シャッ…シャッ…シャッ…
自動車部のガレージで金属を擦る音が一定間隔で聞こえてくる。
「本田君、まだそれやってるの?」
「まだだ、あとほんの少しなんだ…。」
現在学生ラリーに備えてエンジンのOH中であった。
去年からずっとしたかったことを、ついに実行に移すことにしたのだ。
「だってほとんど面出てるよ?普通のレース屋でもこれ以上しないよ。」
「うるせー、納得いくまでやるんだ!」
「はいはい、私はエイトちゃんのエンジンオイルでも交換してますよー。」
こうなってしまっては言うことを聞かないことを知っているユミは諦めて、自分の車の作業に戻った。そう、本来ならばこれで完成と言っても差し支えない出来なのだが、ほんの僅かだけオイルが均一に伸びていない箇所があるのだ。完璧な平面が出来上がるまで一切妥協をしない春樹にとっては、見逃せない部分であった。
「まだほかに研磨するところもあるんでしょ?そんなんじゃ練習する時間が足りなくなるよ?」
ただでさえ戦車部の整備も重なって忙しいのにと、ドレンボルトを外しながら尚も春樹を説得する。
「……。」
「ちぇー、私の言うことは無視ですかー。」
真っ黒になったエンジンオイルに不機嫌顔が微かに反射していた。腰下の面取りが終了し、今度はヘッド周りの洗浄を行う。ヘッドカバーを外すと、予想以上に黒い汚れがこびりついていた。
「だいぶカーボンが付いてんな…。」
長年酷使されていたためか、燃え残った煤などがこびりついて、見事に真っ黒になっていた。
「しゃーない。」
エンジンの洗浄を諦め、リューターで研磨することにした。研磨の面の色の変化に注意しながら、押し当てる強さを微妙に変化させていく。
「……おぉ。」
いつの間にかユミが春樹の作業を近くで見ていた。
「…なんだよ。」
「いやぁ、いつ見てもほれぼれするなーと思って。そんなに均一に研磨できるなんて本当に職人だねー。」
「お前の車のエンジンもやってやろうか?」
ロータリーエンジンのポート研磨はピストンエンジンで言う排気量アップに該当する。それだけでエンジンの出力が上がると言われてるほど効果があるのだ。
「うちの子に変なことしないで頂戴!あの子は純粋のままで良いの!」
あくまで乗って楽しむ車であり、速さを競う車でないと決めているのか、ユミは自分の車の改造を嫌っている。最低限ラリーに出るための必要装備だけつけている状態だ。
「そうだな、汚れるのはオーナーで十分だよな。」
「言ったなこのスケベ!ドSの脚好き!」
「脚は大切に決まってるだろう。車の挙動そのものに関わるんだぞ?」
「知ってるんだからね、最近クワトロS4の動画ばっか見てるって!」
その一言で春樹の手がぴたりと止まる。
「…いつ見ていた?」
「白くて大きくてじゃじゃ馬で犬っぽい(4WD)ってまんまあの人でしょう。」
「最後のはひどくないか?」
完全に集中力をなくした春樹はため息をついて後片付けを始めた。外を見ると完全に真っ暗だった。仕方がない。今日は相方のご機嫌取りに時間を割こう。
「乗せてってくれ、帰りにどこかで飯奢るから。」
「やった!パスタ食べたーい!裏海鮮パスタ!」
春樹が良く行くコーヒー屋では裏メニューとしてパスタを出すことがある。それは春樹を含めたごく一部の人間しか知らず、さらに不定期なので狙って食べるのは至難の業だ。しかし春樹はそこのコーヒー屋のマスターと魚屋の主人が兄弟だと言うことを知っていた。裏海鮮パスタを出す日は魚の売れ残りがあった時。春樹は昨日の仕入れすぎたと言う魚屋の言葉を覚えていた。…今日であれば食べられる確率は高い。
「じゃあ、行ってみるか。」
オイル交換とプラグ交換が終わったユミのRX-8に乗ってコーヒー屋に向かった。相変わらず運転は春樹であった。
「…で、いつの間にミカさんも乗ってるの?」
後部座席でカンテレの音色が流れる。とても悲しい曲調だった。
「…もう、あんな思いはしたくないからね。」
ミカの顔に陰りが差さる。まるでトラウマがよみがえったかのように。
「一体何をしたのさ、春樹くん。」
「料理を覚えない方が悪い。」
「命を頂くという行為に調理なんて過程は小さなものだと思わないかい?」
「そういうのは料理ができるようになってから言え。」
何となくミカの因果応報であることを悟ったユミはそれ以上の追及をしなかった。小さなコーヒー屋の駐車場に車を停める。
「いらっしゃい~。来ると思ったよ。」
店の扉を開けるとカランカランという鈴の音と一緒に、間延びした声が届く。
「今日できますか?3人前です。」
「できるよ~、じゃあちょっと待ってて。」
そう言ってマスターは人数分の水を出してから店の奥に引っ込んでしまう。この人物があの魚屋と兄弟とはにわかに信じがたいことだが、よく見ると目の形などがそっくりなのだ。
「噂には聞いてたけど、ようやく食べられるよ。楽しみだな~」
待ちきれないとばかりにユミは、グラスをもって氷を揺らす。
「そう言えばハル、アンツィオ高校から車両整備の申請が出ているけど何か知ってるかい?」
「ああ、以前そこの隊長と顔を合わせたことがあってぜひ協力してくれだってさ。」
アンツィオの名前が出た瞬間ユミが怪訝そうな顔をする。
「あの春樹君を誘拐した連中でしょ?また何かするんじゃないの?」
「それは無いと思う。あそこの隊長は根っこはいい人っぽいから。ただちょっと周りが猪突猛進というか、無鉄砲と言うか。とにかく、苦労人なんだよ。」
「で、行くの?」
「ああ、学食奢ってくれるって言うんだから行くだろ。」
アンツィオ高校の学食のレベルの高さは全国に知れ渡っている。それを目当てに一般市民がわざわざ学食を食べに来るほどに。
「行ってもいいけどランサーを終わらせてからだからね?」
「分かってるよ。一週間で終わらせる。」
エンジンのオーバーホールが終わったら足回りの点検と、燃調の見直しが待っている。
「よその戦車も良いけど、こちらのことも忘れないようにね。」
「そっちは心配だな。」
未だに三号突撃砲のエンジンの修理が終わっていないため、戦車道の面々は日夜整備に追われている。よほどのことがない限り、春樹を頼りにはしないはずだが裏を返せば面倒な仕事が回ってくるということだ。まあそれは来た時に考えればいいので、今は自分の車の事に集中すればいい。
「あ、そうだ。前回のラリーで聖グロの奴がいただろ?」
「シティの二人?」
「SH6に出るらしいぞ。VABで。」
アンツィオのラリーで春樹の2秒落ちで三位に入ったローズヒップとダンデは自動車部に腕を見込まれ、最新式の車を与えられたようだ。
「ちょ、それってWRXの一番新しいヤツじゃん!流石お金持ち…。」
「それだけじゃない、サンダースも何かやるらしい。」
詳しい情報は入っていないが、レギュレーションギリギリの手段を取ろうとしているようだ。
それにアンツィオもいよいよセリカでSH6に乗り込んでくるという話だ。去年に続いた継続高校の完全優勝に黙っているほど、彼女たちはお淑やかではないらしい。
「良いね、それでこそ競いがいがある。」
だからこそ古い車で、自分で仕上げた車で勝つということに意味があるのだ。色とりどりに盛られた食材と、絶妙な湯で具合で艶のあるパスタ。そして香辛料の香りが食欲を掻き立てる。
「さあ、海鮮パスタが出来たよ。今日はエビと貝がメインだから、ヤドカリパスタってところかな?」
それなのにマスターの一言で少しだけ、腹の虫が大人しくなる。
「それ、食欲無くしそうですね。」
「はははは!大丈夫、味は自信があるよ。ゆっくりしていって。」
ここのマスターの凄い所は必ず自分の淹れるコーヒーと合う料理に仕上げるということだ。
パスタのソースが口に残っている内にコーヒーを一口飲むと、口の中でソースとコーヒーが互いに引き立て合い食欲がどんどん膨らんでいく。どちらかだけでは絶対に出来ない味わい方を教えてくれる。それはコーヒーの事を知り尽くした人間でしかできない芸当であった。
「わぁ、こんなに美味しいコーヒー初めてです!」
コーヒーで驚かせ、食べ物で驚かせ、最後に二つ味わってもっと驚かせる。そんな遊び心とコーヒー愛がこの小さな店には詰まっている。だから春樹はこの店が好きなのだ。
「それでね、戦車道の子に一人すっごく早い人がいて―」
他愛もない会話と共に、時間がゆっくりと小川のように流れていった。
「春樹君、新しいタービン届いてるよ。」
「分かった。」
段ボールの包みを持ってきたユミは春樹の近くにそれを置く。春樹の方は面取りを終えたエンジンの平面度を計測しているところだった。
「…よし、上出来だ。」
「ホントにー?見せて見せて!」
ユミは横から春樹の手元を覗き込んだ。
「えーと…0.001!?」
その数字は完璧な平面と呼んでも良い数字であった。これを人の手一本で実現できること自体が奇跡に近い。驚くユミを気に留める様子もなく、春樹は段ボールを開く。バラバラの状態のタービンの部品を一つずつチェックする。これは春樹の知り合いが作ったワンオフの部品だったりする。
「…相変わらずいい仕事だ。」
満足の出来なようで、早速それを組み上げていく。
「来月の合同オフィシャルは目を通したか?」
「うん、準備は順調に進んでいるみたいだよ。去年の経験もあるしね。」
黒森峰主催で行われるラリー大会。今回は様々なノウハウを持っている継続高校との合同で開かれることになっている。自動車部のないあちらは戦車道履修者の有志達が大会の運営をするらしい。
運営委員会の委員長に西住まほの名前があるので、おそらく全員が役員として参加してくれるようだ。そのため継続側から出す人員は春樹とユミを合わせて4人ほどで足りる。他の部員は選手として参加する予定だ。選手が多いほど大会は盛り上がる。
「黒森峰も自動車部作れば良いのにね。」
「そうなったら嬉しいけど、そこは彼女たち次第だから。」
春樹たちが自動車を好きなように、彼女たちも戦車が好きなのだと考えたら自動車部の創部を勧めるのはふさわしくない。志は同じだが、目指すものは違うのだ。そこは互いに尊重し合うべきことだろう。
「よし、エンジン組むぞ。」
「じゃあ、今夜は久々に練習だね。」
ちなみに外は日が傾きだしている。今から作業を終わらせるには少しばかり急がないといけない。
「なら手伝え。」
「はーい!」
そしてその日の夜、慣らしがてらいつもの練習コースで走りこんでいた。
「はい、はいクレストの先にグレイチング!ちょっと飛ぶよ。」
「りょーかい。」
起伏の頂点で飛び跳ね、頭の血が上に登っていく感覚を感じる。
「R5~3/50!」
後半がきつい右コーナーを抜けて短いストレートに差し掛かる。
「っ、…L5・R3!」
いつもより早く次のコーナーが迫り、少しだけナビが遅れる。ピークの出る回転数まで回していないのに、今までよりも確実にエンジンが早くなっている。加速で背中を押される感覚がいつもより強い。しかし、それよりも春樹の運転がスムーズになっていることの方が要因としては大きい。今までのように車を振り回すのは変わらないのだが、横を向く量が減っている。それに伴いハンドルを切る量が減り次の操作が滑らかになってるのだ。前につんのめる様な激しいブレーキは息をひそめ、優しい踏力でゆっくりと減速する。時にはブレーキすら踏まないこともあった。それに伴い、今まで使っていたペースノートが全く役に立たなくなってしまっていた。
「あーびっくりした。車乗ってないのになんで早くなってるのさ。」
「乗ってたよ。毎日。頭の中で。」
「そっかぁ…春樹君も成長してるんだね。これは黒森戦が楽しみだ。」
「オフィシャルだけどな。」
「ふふ、そーだね。」
笑いながらユミはファイルからノートを抜き取った。
「はい、これはもうお役御免。火種に使う?」
「それはありがたい。貰っておく。」
「失礼します。」
「すまないエリカ、こんな時間に。寝るところだったか?」
「いえ、先ほど資料の作成が終わったところです。」
「そうか…座ってくれ。」
まほに促され、エリカは椅子に座る。相向かいに座ったまほがコーヒーを二人分置いた。
「夜にカフェインはきつかったか?」
「いえ、私もよく夜飲むので。」
「そうか、それなら良い。来月の事について相談があるのだが…。」
一枚の紙を差し出す。そこには役員の名前と役職が書かれていた。そして、00(ダブルゼロ)カーのところだけが空欄だった。
ラリーには選手が走り出す前に二回コースチェックをすることになっている。まずは00カーがゆっくり走り各コースに人員が配置されているか確認し、0カーは競技と同じスピードで走る。
0カーは継続高校の二人が担当することになっているが、00カーは黒森峰の誰かがやらなければならない。エリカは何となく察した。
「00をエリカに頼みたい。」
「普通免許を持っていないのですが…。」
「大特は持っているだろう?学科は免除される。…それにモータースポーツに詳しい人間がエリカしかいないんだ。」
まほが直々に自分にしか頼めないことを任せようとしてくれている。それだけで首を縦に振るには十分だった。
「分かりました。できるだけ私の方でも準備してみます。」
「助かる。頼んだぞ。」
隊長が自分を頼ってくれている。それならば私は全力で答えなければ。まほの部屋を出たエリカは携帯を取り出し。どこかへ連絡を取り始めた。
「あ、もしもし。私だけど、ちょっと聞きたいことが―」
『続きまして大会役員本部長の西住まほより、挨拶をさせていただきます。』
校庭を利用したサービスパークに各校のカラーに塗られた色とりどりの車たちがずらりと並んでいる。
その一角に設営された大会本部前で開会式が行われていた。
『こちらラジオ3準備完了しました。』
「了解しました。各自もう一度自分の役割を確認しておいてください。」
既にコースの方で待機しているオフィシャル達に無線で支持を送る。
役職上はオフィシャルだが、仕事内容としては選手とさほど変わりはない。あるとすれば車の屋根にサイレンがあるくらいだ。
「あと10分で出るわ。」
レーシングスーツを着たエリカが緊張の顔で春樹に話しかけてきた。
「きつくないか?」
その右腕にはHONDAのロゴが施されていた。メーカーのワッペンだが春樹にとっては自分の名札になる。他にもTOYOTAやSUZUKIの名前の人にも言えることだ。
「大丈夫よ。」
エリカが着ているのは春樹が去年使っていたスーツだった。
「0まで結構時間開けてるからそんなに気を張る必要は無い。その代わり確認は怠るなよ。」
「分かってるわよ。」
エリカの視線の先には00のゼッケンが張られた黒い車があった。
「MT?」
「そうよ。おかげで2時間実技が伸びたわ。」
フォルクスワーゲンのゴルフGTIだ。エリカが今日のために親から借りてきたらしい。
「よく許したな。」
「事情を話したら二つ返事で。むしろ選手で出ないのかって聞かれたわ。」
どうやらエリカの親はモータースポーツに多少心得があるようだった。
「ちなみに両親はどんな車に?」
「車体番号が一桁の初代NSX。」
「マジか…一度会って話をしてみたいな…。」
「い・や・よ、なんであんたなんかに会わせなきゃいけないのよ。この車馬鹿。」
『それでは今大会の競技長を務めます本田春樹さんより、注意事項を伝えさせていただきます。』
自分の名前が呼ばれ、春樹はテントの方へ歩いていった。それと入れ替えに今度はユミがエリカの隣に来た。
「ねーねー逸見さん。今のってつまり車のこと以外で会わせるのはOKってこと?」
ユミの言葉で自分が最後に言った言葉の意味を考え直す。途端に体が熱くなっていった。
「おーおー真っ赤にしちゃって。青春だね~。」
「すみません、もう一回コマ図の確認をしたいんですけど…。」
エリカの隣に乗る赤星がユミを呼ぶ。
「うん、分かった。それじゃあね逸見さん。」
思考が停止しかけているエリカを置いて、ユミは赤星の方へ行く。
「もうレッキでお分かりだと思いますが、SS3の中盤に道が荒い区間があります。普段は戦車の移動に使って轍が酷く、水が溜まってるので注意してください。」
注意事項を伝える春樹の横顔をエリカはぼーっと見つめる。
「そこでボケーっとしてる00のドライバーみたいに油断してるとすぐに崖に落ちちゃいますよ~」
会場に笑い声が響いた。エリカは春樹を睨みながら姿勢を正すのだった。
自分の出発時間が近づき、黒森峰を出る。街中をゆっくりと進むと、周りの住民が足を止め手を振るのが見える。やはり車の競技が珍しいのだろう。思ったよりも多くの人とすれ違う。急な坂道の途中にある信号で停車する。
「えっと、200メートル先の信号を左です。」
「分かったわ。」
目の前の信号が青になる。坂道なのでサイドブレーキを引きながらクラッチを繋ぐ。
ガクン
「ご、ごめん…。」
もう一度エンジンをかけなおし、先ほどよりもエンジンを吹かしながらクラッチを繋いだ。今度はしっかりと車を進めることができた。
「運転久しぶり?」
「この一か月運転漬けだったわよ。教習の車とクラッチの感じが違うから慣れないの。この車も今日初めて乗るんだし。」
ボンネットに貼られた若葉マークが太陽に照らされてきらりと光る。
「でも嬉しいな。逸見さんとこうしてドライブができて。私、友達とドライブに行くの夢だったんだ。」
隣の赤星は嬉しそうに笑っていた。
「私なんかと一緒で良いの?」
「逸見さんが良いの。今年から私も車長になって、クラスも変わっちゃったし話す機会すっかりなくなっちゃったから。」
ちょっと寂しかったんだよ?と赤星は笑顔のまま言った。
『こちら0カー。00は今どの辺にいる?』
「はい、コマ図で20番のところです。」
『了解。こちらも出発した。安全運転でな。』
「分かりました。…だってドライバーさん。」
「…了解。」
信号を左に曲がり大通りから山道に入る。徐々に木の数が増えていき、道幅も狭くなっていく。
いくつかのカーブを抜けると、テントと黄色い看板が見えてきた。
「お疲れ様です。」
「スタートに変更は無い?」
「はい、定刻通り10時40分です。」
赤星が時計を確認する。
「あと10分ね。じゃあ、進んで下さい。」
TC(タイムコントロール)を出発し黄色い看板を過ぎてすぐに赤い看板が見える。ここがスタート地点だ。窓を下げるとオフィシャルが近づいてきた。
「00カー、10時40分スタートです。」
「分かったわ。」
「こちらスタート00到着しました。」
『了解。0はその十分後、1号車は11時0分にスタート。予定に変更は無し。』
エンジンを切って、車から降りる。
スタートのオフィシャルは普段エリカと同じ戦車に乗る生徒だった。エリカの格好を見た生徒たちは目を丸くしていた。
「車長、なんだかいつもと雰囲気違いますね。」
「そりゃ普段こんな格好しないもの。」
「似合ってますよ。」
「そ、ありがと。」
ため息をつきながら水を飲む。
パァン…ブォォオ…
遠くの方で既に競技車の音が響いていた。もうしばらくしたらTCには車の列が出来るだろう。山風がエリカの髪をなびかせる。少し冷たく、優しい風だった。不思議な感じだ。こんなにものどかな光景なのに、緊張が止まらない。これから始まるのは愚直にスピードを競う者たちの激しい戦い。
しかし、そのステージとなる山道は川のせせらぎが聞こえ小鳥がさえずっている。風に撫でられた木の葉は静かに囁き、太陽の光が木漏れ日となりゆっくりとアスファルトを照らす。
「逸見さん、そろそろ時間だよ。」
「分かったわ。」
車に乗り込み、ベルトを装着する。カチリという音がやけに大きく聞こえた。エンジンをかける。
ククク…ウゥゥン……
静かな振動が室内に響く。
「スタート1分前です。」
ウインドウを閉めてその時を待つ。
「30秒前!」
サイドブレーキを引き、ブレーキから足を放す。
「15秒前!」
クラッチを踏み込み、1速に入れる。
「10秒前、落ち着いていこうね。」
エリカは静かに頷いた。
「3,2,1、スタート!」
坂道発進の要領でサイドブレーキを下ろしゆっくりとエリカの車は発進した。
「100/R4LL、フィニッシュ200!」
サイレンを鳴らしながらゴールを抜ける。
「はい、フィニッシュ~これで1ステージ終了ね。あーお腹すいた~。」
ヘルメットを脱ぐと汗が頬を伝う。窓を開けると冷たい風が流れ込んできた。
「あ~涼しい~」
エアコンすらついていないので、外の風を楽しみながらサービスパークに戻ると、本部前にエリカの車が止まっていた。
「ご苦労。昼食を用意してある、食べてくれ。」
まほに弁当とお茶を手渡される。なかなか美味しそうな内容だった。
「競技の様子はどうですか?」
「今のところリタイアは無い。問題の区間も無事終わった。君の注意が効いているようだ。」
「それは良かったです。午後もよろしくお願いします。」
「ああ、そちらもよろしく頼む。」
まほのもとを離れてあたりを見渡すと、エリカと赤星が本部テントの中で昼食を取っていた。
「どうだった、ドライブは?」
「別に…普通よ。」
「そんなこと言って、後半楽しそうに運転してたくせに。」
赤星が愉快そうに笑う。
「そんなことないわよ!」
「なんだ、楽しくなかったのか?」
エリカは一度赤星の方を見て、歯ぎしりをしながらそっぽを向く。
「楽しかったわよ…。」
「そりゃ良かった。」
そう言って春樹は手を合わせてから弁当を食べ始めた。内容はソーセージとポテトがメインのドイツ風弁当だった。
「やっぱ弁当にしても美味いなここの学食は。」
「春樹君こんなに美味しいもの1か月も食べてたんでしょ?良いな~。」
「だろ?ウチの学食はなんか足りないんだよなぁ…。」
継続高校の二人はそんなことを言いながらあっという間に弁当を食べ終えてしまう。
「でも、山の中で食べたら美味しいかも。ね?逸見さん。」
「…そうね。」
普段食べなれた学食だったとしても場所が変わればまた違った味わいになるだろう。そう考えたら山の中にいる彼女たちが少しだけ羨ましく感じた。そうこうしていると校門から選手たちが続々と帰ってきた。
「あー完全にアーム折れてるなあれ。」
その中の一台、継続高校のミラージュのリアタイヤがあらぬ方向を向いていた。おそらくどこかの岩にぶつけたのだろう。
「リタイアは無しって聞いたけど、多少何かはあるよねー。」
継続高校のサービスパークでは慌ただしく作業が始まった。
「FFで良かったな。あれならすぐに終わる。」
それが自分の学校の車だと言うのに、二人はまるで他人事のようだった。
「手伝いに行かないの?」
「今の立場はオフィシャルだからな。」
同じ学校とは言え春樹たちは大会運営側だ。どのようなことがあっても常に公平な立場いなければならない。
「そう…。」
エリカは食べ終わった弁当箱を可燃とプラスチックに分けてから捨てる。そろそろこちらは動く時間だ。
「午後は艦を降りていくステージだからな。気を付けろよ。トンネルは無理に飛ばすな。」
「ありがと。それじゃあ…行くわよ。」
「うん。」
赤星を乗せて次のTCに向かう。
「やっぱり連絡口って暗いよね、いつも思うけど。」
昨年とは違い、今回は連絡口を下りながら船の外に出るコースになっている。普段はバスで通るこの場所も自分で運転するとなっては感じ方はまた違う。
山道ほど狭くはないが、天井も壁も垂直にそびえたち、圧迫感が強い。それ故スピード感が狂いそうになる。同じようなコーナーを曲がると、だんだんと今どこにいるのか分からなくなりそうだった。
「うわぁ…ここを走るの?怖い…。」
春樹の忠告を守るように、先ほどよりも慎重に車を運転する。何度目か分からない直角のカーブを曲がっていくと、少しずつ道の先が明るくなってきた。安堵のため息をつく。やがて真っ白に光る出口を抜ける。アクセルから足を放し、目が慣れるまで待つ。こんな状態のまま走るのは絶対におかしい。そう思うほど視界が回復するまで時間がかかった。
「わあ、大きいんだねウチの船って。」
「今更それを言う?」
「えへへ。つい。」
港沿いの道路上にあるフィニッシュを抜ければ、エリカたちの仕事の終わりは近い。
最後は港の駐車場を使ったスーパースペシャルステージ。ここだけエリカたちも生で観戦することができる。
「はい、コース上は問題ないわ。」
「了解です。00、ストップ通過しました。」
『了解。』
「お疲れさまでした。車は私たちの車両の後ろに止めてください。」
「分かったわ。」
エレファントの後ろに自分の車を止める。車から降りて見ると改めて自分たちが普段乗っている戦車という車両の大きさを感じた。
『現在SH6クラストップは大洗ボコボコGDB。およそ2秒差で追いますのが、聖グロリアーナアドバンWRXです。』
スタート地点には既に水色の車が待機していた。車内でユミと会話をする春樹はヘルメットをしていて表情を伺うことはできないが、その目は楽しそうに見えた。
「さあそれでは0号車がスタートします。」
ブォォォォォ…パン、パン、パァン!
爆発音と共に勢いよく車が飛び出す。大きなパイロンにフロントバンパーを擦りつけながら、車をスライドさせる。ゼロカウンターで連続スラロームを抜けて、フリーターンをする。その時真っ白な白煙を上げながら何度もグルグルと回った後にフィニッシュを抜けた。おかげで視界は真っ白だ。そんな春樹の派手なパフォーマンスに観客はやいのやいのと拍手を送る。フィニッシュした後。ユミにノートで頭を小突かれていた。
「やりすぎよ、あのバカ。」
言葉とは裏腹にエリカの表情は穏やかだった。
「隊長、お疲れさまでした。」
競技が終わり、後片付けをする本部テントにてエリカはまほを労う。
「ああ、そちらもな。」
そう言ってまほはPCの画面をエリカに見せた。トップはアンツィオ高校のセリカだった。その次に大洗、聖グロ、サンダースと続いていた。最後の最後でアンツィオが大逆転劇を見せ、なかなか面白いラリーであった。
「ちなみに0号車のタイムは?」
「ああ、こちらにある。」
通過票をまとめた紙には0号車の合計タイムも書かれていた。
「やっぱり早いですね。」
「ああ、間違いなく優勝できるタイムだ。」
およそ10秒の差をつけて春樹たちは走っていたのだった。そのことを知っているのは大会運営側である春樹たちだけだ。
「つまり彼らは相手の情報のみを手に入れ、自分の車の戦闘力は伏せたままという訳か。」
まほの言葉にエリカは「あ…」と声を漏らした。
学生ラリーまでに行われる公式大会は今回で最後だ。春樹たちはそれまでに相手の車の戦闘力を分析すればいい。他の学校はいくら最新の車を投入したとは言え、調整には時間が必要だ。自分たちの車が昨年の王者に匹敵するのか、それが分からないのだ。圧倒的に優位なのは春樹たちだ。
「全く、とんだ食わせ物ね。」
エリカは呆れた顔をしながら水色のテントに集まる集団を見つめた。
「少し席を外す。良いか?」
「はい、後は私が。」
エリカに片付けの指示を任せ、まほは継続高校のテントへ向かった。
「今回は助かった。おかげで迅速な運営をすることができた。」
「いえいえ、これぐらいどうってことないですよ。」
互いに握手をしたところで、そういえばと春樹はまほに小声で聞く。
「ところで…イヒリーベディッヒってなんの意味か分かりますか?」
なぜ彼がそんな言葉をとまほは頭に疑問符を浮かべる。
「なぜ、それを?」
「実はですね…。」
春樹は先日の事を大雑把に説明する。ややこしくならない程度に、簡略化して。
「エリカが…。」
まほは口に手を当て、考える仕草をする。その実緩んだ口元を隠すためだった。
「そうだな…自分で調べると良い。」
そう言ってまほはポケットからメモ帳を出し、何かを書き込む。アルファベットであることは理解したが、それが英語でないことも理解した。
「これ、何語ですか?」
「ふふ、それくらいは自分で調べるんだな。これはその言葉の綴りだ。」
そういうまほの顔は何とも楽しそうであった。
『それで、どうだったの?』
「まあ、楽しかったわ。車に慣れるには時間が無かったけど。」
電話の奥で楽しそうな笑い声が響く。
「夏休みには車を返しに行くから。」
「あ、それは必要ないわよ。そのポロは元々お父さんがあなたに乗ってもらいたいから買った車だもの。」
「…えっ」
素っ頓狂なエリカの声がおかしかったのか、また笑い声が響く。
『お父さん。エリカが車に乗るって聞いた途端すごく嬉しそうだったのよ?あ、車は置けなかったかしら?』
「大丈夫だけど…。」
『なら良いじゃない。そのままラリーに出てもいいのよ?』
「出るわけないでしょ。そもそも黒森峰に自動車部無いんだし。」
あら残念と、本当に残念そうな声で言うものだからエリカは少し戸惑う。この母親は何のために私が黒森峰に入学したのか忘れたのだろうか。
『うそうそ、冗談よ。でも安心したわ、あなたがまた元気になって。最近元気なかったみたいだから。』
「……うん。」
言おうとしなくてもこちらの気持ちを察し、理解してくれる。やはり母親というものは偉大だとエリカは思った。
『あともうちょっと色気のある話もしたって良いのよ?あなたも年頃の女の子なんだから。』
「……。」
『え、あなたまさか…!!』
「……も、もう遅いから切るわよ!」
声が遠くなり「お父さん聞いて!」という声が聞こえる。冗談じゃない、これ以上根掘り葉掘り聞かれてたまるもんか。追求しようとする声を遮るように通話を切る。さすがに折り返しては来ないだろうが、家に帰ってからが面倒だ。
「……シャワー浴びよう」
無意識のうちに胸に手を当てていた。最近はいつもこの調子だ。なんなんだこの感じは。全速力で走った後のように心臓がうるさい。そのくせ頭は妙に冴えていて、今の自分を冷静に見つめる自分がもう一人いる。
「なにをやってるのよ…私は。」
大事な大会が近いと言うのに浮ついていてるわけにはいかない。気を引き締めなければ。黒森峰の名をこれ以上汚すわけには―
「それで、ヒントを貰ってきたわけだね。」
「ああ、黒森峰ってことで言語は分かったんだが…。」
学園艦に戻った春樹は早速自宅でドイツ語の辞書を広げていた。
「へーIchって一人称だったのか…。」
調べていくうちに何となく英語と同じような形であることが分かった。
「つまりdichが付いて、私はあなたを…ってなる訳だ。」
あとはliebeの意味が分かればこれは解読することができる。
愛、英語のloveと同意。
用例Ich libe dich.<I love you>
「……。」
「……Ich liebe dich.…なんてね、寝てなきゃ言えないわよ。」
そんな彼女の言葉を思い出す。そして、とんでもないことを聞いてしまったのだと理解した。
大きな罪悪感と後悔で押しつぶされそうになる。
「ハル、お腹が空いた。今日はリゾットが良いな。」
「そ、そうだな。味噌汁でも焼くか。」
「…今日の夕食は期待しない方が良いみたいだ。」
いつになくポンコツになってしまった同居人を見てミカは小さくため息をついた。