「まもなく高崎、高崎です。」
金沢から新幹線に乗り、群馬県の高崎駅で降りる。北陸新幹線のおかげで、ここまでの道程がかなり楽になったと春樹は一人静かに感動していた。何故群馬県に向かっているかと言うと、まほから1泊2日の温泉旅行に招待されたのだ。ドイツへ旅立つ前の家族旅行。本来なら久しぶりに姉妹で過ごすのだから邪魔しては悪いと断ったのだが、「日本を離れる前に大好きな君たちとゆっくり過ごす時間が欲しい。」などと返答に困ることを言われ、否応なく行くしかなくなったというわけだ。ミカは無人島生活がこたえたのか、しばらく引きこもりを決め込むようで「楽しんでくると良いよ」と一言だけ言って春樹のベッドにうずくまっていた。明日には帰ってくるので、シチューとパンを置いておけば大丈夫だろう。もしもの時はアキとミッコが何とかしてくれるはずだ。
新幹線の改札を出ると、あらかじめ決めていた集合場所であるコーヒー店に向かう。時間的にはみほが同じ時間に到着しているはずなのだが…。見慣れた後ろ姿が店の出入り口でオロオロしていた。
「おまえそこで突っ立ってなにやってんだ?」
「ふぇ!?、ごめんなさ……あ、春樹君!」
驚いたり謝ったり、してから春樹の顔を見つけるや否やほっとした顔をするみほ。とりあえず変わりはないようで何よりだ。
「良かったぁ…一人だとなんだか入りずらくて…。」
たかがコーヒー屋で何を言っているんだか…。普段戦車喫茶というもっと入りずらい場所に行ってるくせに。
「ここで立ってる方が怪しいだろ。」
「そ、そうかな?」
人の往来が多い場所で立っているのも邪魔だろうから、店内に入る。出入りの多い駅の喫茶店は、なかなかの混雑具合だ。今日のコーヒーならチョコかキャラメルが相性が良さそうだ。
「お前甘い方が良いだろ?チョコかキャラメルどっちが良い?」
「じゃぁ…キャラメルで。」
ホットコーヒーとカプチーノ、スコーンを注文する。それとカプチーノにはキャラメルシロップを入れてもらった。
「なんだか慣れてるね。」
「コーヒー屋は通い慣れてるからな。ちょっと食うか?」
「うん、食べる。」
とは言えここまで洒落た雰囲気の店は知らないがな。あのコーヒー屋はどちらかと言えば落ち着いた、アットホームな場所だから。1つだけ空いていたテーブル席に座ってから、スコーンをナイフで切り分けてフォークをみほに渡す。自分の分は紙で包んで食べれば良い。
「姉妹で出かけるのはいつぶりだ?」
「えっと…中学生の時以来かな?」
とするとおよそ二年ぶりに姉妹がプライベートな時間を過ごす機会なわけだ。そう思うと途端に罪悪感が沸く。
「本当に俺らが付いてきて良かったのか心配になってきた。」
「良いんだよ、私たちがそうしたいんだから。それに春樹君はエリカさんが来て嬉しいんでしょ?」
まあそこは否定はしない。それに道中の保護者が増えるのは良いことだ。
「お前ら姉妹は学校以外だと途端にポンコツになるから心配なんだよなぁ。良く乗り換えで間違えずに来れたな。」
「そ、そこまでじゃないもん!…ちょっと両毛線を探すのに戸惑ったけど。」
間違って新幹線のホームに行ったけん、一本乗り過ごしたことは言わんとこう。
なにかをごまかすように、みほはスコーンをかじる。彼女は比較的しっかりしているからこそ大洗で一人暮らしが出来ているわけで、やはり一番心配なのはあっちの姉の方だ。今回は保護者が二人もいるから大丈夫だと思うが…。ちなみに今日は母親の方ではなく菊代さんが同伴してくれるらしい。本人の仕事が忙しいというのも要因だろうが、幼少期から彼女たちの生活を支えていた彼女の方がみほも遠慮なく楽しめる。それがしほなりの気遣いなのかもしれない。そんなことを考えていると春樹に一通のメールが届く。送り主はエリカだった。
―あと十分で着く。
たったそれだけの実にそっけないメールだった。
―了解、ちゃんと上越新幹線に乗ったか?間違えたら北陸に連れていかれるぞ。
―高崎までどっちでも変わらないでしょ、バカ。
通過するヤツもあるんだよなぁ。文面でもいつも通りのやり取りが行われ、自然と口元が緩む。
「エリカさんから?」
「良く分かったな。」
分かるよとみほは自身の口を指さす。
「春樹君エリカさんのことになるとすぐ表情変わるから。」
「そんなに違いはないだろ。」
「自覚がないなら、そういうことにしといてあげる。……で、どういうところが好きになったの?」
「さ!そろそろみんな来る頃だ、改札で待ってようぜ。」
ここは戦略的撤退だ。スコーンを早々に食べ、手荷物をまとめ始める。
「じゃあ追撃はエリカさんが合流してからにしようかな。」
そしてそれは春樹にとっては悪魔の笑顔であった。ばつが悪くなった春樹はみほの顔を見ないようにして、そそくさと店を出る。新幹線の改札前で待っていると、明らかに目立つ出で立ちの人物たちが現れた。と言うよりも、そこだけ人が避けて通る空間が出来ていた。
「菊代さんは普段から着物なんですか?」
「はい、こちらの方が過ごしやすいもので。」
相変わらず柔らかい物腰で話す菊代に形容しがたい安心感のようなものを覚える。ああ、大和撫子だなぁ…。大してエリカの方はというと。
「お前も、普段からそういう服着てるのか?」
「なによ、何か文句ある?」
白と水色を基調としたワンピースが、どこかの絵本の世界から飛び出してきたような、まるでおとぎ話の登場人物を彷彿とさせる格好だった。黒森峰の少し威圧感のある暗い色の制服姿しか知らない春樹からすると、予想だにしない出で立ちであったのだ。混乱するのも不思議ではない。人が避けていく原因の八割が彼女の浮世離れした格好にあると思われる。
「なんと言うかその…お姫様みたいで良いな。」
「な、なにいきなり変なこと言ってんのよ!」
春樹の思いもしない言葉にエリカは顔を真っ赤にさせた。
「さて、みなさん揃ったことだし行きましょうか。」
菊代に促され、吾妻線のホームに向かおうとしたところで、ガシッと肩を掴まれる。
「待て春樹、私の服装については何も言わないのか?」
まほの服装はなんと言うか田舎の女子高生という表現が一番しっくりくる。実をいうと同居人に買ってやった新しい服と色違いだったので、すぐに分かった。
「それし〇むらの新作ですよね?」
「良く分かったな、動きやすいし通気性も良いんだ。」
まほはとても満足そうな笑みを浮かべていた。着物を着こなす大和撫子、絵本から出てきたようなお嬢様、妙な迫力がある芋臭い美少女。ここまでの道中、この三人はきっといろいろな意味で目立っていたのだろう。
「流石まほさんだ、目的地に一番適応した服装だと思います。」
「そうだろう。それに安い、何も言うことは無い。」
まほが自慢そうに胸を張る隣でみほは少しだけ恥ずかしそうに俯いていた。みほは大洗で普通の女子高生たちと接しているおかげで一般的な感性が備わっているようだ。
「さて、みなさん電車が来てしまいますよ。」
春樹たちは次に乗る電車のホームへ続く階段を降りる。
「少し遅くなりましたが、春樹さんのお洋服もとても素敵ですよ。」
三人の後ろを歩いていると菊代が隣でそう言ってきた。
「ありがとう…ございます。」
「ふふ、しっかりした体つきの方はシンプルな服装でも格好いいですね。」
…そういうものなのだろうか。まっすぐ褒められる経験が少ないからか、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「どうした、喉でも乾いたか?」
「べつに…何でもないわよ。」
そんな会話を聞いていたエリカは不機嫌そうな顔で春樹を睨む。
「あらあら、あまり王子様をイジメたらお姫様が怒ってしまうかしら?」
「随分と逞しいお姫様ですね。」
「一人ぐらい強気なお姫様がいても良いと思いませんか?エリカさん。」
「し、知りません!」
からかわれていることを理解したエリカはそれ以上春樹に突っかかることを諦めた。やはり普段から曲者の親子のところにいるためか、菊代は見た目以上に強かのようだ。ホームに降りると、程なくして純白の特急列車が滑り込んできた。当たり前のようにグリーン車に案内され、とりあえず指定された席に座ると、隣にエリカが来た。
「なんでこっち来たんだ?」
「良いのよ。こっちで。」
エリカの言う通り前の席では西住姉妹が大学戦車道との試合についてや、最近の出来事について楽しそうに話をしている声が聞こえてくる。確かにこの雰囲気に水を差すのは野暮ってものだ。
「そういえばアンタ、キャブのEG2を引き取ったんでしょ?」
「なんで知ってんだよ。」
「前オーナーが私の父親と友達なのよ。それであの車、一番初めは私の父親が所有者だったの。」
なるほどそれで話が渡ってきたのか。それは何というか、奇妙なめぐりあわせだ。
「お前の両親って今は初期型のNSX乗ってんだろ?もしかしなくても車好き一家だろう?」
「そうでもないと思うわよ。」
いやいや、そんなわけ無いだろう。両親が乗っているNSXは車体番号が一桁と言っていた。年代を考えれば発表当初に購入して、それからずっと乗り続けていると考えられる。それにエリカにもポロのGTIのMTを乗せているのだ。世間一般から見ても車好きの家族と言える。なぜそこまで頑なに否定するのだろうか。エリカだって車が嫌いというわけでは無いはずなのに。その時マナーモードにしていた携帯電話が震える。どうやらメールが届いたらしい。頬杖を突いて窓の外を眺めているエリカを横目に携帯を開く。差出人は赤星小梅とあった。しっかり出発時刻を把握しているタイミングだ。
今日はうちの副隊長がお世話になります。保護者さんがいると言っても羽目を外しすぎないように!かといって何もしなさすぎも駄目だからね!節度をもって楽しむように。ルームメイトからのお願いです。この数日間ずっとソワソワしたり、ことあるごとに時刻表の相談をしてきたり、ここ最近で一番気合を入れた格好で行ったりしてるから、ちゃんと褒めてあげてくださいね。それでは良い週末を。Auf Wiedersehen!
彼女がわざわざこちらにメールをよこしてくるあたり、隣で外を眺めてる人物は相当楽しみにしていたようだ。ちらりとエリカを見る。すぐさま視線に気が付いたエリカが「なによ」と言った感じでこちらを見る。
「自動車部は順調か?」
「ええ、とりあえずは競技の開催をメインにして、現状は個人のやりたいことを尊重させてるわ。」
大学戦車道との試合が終わってもエリカはそちらの準備で息をつく暇も無かった。部室と整備のスペースは確保したので、後は私たちの活動指針だ。正直いきなり競技に出るのも難しい。練習すらしていないし、そもそも競技規則に沿った車両が一台も無いのだ。だから今年は部としての方向性を確立することに力を注ごうと思っている。競技をするのも良し、大会の主催を専門でするのも良し、整備が主体でも構わない。大切なのは自動車という機械にどう接し、部活動を通して何を学ぶか。それを決めるのはエリカ一人ではできない。現状の部員全員で決めることだ。
「まずは黒森峰の単独開催が目標ね。」
「オートテストあたりか?」
「…まあそれが一番可能性が高いわね。」
「できればあのポロは競技仕様にしたくないな。快適な車だから。」
「言われなくても何もしないわよ。自分の車じゃないんだから。」
「ま、折角楽しみにしてたんだから出来るだけ羽を伸ばせよ。」
そう言うと、かくっとエリカの頬杖が崩れた。動揺した様子でこちらを見てくるので、先ほど小梅から届いたメールを見せる。
「いい性格してるな、赤星は。」
「ええ、とってもね。」
その時みほが前の座席からひょこりと顔を出す。どうやら座席をこちら向きにしたいらしい。足元の荷物を上の棚に移し、前の席を回転させる。そしてとてもキラキラした笑顔で地獄のような一言を発した。
「それじゃあ取り調べを始めようかな。」
高崎駅でのみほとの会話を思い出す。どうやら冗談ではなかったようだ。何のことか分からないエリカは戸惑いの表情を浮かべてこちらを見る。春樹は諦めろという意味を込めて首を横に振った。なにせ姉の方も興味津々な様子で目を輝かせているのだ。これでは止めようがなかった。
西住姉妹による容赦のない尋問が終わる頃、いつの間にか線路は単線に変わり、電車は昔ながらの直流モーターをうならせて山岳地帯を縫うように走っていた。やがて、ゆっくりと速度を落としていき、山の中にぽっかりと空いた平野部の駅に着く。電車から降りると、標高が高いためか冷たい風が吹き込んできた。海の匂いに代わって木と土の香りを強く感じる。火照った体を冷やすにはちょうど良い気温だ。
「ここからは送迎車で向かいます。」
改札口を出たら、今回宿泊する旅館の名前が書かれたマイクロバスが駅前のロータリーで待機していた。荷物を預け、バスに乗り込む。町の中をしばらく走ると、川沿いの道に出る。どうやらここから山を登るらしい。程なくして良い感じの峠道に入る。
「30…オーバークレスト4L…」
ラリーストの血が騒ぐのか、無意識にペースノートの用語を口ずさんでしまう。
「エリカ、春樹が何を言ってるか分かるか?」
「まあ、何となくですけど。ラリーの用語です。」
ラリーについて少しだけ勉強していたエリカは良く使われる単語だけであれば辛うじて分かるようだ。
「ここの道は実際に全日本ラリーでも使われたことがあるんですよ。」
そんな会話を聞いていたバスの運転手がそう解説する。
「やっぱりそうですよね、あのガードレールとか妙に新しいですし。」
春樹が指さす先には一か所だけ不自然に真っ白なガードレールがあった。おそらくここで誰かがクラッシュしたのだろう。春樹は夢中になって窓の外の景色を眺めていた。2車線の道幅を目一杯使える上に、5速で侵入する高速コーナーもある。ここでラリーをするのは、かなり刺激的で楽しいだろう。全日本ラリー。全国の猛者たちが集う場に、いずれは春樹も飛び込むことになる。そう考えるとワクワクが止まらない。
「本日は規模は小さいですがお祭りも開かれるので是非行ってみてください。」
確かに外には小さな屋台が組み立てられている最中で、準備に追われている様子が分かる。温泉街の中は細い道の両端を様々な店で埋め尽くされている。ここを散策するだけでも1日がすぐに過ぎ去っていきそうだ。マイクロバスは程なくして旅館に到着し、5人はバスから降りる。赤い橋の先には見るからに歴史と伝統のある旅館が迎えていた。微かな硫黄の匂いが漂うことから温泉街にいる事を意識させられる。これは温泉も楽しみだ。行楽シーズンではあるが、館内はゆっくりと落ち着いた空気が漂っていた。先ほど車に預けた荷物を受け取ることなく、手ぶらで部屋まで案内される。赤い絨毯が敷かれた最上階の一番奥の部屋だった。体に鳥肌が立つのを感じつつ恐る恐る部屋に入る。
「…すげぇ」
大きく開けた2面の窓からは松の木が覗いている。そしてその背後に見えるのは榛名山だろうか。窓の外は渓流になっていて、早くも一部の葉は色づき始めていた。もうすぐそこまで秋が来ているらしい。短い秋を経て、冬になれば外は一面雪景色になるだろう。窓際の椅子に腰を掛け、しばし外の景色を眺めて小休止をする。大きな松の枝が揺れるたびに、柔らかく差し込んでくる光が部屋の中を照らす。羊羹を口に運ぶ。まるで小豆そのものを食べているような上品な甘み、それでありながら口当たりは滑らか。しっとりと舌の上に残った甘みを、濃い目のお茶で潤す。自然とほっと溜息が出てしまう。あぁ、落ち着く…。
「こんなに立派な旅館なのに、他のお客さんを見ませんでしたね。」
「そのように調整しましたので。」
エリカの質問に菊代が当然のように答えた。昨年春樹は西住流が関係している旅館に世話になったことがあるが、今回もそのパターンのようだ。思うところはあるが、今回はありがたく使わせて頂こう。
「さて、そろそろお風呂を頂きに行きましょうか。」
自分の荷物を広げるために、隣の部屋に移動する。この旅館は海外からの観光客需要もあるためか、個室のベッドルームも備えていた。これで夜の寝床も安心だ。手早く着替えと浴衣を用意して大浴場へ行く。折角群馬に来たのだから温泉を楽しまなければ損だ。それにここの温泉は酸性で、菊代さん曰く普段はあまりお目にかかれない泉質らしい。そういえば九州の温泉はアルカリ性が多いんだっけか。女性陣と別れ一人男湯へ向かう。今日は貸し切り状態なのでより一層気分が高揚する。扉を開けると、ヒノキで作られた浴槽が目に入る。絶えず浴槽に注がれる源泉の周りには湯の華が出来ていた。それだけで、濃い成分の温泉だと分かる。こんなに良質な温泉を一人で使えるなんて。
「これは贅沢だな。」
身体を洗ってから早速湯船につかる。酸性の温泉は入ったとたんに体に小さな泡が纏わりつき、少しだけ湯気が目に染みる。大きく深呼吸をすると酸っぱい空気と芳醇な木の香りが入ってきた。ここまで酸性が強い温泉は初めて体験する。窓の外からは先ほどの渓流の音と一緒に、山鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「あぁ…生き返る…。」
不意にそんなことを口に出してしまうほど、ここの温泉は気持ちが良かった。
「わぁ、エリカさん腹筋カッコイイ…。」
「あ、あんまりじろじろ見ないでくれる?」
「……。」
「た、隊長!無言で突かないでください!」
「あ、お姉ちゃんズルい、私も!」
「あぅ…ち、ちょっと、いい加減に……!」
「あらあら…。」
壁一枚隔てられたお隣からそんな声が聞こえてくる。春樹とて思春期真っただ中の男子高校生。特にエリカの事となれば気にならない筈がなかった。自然と壁の向こうの会話に耳を傾けそうになるが、そのたびに水風呂に頭を突っ込んで煩悩を払う。
「以前と比べてもさらに引き締まってるな…。装填主に欲しいくらいだ。」
「一応毎日トレーニングしてるので。それに整備で重いものを持つこともありますから、自然とトレーニングになるんです。」
「だから春樹君も凄い筋肉してるんだね。」
「アイツは別格よ、トランスミッションを一人で持ち上げるし。普段パワステもブレーキアシストも付いてない車動かしてるから尚更。」
「そう言えば安斎も春樹の体つきは芸術的だと褒めていたな。」
「アンチョビさん春樹君の身体大好きだもんね。」
え…何それ怖い。
驚愕の事実を知った春樹は湯船の中なのにも関わらず少しだけ寒気を覚えた。
「安斎だけじゃない、確かケイも春樹の身体を狙っているらしいぞ。」
「お姉ちゃんその言い方ちょっと怖い。」
「実際あんなことがあったんだから、今更よ。今思い出してもムカつくわね。」
これ以上この会話を聞いていたら危険な気がするので、春樹は早々に湯船から出ることにした。世の中には知らない方が幸せなことがいくらでもあるという事だ。きっと聞き耳を立てていた罰が当たったんだろう。
カラカラカラ…という男湯の扉が締められる音が微かに聞こえる。どうやら春樹が出ていったらしい。春樹は長湯が苦手なことを大洗のラリーでまほはしっかり覚えていた。
「春樹はエリカにぞっこんだからな。天と地がひっくり返ってもあいつ等になびくことは無いとは思うが。」
「まあ、そうですね…。」
「あ、そこはエリカさんも認めるんだ。」
「そりゃあ継続の隊長と同居してて何も無いから。心配はしてないわよ。そのおかげで女性の免疫もついてるんだし。」
「それはそれでミカさんが可哀そうな気が…。」
ふん、アイツの気持ちを知りながら”あんなこと”した方が悪いのよ。あっちは毎日会ってるから良いじゃない。私なんて良くて一か月に一回しか…。そんな鬱憤がつい顔に出てしまい、いつものように不機嫌そうな表情を作ってしまう。
「はいはい、ミカさんにやきもち妬くのはここまでだよ。」
「そうだぞ、春樹だってお前に会いたかったはず。それはお前も分かってるだろう?」
両サイドからたしなめられたエリカはそのままブクブクとお湯の中に沈んでいってしまった。
「Uボートの真似か?」
「あはは、きゅーそくせんこーだね。」
湯船から上がった直後、エリカはこの行為を後悔することになる。
短時間で群馬の温泉を十分に満喫した春樹は、部屋に戻ると菊代さんがいることに気が付いた。彼女も早めに上がっていたようで、外の景色を眺めながら団扇を仰いでいた。
「お湯加減はいかがでしたか?」
「すごく気持ちが良かったです。芯から温まりました。」
それはなによりですと菊代は微笑む。この近くに陸上自衛隊の駐屯地があることから、この旅館も西住流が関係しているのだろう。そうでなければ、こんないい旅館が貸し切り状態にはならないはずだ。
「……本当に俺みたいな人間がここにいて良かったのでしょうか?後で88㎜の砲弾にされませんよね?」
心配そうな春樹の問いに菊代さんが笑って答えた。
「まほお嬢様が珍しく我儘を言ったのです。奥様も無下には出来なかったのでしょうね。」
「昔からあの姉妹はあんな感じだったんですか?」
「まほお嬢様は昔から聞き分けがよく、手のかからない大人しい子でした。みほお嬢様は今よりも少々腕白でしたが…。」
いつも顔中泥だらけで帰ってきて奥様に叱られていたのですよと菊代さんは懐かしそうに目を細める。
「先日あの人にかなり生意気な口を叩いたので嫌われていると思ったんですがね。」
「いえ、むしろとても気にかけておられましたよ。『しっかりと監視するように』と承っておりますので。」
春樹が重たいため息をつく。どうしたものかと物思いにふけていると、ドタドタ慌ただしい足音が近づいてきた。そしてバン!と襖が勢いよく開けられた。
「大変だ!エリカが湯あたりした!」
「きゅぅ……」
目を回したエリカが座布団の上に寝かされる。
「人工呼吸!AEDってどこだっけ!?お姉ちゃん!」
「まずは…そうだ、逆さにして背中をさするんだ。」
よほど慌てているのか二人そろってとんちんかんなことを言う。
「なーにやってんだか。」
そんな二人を横目に氷枕と水分補給の準備をする春樹であった。
「……あれ?私…。」
「お、目が覚めたか。」
最後の記憶は大浴場から上がって体を拭いているときだった。何故か天井が見えたあたりから意識を失い、次に目を覚ました時にはエリカは大広間で横になって視界一杯に春樹の姿が広がっていたのだった。その横から菊代も顔をのぞかせる。時間を確認すると18時を回っていたところだった。1時間くらい寝ていただろうか。
「あんたなんでここにいるのよ。お祭り始まってるわよ?」
「行くわけねーだろ。」
強めの語気の春樹の言葉に声が詰まるが、かろうじて「そう…」と声が出てきた。ここは菊代さんあたりが残っているものだとばかりに思ったのが間違いだったようだ。
「眩暈などはございませんか?」
菊代が冷たいお茶を湯飲みに注ぎ、テーブルに並べる。二人はテーブルを挟んで菊代と向かい合うように座る。
「はい、大丈夫です。」
「丁度良い機会です。…お二人にお伝えしたいことがございまして。」
柔和な菊代の表情が固くなり、二人をゆっくりと見つめる。
「これは特にお二人にお伝えしなければならない内容です。お嬢様達には内密にお願いします。」
「ということは西住関係ですか?」
菊代が静かに頷き、二人の表情がひきしまる。
「奥様がご出身ということもあり、黒森峰は西住流の門下生が多く所属しています。それは逸見さんもご存知ですね?」
エリカがゆっくりと頷く。エリカは門下生ではないが、およそ半分を占める戦車道履修者が西住流の門下生である。さらにいうと門下生以外で副隊長以上の職に就くのは極めて珍しいことらしい。ましてや隊長なんてなおさらだ。
「西住流は現在黒森峰所属の門下生の強化、及び進学を推進する方針が決まりました。来年以降、西住流の入学制生が大幅に増える予定です。」
「……それはつまり、私を牽制するためでしょうか?」
もしそうであればあまりにも幼稚な考えだ。邪魔だからその強大な権力を振りかざすようなやりかたは大人げないにもほどがある。
「昨年の転落事故、そして今年の決勝戦、終盤での戦意喪失。本来であれば副隊長職の剥奪も考えられる案件です。」
「…下らない」
自然と春樹の口から漏れる言葉には静かな怒気が含んでいた。たかが学校の授業の一環であるのにそこまで干渉してくるのか。
「ええ、そうです実に下らないことです。しかし西住の人間が在籍していて二年も勝利から遠ざかってしまえば、手段を選ぶ余裕も無くなってしまうのでしょう。」
悲しそうな表情で菊代は静かに浴衣の裾を掴む。
「ですが、副隊長職の剥奪は無いんですよね?」
「はい。大いなる勝利のために今は耐え忍ぶときだと奥様が説き伏せられて…。」
しかしそれでもエリカが標的になっていることは確かだ。これから彼女の風当たりがどんどん強くなる。分かっていたことだが、実際に耳にするとやはり怒りが込み上げてくる。
「逸見エリカさん。あなたの目指す道は茨で出来ています。きっと何度も立ち止まり、阻まれ、傷つくでしょう…。それでも、進むという覚悟はありますか?」
「構いません。既に覚悟は済んでいます。」
迷いなく答える。今の自分には守ってくれる人がいる、支えてくれる人がいる。共に強くなりたいと思える人がいる。だから逸見エリカは変わらない。これからもずっと。春樹はエリカの言葉にゆっくりと頷いて答えた。
「お二人の関係はとても羨ましく思います。願わくばお二人により良い未来が訪れるように、微力ながらお手伝いが出来ればと思います。」
「あなたはあの危なっかしい姉妹を支えてあげてください。」
「ふふふ、分かりました。…ではお言葉に甘えまして、お嬢様達と合流しますね。お二人はもう少しお休みください。」
先ほどとは打って変わって、再び柔らかい表情になった菊代は笑いながら部屋を出ていった。
「なんだかすごいことになったな。あの西住流がお前に目くじら立ててるってよ。」
「昔の私が聞いたら気絶するでしょうね。」
くすりとエリカは小さく笑う。菊代さんはきっと気を聞かせてくれたのだろう。それならお言葉に甘えてやりたいことをやってしまおう。隣で正座をしていた春樹の膝に頭を乗せ、目を閉じる。そのまま30分ほど経っただろうか、閉じた目をゆっくりと開く。
「ん……。」
そのまま何かをねだるような顔で春樹の顔を見つめる。彼女の意図を察した春樹はエリカの頭を優しく撫で始めた。しっとりした髪は部屋の明かりできらりと輝き、まるで絹糸のように、さらりとしていた。エリカは気持ちよさそうに目を細め、春樹の手を受け入れる。
「お前ホントに人の気配が無いと甘えたになるよな。」
「良いじゃない。誰も見てないんだから。」
上体を起こしてから、春樹の胸の中に顔をうずめる。背中に手を回し、ゆっくりと力を入れ、深く呼吸をする。しばらくして満足したのか春樹から離れた。
「祭りはいけそうか?」
「大丈夫よ、そこまでやわじゃないわ。」
さっきまで湯あたりした人間の言うことではないが、春樹は何も言わずに立ち上がる。
「今から行けば丁度花火の時間だな。屋台まわる時間は無くなるけど大丈夫か?」
「構わないわ。」
広間の鍵を預けて二人は外に出る。山の中に立地している為か、夜は涼しい風が吹いていた。少し離れたところで囃子の音が聞こえる。ただやはり街灯が少ないためか足元が少し暗く感じる。組んでいた腕にエリカの腕がそっと通るのを感じた。
「手綱を握られてる気分だな」
「いいから黙ってエスコートしなさい。」
「はいはい。」
事前に決めていた集合場所である、少し高台になっている展望台の方に向かう。屋台が並ぶ通りから外れた小さな川沿いの道を進むと、屋台の騒がしさが少しずつ遠のく。砂利を踏む音が大きくなり、フクロウと虫の鳴き声がはっきりと聞こえるようになる。街灯が無くなり、月明かりだけが二人を照らす。ふと夜空を見ると、小さな雲の塊が月を覆い隠そうとしているところだった。ちらりとエリカの顔を見る。だんだんと暗くなる視界のせいで、前を見つめる表情が少し不安げに固まっている。それを見るといつもの嗜虐心ではなく、不思議と暖かな感情が湧き上がってくるのを感じた。視線に気が付いたエリカが春樹の顔を見る。途端に不機嫌そうな顔に変わった。
なんでそんな優しい顔で見るのよ、ムカつくわね…。
別にいいだろ減るもんじゃないし。
減るわよ、ばか。
視線だけでそんな会話をしているといつの間にか、頂上の展望台までたどり着いていた。
「ぎりぎり間に合ったようですね。」
入り口付近で菊代が二人を待っていた。
「お嬢様たちがあちらのベンチで待ってますよ。」
菊代に連れられて展望台まで行くと、ベンチに座っている西住姉妹の姿があった。
「もう、二人とも遅いよー。」
「エリカ、体調は大丈夫か?」
二人は仲良くお面を付け、みほは片手に綿飴をまほはチョコバナナを食べていた。
「はい、二人の分のりんご飴!」
そう言ってみほが二人にりんご飴を一本手渡した。
「一つしかないように見えるんだけど?」
「なら春樹、私のを一口分けてやろう。食べかけで申し訳ないが。」
「いいえ隊長、二人で食べます!」
みほの手からりんご飴を受け取るエリカを見て、まほの口元がにやりと笑った。それをみた春樹は「策士だ…」と小さく呟く。
「ほらアンタが先に食べなさい。」
エリカがりんご飴を差し出す。確かに甘いものがそんなに好きでもないので、一口だけ味わえば十分だ。齧ってみると、薄くコーティングされた飴の甘さと、リンゴの酸味が口の中で溶けて混ざり合う。…久ぶりに食べたけど、やっぱり甘いな。だけど思ったよりリンゴの酸味が強い。これは好きな味だ。
ヒュルルルル……ドォン!
丁度花火が始まったらしい。間近で見る花火の音の衝撃が直接腹の奥に響いてくる。でもこの感覚はとても慣れ親しんだものだった。同じ火薬を使ったものなのにこうも感じる印象が違うんだな…。
「曳光弾を改造したら戦車でも出来るか?いや、むしろ照明弾に金属粉を仕込むというのも…。」
「お姉ちゃん、花火に対抗しなくても…。」
横のふたりの会話を聞きながら定期的に差し出されてくるりんご飴を食べる。
「なあ昔の花火ってこんなにカラフルじゃなかったよな?」
「化学の知識を持った職人のおかげらしいわよ。花火って炎色反応でしょ?」
「なるほど…じゃああの水色は銅とバリウムが入ってるって訳か。」
「折角の綺麗な花火なんだから風情ってものがあるでしょ。」
ジト目でエリカに見られる。
「はい、スンマセン。」
正直言って花火よりも、様々な色の光で照らされているエリカの方が綺麗で、そっちばかりに気を取られてたとは言えない春樹だった。普段見えない首元がポニーテールに束ねられたことによってちらりと覗く。歩いてきたからなのか陶磁器のような肌は汗でしっとりと濡れていて、花火の明かりを淡く反射する。その暴力的なまでの魅力は少女から大人へ変わるまさにその境目であるからこその物なのだろうか。
「春樹、少し買いすぎてしまった。ちょっと頼めるか?」
まほは春樹にたこ焼きが入った袋を手渡す。
「夕食もあるんですから。」
「…反省してるから助けてくれ。これで夕食が食べられなかったら菊代さんに叱られてしまう。」
しょうがない、ここは助けてあげようか。たこ焼きを受け取って口に運ぶ。少々時間が経っているはずなのにたこ焼きは熱々だった。
「………。」
今度はエリカがまほと話している春樹を盗み見る。さっきからちらちら視線を送ってきたのが気になって仕方が無かったのだ。何か変なものでも付いていたのだろうか。気休め程度に髪の毛を耳の後ろに流す。
「ふぅ…あっつー。」
たこ焼きを食べ終わった春樹は熱そうに浴衣の襟元を手で持って仰ぐ。よほど暑かったのだろう頬を伝った汗がそのまま胸元に落ちた。ついさっきあの胸元にいたことを思い出す。あの暑い胸板に顔を埋めていると、彼の匂いで満たされて。そして太い腕で抱きしめられると言いようのない安心感に包まれる。それがエリカはたまらなく好きだった。
「はるき君…はるき君、エリカさんが物欲しそうに見てるよ。」
「たこ焼きは食べきっちまったぞ?」
「……むむ。」
みほは少しだけ考えるそぶりを見せて突然まほの腕に抱き着いた。
「突然どうしたみほ。」
「ほらほら、お姉ちゃんも続いて続いて~」
みほの意図を察したまほは春樹の右腕に左腕を回した。
「ぐぬぬ…。」
一連の西住姉妹の動きを見ていたエリカはその意図は分かっていたが、なかなか行動に移せないでいた。やはり人前では天邪鬼が出るらしい。そんなエリカを西住姉妹がじーと見つめる。
「うぅ……。」
耐えかねたエリカが春樹の腕に抱き着いた。よほど恥ずかしいのか結構な力で春樹の左腕を抱きしめる。そのせいかエリカの体温が上昇し始めているのも丸わかりだった。
「あらあら、では私はこうしましょうか。」
菊代は楽しそうに笑いながら後ろから春樹の頭を撫で始めた。
「あの…これは一体どういう状況で?」
「うふふ、嫌ならおっしゃってください。」
「いやとかそう言うわけでは…。」
その瞬間両腕がさらに強く締められるのを感じた。
「なにデレデレしてんのよ。」
「私もあまり撫でられたことないのに。」
両者各々の理由で春樹にあたる。
「あらあら。」
そんな光景を見て菊代さんは朗らかに笑う一方であった。やはり彼女はこの状況を楽しんでいる。やり場のない羞恥心と、胃を締め付けられるような緊張感を同時に味わうとは夢にも思わなかった春樹であった。
「必殺8切り!これで上り!」
食後は4人で大富豪をして過ごす。戦略家の3人は勝負ごとになると容赦がなくなる。満腹で油断したためか、あっという間に大貧民だ。
「皆様、夜更かしはほどほどにお願いしますね。」
「はーい。」
「分かりました。」
みほとエリカは素直に返事をするが、なぜかまほは不服そうに隣の別室を見つめる。
「春樹、なぜ別室で寝ようとしている?お前もこっちにこい。」
どうやらまほは春樹だけ別室で寝るのがご不満なようだ。しかし春樹とてそれにホイホイ応じる程危機感が抜けている訳ではない。
「そんなことしたらあなたのお母さんに八つ裂きにされてしまいます。」
「私はお前を信頼している。それでは理由にならないか?」
どこか思いつめたような真剣なまなざしを向ける。単純に、本当に単純に弟分と思っての頼みらしい。それだけの純粋な思いを踏みにじってしまって良いのだろうか。ここに来て春樹の気持ちが少しだけぐらついてしまった。
「他の二人の意見を聞きたい。」
「他の男の人は嫌だけど…春樹君は大丈夫って知ってるから。良いよ。」
「私も…別に構わないわよ。」
既に狭いテントの中で二人で寝たこともあるし、不慮の事故ながら春樹を抱き枕にしたこともある。それに比べたら同じ部屋で寝ることなど今更気にすることでも無い。
「保護者さん良いんですか?」
菊代は少しだけ考えるような仕草をしてから、人差し指を口に当て小さく微笑みウインクをしながらこう言った。
「奥様には…内緒ですよ?」
まほは「よし…」と小さく呟き、春樹の分の布団を引っ張り出し自分の隣に合わせてしまった。
「さて、勝負の続きだ。」
そう言って布団の上でトランプを分け始める。年上権限という奴だろうか。有無を言わさない雰囲気だった。
「分かりました、今日だけですよ。」
これはまほがドイツへ旅経つ前の最後の旅行。出来る限りまほの願いをかなえてあげたいという思いもあった。春樹は観念して大富豪に参加する。
「こうしてると修学旅行みたいだな。」
「黒森峰はどこに行ったんです?」
「静岡県の御殿場市だったな。」
「そこって自衛隊の総火演の会場ですよね。」
良く分かったなとまほは嬉しそうに笑う。それをみて普通の男子高校生であれば多少なりともときめくものなのだろう。しかし、春樹はときめきのとの字も沸いてこなかった。むしろ本当に姉がいたらこんな感じに近い気持ちになるのかもしれない。これも全てミカのおかげと言って良いのだろうか。
「良いなーお姉ちゃん、私も春樹君の隣が良かったな。」
「駄目だ、今夜は私が春樹を独占する。」
「………。」
エリカが少しだけ強めにクイーンを4枚出す。革命だ。
「あ、エリカさんがちょっと怒った。」
間髪入れずにジャックを4枚出す。誰も出せるカードがないため、ここでみほの3度目の大富豪が確定した。都落ちを確信していたエリカが悔しそうな表情を浮かべる。
「それじゃあ私はエリカさんを独り占め~」
そんなエリカにみほが抱き着く。
「隊長、今回だけですからね。」
「ありがとうエリカ、明日は春樹の所有権を返還する。」
俺の人権はどこに行ったのだろうと口に出したころで、現状が打破できるわけでも無く春樹は諦めてまほと最下位争いをすることにした。
「……明日ってことはまだどこかへ行く予定が?」
「ああ、楽しみにしていると良い。」
どうやら温泉に入って終了というわけでは無いらしい。確かにこれで明日はさようならでは少し寂しい。最後まで残しておいたとっておきのジョーカーは無残にもスペードの3に無効化されてしまい、大貧民が確定した。
「春樹、目がトロンとしてきたぞ。眠いなら寝たらどうだ?」
確かに先ほどよりもまほの声が遠く聞こえるような気がする。心なしか脳の処理能力も落ちているようで、視界もどんどん狭くなっている。素直にまほに従い、布団にもぐる。
「……おやすみなさい。」
眠そうな返事をする春樹を見てまほはクスリと笑ってから、そっと頭を撫でた。既に夢と現実の境目でまどろんでいる春樹はもはや無抵抗だった。
「……お前も撫でがいがあるな。」
普段は周囲に気を張り、ある種の緊張感が漂っている春樹であったが、こうして寝ているところを見るとただの少年か、それ以上に幼く見える。普段の言動がしっかりしていてで分かりにくいが、彼だってたまには誰かに甘やかされるべきなのだ。
「あれ、春樹君寝ちゃったの?」
「知らずのうちに疲れが溜まってたんでしょ。だいぶ気を遣ってたみたいだし。」
「そうなの?いつのも春樹君にしか見えなかったけど…。」
そりゃアンタら姉妹にはいつも気を遣っているからでしょうとエリカは小さくため息をつく。4度目の挑戦でみほの都落ちが達成されたところで、大富豪はお開きとなった。破産したみほは悔しそうな顔で再選を希望する。
「明日も予定あるんだからアンタも寝なさい。」
「はーい。じゃあ、布団に入ってからもう少しお話しよ?」
「しょうがないわね…。」
完全に明かりが消されても、しばらく二人の他愛のない会話が続いていた。
普段ミカが布団に潜りこもうとするとき、春樹は殆ど反射と言っても良い反応で目を覚ます。そんな日ごろの習慣の賜物か、弊害かどんなに熟睡をしていても人の気配を感じると勝手に目が覚める体になっていた。
「………何故だ。」
そのはずなのに、今回はその自己防衛装置が働かなかった自分を責める。夜中のうちにエリカがいつの間にか布団に潜り込んできた挙句、春樹を抱き枕にしている始末だった。ならば空いている左半身で何とか対処しようと試みるが、なぜか動かない。どうやら左腕もまほに拘束されているようだ。今自由に動かせるのは左足と、頭だけだった。
「大体なんでお前はこっちに来てるんだよ、反対で寝てただろ。」
気持ち良さそうに寝ているエリカに向かって文句を言うと、少しだけうめき声を上げてから拘束していた腕を放す。安心したのも束の間で、少しずつ上に移動していったエリカの両腕が春樹の首に回され、顔が首元に埋められる。
「すぅ……すぅ…」
耳元に聞こえる寝息のせいで背筋に変な痺れが走った。
「随分と幸せそうだね春樹君。」
「……そう見えるなら代わってくれ。」
枕元で正座をしているみほはいつも通りの声色なのだが、真顔でじっと見つめてくると妙な迫力を感じる。どうにも大好きな二人を独占されている状況が気に食わないらしい。
「春樹君、あなたのおかげでエリカさんとまたこうして仲良くできたのはとても感謝してます。でもね、お姉ちゃんも独占するのはちょっと欲張りすぎじゃないかな?」
「別に独占しているつもりは―」
「してるもん。」
ぎゅっと訴えるように両こぶしを胸の前で握る。それでも気が済まないのかぺちぺちと額を叩いてくる。
「朝から騒がしいな……何かあったのか?」
ようやく目を覚ましたまほがむくりと体を起こして眠気眼をこする。そんなまほに向かってみほが飛びつく。
「どうしたみほ?」
「春樹君がいじめる。」
「だめだぞはるき。」
まだ頭が働いていないらしく、まほは寝ぼけた顔でみほの頭を撫でる。みほはそれで満足らしくえへへ~と緩い笑顔をしていた。
「……はぁ。」
この二人はもう放っておくとして、問題はこの耳元から聞こえる寝息と花の香りを思わせるとてつもなく良い匂いだ。正直エリカが目を覚ますまでこの状況を楽しんでいたいところだが、生憎今回は人の目が3つもあるのだ。早急に対処をしなければならない。
「すぅ……すぅ…んん…」
とはいえここまで幸せそうな寝顔をしているのに起こすのはとても忍びなく感じるのも事実だった。
「春樹君早くエリカさんを起こさないと、朝食の時間が遅れちゃうよ?」
そんな春樹の思いを知ってか知らずか、みほが早く起こすように催促する。確かにそれもそうだと、春樹はエリカの肩を揺する。
「おい、エリカ起きろ。」
「んん…?」
ゆっくりと瞼が持ち上がり、春樹と目が合う。その瞬間目が見開き、目にも止まらぬ速さで飛び起きた。
「な、なんでアンタがこっちの布団にいるのよ!!」
「……。」
春樹は無言で昨夜エリカが寝ていたはずの布団を指さす。すると少しずつ事態を理解したエリカは、赤面しながら俯いてしまった。
「とりあえず顔を洗ってくると良いエリカ。そうすれば少しは冷静になるだろう。」
「……はい。」
消え入るような返事を残してエリカは背面台の方へ消えていった。
「エリカさんよっぽどはるき君を取られたくなかったんだろうね。」
「愛されているな春樹。」
西住姉妹はそんなエリカを楽しそうに見送るのだった。
朝食を食べ終えた春樹たちは、菊代が運転するレンタカーで次の目的地を目指していた。
横に座るエリカは昨日とは異なりパンツスタイルだった。可憐な様子は息をひそめ、精悍で素直に格好いいと感じる。可憐なワンピース姿、妖艶な浴衣姿、色々な彼女を見ることが出来ている幸せを噛みしめる。
「菊代さん、着物でよく運転できますね。」
「マニュアルに比べたら簡単ですよ。それに、もう慣れてしまいました。」
流石普段から着物を着て生活をしているだけあって、日常生活の動作に関してはなにも支障は無いらしい。
「二人はお茶と水どちらが良い?」
隣前の席に座るまほがペットボトルを二つ差し出した。
「水が良いです。」「じゃあ私はお茶で。」
「ここの水は特別美味いらしいぞ。」
そう言ってまほが手渡したのは”谷川連峰の天然水”と書かれているペットボトルを手渡した。早速ふたを開けて一口飲むと確かに天然水独特の柔らかい口当たりを感じる。成程、水の甘さとはこういうことなのかもしれない。
「確かに普通の水とは全然違いますね。これは美味しい。」
「……。」
「あげませんよ。」
「そうか…。」
露骨にシュンとするまほを見て少しばかり罪悪感を感じるが、真横から恐ろしい覇気を感じるので下手なことは出来ないでいた。
「伊香保温泉は有名ですけど、ここらへんで他に有名なものってありますか?」
「うどんが有名らしいぞ。群馬県は小麦の文化があるからな。」
群馬の小麦を使った料理で有名なのは焼きまんじゅうだろうか。あの甘じょっぱい味噌と香ばしい生地、酵母の独特な香りはクセになる味だ。そういえばミカがラスクを買ってきてほしいと言ってたような気がする。まあ高崎駅なら売ってるだろう。
「さて、みなさん着きましたよ。」
なんとなく察してはいたが、窓の外には迷彩が施されたヘリコプターがずらりと並んでいた。
「ここは主に補給・整備とヘリコプターの部隊で構成されてる。残念ながら戦車は配備されていないが…。」
「ほぉ…」
大小さまざまなヘリコプターを始めて間近で見るせいか、春樹は夢中で観察していた。この卵型の丸いヘリコプターは既に退役していて、一部は全国の学園艦に訓練用として寄贈されたらしい。がしかし、継続では維持費が捻出できず見送られた。悲しい。
「満足したかしら?ほら、さっさと乗りなさい。」
どうやら実際にヘリコプターに乗せてもらえるらしい。遠慮をして後ろに座ろうとしたのだが、すでに西住姉妹が着席していた。「春樹、後ろは狭いぞ。」と前へ行くように促される。あきらめて前列席に座ると、視界のほとんどがガラスで落ち着かない。とりあえずシートベルトをしようと探すのだが、なかなか見つからず四苦八苦する、暫くして尻の下で挟んでいたことに気が付く。操縦席に座るエリカが怪訝そうな表情をする。
「なに、緊張してるの?」
「それなりに。」
「これでも飛行時間は学年トップなのよ。安心しなさい。」
それなら安心だ。話には聞いているが、実際に操縦席に乗り込むところを見るのは初めてで、作法などわからないのだ。緊張しても仕方が無いだろう。まほとみほは慣れた手つきでヘッドセットを用意する。それに倣って春樹もつけると、外部の音が遮断される。エリカが整備員に合図を行い、いよいよ飛び立つための準備が行われる。始動前の点検作業のために淡々と点呼をする姿は新鮮に感じる。戦車に乗る時もこんな感じなのだろうか。エリカがイグニッションスイッチを押し込むと、甲高い音が次第に大きくなる。すぐ近くにエンジンがあるためか、一切の音がかき消される。ヘッドセットが無ければ、耳がおかしくなるところだ。やがてゆっくりとローターが回りだす。想像以上に大きな揺れ方をするので、無意識にエリカへ視線を送る。わざわざベルトを緩めてこちらに耳打ちをしてくる。「大丈夫よ、少し経てば揺れなくなるから」エリカの言う通りローターの回転が速くなるにつれて、揺れが落ち着いてくる。なるほど、これが固有振動というものか。この寸法と重量であれば固有振動は…と、別のことを考えて不安を和らげる。
『離陸準備、整いました。後ろの二人は準備できましたか?』
『問題ない。』『大丈夫だよ』
『了解。』
最後に再び計器の確認を行い、左手のレバーを操作すると徐々に体が浮き上がる。スキー場でリフトに持ち上げられる間隔と少し似ていた。一瞬だけ右側に回るが、すかさず足元のペダルを操作して修正する。なんとも落ち着かない感覚でむず痒いが、とりあえず背もたれに体重を預けて落ち着くふりをする。無意識にエリカの方を見ると、こちらに気が付いたのか横目で笑う。少しだけ浮き上がりながら、誘導路を移動し、真ん中にHと書かれた丸の上でホバリングする。離陸許可を受けてから再び左手のレバーを操作すると、少しずつ地上にいる菊代の姿が小さくなり、青空が近づいてくる。一本ずつだった木が緑の塊に代わり、認識が木から山へと変化する。山間部と平野部の丁度境目に駐屯地があることがよく分かる。飛行機とは違い景色の流れがゆっくりで、まるで無限に広がるジオラマを見ているようだ。これは確かに空中散歩という言葉がふさわしい。左手に榛名山、右手に赤城山を見ながら利根川に沿って北上していく。利根川の支流である片品川は、地理の授業で聞いたことがある河岸段丘を作った川だ。関越自動車道が通る赤い橋は確か日本一長いトラス構造の橋だったか。
『関越自動車道は走ったことあるの?』
「いや、下道しか使ったことない。」
エリカが言うには、あの橋からの風景もなかなか綺麗らしい。河岸段丘を跨ぐようにして橋が架かっているので、確かに迫力のある景色が見られるのだろう。しばらく沼田市上空を飛んでいると正面に谷川連峰が広がり始めた。どこを見ても新緑の壁で、かつての上越国境は難攻不落だったことがよく分かる。
『あれが谷川岳か…確かに良い水が採れそうだ。』
『そんなに気になるの?』
『春樹が飲ませてくれなかったからな…。』
なんとなく背中に視線を感じる。いつもの優等生な西住まほは今日はお休みらしい。自然体で可愛らしい我儘でこちらを困らせてくるのは、新鮮だ。
『旋回するわよ』
天神平の展望台を中心に左に傾くと、地上がさらによく見えるようになる。遠心力が小さいため、シートから体がずり落ちそうだ。ベルトで固定されているから実際に落ちることはないのだが、体の血液が左に偏るのを感じる。旋回が終わり、今度は谷川連峰の尾根をなぞる様にして山を下る。
「ん、なんだアレ?」
谷川岳の森の中に明らかにコンクリートでできた人工物が生えていた。見た目としてはなにかを監視する塔に見える。
『関越トンネルの換気塔じゃない?』
「あーあれがそうなのか。」
写真では見たことがあるが、実際に空中からみるとだいぶ印象が変わるのが面白い。たしか同じヤツが新潟県側にもあるらしい。そうしないと、トンネルの中で事故が起きた時大惨事になるとか。国内最長のトンネルは伊達じゃない。
『ほら、あそこが群サイじゃない?』
エリカの指さす方向を見てみると、開けた駐車場と山道が見える。今日は何かのイベントがあるらしく、カラフルな車たちが所狭しと集まっている。よく見ると、山の隙間から白煙が道に沿って立ち昇っている。どうやらドリフト系のイベントのようだ。よく見ると大洗女子学園のマークが施されたテントがあった。その下には白いソアラがある。彼女たちも参加しているらしい。
『知り合いでも見つけた?』
「大洗の自動車部がいる。」
『あ、本当だ!』
嬉しそうなみほの声が聞こえてくる。まさかヘリコプターで見られているなんて自動車部の連中も思うまい。帰りは逆に利根川沿いを下るルートをたどる。今度は左手に赤城山、右手に榛名山、そして地平線まで続く関東平野が広がる。冬になるとここら一帯に強烈な風が吹き込むらしいが、たしかにここまで遮るものが無ければさぞ強烈な風が吹くのだろう。まっ平らな平野の中でひときわ目立つ建物がある。群馬県庁だ。離陸の時と同じように揺れなくスムーズに着陸をする。着陸する方が難しいことは春樹も知っていたが、想像以上にエリカはヘリコプターの操縦に長けているという事を実感した。エンジンが停止し、ヘッドセットを外す。しばらくぶりに外界の音を聞いた気がする。となりでエリカが長いため息をついた。
「なんだ、お前も疲れたのか?」
「当たり前でしょう。誰かさんがずっと困った顔してるんだもの。気になって仕方がなかったのよ。」
エリカがニヤリと笑う。間近で情けない姿を晒していたことを知り、なんともばつが悪い。
「二人とも、写真撮るよ~!」
みほが手招きをして春樹とエリカを呼ぶ。こちらは疲労を感じているのに、未だに元気いっぱいの様子だった。二人はそろって仕方が無いと言った感じで、肩をすくめていた。
帰りの空港で飛行機を待つ間、まほは妹から送られてきた写真に目を通していた。楽しそうにピースサインを送る西住姉妹の間で、エリカと春樹も一歩引いた感じで微笑んでいた。そしてもう一枚は浴衣を着た春樹とエリカのツーショットだった。少し距離を開けてはいるが、しっかりと視線を合わせていた。近すぎず、遠すぎず、もどかしいようで丁度いい。二人の今の距離を象徴したような1枚だった。当の本人は疲れた様子でウトウトしていた。すでに半分意識を手放しているのだろう。
「楽しかったか?エリカ。」
「……はい。」
そうか、それは良かったと、まほは満足げな表情だった。最後にまほは自身とエリカにレンズを向け、シャッターボタンを押す。カチッという頼りなさげな音と共にフィルム残量を示す数字が1から0に変わった。