●命のために生きること
午前八時四分。人里近くの街道。
木々に覆われている辺りを見渡せば、すぐ後ろには人里の入り口が見えるほどの場所。
そんな街道の途中で立ち尽くす一人の少女は、ただ空を見ていた。
「どうしたんですか、ゆきさん」
少女――谷沢ゆきを先導していた白髪の女性はそれを訝しげに思った。
「ねぇ妖夢さん。何でこんなに、青空なんだろう」
ゆきの左目が隠れるほどの長い前髪が風になびく。
対して、二刀を背負った白髪の少女――魂魄妖夢は「はぁ、青空ですか」と不思議そうな顔をする。
「私達は今、殺し合いのゲームに参加させられている。それにも関わらず、さっき立ち寄った村の人達は楽しそうに立ち話をしてて、犬や猫は元気に走り回っていて、空はこんなに綺麗。まるでこんなゲームが行われているなんて嘘みたい」
言葉に力が入っていないゆきを見て、妖夢は口を閉ざしている。
「これってもしかして、八雲紫って人が嘘を――」
嘘じゃありませんよ。と、ゆきの言葉を妖夢は一蹴した。
「私だって、できることならこのゲームは嘘だと信じたい。でも、そう思っている間に他の参加者が殺されています。紫様を含めた妖怪達は、このゲームに賛同しています。でも、これがただの殺し合いなら、そこまで白熱することはないだろうと思います」
「じゃあ、どうして?」
「優勝賞品ですよ。妖怪は――いえ、妖怪に限らずほとんどの生物は、皆自分の欲求に従順です。それを逆手にとって、ほぼ何でもできる紫様が、望むものを何でも渡すと言っています。これに乗らない妖怪はいません」
自分の想像していた嫌な予感が一致したことに、ゆきは俯く。
「ねぇ妖夢さん。妖夢さんは、このゲームについてどう思っているの?」
ゆきの問いに妖夢は即答する。
――最低です。
「正直なところ、幻想郷に数百年住む私にとっても、今回のことは何かの間違いじゃないかと思っています。紫様は確かに妖怪……いや、幻想郷の頂点に立っていると言っても過言ではないお方。でも、それと同時に紫様はご自身の力と威厳で幻想郷の秩序も保っています。だから、今回の事はまるでわけがわからないんです」
申し訳なさそうに答える妖夢を尻目に、ゆきは街道を歩いて前に出る。
「まぁ、どうでもいいか。どうせいつ死んでも同じだし」
「え?」
ゆきの一言を受け流すことは、妖夢にはできなかった。
彼女自身、妖夢の返答に限らず言葉の続きを話すつもりでいた。
「私、高校――って言っても分かるかな……。学校でいじめにあってるの。一つ上の三年生からも、それを見て見ぬ振りしている先生達にも」
「いじめ……」
「ちょっと返事が遅れただけで殴られたり、色々失敗しただけで凄い怒られるの。他の子達はただ注意されるだけなのに、私だけ」
「…………」
「それに比べて、人里にいる人たちは何故か皆仲良し。子供や私達くらいの年の子。おばさん達やおじいちゃん達。全員が仲良しだなんて。私達の世界では、ちょっと珍しいことよ」
「それは、そうしないといけないからだと思います」
疑問に思うゆきに、妖夢は彼女の持っている携帯電話を見せてもらえないかと言う。彼女から携帯電話を受け取った後、妖夢は話を続ける。
「私達の世界には、こういった道具がありません。ええと……これで、何ができるんでしたっけ……」
「電話とかメールとか、インターネットとか」
「そう、それです。屋外にいながら電話を使うことができたり、これを使って手紙のやりとりができる。それにその……インターネット?」
「うん。世界中の情報を調べることができるの」
「ですね。これを持っているだけで、一人で様々な情報を調べることができる。でも、幻想郷にはそれがないんです。ですから調べものをしたいときは、他の情報を知っている人間や、情報が書かれている本でしか頼ることができないんです。しかも先程の話では、そのインターネットで本も買うことができるという。幻想郷には、もちろんそんな技術はありません」
「だから、皆で仲良くせざるを得ないってことなのかな」
「恐らくそういうことかと。逆にそういった意味では、外の世界での他人の価値は、あまりないようですね」
妖夢のばっさりとした物言いに、ゆきは反論できなかった。
「ゆきさんはご友人の方々と、主にどんなお話をするんですか?」
突然の妖夢からの問いにゆきは面食らってしまう。
「え、えーと。み、皆でアニメや声優の話をしたり、漫画の話をしたり……」
と、そこで彼女は気が付いた。
「ゆきさん?」
何気なく他愛ない話をしていた自分と友人。
――あのアニメの二期は外れ。
――漫画だと良かったけど、アニメだと期待外れ。
――好きな人が出来た。夜も眠れない
――隣のクラスの人がかっこいい。でもあなたなら思い切っていけば大丈夫。
「どうしたんですかゆきさん?」
――そんなやりとりより……。
「もしもしー?」
「真剣だった」
「え?」
いじめられていた時の方が、真剣だった。
「今こうして、中途半端だけど生きようかな、としている時と、いじめられている時は、同じだったんだ」
「ゆき……さん?」
「そうだ、いじめられる前、私は退屈で死にそうだった。勉強も部活も、何にも真剣になれないで、ただ毎日を退屈に過ごしていた。『何か自分にとって転機になるようなことが起こらないかな』とさえ思っていた。そして、いじめられるようになった」
街道で立ち尽くしながら喋るゆきの話を、妖夢はただ黙って聞き続ける。
「でも、いじめられ始めてから、私はまったく逆のことを思うようになった。『何で私だけこんな目に遭う。私が何かしたというなら、お前達はどうなんだ。こんなことをして、互いにいいことなんか一つもないじゃないか』。そしていじめられ続けて、『ああ、今日もまだ生きてる』って思ってたけど……」
――それは本当は、『今日も生きている実感が出た』ということだったんだ。
ゆきはその部分だけ自分の心の中にしまい込んだので、妖夢には何が何だか分からない。
「やっぱり私は、あの世界では必要とされてないんだと思う」
「え?」
「だって、いじめられていることでしか生きている実感が味わえないなら、私は元の世界で生きていく必要はないと思うの。だから、私はここで誰かに殺されても、もしこのゲームに生き残って元の世界に戻っても、同じ。戻っても、いじめられるだけの毎日だから……。妖夢さんの様な、幻想郷にいて、しかも人間じゃないなんて、羨ましい」
ゆきは歩き出す。まるで、いつ殺してくれても構わないというほどの無防備な状態で。
ゆきのいじめがどのようなものなのか完全に理解することができないまでも、妖夢はなんとか彼女を励まそうと思った。
「で、でも私は、人間は羨ましいと思います」
「お世辞はいいよ。どうして何の取り柄もない人間がいいと思うの」
「お世辞なんかではありません。人間は確かに私達のような力は持ち合わせていません。でも、人里の人間もそうであったように、人間は私達と違って努力をする才能があるんです。先程言っていた人里の人間は、自分達が今までに経験した情報を集めて、妖怪達への対策をたてることができます。そうですよ、人間は複数で団結することができるんですよ」
「…………」
「それに、人間は私達より寿命が短いですが、その限られた命を有効に生かして、皆――」
妖夢の言葉は、「もういい」と言うゆきの一言であっさり途切れた。
「え……」
「もういいよっ! 結局人間は、頑張らなきゃ駄目なんじゃない!」
ゆきは泣きそうな表情を浮かべながら、踵を返し妖夢の方に歩み寄って行く。
「里の人達は、皆で協力して妖怪の対策を練った。つまり一対一じゃ勝負にならないってことを証明しているようなものじゃない! それに寿命。これはやっぱり、私は絶対的なものだと思う。私達の世界では、病院の技術が発達して、寿命は昔より伸びた。でも、妖夢さんの様に数百年でまだ私と同じくらいの見た目の寿命までは無理よ」
「た、確かに何かの例外でない限り、普通の人一人では人間が妖怪に勝つことはできません。でも、先程言ったように――」
「じゃあ、勝てるの?」
「え?」
「普通の人間が集団を組めば、八雲紫を倒せるの!?」
「……!」
嘘でも、勝てる、と妖夢は言えなかった。博麗霊夢、霧雨魔理沙などの例外を除けば、人間どころか幻想郷上の存在が八雲紫に勝ったという話しは噂すら立たない。彼女の圧倒的な妖力と能力は、それほどまでに強力で反則的なのだ。
「ルール説明の時、あのスキマを見て驚いたわ。例えば八雲紫さんに拳銃や……手裏剣とか。爆弾だって、あの能力で跳ね返せる。それでいて幻想郷で一、二を争う頭脳と戦闘能力って……。そんなの、人間がどう足掻いたって勝てないわよ」
「いえ、違います! 紫様に勝った人間は――」
「でもそれはたった三人じゃない! 人間全てがそうじゃないわ。それに、それは確か殺し合いじゃなくて、それこそただのゲームなんでしょ?」
「そ、それは……」
何も言い返せない妖夢に落胆したのか、ゆきは完全に背を向けた。
「多分人間は、生まれた時に全てが決まるんです。天才は生かせて、凡人は生かせられる。そんな世界なんですよ。私が住む世界は」
魂魄妖夢は、ただその場で立ち止まってしまう。それでも彼女は、谷沢ゆきを何とかして元気づけさせたいと思った。彼女は八雲紫のゲームに巻き込まれた被害者の一人。そして、幻想郷はともかく外の世界にも自分が存在する理由がないと言う。それが何だか可哀相に思えてきた。もしかしたら、元の世界に戻ることなく死んでしまうかもしれない。なら、せめてその前に、彼女に何かを伝えたい。
もしかしたら、また拒絶されるかもしれない。最悪、自分の言葉で彼女を絶望させてしまうかもしれない。それでも妖夢はあと一つ、伝えたい言葉があった。
「でも、それでも……。人間でしか思いつかないような、紫様を倒す方法がきっとあるはずです!」
「その通りよ妖夢」
言葉が聞こえた瞬間。妖夢は腰掛けていた刀に手を掛け、その数瞬後に、言葉の主が誰かを理解する。
「幽々子様」
ゆきの目にも、突然現れた桃色髪の女性が映った。
魂魄妖夢が仕えている、白玉楼の主である亡霊――西行寺幽々子。そして彼女の後ろにいるのは、パートナーの清水ちひろだった。
「妖夢さん。もしかしてこの人が?」
「……西行寺幽々子様。私が仕えるお方です」
四人は、互いに互いを見据える。後、幽々子が口を開く。
「妖夢、あなたが言ったことは正しいわ。紫に勝った者は確かに少ない。でもそれは、紫に勝ったことがある者はいるということ」
ちらりと、幽々子はゆきの方を見る。
「この人の様な非凡な人間でも――いえもしかしたら、非凡だからこそ紫を打ち倒すひらめきが隠されているかもしれないわ」
失礼なことを言われたと感じ、ゆきは少し顔をしかめる。
「私なんかが紫さんに挑んでも、すぐ殺されちゃうと思います」
「もちろんその可能性の方が高い。でも、紫はその小さな可能性のせいで、人間に負けたことはある」
言いながら、幽々子は自分よりおよそ十数センチは背の低いゆきの頬を撫でる。
「『人間はよくわからない』。紫はよくそう言ってたわ。だからこそ、こんな小さな子や、ちひろのような子が、紫を倒すきっかけになるかもしれない」
「でも、それを私に言っても無駄です」
ゆきは幽々子の手を掴んで振りほどく。
ゆきの言葉に幽々子は興味を持ったようで、「どうして?」と微笑みながら問いかける。
「私は、このゲームに勝つ気はないわ。どうせあっちの世界に戻ったって、またいじめられるだけなんだし」
「いじめられる?」とゆきの言葉に反応したのは、清水ちひろだった。
ちひろが外界参加者――人間だったことにゆきは気を許し、先程妖夢に話した、自分の現状を話す。
それを聞き終えたちひろは何も言えなく、幽々子は最初から興味がなかったかのように、「ふーん」と一言。
「だから、私は別にどっちでもいいの。元の世界に戻っても、結局はまた自殺したくなるような毎日が戻るだけだし」
「自殺……」と、またもちひろが反応したのを見て、ゆきも、そうですと肯定する。
「つい数ヶ月前。私、もう生きているのが嫌になるほどのいじめを受けて。『ああ、もう嫌だな。逃げ出したいな』と思って、自殺しようとしたの」
その事にちひろと妖夢は目を丸くする。
「『オーバードース』って知ってますか? 薬を大量に飲んで自殺する方法。私はそれを睡眠薬でしようと思っていたの。でも、市販の薬じゃその強さも知れたものってわかってたから、冷蔵庫にあったお酒と一緒に飲んだの」
その言葉に、他の三人は全員反応する。
「確か、薬とお酒を同時に飲むと、薬の効果が異常に高くなって危険なはずでは……」
幻想郷で、妖夢や幽々子もよく酒を飲んでいるだけに、その辺りの危険な組み合わせは知っている。
「それで、不思議なくらい目の前が揺れて、『ああ、これで死ねる』って思ったの。まぁ、結局は失敗したけど」
「失敗?」
西行寺幽々子が不思議そうな顔をする。
「ええ。自殺することを決心する頃には、もう朝の四時だった。そしてそういう日に限って、お母さんが私を起こす時間が早くて、私は何の障害もなく助かった。でも、死ねなかった」
それを聞いて、幽々子はくすくすと微笑む。それを気に入らなく思ったゆきに睨まれてしまう。
「あら、ごめんなさい。でも、大抵の人間はそういうものじゃないかしら。動物は死を恐れるけど、人間は死を恐れることを恐れるものだし」
幽々子の言い回しに、ゆきとちひろは思わず頭の中で考えてしまう。
でも。と幽々子は言いながらゆきの両頬を撫で、妖絶な微笑みを浮かべる。
「そこまであなたが死を望むなら、私が殺してあげましょうか」
「ゆ、幽々子様……」
「妖夢の意見なんか聞く必要はないわ。あなたが死にたいと望めば、私はいつでもあなたを殺すことができる」
「……痛みなく、心臓を貫けるっていうの?」
真顔で見当違いなことを言われたことに幽々子は笑みを浮かべ、ゆきの元から離れて一本の木まで歩いた。木に掌を当て、目を瞑る。そして一度大きく深呼吸をする。それだけを行って、木から手を放した。
「え!?」
ゆきは、信じられないような表情で木を見る。幽々子が触った木は、その部分を中心に腐っていて。あっという間に傾き、大きな音を立てて折れていった。
「あれが幽々子様のお力――死を操る程度の能力です。私にもその能力の全貌は分かりませんが、そのお力は、恐らく生物だけに収まりません」
「それ……どういうこと」
「概念的な説明で解りづらいかもしれませんが、その対象は物質だったり、液体だったり……」
――液体を殺す、って何よ。
考えている内にゆきは、幽々子に頬を触られてしまう。
「!」
「あなた、死にたいと悩んでいる割には綺麗な黒髪をしているわね。本当に悩んでいる人は、その苦悩で白髪になることもあるらしいわよ」
微笑みながら、ちらりと白髪の妖夢を見る幽々子。
「私のは、苦悩とは関係ありませんよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
苦笑しながら幽々子はゆきの方に向き直り、どうする? と、問い返す。
「私の手にかかれば死に方も選べるわよ。窒息死や心臓麻痺、ちょっと工夫すれば、凍死や失血死の症状も出せる。それとも、やっぱり老衰や安楽死の方がいいかしら?」
思わず幽々子を止めようとする妖夢を尻目に、「いいわよ」と、ゆきは言う。
「ゆき……さん」
「安楽死でお願い。眠るように……死なせて」
その言葉に、妖夢とちひろの方が、自分達の息が止まるような錯覚を覚える。
「生きていたって、元の世界に戻ったっていいことなんてないし。それなら行方不明のまま、消えてしまいたい」
悲しそうな表情のゆきに対し、幽々子は、そう。としか言わない。
「じゃあ、最後に何か言い残すことはある?」
残す言葉を考えるゆきの思考を遮るように、「待ってください!」と叫ぶ者がいた。
幽々子のパートナー、清水ちひろだった。
「幽々子さん、少し谷沢さんとお話しさせてくれませんか?」
幽々子は「しょうがないわね」とぼやきながらも、ゆきから距離をおく。
ちひろは自分とほぼ同じくらいの背丈をしているゆきの元に近づく。
「ねぇ、谷沢さん。どうして死にたいと思ったの」
さっき言ったじゃないか。そう言いたげな表情をでゆきは視線をそらす。
「どこにもわたしの居場所がないの。学校に行ってもいじめられるだけだし」
「他には、どんなことがあるの?」
「……え?」
突然追加された問いかけにゆきは目を大きく開いてしまう。それを見て、ちひろは小さく微笑んだ。
「私もね、前にちょっといじめられてた経験があるの。だからなんとなく分かる。あなたはそのいじめが原因で、何か別に、もっと大きな被害を受けた。そうじゃないかしら」
「…………」
「あなたが死にたいと願ってるなら、最後にここで思いっきり言うのも、いいんじゃない?」
生真面目な妖夢は、ちひろの言葉にも難色を示す様な表情だったが、「見ていなさい」と幽々子に止められた。
数秒経って、ゆきは静かに口を開いた。
「喧嘩したの」
「喧嘩……誰と?」
「私じゃなくて、お父さんとお母さん。私がいじめられてるって話したら、二人とも、すっごい喧嘩したの。お父さんは『お前がきちんと育てないから』って、お母さんはそんなお父さんの態度が気に入らなかったらしくて、喧嘩になった。それからずっと仲が直んなくて、それまでずっと優しかったのに……」
ゆきは涙を流し、鼻水を堪えながら、言葉を続ける。
「お母さんは……『いじめられるのは、お前の普段の行いが悪いから』って……すっごい厳しくなった……。お父さんは……『いじめられていると思うのは、お前の心が弱いからだ』って……私を無理やり学校に行かせようとした……」
「それで、何が一番嫌だった?」
頭を撫でてくれながら問うちひろに、ゆきは嗚咽を交えながら答える。
「お母さんと……お父さんが……仲が悪くなったこと。私のせいで……妹まで……些細なことで怒られるようになったこと……。いじめの話になったら……友達が……露骨に話を……そらそうとしたこと……。全部……嫌だった……」
ゆきの言葉を妖夢は半ば信じられないでいた。
「幽々子様。そんなことが、本当にあるのですか」
何言っているのよ。と言いながら、幽々子はぴしゃりと問いに答える。
「あなたの祖父――妖忌が、よくできた性格なのよ。本来の親なんてそういうのが多いわよ。子供を自分のために利用する親なんて、多々いるわ」
その言葉に対しても半信半疑のまま、妖夢はちひろ達の方に向き直る。
「ねぇゆきさん。それなら、逃げてしまえば良かったじゃない。死ぬんじゃなくて、嫌なことなんか全部捨てて」
「でも、お父さんが……」
「そのお父さんが見当もつかないような、もっと遠くへ。日本は広いんだから。あなたを助けてくれる人は、きっとたくさんいるはずよ」
優しく助言するちひろを見て、ゆきはある疑問を持つ。
「ちひろさんは……逃げたの?」
「ええ、逃げたわ。といっても、両親の許しが出るまでね」
「許し?」と問うゆきの言葉に、ちひろは自分のお腹をさする。
「私ね、十八歳だけど、もう一児のお母さんなの」
そのことに驚いたゆきは、思わずちひろの腹部を見る。
「赤ちゃんは、もう生まれたわ。一年と半年くらい前だったかな。私、付き合っていた人との間に、子供が出来ちゃったの。私や彼はその子を産みたいって思ったけど、互いの両親が猛反対してね。私達二人で、別の地方にある私の祖父母の家まで、駆け落ちしたの」
「反対……ですか」と、妖夢が横槍を入れる。
「ええ。私達の世界では、未成年で子供は早すぎるの。それに、結婚したわけじゃあなかったし。それでね、ゆきさん。それからは結局、法律的に赤ちゃんをおろせない時期まで祖父母の家にかくまってもらったわ。後は、『自分達で子供を育てる』って両親を説得させて、高校はやめて共働き。でも私は、それが私にとって最良の手段だと思っているわ」
とても真っ直ぐな眼差しでゆきを見つめ、ちひろは彼女の手を掴む。
「だからね、嫌なことがあったら、逃げてしまっていいの。人生に嫌気がさしてもそれをやり直す方法は、死ぬこと以外にたくさんあるんだから」
「…………」
「どうせなら、自分はもう死んだと思って、私達と仲間になればいいじゃない。そしてゲームで優勝して、新しい人生を楽しめるようなお願いをすればいいのよ」
ちひろの言葉に対し俯いてしまうゆきに、妖夢は近付いていく。
「ゆきさん。私もそれがいいと思います。協力しますよ」
「え……」
「私は特にこれといった望みはないので。優勝した時の望みは、ゆきさんとちひろさんの内優勝できなかった方を元の世界に戻す。そして、残り二つはあなたが人生をやり直すことができるような望みを言えばいいんですよ」
「えー妖夢。私の願いは無視するのー?」
「え……じゃあ仮に、幽々子様の望みは……?」
「そりゃあ、『食べきれない程の大福』とか」
「……優勝できた暁には、私が買ってきますよ」
「優勝できなかったとしても買ってきなさい」
「ええー」
妖夢と幽々子のやりとりに、ちひろは笑い、つられてゆきの頬も緩む。
「ゆきさん。あえてここで厳しい事を言うわ。人間やればできる。それはつまり、人間はやらないと何もできないの。だからもし、私やあなたがこれから、このゲームで死んでしまう運命だとしても、たった今からそれまでの間、全力で生きましょう。もしかしたら、あなたはそのためにここに連れてこられたのかもしれないわ」
ちひろの言葉で、ゆきは今までの自分を振り返る。
何事にも全力になれず、それなのに変化を求めていた自分。そしていじめられるようになり、それを望んでいたにも関わらず身勝手に解決してくれることを望んでいただけの自分。優勝すれば望みが叶えられると聞かされても、ただ死ぬことしか考えていなかった自分。
それらが急に恥ずかしくなり、彼女は思わず、歯を食いしばって涙を流してしまう。しかし、ちひろ達からは、その目に幾ばくかの力が入っていることが分かった。
「こんな私のために……いいの?」
「何を言ってるんですか。ゆきさんは元々私のパートナーですよ」と、妖夢は力強く答える。
「たくさんの大福と引き換えに、あなたに協力してあげる」と、幽々子は微笑んで答える。
「あなたが生きようとしたいなら、私はいくらでも力になるわ」と、ちひろは彼女の手を強く握り、答える。
――ありがとう。
その言葉は、谷沢ゆきが数年振りに、心の底から言えた言葉だった。
歯がはっきり見えるほどに微笑んだ彼女の表情を見て、自然とちひろ達からも笑顔がこぼれた。
幽々子は閉じた扇子を掌で鳴らし、他の三人を自分に注目させる。
「さて。そうは言うけど、このゲームで優勝するのは一筋縄ではいかないわ。でも……」
「紫様を倒す事自体は、それよりはいささか容易で可能性があります」
「そして一番効率的。紫だって、常人的な力しか持っていない人間のパートナーがいる。そこをどうにかして突けば、きっと勝機はあるわ」
とりあえず、歩きながら話しましょう。そう言って、ちひろとゆきを先導し、妖夢は更にその前を歩く。
谷沢ゆきは、こんな状況なのに、他人である自分のことをひたすら心配してくれたちひろ達にただただ感謝しながら、歩を進めていく。
――もし、ちひろさんに危険が及んでも、その危険から護れるようにしたい。
そう決意する彼女の視線は、ただ前だけを見ていた。