの見慣れた褪せた白のシャツと紺色のスカートを穿いている。染みが何箇所にも滲んだエプロンも着て。靴下ももう脱いで裸足だ。まだくるぶしにはその赤い圧迫痕が濃く残っていて、仕事終わりに休む間もなく煮炊きを始めたのだと分かる。

 

 元気になったのだから手伝わなくっちゃ。そう思って、布団を抜け出して私は立ち上がった。それに彼女は蒸気の音で気付いていない。私はそのまま板の間、台所の床を踏む。たん、と小気味いい音がした。それに、ひやりとしてつるつるした床の感触が布団の中で蒸れた足に心地よかった。

 それにようやく翔鶴姉は私が目を覚ましたことに気付いて、

 

「翔鶴姉、お疲れ。手伝うよ」

「あら、もう良くなったの?」

「うん、明日の朝にはもうお仕事出来ると思うよ」

「良かったわ」

 

 微笑む彼女の右肩側から鍋を覗き込む。

 

「今日は……どんなのかな?」

「ふふ、もうお手伝いすることはありません。簡単な煮物だから、あとは待っているだけよ」

 

 蒸気焜炉―――――鍋敷きのような円盤の下に蒸気の管が入っていて高熱蒸気が循環している――――――は二口あって、その下部にはオーブンが備え付けられていた。レストランのような大きな厨房だと、瓦斯燃料を燃やして温める火力オーブンがあったはずなのだけれど、私達庶民にとってオーブンとはこういう、蒸気を吹き付けて空間を満たして加熱するものだけだ。……きっとこのお屋敷の厨房にはそれがあるんだろうと思う。

 

 その上に乗っている鉄の片手鍋の中身は、

 

「わぁ、立派な里芋と人参だ。油揚げまで入ってる」

「……お父様がね、こっそり分けてくださったの」

 

 私がびっくりした声で言うと、潜めた声で翔鶴姉が言う。

 そうだ、特別扱いされてるなんていい風聞じゃあない。特に、一家の主が厨房をこっそりと漁って持ってきたなんて話、聞いたことが無いし。いや、私がそういう上流階級のお話に疎いというのもあるのだけれど。当然のこと。

 

 私が慌てて口に手を当てて声を封じ込めると、彼女は何も言わず苦笑した。

 

「……ごめんなさい」

「ううん、いいのよ。……お休みの日には一緒にお買い物に行きましょうね。それまでは、ずっと里芋と人参、それと油揚げだけれど」

「……ううん、でも贅沢に慣れちゃうと、いいものが食べたくて買い物失敗しちゃうかもしれないね」

「そこは、身についた貧乏性でなんとかしましょ」

 

 二人して笑う。

 こういう時、姉は私と同じようにへらへらと笑う。貧乏の話をするとこう。

 結局は同じ育ちだ。こういうところだけはボロが出る。でも、彼女は本当によくやっていると思う。立ち振舞や言動まで、身についた教養がそうさせているのだろうか。上流のものとしても恥のないそれだ。学のない私では到底出来ない。多分、私はその集まりに交じると色々としらけさせてしまうだろうに違いない。

 

 なら、……私が召使で、翔鶴姉が娘になれば良かった。

 いや、私達は他人とするには似すぎているから無理な話、そうだったのだけれど。

 でも、似合うと思うのだ。少将の養女として、深窓の令嬢に収まる彼女の姿は。

 そうなると、私がいなければよかったのではないか?

 私だけ、置き去りになればよかったのではないか。あの六畳一間で、蒸し暑い布団の中で眠って、働いて、そして乏しい飯を食って。こんないいところに来なければよかったのでは。

 いいや、そんなこと考えちゃいけない。きっとお父様はそんなことを許さないだろう。それを是とする己を許さないだろう。あの人は実直な人だ。那雲忠一はそういう武人だ。

 だから、私はへらへらと笑っていればいい。今は。これでいいのだ。

 

 私は台所をあとにして、床の間の布団を一旦片付ける。敷布団は三つ折りに、掛け布団は四つ折りに。枕を載せて……押し入れにしまうのは面倒だ。その前に置いて、部屋の真ん中からは退けておくくらいでいいだろう。

 

 そして、壁際に追いやっていたちゃぶ台を真ん中に持ってくる。その下の薄い座布団二枚も。

 

 私がそうしていつもどおりの食卓を整えているころには、翔鶴姉は蒸気焜炉から鍋を下ろして、陶器の深皿二つに煮物を分けていた。もう一つの焜炉の上に乗っている炊飯鍋からも、米の炊けた何とも言えない香りが湯気となって立ち上っている。

 

 私はまた台所に行き、木で出来た蓋を開ける。そしてひっくり返して置いてある椀、それとしゃもじを手にとってご飯をよそい始めた。

 

 いい匂い。それに、いつもより米がいい塩梅に炊けている気がする。ともかく、二つの椀によそって、しゃもじは釜の中に置き去りにしてまた蓋を閉じ、ちゃぶ台の上に持って行った。

 

 翔鶴姉は私のその作業とすれ違うように机に煮物を持っていって、また台所に戻って箸二組を持って行った。

 

 私が米の椀をちゃぶ台に置き、座る。手を合わせて、

 

「いただきます」

 

 声を揃えて、そう言った。

 白熱灯、それと昨日と似た月が、私達を照らしていた。

 

 

 ●

 

 私は珍しく翔鶴姉より早く起きる。時計を見ると六時前だ。風邪ひきに風呂は少々厳しかったので快癒まで控えていたのだ。だから朝風呂を頂くことにする。

 

 部屋には風呂も付いている。銭湯通いの日々とはおさらば。立派な家風呂だ。

 仕組みは銭湯が地下管からの蒸気で湯を沸かしているのと同じで、この使用人棟のタンクに沸かした湯を保持、それを各部屋に供給。鉄砲風呂とはわけが違う。でも、あまり湯を使いすぎると皆が割を食ってしまうので遠慮しつつ使う。そういうこと。シャワーだってある。

 

 浴室はタイル張りで、浴槽は木桶。本当の桶のように深くはなく、洋風のバスタブのように形が整えられている。檜の香りがほのかに漂っていて心地良い。桶は少し黒ずんだりあせたりしたところが斑点のようにあるけれど、まだまだ丈夫そうだ。バルブをひねると、浴槽の底の縁の穴から湯がどうどうと溢れてくる。これならすぐに溜まりそうだし、時間帯的にも迷惑はかかるまい。そう思って、私はシャワーで体を清めた。

 

 浴槽に注ぐ湯の量は少し勢いを減じた。けれど、気にしない。シャワーを控えめな水量にして、髪から体までを濯ぐ。それと、持ち込んでいた石鹸、手ぬぐいで泡を立てて体をこする。一日分の垢と疲れが剥がれていくようで気持ちがいい。次に髪をたっぷりの石鹸を泡立てて揉み込むようにして洗浄、泡を洗い流す頃には程よく桶に湯が溜まっていた。指先を湯に付けると、いい湯加減。さぁ、入ろう。髪は軽く纏めて、湯に浸らないようにして。

 

 

「はぁ」

 

 思わず溜息が出る。換気口の扇はカラカラと回り、少しうるさいかもしれない。でももう朝だ、気にしない。今は病み上がりの疲れと汚れを落として気分良く働く準備をする、それだけだ。

 寝過ぎで凝りきった体をパチャパチャと湯を跳ねさせながら解して行く。肩を回したり、伸びをしたり。

 

 そして体が温まったかな、と思ったら上がる。そして体を拭いて、貰ったお仕着せに袖を通していく。

 生地は綿だけれど、薄くも厚くもない。でも丈夫。質がいい。普段のスカートやシャツと似ているようで根本的に品質が違うのだ。立派な着物。それに真新しい割烹着を着ると、あら不思議、こんな卑しい私でも立派な召使。思わず着物と割烹着の裾を翻すように回ってしまう。ひらり、と。着心地は上々。それに動きやすい。帯が細くて、でもきっちりと結べるから着崩れもしづらい。

 

 いいものを貰った。本当にそう思う。

 それを見て、起き出して着替えている途中だった翔鶴姉は

 

「うふふ」

 

 そう笑って嬉しそうだった。

 私も嬉しくて、

 

「あはは」

 

 へらへらとしたものじゃなくって、我ながらはつらつとした笑い声を上げたように思う。

 これから私の暮らしが本当に始まるんだ。お父様にお仕えして、お世話になるのだ。

 娘として、下仕えとして。

 

「よぉし、頑張るぞ」

 

 腹に力を入れて、鼻を鳴らす私の挙動には彼女はくすくすと笑う。見守っていてくれるし、一歩先を行ってくれている。不安は最初ほどには無い。私は那雲家のお屋敷の下仕え。誇りを以て、主人の顔に泥を塗らぬように前進だ。ようやく一歩を踏み出せる。私の新世界へ。

 

 靴下も履いて、靴を履くと、私は寮のドアを開ける。朝もまだ早い。夏とは言ってもそこまで蒸し暑くはない。むしろ気持ちがいい。廊下の窓は開いていて、風が通り抜けている。自然の風だ。冷房じゃなくって、本当の風。いいなぁ。

 

 この国は蒸気文明が発達し続けたけれど、西洋列強とは違って地熱で蒸気を得ている。だから煤塵で空が汚されることもなく、ただ曇り空が多いだけ、そんな綺麗な国になっているのだ。こういう時、この国に生まれたことを喜ばしく思う。だって、空気がいつだって美味しいのだから。

 

 私が部屋を出ると、翔鶴姉が続いて出て来る。やっぱり髪はリボンで襟足あたりで纏めて垂らしている。これが仕事の髪型らしい。でも私は、耳の上辺りでまとめる。右、左。尻尾が二つみたいな髪型。これが私のこだわりかもしれない。羽根のようだから。どこでも翔んでいけそうだから。……根無し草になりたいってわけじゃない。ただしなやかな鳥のようでいたい、そういうゲン担ぎだ。

 

 翔鶴姉が後ろ手にドアを閉めると、

 

「さ、ついてきて」

「はい、先輩!」

「先輩って、一日違いじゃない」

「ふふん、頼りにしてるからね、翔鶴姉!」

「もう……瑞鶴ったら。そうできればいいけれど……頑張るわね。だからあなたも」

「うん、もちろん!」

 

 さぁ、お屋敷のお仕事が始まる。

 

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