「リーダー講習会?なんだその頭の弱そうな名前は。」
「高校戦車道連盟に加盟している学園の隊長たちが集う会さ。」
講習会とは名前がついてはいるが、その実各学校の親睦会が主な目的らしい。
「各学校から2名参加するように言われているんだ。」
「へぇ、楽しんで来いよ。」
「何を言ってるんだい?ハル、君も来るんだよ。」
これには春樹も言葉を失う。そもそも戦車道履修者でない人間がそこに行っても良いのだろうか。いや、良いはずはない。しかも恐らく男子生徒は春樹だけになるはずだ。宿泊地の手配も手間がかかるだろうし、いろいろな人に迷惑がかかる。断る理由と説得の材料はいくらでも思い浮かぶ。それをミカにぶつけようとした瞬間一枚の紙がスッと出てきた。そこには各学園の隊長たちの名前がずらりと並んでいた。
「君が来ると聞いたらあっという間に集まったよ。」
それは戦車道履修者でない春樹が来ることを了承するという、署名だった。面識のない学校の隊長の名前もあることから、予想以上に春樹に興味を持つ人間が多いらしい。
「ここで来ないという返答はありえないだろう?」
しっかりと外堀が埋まった状態での説得、もとい命令に春樹は従わざるを得なかった。
「分かった…行くよ。」
どうにも乗り気ではないが、渋々春樹は了承した。
そして講習会の当日、早朝の金沢港にフェリーが泊まっていた。
「車入れてくる、先に船に上がってろ。」
「分かったよ。」
ランサーのエンジンを始動し、フェリーに乗り込む。係員の誘導で車を止める。横には見たことのある黒い車と赤い小さな車が止まっていた。
「アイツも来てるのか…。まあ、副隊長だしな。」
鍵をかけ、船内に上がる。戦車道連盟が用意したこのフェリーには既に多数の学生が乗っていた。
「あーお久しぶりですわー!」
真っ先に走りながら声をかけてきたのは、案の定ローズヒップだった。
「朝から元気だなお前は。」
「はい!楽しみで昨日は眠れなかったのですわよ!」
修学旅行前の小学生のようなことを言う。まあ、この行事も修学旅行のようなものだし仕方がないか。はしゃぐ彼女の後ろには、ダージリンとオレンジペコの姿もあった。
「お前のところは三人なのか?」
「私はダージリン様のお世話係として来ましたのよ!」
よほど嬉しいのか、ローズヒップは飛び跳ねながら喜びを表現する。
「ローズヒップさん…あまり飛び跳ねると…。」
「ローズヒップ、はしたないわよ。もう少し慎みを持ちなさい。あなたは聖グロリアーナ学園の代表としてここにいるのよ?」
「わ、わかりました…ですわ。」
ダージリンとオレンジペコのお叱りを受けてシュンとしたローズヒップは、ダージリンの後ろに下がる。
「ごきげんよう春樹さん。」
「そちらもお変わり無いようで。」
噂によればダージリンが主導で今回の特例を認可する運びになったそうだ。
「ったく、余計なことを…。」
「何かおっしゃって?」
「いいえ、なんでもございませんよ。」
学ラリも終わり自動車部にとっては大きな行事が一つ去り、少々暇になっていたところだ。
「他の学校には頻繁に現れるのにウチには全然来ないんだな。」
「だって、あなたの学校に行こうとしても全く連絡が取れないんだもの。手紙を送っても届かずに返ってくる事の方が多いの。」
何とかならないかしらとダージリンはため息をついた。その後ろでオレンジペコが「ダージリン様は行き過ぎです…」と呟いていた。
身近にも苦労している人間がいるんだなと春樹は同情の視線を送った。
「んなもん俺に言われてもねぇ…。」
「あら、頻繁に黒森峰には行くのに?」
「そこまでではないでしょう?第一聖グロには何度も行ってるし。なあ、ローズヒップ。」
「はいですわ!今度こそは負けませんわよ!」
予算がふんだんにある聖グロは頻繁にラリー他、自動車部主催のモータースポーツが催される。
それを見にダージリンも頻繁に姿を現してる。開会の挨拶や特別賞授与で何度も春樹と顔を合わせているはずなのだが―
「あなた自動車の事になるとずっと上の空なんですもの。」
大会中はずっと車の事を考えているせいか、目の前でダージリンが青筋を立てて栄誉を讃えていることさえ気付かずにいることの方が多い始末だった。
「私を無視するなんて言い度胸ね。」
「いえいえ、お嬢様が麗しくて目に眩しかっただけですよー。…ふっ。」
春樹が鼻で笑った瞬間ダージリンは人差し指を春樹の胸板に突き立てた。
「褒めるなら最後までちゃんと褒めなさい。まったくもう。」
「はいはい、ごめんなさいね、ダー…じりんさん」
すんでのところでダーおばあさんと呼ぼうとした口を噤んだ。
「まあ、良いわ。ちゃんと来てくれたことに免じて今日はこれくらいにしておいてあげる。行くわよ、二人とも。」
「それでは失礼します。」
「ごきげんようですわー!」
「あ、ローズヒップ。あっちに着いたら車見せてくれよな。」
「もっちろんですわー!」
ローズヒップはこちらに手を振りながら二人の後を追って行った。
「ほんと犬みたいだなアイツは。」
さしずめやんちゃな中型犬と言ったところか。ダージリンに叱られてシュンとするところは本当に犬の様であった。
「…腹減ったな。」
聞けばここの食堂は結構豪華らしい。普段から野生的、もとい質素な生活をしている春樹はとても楽しみな要素であった。食堂には既に多くの学生が並んでいた。テーブルの方を見渡すと既にミカが食事を取っていた。塩サバ定食を受け取り空いている椅子を探す。窓際に一席空いている場所があった。
「あ、春樹君。」
丁度その相向かいにみほの姿があった。その横には同じ制服の生徒がいた。
「西住殿、お知り合いでありますか?」
「うん、あっちの学校にいた時にお世話になったの。継続高校の本田春樹君。」
「成程ーそうでありましたか!私は大洗女子学園二年の秋山優花里であります!」
トーストを食べながら敬礼をする。
「前良いか?」
「うん、大丈夫。優花里さんも良いよね?」
「はい、問題ありません!」
お言葉に甘えて春樹は席に着き朝食を食べ始める。
「やっぱお前が代表なんだな。」
「うん、会長さんに頼まれちゃって。それに私が一番戦車に詳しいし。様子も知ってるからって。」
あの署名には大洗の代表としてみほの名前が書いてあった。つまりは、みほが大洗の隊長をやっているらしい。
「そういやこの船ってどれくらいで着くんだ?」
「えっと夕方に青森港に着いて、次の朝に北海道に到着。そこからはバスまたは自家用車で研修所まで…って、予定表見てないの?」
早朝にミカに押し付けられた乱雑に束ねられた紙の中に入っているかもしれない。
「知ってるだろ、ウチの隊長がずぼらだって。」
「あ、あはは…。」
みほはオレンジジュースを飲みながら苦笑いをする。
「あの、研修中に本田殿が整備を実践してくださると聞いたのですが、本当なんですか?」
そんなこと初めて聞いたぞ。ってことはたぶんあの紙の中に…。
「おそらくな。…はぁ、整理しておくか。」
まだ時間はたくさんある。とりあえず船内を色々見てみよう…。整理はそれからで良いや。
味噌汁を啜りこれからの予定を組み立てる。
とりあえず船外へ出てみると思いのほか強い海風が吹いていた。その影響か生徒の姿もあまり見えない。だがそんな環境こそ好む人間がただ一人いる。
「おや、こんな風が強い中どうしたんだい?」
「お前こそ。帽子飛ぶぞ。」
ベンチに座りいつものようにカンテレを弾いていた。風で煽られ少しだけ浮き上がったミカの帽子を押さえつけながら、その横に座る。
「噂通り美味かったな。何食った?」
「サンドイッチとコーヒーだよ。もう少し濃いコーヒーでも良いかな。ハルは?」
「塩サバ定食。」
「美味しそうだね。」
よほど食事が気に入ったのか、カンテレの音色は弾んでいた。しかし、突然ぴたりと演奏が止まった。
「でも、ハルの作ったご飯の方が好きかな。」
「…そーかい。」
資料についての文句は止めておいてやろう。再びミカの演奏が再開される。
「一曲どうだい?偶にはハルの音も聞きたいな。」
まあ、時間もあるしたまには良いか…。制服の内ポケットからハーモニカを取り出す。戦車道七不思議の一つ。生徒はほぼ全員楽器が弾ける、携帯している人間も珍しくない。選択制の授業が多い継続高校ならではの七不思議だ。ちなみに七不思議はあと100ほどあるらしい。
「朝食後のまったりした時間も悪くないね。」
「…こんだけ風が強くなけりゃな。」
まあこれなら拙い演奏もほかの人間に聞こえることは無いだろう。
「良いじゃないか。こうして二人だけの演奏に浸れるんだから。」
「そーだな。」
ミカの演奏は凄く合わせやすい。こちらの癖を即座に聞き取り、一番気持ちのいいテンポで演奏してくれる。まるでカンテレを弾きながら指揮されているような感覚だ。流石戦車の中でカンテレ弾きながら指示を次々と出してるだけはある。
”ハル、少し走りすぎだよ。もっと丁寧に。”
そんな言葉が聞こえたような気がして、ハーモニカに吹き込む息を調節する。
”いい感じだよ”
ミカの演奏に乗っていると、気が付いたら夢中になってハーモニカを吹いていた。そして、いつの間にか目の前に人だかりができていた。気恥ずかしくなったので春樹はミカを置いてそそくさとその場を後にした。
「車も触れないし…どこか気の休まるところは無いものか…。」
案内図を見ると、どうやら運動ができるスペースがあるらしい。ならいっそのこと体を動かそうか。そう思い立ち、春樹は船の後方へ向かった。運動場ではバスケットボールや、テニスをするスペースがありそこにはちらほらと生徒の姿が見えた。しかし、陸上用のトラックには全くと言って良いほど生徒の姿はは無かった。
「ハッ…ハッ…ハッ…!」
「フゥ…フゥ…。」
その中で黙々とランニングをする二人の人影があった。先にトラックに来たのは春樹だった。ジャージに着替え、準備運動がてらランニングを初めて10分後にもう一人の生徒が来たのだ。ほどなくして、その生徒に追いつかれる。抜かれるのもしゃくなので、ペースを上げる。また追いつかれる、ペースを上げる。
「アンタ、いつまで走る気よ…!」
「お前がギブアップするまで。」
「ふ、ふん…残念ね、なら一生走ってなさい!」
顔を合わせれば煽らないと気が済まないのか、いつの間にかマラソンからサバイバルレースに移行していた。どちらかが提案したわけでも無く、一周回るごとに0.5秒ずつペースを上げていく。ジョギングから駆け足へ、そしてついにはダッシュするペースまで上がる。
「「ハァ…ハァ…ハァ…」」
54秒を過ぎたあたりで二人は同時に倒れ込んだ。
「なかなか…やるじゃねーか…」
「アンタこそ…思ったより…粘ったじゃない…」
水分補給をして、休憩を入れたから二人は場所を室内プールに移した。競技用の水深が深く、長さも50メートルある屋内プールは案の定がら空きだった。ストレッチをしてからプールに入り泳ぎ始める。しばらく自由に泳いでいたが、休憩中に隣が泳いでいることに触発されたのだろう。次第に休憩が減り、泳ぐ時間が伸びていった。
「お前、なんのつもりだよ…。こっちは好きに泳ぎたいってのに…。」
「そっちこそ、何むきになってペース上げてるのよ…休めば良いじゃない…。」
気が付けば既に昼を回る時間になっていた。体が栄養を欲しがり、悲鳴を上げている。筋力も内臓もすっかり使い果たした二人は、無言で食堂に向かった。
「げ…なんだこれ。」
昼の食堂は予想以上に混雑していた。恐らく天気が悪く、テラス席が使えないことが原因だろう。席は既に満席状態で、ゆっくり食事を取るのは難しそうだ。
「何か買って、どこかで食うか…。」
「そうね…。」
サンドイッチとコーヒーを買い、二人は図書室近くの飲食用スペースで食事を取る。
「やっぱ美味いなここの飯は。」
新鮮な野菜は噛んだ瞬間パリッと千切れ、ハムとチーズの組み合わせも最高だった。おまけにパンもしっかりと小麦粉の香りが広がる。
「本当に美味しそうに食べるわね、アンタたちは…。」
「本当に美味いんだから仕方ねーだろ。」
「…そう。」
コーヒーを飲みゆったりとした時間が流れる。学食から移動したのは正解だったと、小さく笑うエリカだった。
ピークが過ぎ、人の数もまばらになった食堂でまほは焼き魚定食を食べていた。
「やあ、黒森峰の隊長さん。遅めの昼食かい?」
そんな彼女の横にミカが現れる。その手には大盛のかつ丼が乗ったトレイがあった。
「隣失礼するよ。」
「……ああ。」
ミカは手を合わせてから、かつ丼を一口齧る。サクッという音が小気味よく響く。
「お昼ご飯なんだからもう少し食べた方が良くないかい?」
「午前の運動量を考えればこれが妥当だ。それに、私は黒森峰の代表。遊びに来たわけでは―」
「折角の機会なんだからもう少し贅沢しても良いんじゃないかな。」
そう言ってミカはカツを一切れまほのご飯の上に乗せる。
「それに今日は他の学園との交流も兼ねてるんだよ?」
「……そうだな。」
まほは一理あると感じたのか、焼き魚の切り身をミカのご飯の上に乗せた。
「ハルの言った通り、美味しそうな魚だね。」
焼き魚を口に運ぶと、小さく「うん、美味しい。」と呟いた。
「そう言えばあの氷のような副隊長さんはどうしたんだい?」
ミカに言われて食堂内を見渡すが、彼女の姿らしき人影は見当たらない。いくら規律の厳しい黒森峰とは言え今は休憩中。規律を重んじるとはいえ、そこまで雁字搦めにする必要があるとは思えない。
「そういうお前のところはどうなんだ?彼の姿は見当たらないが。」
「ハルの事かい?そうだね、確かに気になるかな。」
いつの間にかミカは大盛のかつ丼を綺麗に食べ終わり、手を合わせていた。そして片目でまほをちらりと見る。
「どうだい、一緒に二人を探してみるのは。」
「……良いだろう。」
程なくしてまほも昼食を取り終わり、手を合わせ食器を返却した。
「で、なんでここの図書館には戦車の図面があるんだよ。」
戦車道連盟が絡んでいるとは言え、ここまで徹底して戦車道絡みの書籍が多いとは予想していなかった。
「頼めばデータで送ってくれるわよ。」
「それはスゲーや。」
PCの画面に出力されているのはティーガーⅡの図面だった。全体の組図から、各部品の細かい部品図まで余すところなく揃っている。こんなものを眺めて、いったい何をしようというのか尋ねてみる。
「どうしても動きが鈍いのが気になるのよ。エンジンを整備して少しは改善されたけど。」
「まあ、やるなら軽量化だな。俺は一馬力上げるよりも1kg下げる方を優先させる派だ。」
「それは分かってるわよ。だけどそれで装甲が弱くなったら元も子もないでしょ?」
それもそうかと春樹は主に動力系の部品をメインに呼び出した。
「壊れたら走行不能の認定を受ける部分はこことここ。だから手を出す奴も少ない。」
強度を保ったまま軽量化を行うことが出来れば理想だ。一見矛盾しているようなオーダーだが、それは材料置換や形状変更などでクリアすることができる。最近は炭素複合素材(カーボン)の技術の進歩で、戦車の外装は見た目以上に頑丈に、軽くできている。しかし内装や車体の主要なユニットは鉄を使われている箇所が多い。まだまだ改善の余地はたくさん残されている。ちなみに継続高校はいち早く部品形状の研究を進めていて、今年は大きな改善が見られたところだ。恐らく昨年の2割ほど運動性能が上がっているはずだ。それを言うわけにはいかないが、まあヒントくらいなら良いだろう。
「ここの部品は基本圧縮応力しか受けない。だから大胆に形状を変更しても問題は無い。」
そう言って春樹は次々と新しい部品の設計図を作っていく。
「よし、お前もやってみろよ。その様子じゃ勉強もしてんだろ?」
「……。」
設計図の書き方を教わりながら、エリカは自分の戦車の設計図を書き換えていく。
「なかなかいい感じだな。」
「そ、ありがと。」
そっけなくエリカは答えるが、内心はほっと胸をなでおろしていたのであった。
「運動場にもいないか…。」
「後は図書館かな?あそこにはハルの好きそうな本がたくさんあるからね。」
船の中を探すこと数十分、二人は未だに春樹たちの姿を見つけることが出来ないでいた。
「やっぱり黒森峰の隊長ともなると、人の目を引き付けるんだね。」
すれ違う生徒の殆どがまほの顔を見ると、端に寄ったり顔を強張らせたりしている。今年の優勝校はプラウダだが、世間一般では高校戦車道の顔はまだ黒森峰のようだ。
「あまり気にしたとこは無いのだが…。」
「気にする必要は無いんじゃないかな。君はそうである資格と義務がある。」
「…良く分からないが、分かった。」
まほ自身のさほど気にもしていないらしい。会話はそこで終了する。二人は何も話さないまま、図書館の扉を開ける。しんと静まり返った暇を持て余した生徒たちが各々好きな時間を過ごしていた。
「あそこだね。」
ミカの視線の先にはPCの前で突っ伏している二人の姿があった。午前中はあれだけハードな運動を行い、午後には頭を使ったため疲労も限界に来ていたのだろう。昼寝と呼ぶには深い眠りだ。
「ハル、こんなところで寝ていたら身体を痛めてしまうよ?」
そう言ってミカは春樹の肩を揺すろうとするが、その手をまほが止める。
「もう少し寝かせてやれ。」
「良いのかい?天下の黒森峰が不純異性交友を見過ごして。」
まほはミカの言葉に静かに首を横に振った。
「これが不純に見えるか?」
机の上のノートには図面に負けないくらいびっしりと数式の羅列が書いてあった。これだけで二人が熱い議論を交わしていたことが垣間見える。そして、PCの画面上には”ティーガーⅡ完成図”という名前のファイルが保存してあった。
「…確かに、こんな寝顔初めて見たよ。」
安心しきった春樹の寝顔は同居人のミカでさえ見たことが無い、無邪気なものだった。互いの後輩に自分の上着をかけてから、二人はそっとその場を後にした。
青森を出発したフェリーは日が昇り始めた頃に目的地の北海道に到着した。自家用車で来た学校はそれぞれの車に、それ以外の生徒はバスに乗って研修所まで向かう。バスと並んで水色、黒色、赤色の車が並んでいた。程なくしてバスを先頭にして発進した。
「ところでハル、移動中のフェリーは楽しかったかい?」
「…退屈はしなかったな。そっちは?」
「十分楽しかったさ。」
ミカは膝の上に置いているカンテレを爪弾く。しかし、車内の騒音のせいか音色は耳に入ってこなかった。
「ダージリン様、私たちはこれからどこへ向かうんですの?」
ローズヒップは助手席に乗って紅茶を飲むダージリンに尋ねた。
「そうね…大きな湖があって、高い山と地平線まで届くような高原があるわ。」
「それは楽しみですわー!」
「それはそうとローズヒップ、ちょっと飛ばしすぎではないかしら?」
ダージリンの眼には、外の景色がまるで早送りのように過ぎ去って見えた。無理もない、普段彼女が乗っているチャーチルの最高速度は下手をすれば自転車にすら抜かされる速度なのだから。さらに旧車に部類されるこの車は、車体剛性が脆弱で少しの段差でギシギシとボディが軋むのだ。剛性の塊である戦車とは雲泥の差だった。慣れない人間が乗ったら恐怖心を感じるのも無理はないだろう。
「たったの60km/hですわ、ダージリン様!」
時には100km/h以上の速度を出して林道を爆走するローズヒップにとっては、安全速度の範疇であった。
「それにしても私たちはともかく、よくプラウダが男子生徒を認可しましたね。」
オレンジペコが後部座席から、ひょこりと顔を出した。
「ああ、そのこと…だって、あちらも男子生徒を連れてくるのだもの。認可して当たり前でしょう?」
「それ…初めて聞きましたよ?」
「あら、そうだったかしら。」
スピードの恐怖心を隠すように笑みを浮かべるダージリンにジトっとした視線を送るオレンジペコだった。
「はぁ、あちらの黒い車は乗り心地が良さそうね…。」
窓から吹き込む風は、学園艦に比べたら湿度は少ないが気温は些か高めであった。
「隊長、寒くは無いですか?」
「ああ、大丈夫だ。…やはり空調は便利なものだな。」
三台のうち唯一エアコンが付き、サスペンションも良く動くポロGTIは恐らく一番快適な移動手段のはずだ。
「プラウダの男子生徒というのは、彼と同じ整備担当ですか?」
「そうだ、プラウダには自動車部は無い。故に戦車道に専念できる。」
「…成程。」
継続高校の生徒が黒森峰で、戦車の整備をしている。このことは主要な学園艦、主にダージリンが良く訪問する学園には知れ渡っているはずだ。そして、それに対してプラウダ高校があまり騒がないことを考えれば、あちらにも優秀な整備技術を持つ人間がいると考えて良い。カチューシャの性格を考えれば、この研修は自分のカードを披露する絶好の機会となるはずだ。
「あちらの男子生徒は彼とは違い、あまり他校の戦車には興味が無いらしい。」
「まあ、今日の今日まで知らない人間の方が多かったわけですからね。」
目の前を走る赤い車と水色の車の前を走る大型のバス。あの中にその男子生徒がいるはずだ。車を走らせることおよそ1時間。戦車道の研修所に到着した。
「各自割り当てられた部屋に向かい、荷物を置いてください。10:00より研修について説明を行います。」
資料によれば、ミカは黒森峰の二人。春樹は件の男子生徒と一緒の部屋割りだった。
「…まさか、こんなとこで会うとは思わなかったな。」
「うん、僕もそう思う。」
部屋には既にプラウダの男子生徒がいた。
「ランサーのタービンは順調?」
「ああ、問題なく使えてるよ。また頼むわ。」
「壊したタービンももう少しで直るよ。」
「そうか、これで安心してぶん回せる。」
春樹の言葉に男子生徒は怒ったような表情を見せた。
「これだからアンチラグは嫌いなんだよ。タービンばっかに負担かかるから。」
それはともかく、と男子生徒はコホンと咳払いをする。
「ちゃんと顔を合わせるのは久しぶりだね。春樹君。」
「そうだな、由治。」
宮田由浩(ゆうじ)それが彼の名前だった。そして春にランサーのタービン一式を任されている人物である。
「近々また頼むわ。今年はエンジンいじったから、寿命が早くてね。」
「はいはい。まあ、こっちも色々勉強できるから良いけどさ。」
「ユージ!まだ準備してないの?さっさと行くわよ!」
突然長身の生徒と、一見小学生と見間違いそうな小さな女生徒が入ってきた。
「あ、うん。今終わったところ。二人とも早いね。」
「あったり前でしょ!いつでもカチューシャは一番じゃないといけないんだから!」
「楽しみでずっとソワソワしていたんですよね?」
「うるさいわね!ほら、さっさと行くわよノンナ!ユージ!」
「はい。」
「うん、それじゃあ先に行ってるよ。また後でね。」
まるで冬の嵐のようにプラウダの三人はあっという間に、姿を消した。
「…ずいぶん明るくなったな。アイツ。」
友人の思いもよらない変化に、喜びをあらわにする春樹であった。
「事前に配布した資料の通り、今回は初めて整備研修が行われます。各校の足りないところ、伸ばしたいところなど、きちんと把握していただきたいと思います。」
今日はその整備研修が主な予定のようだ。本格的な研修が始まるのは明日からだ。
「それでは継続高校の本田さん、プラウダ高校の宮田さんは準備をお願いします。」
二人は立ち上がり、連盟が用意した分解された戦車の方に向かった。
「春樹君、これが事前に受けた質問事項をまとめた資料だよ。」
そう言って、春樹に紙の束が手渡される。
「……やっぱエンジン関連が多いな。」
「どこも苦労しているみたいだね。」
「オーケー、ならエンジンは俺がやる。フォロー頼んでいいか?」
「うん、分かった。」
時間も限られているため、あまり多くの事は教えることは出来ない。ならば、どの程度までが自分たちで出来るのか、外注の境界線はどこからかを教えるべきだろう。
「それで、本田君は素直に気持ちを伝えられるようになったのかい?」
「…何の話だ。」
「同じ学校のあの人はもちろんだけど、黒森峰の白い人とか聖グロの元気な子とか。」
「ミカは居候、エリカとローズヒップは車仲間だと俺は認識しているが?」
はぁ…と由浩は深いため息をついた。
「女の子は泣かしちゃだめだからね?」
「……。」
その忠告は時既に遅く、ちょっと前にある人物の涙を見てしまっていた。そんなこともあり春樹はバツの悪そうな顔をしていた。
「そういうお前はどうなんだよ?暫く見ない間に随分明るくなりやがって」
「僕は…」
「由浩、冷たい飲み物はいかがですか?」
そう言って長身の女生徒が現れた。春樹は彼女の事を知っていた。プラウダ高校の副隊長であるノンナという生徒だ。
「ありがとう、丁度ほしいと思ってたんだ。」
由浩はノンナから水の入ったペットボトルを受け取る。
「そちらのあなたも。」
「ああ、ありがとう。」
間近で立つと身長差はおよそ10センチほど。今まで出会ってきた中で一番の長身だった。恐らく昨年までの春樹であったら、少し見上げる高さにいただろう。
「どうかしましたか?」
「いや…別に。」
身長が伸びた今でも、長身の女性に対して少し苦手意識を持っている春樹だった。
体育館と同じくらいの広さはあるであろう、ガレージに生徒全員が集まっていた。そこには講義用に用意された戦車が一台鎮座していた。事前に受け取った資料を踏まえて、今回の整備研修は戦車の応急処置について執り行うことにした。巨大なスクリーンには、春樹の目線と同じ高さに設置されたカメラの映像が映し出されている。そしてもう一つのスクリーンには由浩が事前に作成した資料のスライドが写っている。
「確かにエンジンは精密機械だ。下手に手を出すと故障する可能性もある。競技にとってマシントラブルは避けたいところだろう。」
エンジンルームを開くと、埃と油で黒ずんだ鉄の塊が現れた。パーツクリーナーを吹きかけて掃除をした後に、ボルトに油を注入する。
「だけど、消耗品の交換や点検を行えばある程度の性能を自分たちで保つことができる。今回はそのやり方を教える。」
ドレンボルトを外すと、真っ黒なオイルが出てきた。
「今行っているのはエンジンを潤滑するオイルの残量と、汚れ具合の確認です。戦車によって場所や形状は異なりますが、やり方は共通です。」
実際に春樹が整備をする映像を元に、由浩がその補足や説明を行う。質問が出た場合は、分かる方が答えるという方式をとった。
「これがノッキングを起こしたエンジンの音だ。この音が聞こえたら即刻修理に出すこと。でないと、ブローするぞ。」
スピーカーから出てくる音を聞いて、エリカは恥ずかしそうに身じろぎする。何を隠そう、それはいつだったかエリカが壊したティーガーⅡのエンジンの音であった。
「これらの整備は特別な道具も、大掛かりな設備も必要としない。心がけるのは一つだけ、自分の戦車にはきっちり向き合うこと。それだけでいい。」
エンジンルームを閉じ、エンジンを始動させた。マフラーから煙も出ず、油圧や回転数も安定した数字を刻む。
「これで整備研修は終了だ。長時間お疲れだった。」
周りの反応は概ね良好であった。ただし、一人を除いては。
「いつの間にあんな音取ってたのよ!?」
「本当は偵察がてらのつもりだったんだがな、思いのほか良い資料がゲットできたよ。」
「…まぁ良いわ。即席の割には良い授業だったんじゃないかしら?」
やはり鋭いエリカにはバレていたようだ。
「ウチの馬鹿が直前まで言わなかったからな。知ってたらエンジンばらすのも考えたんだが。」
「整備に関しては殆ど素人な子が多いから必要なかったわね。」
「まあな、これでもう少し戦車を見る目が変わってくれれば御の字だ。」
突然で驚きはしたが、この授業自体は春樹は大歓迎だった。”戦車道”を通じて戦車や機械そのものについてもっと興味を持ってほしいというのが、春樹の本音だった。戦車道は他の武道と比較して、道具の特徴も大きく反映される。その特徴を掴むこともとても大切な要素なのだ。
「おぉい!まだここにいたんすかー!」
広場にペパロニの元気な声が響く。そのまま勢いよく春樹たちの下へ走る。
「どうしたそんな慌てて。」
「どうしたもこうしたもないっす!今から昼ごはん作るっす!」
「行こう。どこだ?いや、この匂い…食堂か。」
ほんの微かだが、トマトソースの匂いが食堂の方から漂ってきていた。
「相変わらず、食べ物にはすぐ食いつくっすね~。」
「うるせー行くぞ。」
春樹は急いで匂いのする食堂へ急いだ。
「おー、やっと来たなー!さあ、どんどん食べるんだぞ!」
丁度アンチョビたちが大量のパスタを作っている最中だった。大きな鉄板を使って様々なパスタたちが作り上げられていく。
「アンツィオさーん!お代わり!」
「任せろ!まだまだあるぞ!」
食堂は大盛況で、皆美味しそうにパスタを食べていた。
「相変わらず美味そうな匂いだな。」
「もちろんだ、アンツィオはいかなる時もパスタには手を抜かない。さあ、何でも作るぞ!何を食べたい?」
「前食べたにんにくを聞かせた…なんて言ったっけ?あれが良い。」
「ペペロンチーノだな、任せておけ!」
オリーブオイルでニンニクを炒め、手早く唐辛子とパセリを投入する。暫くしたらパスタのゆで汁を入れた。
ジュワー…と、ゆで汁とオイルが絶妙なバランスで乳化していく。
「そぉれ!」
黄金に輝くパスタが、ソースと絡み合い、まるで宝石のように輝く。
「そら、アンチョビ特性ペペロンチーノだ!残さず食べろよ!」
ニンニクを初め、シンプルながら間違いなく香りを引き立てている香辛料が春樹の腹の虫を刺激する。
「頂きます。」
春樹はパスタを一口食べると、無言のままあっという間にパスタを平らげる。
「良い食べっぷりっすね~。」
「食べさせがいがありますね。」
今度はまだチーズがジュウジュウ言っている、焼きたてのピザが差し出された。
「マルゲリータっす!」
それはいつか春樹をラリー中にさらって言った作戦と同じ名前のピザであった。
「お、ついにピザ作れるようになったのか。」
「ハイっす、カルパッチョから付きっ切りで教わったっす!」
焼きたてのピザは面白いようにチーズが伸び、案の定変なところで切れたチーズが服についてしまう。
「あー、もう少し落ち着いて食べたらどうだ?ほら、拭いてやるからじっとしてろ。」
アンチョビが取り出したハンカチで春樹の胸元を拭く。
(作業服越しだと分からないが、結構がっちりした体つきをしているんだな…。)
「あんまり男性の体を観察するのは如何かと思いますが?」
「確かにハルは筋肉質だけどね。」
いつの間にかアンチョビの背後にエリカとミカが立っていた。柔和な笑顔を浮かべる二人だが、静かな威圧感が放たれていた。
「そ、そんな変態チックな真似…ち、違うぞ!?私はただ服の汚れを…。」
「姐さん言い訳は見苦しいっすよ、素直に言っちゃえばいいじゃないっすか。」
「ち、違うと言ってるだろー!」
長いツインテールを振り回し、顔を赤くしながらアンチョビは否定の言葉を叫んだ。
「春樹さーん、準備できましてよー!」
「よーし、やるか。」
合宿所の敷地内にある大きな駐車場に、いくつものパイロンが並べられている。
「これはジムカーナですの?」
「そうだ、車体感覚の練習にはもってこいだぞ?」
駐車場の隅にはシビック、ランサーの2台が並んでいた。
午後の自由時間、パイロンを並べている春樹を見つけたローズヒップがすぐに車を引っ張り出してきたのだ。
「コースは自由だ。車に負担かけすぎるなよ。」
「はいですわ!」
まずは春樹が手本としてランサーに乗り込んだ。ゆっくりとスタート地点まで車を移動させて、コンピュータのスイッチを入れる。
その瞬間、アイドリングが1500回転付近を大きく移動し、不定期なリズムを刻み始める。
「よし、行くか。」
一速に入れ、油圧式サイドブレーキを引き、アクセルを踏み込む。
ブォオオオオ!パンパンパパン!
少しずクラッチを繋ぎ、車が前に出ようと沈み込む。その瞬間サイドブレーキを放し、アクセルを踏み込んだ。
シャシャシャ…
タイヤは空転するが、白煙は上がらない絶妙なスタートだった。まるでカタパルトから打ち出された戦闘機のように、暴力的な加速で一番奥のパイロンに突っ込む。ブレーキで速度を落とし、ハンドルを切りながらサイドブレーキを引いた。リアタイヤがロックし、車が横に滑り出す。アクセルとハンドルで調整し、ぐるりとパイロンを回る。右バンパーがパイロンを擦りつけるようにして次のパイロンに向かって最短距離で加速する。再びサイドブレーキを使いながら細かいスラロームを抜けていく。
「すごい…まるでタイヤに目が付いてるみたい!」
普段のラリーとは違い、繊細なコントロール技術を見せる春樹の運転にローズヒップは驚きを隠せないでいた。
「こんな感じで出来るだけパイロンに近い場所を通るんだ。最初はぶつかるかもしれないが…まあ、相手はプラスチックだ。」
次はローズヒップの番だ。古い車独特の金属同士がこすれ合うような、未完成ともいえるエンジン音を響かせながらゆっくりと動き出す。操舵は最低限に、操作も極力ゆっくりで各部に負担をかけない運転だった。しかし、無駄が無くなった分スピードも上がっていた。
「随分うまくなったなアイツ。」
ラリーに参加し始めた当初から素質はあったが、クラスを変えてからメキメキとその頭角を現し始めた彼女は春樹にとっても楽しみな存在だった。
「まあ、新車を任されるぐらいだしな。」
走行を終えたローズヒップが、不満そうな顔で帰ってきた。
「どうした、どこか調子悪いのか?」
「車は調子抜群。ただ―」
ちらりと春樹のランサーを見る。自分の車で運転するのは楽しいし、それはかけがえのないもの。ただ、折角だから大会に出てるような車で練習をしてみたいのも事実だった。
「…次は俺のランサーに乗ってみるか?」
「ほ、本当!?嘘じゃないよね!!」
さっきから素の口調が出てしまっているローズヒップは、身を乗り出しながら春樹に詰め寄った。
「ああいう小回りを使う道もあるしな。SSSじゃもっと生きるだろうし。」
早速ローズヒップを助手席に乗せ、パイロン教習を始める。
「お前の事だから頭で理解するより、見た方が早いだろ。行くぞ。」
先ほどと同じようにアクセルを踏み込んで加速する。
背中のシートが強く体を押し出す。そしてブレーキ。今度はシートベルトが自信の体に食い込む。
サイドブレーキを引く。強力な油圧式サイドブレーキは、軽々とリアタイヤをロックさせる。
クラッチを繋ぎ駆動力を取り戻したタイヤは、今度はホイールスピンを起こす。白煙が出ない理想的なトラクションをかけながらパイロンをくるりと回った。
「凄い…やっぱり外からよりも中で見た方が分かりやすい!」
ローズヒップは春樹の運転を自分の目に焼き付ける。今の自分には何が足りないのか。それを自分よりも速いドライバーの走りを見て比較する。
彼女にとって一番手っ取り早く、確実な方法だ。
「よし、次はお前の番だ。」
途端にローズヒップの表情に緊張の色が浮かぶ。自分がラリーという競技の世界に足を踏み入れるきっかけとなった一台。そして、目標としている車に乗ることが出来るのだ。
一度車から降りて、小さく深呼吸をする。
「……よし。」
フルバケットシートに体を預ける。身長差のせいか、普段乗るWRX‐STIよりも視点が低い。
「パイロンは見えるか?」
ローズヒップは静かに頷く。
「よし、行ってこい。」
そう言って春樹はアンチラグシステムのスイッチを入れた。
その瞬間、車がまるで猛獣のような唸り声を上げ始めた。
1速に入れると、ドグミッション独特のガキン!という音が響いた。彼女にとっては聞きなれた音だ。
回転数を上げ、クラッチを繋ぐ。
スムーズに加速したランサーはすぐに一番奥のパイロンに到達した。
ブレーキを踏み、減速する。荷重が前に移りだしリアタイヤの接地が無くなっていく。ハンドルを右に切る。さらにタイヤは遠心力で左側へ引っ張られる。
サイドブレーキを引く。前方向の摩擦(グリップ)がゼロになり、後輪が横向きに滑りだした。早めにパイロンに近づいた車は、徐々にパイロンから離れていく。
クラッチを繋ぎアクセルを開けながらハンドルで修正。何とか次のパイロンの方向を向いた状態で脱出することができた。
「もっと外側から入れ。無理に小回りしようとしなくていい。FRとかFFとは違うんだから。」
春樹の言葉に従い、ラインどりを外側に取る。アクセルを踏み込み、LSDが外側のタイヤを駆動させる。予想以上に巻き込んだのか、パイロンにもろにぶつかった。
「ごめん…。」
「それくらいで良い。俺たちはラリー屋だジムカーナ屋じゃない。」
ラリーにはちょっと触っただけで怒り出すパイロンも、細かに決められた蜘蛛の巣のようなコースもない。ただ峠道を、街中を、山道を誰よりも早く走る。それだけだ。
「お前の運転を外から見てたんだがな、茂みが深い道だとインカットを躊躇うことがあるだろう?」
「……うぅ。」
「聖グロの連中は確かに行儀の良いラインどりをする。安全を重視したノートづくり、ラインを基本にしてそこからマージンを削ってる。」
確かにその走り方は間違っていない。サーキットのようなクローズコースとは違い、ラリーは一般道を使った競技だ。未整備でうねる道もあれば、道路わきに石も落ちている。先の見えないコーナーでも躊躇なく突っ込んでいかなければならない。
「長期休暇にでもウチに来い。継続流の走り方を教えてやる。」
聖グロの上品な走らせ方と、継続の走らせ方を学ばせたらどこまで彼女が早くなるのか。それが春樹は楽しみで仕方が無かった。夕食は合宿所であるホテルからバイキング形式でふるまわれることになった。
「北海道の魚ってこんなに美味いのか…。」
「ハルの料理だって負けてないさ。」
「いや、これは素材から調理法まで完敗だ…何でこんなに完璧な味付けが…。出汁か?」
ミカが満足げに魚介類を味わっている横で、春樹はスープの味の分析を真剣に行っていた。
「それはそうと明日からキャンプだろ?お前ちゃんとやれるのか?」
「問題ないさ。去年も一昨年もしっかりと食料は調達したさ。」
「どこから?」
春樹の質問にミカは微笑んだまま何も答えなかった。明日から二日間、二人一組のチームを編成しキャンプ研修が行われる。道具も必要最低限、食料も寝床も自分達で準備しなければならない。
ただの高校生に対して少々厳しい内容であるかもしれないが、継続高校の二人は例外であった。
何を隠そう、普段から半自給自足の生活を送っているのだから。
「それでは、こちらに張り出されている番号の生徒と班を組み、準備ができ次第支給される物資を受け取ってください。」
大きなスクリーンには班番号と、割り振られた生徒の名前が映し出されていた。まぁ、どうせ男同士で組まされるんだろうな…。そう思いつつ春樹は自分の名前を探す。身長が頭一つ抜けているとは言え、解像度の低いスクリーンと細かい字の組み合わせは最悪だった。
「ちょっと、どこに行くのよ。」
スクリーンに近づこうとしたところでエリカに引き留められた。
「もう少し近くで自分の名前を探そうと思ってな。」
「必要ないわよ。」
そう言ってエリカはネームプレートを春樹に渡す。
16班 本田春樹
そう書かれていた。エリカのプレートにも16班と書かれている。
「大丈夫か?男と一緒にキャンプなんて。」
「あんたじゃ無かったら延々文句言ってやったわよ。」
エリカはやれやれと言った感じで小さく肩をすくめて見せた。他の生徒の組み合わせが気になり、春樹はもう一度スクリーンを見た。
20班 カチューシャ・ミカ
この組み合わせが意外であり、何より一番不安であった。キャンプの内容は指定された地点まで向かい、課題をこなすというものだった。移動方法に関しては特に制限はない。公共交通機関や、タクシーを使っても良いらしい。
「んじゃ、車使うか。場所は?」
「ここよ。」
手渡された地図に印がつけられていた。
「山のほぼてっぺんじゃねーか…。」
「どっちの車にする?私はどちらでも良いわよ。」
「お前の車が良い。今の時間にランサーに乗ったらサウナだぞ。」
「…そうね、それは勘弁願いたいわ。」
荷物を持ち、春樹たちは車の方に向かった。
ウゥゥン……
静かにエンジンが始動し、小さくアイドリングを刻む。ポロGTIは1.8Lにスーパーチャージャーとターボチャージャーが付いたスパルタな仕様であるが。その実、まさにドイツ車らしい堅実な車だ。エリカは北海道特有の広い道路を静かに走らせる。
「この車はいつも乗ってるのか?」
「…一応毎日は乗るようにしているわ。」
「それは良い心がけだ。」
国道から細い林道に入る。蛇のようにくねった道がしばらく続き、次第に森林が生い茂り始めた。
エアコンを止めて窓を開けてみた。ひんやりとした心地よい風がエリカの肩までかかる髪を優しく撫でる。
「…近くに川があるな。」
耳を凝らすと、水が石を叩く音が微かに聞こえてくる。
「良く聞こえるわね。」
「伊達に整備士してないからな。」
日ごろから微かな異音を聞き分けている春樹にとっては造作も無いことだった。同様に、遠方の相手戦車の音をいち早く察知するスキルを要する戦車道を行っているエリカにとっても言えたことだった。
「ところで支給された物資って何が入ってるんだ?」
「テントと寝袋、緊急連絡用の無線機、ナイフ、マッチ、カメラ、非常食…まあ、そんなところよ。」
寝床がしっかりあるのはありがたい。鞄の中にはいろいろなキャンプ道具が入っていた。
「…おい、食料がねーぞ。」
いくら鞄の中を漁っても非常食が見当たらなかった。代わりに一枚の紙きれが入っており、そこには「ありがたく貰っていくよ」とだけ書かれていた。
「やられた…。」
まさか既にサバイバルが始まっているとは、思いもしなかった。確かに食料調達は自由と書かれていたが…。
「恐ろしや、継続の手癖の悪さや日本一ってか。」
「感心してる場合じゃないでしょ、どうするのよ!」
「まあ、落ち着け。ちょいと進路変更だ。」
非常食はあくまで非常食。春樹は地図上に書かれている畑のマークに目を光らせていた。
「その…良いんですか?運転を頼んでしまって。」
「彼女は私の付き人。何も問題は無いわ。…でしょう?ローズヒップ。」
「もちろんですわ!ダージリン様のためなら山でも谷でも…川だって渡っちゃいますわよ!」
それは勘弁願いたいものだと、由治は苦笑した。
「ところで、どちらに向かっているんですか?」
「この先に素敵なコテージがあるの。今回はそこで宿泊するわ。」
つまり荷台に積まれたこのキャンプ道具はこの二日間用済みというわけだ。キャンプと聞いて野宿を想定した由治だったが、これは予想外だった。
「確かに宿泊形式については何も言われてませんでしたね。」
「ちなみに由治さん。あなたは料理は出来るのかしら?」
「…まあ、一応は。」
「素晴らしいわ、今年はとても素晴らしい巡り合わせね。」
昨年はまほと当たり、お互い料理が出来ないこともあり二日間”素材の味を存分に生かした”料理を味わうことになってしまったのだ。
しかも、移動手段は今年のように車ではなく徒歩。重い荷物を背負い直射日光と、アスファルトで反射した熱で汗を拭いながらなんとか目標地点まで歩かなければならなかった。その日は非常食を少し齧った程度で、疲労からテントを設営した直後に眠ってしまった。次の日は何とか川を見つけ、身体を洗いサポートブックを頼りに食べられる山菜やキノコを集め、何とか川の小魚を捕まえ―
文字通りのサバイバル生活を送る羽目になったのだ。
「それに引き換え、今年はなんて素晴らしいのかしら。綺麗なベッドで眠ることが出来るのよ?それに紅茶を楽しみながらゆっくりとした時間を過ごせるの…あぁ、本当に素敵な巡り合わせね。」
昨年の事がよほどトラウマなのか、ダージリンはいつもの優雅な笑顔ではなく少し興奮気味の年相応の少女のような笑顔だった。普段の彼女からは考えられない、珍しい表情。それを見ることが出来るのは、彼にとってとても幸運なのだろう。願わくば、そんな彼女の幸せを壊したくない。しかし、これを訪ねてしまえばそんな彼女の笑顔が失われてしまうかもしれない。ただ、宮田由治はこれを聞かずにはいられない性分だった。
「ちなみに、食材はあるんですか?」
ピシリとダージリンの笑顔が凍り付いた。
「はいはい、こんなので良かったらいくらでも持って行って。どうせいつも余らせてばかりだから。」
「助かります!本当に、ありがとうございます!」
小麦粉が入った袋を抱えて春樹は小麦農家の老夫婦に頭を下げた。
「ここら辺も昔は戦車道で賑わってね、あんちゃんたちみたいな学生は久しぶりだなぁ…。」
「戦車道、頑張ってね。」
「はい!大切に、美味しく頂きます!」
もう一度頭を下げ、大きく手を振りながら春樹とエリカは老夫婦と別れる。
「これで、大体の食料は揃ったな。」
ポロの二台には段ボールが1箱増え、そこにはじゃが芋やニンジン、玉ねぎといった野菜たちが詰まっていた。そして、そこに小麦粉が追加される。
「まさか牛肉が貰えるとは思いもしなかったな。」
「ええ、これで食糧問題は解決ね。」
「そうだな。よし、目標地点に向かうとするか。」
車重は重くなったが、ポロのツインチャージャーエンジンには何の影響も無かった。指定された場所の近くの駐車場に車を止め、歩いて向かう。春樹はキャンプ道具一式と、野菜の入った段ボールを、エリカは小麦粉が入った袋と地図を持つ。
「少しくらい持つわよ。」
「問題ない、気にするな。」
平静を装うが、その実少しだけ無理をしていた。譲れない男の意地と言ったところか。川の音が少しずつ近づき、やがて視界が開けた。
「…ここか?」
「そうみたいね。」
川辺特有の湿った涼しい風が吹く。澄み切った透明な水は、心地の良い冷たさだった。
「よし、明るいうちに準備を終わらせよう。」
「そうね。」
日没までだいぶ時間が残ってはいるが、備えは早く終わらせるに越したことは無い。春樹は慣れた手つきでテントを設営していく。
「お前、この研修は来たことあるのか?」
「今年が初めてよ。去年は隊長と、あの子だったから。」
「成程、ちなみにこういったキャンプの経験は?」
「……無いわ。」
エリカは静かに首を横に振った。意外だとは思わなかった。地べたの上で野宿をするよりも、ログハウスのテラスでコーヒーを飲んでいる姿の方が遥かに似合っている。言動の一つ一つから溢れてくる品の良さは誰から見ても明らかだ。育ちの良さというものは、どうにも現れてしまうものらしい。
「それなら薪拾いでもやってもらおうか。できるだけたくさんな。」
「分かったわ。」
軍手をはめ、エリカも自分の仕事を始める。
「あんまり遠くに行くなよー。」
「分かってるわよ、子供じゃあるまいし。」
そう言ってエリカは河原沿いに薪を探し始めた。
「さて…こっちも始めるか。」
周りの小石などをどけて、出来るだけなだらかな地面を作ってからテントを設営する。支給されたテントは確かに二人用であったが思いのほか小さかった。確かに女子高生二人が使うのであれば問題は無さそうではあった。
「……くそ、こんなところで予算ケチりやがって。」
愚痴をこぼしながら、万が一風で飛ばされないようにテントを固定する。そんな時だった、エリカが春樹を呼ぶ声が聞こえてきたのは。
「どうした?」
「これ、使えそうじゃないかしら?」
そう言ってエリカはある方向に視線を送る。そこには綺麗なドラム缶とバケツが置いてあった。
「でかした、持ってくぞ。」
「ドラム缶も?」
明らかにドラム缶風呂に使えと言っているようなものだったが、エリカは気が付いていないらしい。いや、そもそも存在を知らないと言った方が適切なのかもしれない。
「ああ、その簀の子もな。」
明らかに新品の簀の子やバケツをドラム缶に放り込み、二人で運んだ。
「よし、休憩がてら昼食にするか。」
石を囲って作ったかまどに薪を積み上げて火を起こす。乾いた薪はすぐに燃え移り、瞬く間に火が大きくなっていった。
「さーて、何から食うか。」
「こんな綺麗な場所で宿泊を…すごい。」
「ええ、素敵な場所でしょう?」
ダージリンは足取り軽く、コテージに入っていく。その後を追うように、ローズヒップと由治は荷物を持って歩き出した。
木と石で作られたその建物は、まるで英国の古風な建物の様であった。
「とりあえず紅茶でも用意しますね。」
由治はキッチンへ向かい、手荷物から茶葉が入った缶を取り出すと慣れた手つきで紅茶を淹れる準備を始めた。
沸騰する直前までお湯を沸かし茶葉に注ぐ。開いた紅茶の茶葉が対流で踊りだす。
蒸らすこと数分。カップを温めておくのも忘れない。
「出来ましたよ。」
人数分の紅茶をカップに注いで渡す。ダージリンは丁寧な手つきで一口紅茶を飲む。
「なかなかね、及第点を差し上げますわ。」
「それはありがとうございます。」
今まで見様見真似の独学で入れてきた紅茶が、少しだけ認められたようで由治はほっと胸をなでおろした。
「それはそうと、彼女に買い物を任せて大丈夫ですか?」
車持ちのローズヒップが買い出しに行くこと自体は理にかなった判断だ。しかし、由治は一抹の不安を感じていた。
「大丈夫よ、あの子は大家族で育った身。安くて良いものを見分ける目はとても優秀よ。」
「それは…意外ですね。」
お嬢様学校として有名な聖グロリアーナ女学院にもそのような境遇の生徒がいるとは。
「確かに時々”無理”をしている雰囲気が出てましたけど。正体はそれでしたか。」
「あら、あなたもなかなか良い目を持ってるのね。」
「それほどでも。そう言えば”お茶請け”は何が良いですか?」
「そうね…”サルミアッキ”以外だったら何でもいいわ。」
由治は空になったダージリンのカップに紅茶を注ぎながら、スコーンでも焼きましょうか?と柔和な表情で言った。
「ところで、俺たちの指令って何?」
「これよ。」
エリカは手荷物から一枚の紙を取り出す。
「えっと…次の地点まで移動し、21:00丁度に照明弾を打ち上げよ。照明弾ってのはこれか。」
春樹は鞄から打ち上げ花火のような筒を取り出した。
「今何時だ?」
「20時を回ったところよ。」
既に日は完全に落ち、明かりは春樹たちが囲んでいる焚火だけだった。
「場所はあの高台か…なら歩いて行けるな。」
エリカたちのいる場所から少し遠い場所に、展望台のようなものが星に照らされてぼんやりと見える。
「よし、行くか。」
手荷物をまとめて焚火を消す。すると、満点の星空が広がった。少し薄暗くはあるが、しっかりと足元まで見える。
「これなら懐中電灯も必要ないわね。」
「そうだな。」
高台に向かって二人は歩き出した。
耳に入ってくるのは川の音と、虫の声と、動物除けの鈴の音だけだった。互いに無言で、黙々と歩みを進める。
しかし、嫌な沈黙では無かった。むしろこの沈黙に居心地よさすら感じていた。
ひやりとした風が二人をさらう。やはり北海道は夏と言えど、少し冷えるようだ。しかし普段から緯度の高い航路を進む学園艦で、しかも風通しの良い家に住んでいる春樹にとっては慣れた天候だった。
「お前、寒くないか?」
「動いてるから大丈夫よ。」
今は動いているからさほど寒さは感じないだろう。しかし一度運動を止めれば、途端に寒さを感じるはずだ。
…コーヒーでも淹れてやるか。
およそ20分歩くと、目的地の高台の下にたどり着いた。実物は思ったよりもしっかりとした作りで、見上げる程の高さがあった。
らせん状の階段を上り、高台の頂上に着く。休憩用のベンチが置かれているだけの簡素な高台だった。
「おぉ…これはすげーな。」
高さのあるおかげか、そこからは海まで見渡すことが出来た。遠くの町の光が海に反射し、水平線で星空と溶け込んでいた。
「良い景色…。」
指定された時間までおよそ30分ほど余裕がある。暫く二人はじっとその景色を眺めていた。
「ダージリン様~準備が整いましたでございますわー!」
照明弾を地面に設置したローズヒップがダージリンを呼ぶ。
「ありがとう、ローズヒップ。後はお茶でも飲みながら待ちましょう。」
いつの間にか用意したのか、折り畳み式のテーブル上には湯気を上げる紅茶とブルーベリーのタルトが置いてあった。
「お口に会えば良いんですが…。」
ダージリンは優雅な手つきで、タルトを一口食べる。
「とても美味しいわ。ねえ、あなた私たちの所に転校する気は無いかしら?」
「女子高だから無理だと思いますよ。…それに。」
「ふふふ、ノンナさんが怒るかしら?」
「分かっているなら言わないでください。…まったく。」
時計を見ると21:00まであと五分だった。
そう言えば本田君はちゃんとやってるのかな…。折角の機会なのだから、もう少し自分に素直になっても良いのになぁ。
それに彼女もあまり素直じゃないみたいだし。このままじゃずっと平行線だろうなぁ…。何かよからぬことを考えている人もいるみたいだし。
「由治さん?女性の前で他の女性の事を考えるのはマナー違反よ?」
「それは申し訳ありませんでした。紅茶のおかわりは?」
「もちろん頂くわ。」
まあ、いざというときはちゃんと行動するから大丈夫か。
紅茶を注ぎ終わると、自分の分のカップにも紅茶を入れる。香り高い湯気が由治の鼻腔をくすぐった。
「ローズヒップ、そろそろ時間よ。」
「30秒前。」
「ラリーじゃないんだから10秒前からで良いわよ。」
照明弾の発射装置につなげられたスイッチはエリカが持ち、時計を見ながら春樹が時間を読み上げていた。
「しょーがねーだろ、癖なんだから。15秒前。」
「はいはい、あんたの好きにしなさい…。」
呆れた表情でエリカはスイッチの安全カバーを外した。
「10秒前、9、8、7―」
春樹が残り時間の秒読みを始めた。
「3,2,1、feuer。」
スイッチを押し込むと、バシュ!と照明弾が打ち上げられた。同時刻にあたりから一斉に照明弾が打ち上げられる。空高く飛翔したそれらは、やがて一つの模様を描いた。
「これは…。」
「あん、こう…?」
そう、それは大洗の戦車に描かれたパーソナルマークのアンコウだった。
今年から復活した大洗女子学園に対する歓迎の意を含めているのだろう。
「なかなか粋なことをするな、連盟のお偉いさんは。」
「…そうね。…っ!」
エリカが寒そうに身を縮こませる。流石に冷えてきたのだろう。
「用は済んだし戻るか?」
しかしエリカは首を横に振る。
「もう少し付き合いなさいよ。」
どうやら寒さよりもこの景色を楽しみたいようだ。
「けど寒いだろ。無理すんな九州人。」
「うっさいわね…。」
エリカは座ったままコーヒーを入れる準備をする春樹の隣に移動する。
「これで少しは紛れるわ。」
二人の間は少しでも体を動かせば密着しそうな程しかなかった。
「動きにくい。」
「別に嫌じゃないんでしょ?」
「……。」
春樹は何も言い返さずに淡々とコーヒーをがりがり挽く。
「今日は妙に素直だな。」
「…隊長に言われたのよ。もう少し素直になれって。」
「そうかい。」
「それはそうと、さっきの発射の合図は何の真似かしら?」
何とも言いずらい質問が返ってきた。流石にエリカが言っていた言葉の意味を調べるためにドイツ語を勉強したとは言えなかった。
「西住の妹と各校の発射合図について話したことがあってな。」
頭を掻きながらそんな適当な嘘をでっちあげる。
「ふーん、あの子とね…。で、本当の理由は?」
何故かあっという間に嘘を見破られ、春樹は思いがけずエリカの顔を見てしまう。
「ふん、あんたが何か隠してたりとか含みのある事言うとき必ずと言って良いほど後頭部に手を当てるのよ。自分で分かってないのかしら?」
自信ですら把握してない癖を見破られていたとは、案外自分の事を観察されているのだと春樹は驚いた。
「Ich liebe dich.…なんてね、寝てなきゃ言えないわよ。」
あの時以来春樹の頭の中から離れないエリカの言葉が、今はやけに大きく響いていた。
「ほら、ごちゃごちゃ言ってねーで飲め。」
淹れ終わったコーヒーをエリカに差し出す。
「はぁ、分かったわ。今日は誤魔化されておいてあげる。」
小さくため息をつき、エリカはコーヒーを啜った。
「…はぁ、良い景色ね。学園からじゃこんな景色は見られない。」
いつの間にか照明弾は消滅し、再び星空が二人を照らす。
「エリカ…お前アイツのとこと当たったらちゃんと戦えるか?」
トーナメントは既に決定していて、エリカたち黒森峰と大洗が当たるのは決勝戦になってからだった。
優勝しなければ廃校。もし廃校になってしまったら、みほの居場所がまた一つ失われてしまう。決勝まで勝ち上がり、僅かな希望にすがり全力で立ち向かう彼女たちに、砲口を向けることが出来るのか。
「愚問ね。そんなこと分かり切ってるじゃない。どんな相手だろうと黒森峰に退くなんて選択肢は無いわ。もちろん私も、手加減する気は無い。徹底的にやるわ。」
実に彼女らしい返答が返ってきた。強い意志の込められた言葉だった。
しかし、彼女の顔は苦悶の表情を浮かべていた。頭では分かっている。しかし、心の奥のどこかではまだ迷いがあるのだろうか。
「……何か言いなさいよ。」
今はまだ考える時間が必要な時だ。余計な言葉をかけてしまったら、かえって本当の気持ちが見えなくなってしまう。だから何も言わない。
―だけどその時になって迷っていたら、その背中を押してやろう。
「アル○ォート食うか?このコーヒーとよく合うんだ。」
「………ありがと。」
一口齧るとチョコレートとバター風味のビスケットが口の中で広がる。コーヒーを啜ると、甘さ、苦み、コクが互いに引き立て合い、複雑な味わいを見せる。
「うん…やっぱコーヒーは深煎りに限るな。」
春樹がコーヒーを飲むと、その右腕がエリカの左腕に触れる。
たったそれだけなのに、体の奥がかっと熱くなる。
今までこの熱さの正体が分からないでいた。分からないからずっと苛ついていた。
しかし、自覚してしまった。分かってしまった。
この感情に素直になった瞬間、今この時がとても幸せなことなのだと知った。
だからこの時間を出来るだけ長く過ごしていたい。
大丈夫、寒さなんて簡単に忘れることが出来る。
静かに春樹の方へ体重を預ける。自分の物ではない体温が血液を沸騰させる。
この心臓の音聞かれて無いわよね…。まあ、聞かれていても別に問題は無いわ。
夜の時間がゆっくりと過ぎていく。