顔が冷たく乾燥した外気に撫でられて、嫌々眠りから意識を引き戻す。風が吹き荒れ木がざわざわと音を立てるのを聴いて、私はゆっくりと目を開けた。
目の前には周子の顔があり、後ろにはぴったりと志希がくっついているのはいつものことだ。このセミダブルのベッドは3人で寝るにはとても窮屈で、体を寄せ合っても幅はギリギリ、前から後ろから手足を絡め合わないと、周子の背中がベッドからはみ出してしまうほどだった。
私の1日は、2人を起こさないようにここから抜け出すことから始まった。
「んー…………ふぅ」
2分ほどの静かな格闘を経てベッドから抜け出すと、私は大きく伸びをした。今日は2月22日、巷では猫の日だなんだと騒がれているが、私達にとっては大切な始まりの日だ。不思議と不安や心配はなかった。
部屋を出て1階に降りると、ソファーの上に私の寝巻きが畳んで置いてあった。そこで初めて私が部屋着のまま寝ていたことに気がついた。昨日は何してたっけと過去を想起して、ふと違和感を覚えてその場に固まった。
昨日私はいつベッドに入ったのか思い出せない。それどころか、昨日ビールを飲み始めてからの記憶が一切残っていなかった。飲み過ぎたのだろうか、いや本番前日に記憶が飛んでしまうほど飲むはずがない。第一そこまで飲んだなら、ひどい吐き気と頭痛が今頃私を襲っているはずだ。それがないとなると、昨日の私はベロンベロンに酔っている中で律儀に二日酔いの薬を飲んだのだろうか。
「まあ、いいか」
後で周子に昨日私が何をやらかしたのか聞けばいいや、と思い出すのを諦めて、畳まれた寝巻きをかごに戻した。
そのままの足でシャワーをさっと浴び、すぐに体を拭いて、いつもの服装に着替える。男物のYシャツに袖を通すと、1日が始まるという実感が湧いて、気持ちが引き締まった。
「よしっ」
午前中から現場に入り、直前会議にリハーサル、衣装合わせに楽屋訪問まで。本番は午後7時から、出番は3番目だ。番組は9時に終わって、もしかしたら夜には打ち上げなんかもあるかもしれない。大変な1日になりそうだ。
だからこそ、今日という1日を充実した日にするためには、まずはきちんと朝ご飯を作るところから始めなければならない。私はフライパンと油を手に取った。
火にかけたフライパンに油をひいて、ベーコンを格子状にならべ、真ん中に卵を落とす。ベーコンの焼けるいい匂いがたちまち辺りに広がった。その匂いに釣られるように、階段を降りる足音が2つ。
「おっはー、柚希さん」
「おはよう、今日は早いね」
「大事な日だからねー。ほら、志希ちゃんも」
「……おはぁ……」
「うわ、志希大丈夫?」
「…………ふわぁあ」
志希は背骨を曲げどんよりとした顔で階段を降りると、大きなあくびを漏らした。ただでさえ朝に弱くいつも8時にやっと目が覚めるというのに、今日は1時間も早い。志希は周子の肩に手をかけて、立っているのもやっとという風だった。
「まだ寝ててもいいけど、どうする?」
「……大丈夫」
「志希ちゃん、顔色悪いよ? んー、柚希さん、ちょっと来て」
「ん、わかった」
コンロの火を止めて2人の元へ向かった。志希は俯いて動かず、周子はそんな志希を心配そうに見つめていた。
「志希、平気?」
「…………」
志希は答えない。私はより前屈みになって、彼女に顔を近づけた。
「おーい?」
「…………にゃは♪」
「え?」
「隙有り!」
「お、わわっ、えっ!」
志希がけろりと顔を上げ笑った。瞬間、背後に回っていた周子が私の両脇に腕を差し込み、そのまま後ろに引っ張られる。バランスを崩した私は簡単にソファーに転がされ、その上から志希が覆いかぶさって、首筋に鼻を近づけてきた。
「クンクン。やっぱこっちの匂いの方が好きだなー♪」
「ちょっ、くすぐったいってば」
「おー、志希ちゃん作戦大成功だねー♪」
「作戦って?」
「あたし早起きしたから、ご褒美にユズキの匂い嗅ぎたかったんだよねー。でも絶対素直に嗅がせてくれないから、一芝居打つことにしたんだー♪」
「どうだった、あたし達の演技?」
「……いや、騙されたよ」
「にゃはは、女優でもやっていけるかもねー♪」
志希は上機嫌に鼻を鳴らし、周子は満足の表情で腕を組んで何度も頷いていた。もう何度目かのこのやり取りも、だんだん工夫を凝らしていて、微笑ましさすら感じられる。
だけど、志希がこんなに長く匂いを嗅ぐのは初めてだった。いつもなら荒く短く台風のように去っていくのだが、今日は何かを確かめるかのように長く優しく深呼吸をしていた。
何だか照れくさくなって、私の上で体を動かす志希の背中に手をやると、志希は少しきょとんとしてから、嬉しそうにまた鼻を鳴らした。
「ふぅ、満足満足ー♪」
「シワになるから早く退いて欲しいかな」
「はいはーい」
十分匂いを堪能したらしい志希は私の上から降りて、それから大きく伸びをする。にゃははと笑う彼女はもういつもと変わらないようだった。立ち上がって服の乱れを直していると、お腹がなる音が聞こえた。
「おなかすいたーん♪」
「あたしもー!」
「はいはい、席ついてて」
「はーい!」
やれやれ、今日の朝は賑やかだ。でも、悪くはない。いつもの朝とは少し違う、心が浮き立つような気持ちで、朝ご飯の用意を進めた。
本番まであと12時間。
テレビ夕日本社ビル地下1階では、『シンデレラガールズ』のアイドル達が大部屋に集められ、待機時間を思い思いに過ごしていた。落ち着き払って椅子に座っている子もいれば、興奮して走り回る子もいる。……ってあれは周子とフレデリカか。2人は声を上げて笑いながら部屋をぐるぐると回っていた。何だか周りの子達が困ったような顔をしていて申し訳ない。一方の志希は椅子に座って考え事をしているようだ。
私はといえば、初めてテレビ局に入ったという感動や興奮に胸を踊らせつつ、それを表に出さないように腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「渡瀬さん、こんにちは」
「うえっ、あ、こんにちは、武内さん」
前を通った武内さんに声をかけられて、思わず姿勢を正す。背が高いと自負している私より10cmも上から見下ろす彼の視線は、何度見ても慣れないものだ。
「みなさん元気ですね」
「え? ああ、周子達のことですか?」
「はい。もうすぐ本番なのに、全然平気なようで」
「いえ、あれでも緊張はしていると思いますよ? ただ彼女達は落ち着いてられないだけで。武内さんが担当している子達は静かで行儀がいいですね」
「いえいえ、そんなこと」
武内さんは今現在3人のアイドルを担当している。双葉杏ちゃん、諸星きらりちゃん、神崎蘭子ちゃんだ。3人とも一箇所に固まってきちんと座っていた。
「緊張しちゃって、朝から何も話してくれないんですよ」
「それが普通ですよ。あんなに騒がれたらまた能見さんに睨まれてしまいます」
「……まだ根に持ってますか?」
「どうでしょう」
「……今度ご飯奢りますよ」
ちょっぴり嫌味ったらしく言ってみると、武内さんは少し眉を下げてそう呟いた。そのまましばらく話していると、部屋に11時を告げる時計の音が響いた。予定ではそろそろリハーサルの時間だ。
騒がしかった部屋が一変して、ピリピリとした緊張感が張りつめている。周子達の様子も少し変わって、先に座っていた志希を挟むように席につき、そわそわとその時を待っていた。その様子を俯瞰していた私も、その雰囲気に気圧されて心臓の鼓動が早くなる。
その時ガチャリとドアが開き、みんなの視線がそちらに向いた。
「シンデレラガールズさん、リハーサルの準備お願いしますー」
外からスタッフさんが顔を出してそう告げると、アイドル達は顔を緩ませ、我先にと部屋を飛び出していった。その様子を見ると、いよいよだ、という実感が湧いてきて、体がキュッと引き締まっていくのが分かった。
「いよいよですね」
「はい。何だか私の方がドキドキしてしまって……」
「渡瀬さんは彼女達と同じデビューの場なんですから、それでいいんですよ」
いつものポーカーフェイスでそう言う武内さんも、そわそわと落ち着かない様子でいつもとは違う雰囲気を醸し出している。
「武内さんも緊張するんですか?」
「……そうみたいですね」
歌手部門で腕を鳴らしていた武内さんもこうなっているのだから、私が緊張するのも当然だ、と昂る気持ちを押さえつける。武内さんは私から目を離して、どこか遠くを見ていた。
いつの間にかアイドル達はみんな部屋からいなくなっていて、部屋にいるのは私達だけになっていた。
「あ、そろそろ行かないと間に合わないんじゃ」
「……急ぎましょう、渡瀬さん」
そう言うと私達は早歩きで廊下に出た。11時15分からプロデューサーが集まって、方針の最終確認をする会議があるのだ。
階段を上って、2階に用意された部屋に入ると、もう既に私達以外の9人のプロデューサーは中にいて、能見さんが上座に座り、他のプロデューサーが順々に座っている。私は能見さんに睨まれながら、急いで下座に座った。
「さて、全員揃ったな」
能見プロデューサーの一声がこの広い部屋にこだまする。軽く方針を確認するだけのはずなのに、古瀬さんはもう臨戦態勢だ。
ピリピリとした空気が部屋を包んでいる。これから始まるであろう舌戦を思うと、せっかく落ち着けた心臓がまたバクバクと激しく鼓動し始めた。
白いステージに立ったあたしはその息詰まるような匂いにクラリと後ずさりをした。緊張感や焦燥感が張り詰める、密度の濃い空気に音が振動を加えてあたしの肌に打ち付ける。
「はい、2カメはそっちに捌けて。ここで広く映すよー。最後、センターアップ!」
大音量で音楽が流れる中でも、ステージを駆け回るカメラマンに指示を飛ばす演出さんの声が響いて聞こえる。本来なら緊張やら感動やらでどんどん感情が溢れ出す所なのだろうけど、あたしは何故だか冷めていて、軽く踊りながら冷静にカメラを目で追っていた。
11時半に始まったリハーサルだが、あたし達のやることは基本的にひな壇の順番や踊る位置を確認する程度で、歌もダンスもさほど気合いを入れて練習する訳では無い。むしろ照明の加減やカメラワークなど、スタッフがリハーサルをしていると言っても過言ではないようだ。
センターの美嘉ちゃんと楓ちゃんは、さすがに注目されているだけあって何度もアップで撮られるようだが、左翼後方に位置しているあたし達にカメラが向くのは2曲合わせて3回だけ。少ないチャンスで目立つのはなかなか難しく、リスクも高い。
「はい、リハーサル終了です! お疲れ様でしたー」
演出さんの大きな声があたしの意識を引き戻した。最後の方はもう惰性だったが、かれこれ1時間も踊っていたらしい。
「はぁ、シューコちゃん疲れたー」
「アタシもー!」
「じゃあ、あたしもー!」
隣で踊っていた2人と一緒にステージに座り込んだ。まだ冬真っ盛りだというのに空気は蒸し暑く、女の子の汗の匂いがあたしの鼻をくすぐった。ハスハス。
「やーん♪ シキちゃんヘンタイさんだー」
いつの間にか私の首はフレちゃんの近くまで傾いていた。フレちゃんの匂いはとても優しい匂いだ。思わず首筋に顔を埋めると、フレちゃんはあまり抵抗せずにあたしを受け入れた。
近くで匂いを嗅ぐと、あたしの苦手な緊張や不安の匂いもうっすらと感じられる。だけどフレちゃんの匂いがそれを隠すように強く感じられて、しばらくの間頭を撫でられながら存分に摂取した。
「志希ちゃんはいつも通りだね、全然緊張してないみたい」
「ん、まーねー。緊張してもするだけ損かなー、って思って」
「どうして?」
「だって今日は美嘉ちゃんと楓ちゃんが主役でしょ? あたし達はそれを盛り立てる役って考えたら、そんな気にすることないかなーって」
あたしが冷めている理由の1つにこれがある。新生アイドルグループだから、まずはセンターを推すという方針は妥当なのかもしれないけれど、あたしには納得がいかなかった。
「せっかくのデビューだし、アタシ達も何かしたいよねー」
「んー、考えてるプランは3つくらいあるかにゃー」
「そんなにあるの?」
「ちょっと耳貸して」
2人の耳にあたしのプランを囁く。我ながらそのプランはどれも無謀なもので、言った後に苦笑いを浮かべてしまった。
「わぉっ、面白そう! だけどそれやったらアタシ達もうテレビ出れなくなるかもねー……」
「さすがにそれは困っちゃうなー」
「そうだよね、はいじゃあ忘れて忘れて♪」
無謀な挑戦をすれば、あたしはともかく無関係なユズキにまで迷惑をかけてしまいそうだ。あたしはそのプランを頭の中から消去する。結局あたし達にはノーチャンスなのだろうか。そんなことを考えていると、3人のお腹が同時に鳴った。
「おなかすいたーん♪」
「そういえば、もうお昼ご飯の時間だねー。アタシ、ハンバーグが食べたいなー♪」
「にゃはは、フレちゃんは食いしん坊だねー」
「むむ、また太っ腹フレちゃんになっちゃう?」
「太っ腹なフレちゃんもそれはそれでカワイイんやない?」
「やったー♪ シューコちゃんが褒めてくれたー! じゃあ太っ腹フレちゃんになろうかなー?」
「にゃはは、でもあたしは今のままのフレちゃんも好きだよー♪」
「わーい、シキちゃんもありがとー! じゃあ太っ腹フレちゃんになるのはやめる!」
そんなことを話しながら未だリハーサルの余韻が残るスタジオを後にして、楽屋前まで移動した。他のアイドル達も同じように続々と移動してきている。
「ただーいまー! ……あれ?」
「あ、3人ともおかえりー」
大量のお弁当箱とユズキが一人あたし達を迎えた。
「柚希さん、他のプロデューサーは?」
「挨拶回りに行ったよ。私はみんなのこと見てないといけないからここに残ってる」
彼女の眉は八の字に垂れ下がっていた。まぁ、理由は彼女の匂いからだいたい想像できる。体のいい厄介払いってやつだ。
どうもユズキは他のプロデューサーに良く思われてないらしい。あんな嫌な匂いがするノウミさんにいびられているのは何だか癪に障るのだが、あたし達と同じくユズキも新人だから立場が弱いのは仕方がない。
「早くお昼ご飯食べよー、あたしおなかすいたーん♪」
「ああ、お弁当そこにあるから選んで持ってってね」
「おっ、ハンバーグ弁当! フレちゃんこれにするー♪」
「あたしはこっちかなー」
静かだった部屋は、帰ってきたアイドル達であっという間に騒がしくなる。あたしは適当にお弁当を手に取ってユズキの隣に座った。偶然取ったお弁当は幕の内弁当、ユズキが取った弁当と同じだ。
「で、リハーサルはどうだった?」
「結構緊張したけど、楽しかったなー」
「アタシ達ついにアイドルデビューなんだね、まだ実感湧かないかも」
「周子ちゃんもフレちゃんもいっぱい練習してきたんだから問題ないってー」
「志希は大丈夫なの?」
「にゃはは、へいきへいきー♪ 全然緊張もしてないしねー」
「それはそれで心配だけど、志希のことだからな」
嘘にならない程度にはぐらかすと、ユズキは満足そうに笑っていた。冷めている、とは悟られていないようだ。おしゃべりをしながらのんびりとお昼ご飯を食べていると、同時に2つの違う着信音が同時に流れた。
「んっ、ママから電話だ」
「あ、あたしも。柚希さん、ちょっと出てくるね」
フレちゃんと周子ちゃんはバッグから携帯を取り出すと、部屋を出ていった。そんな2人を見て、あたしは昨日感じたもやもやとした感情がもう一度表面に出てきた。
「ママ、かぁ」
あたしにはママはいない。正確にはいるけれど、連絡もつかなければどこにいるかも分からない。当然、あたしのアイドルデビューなんて知らないし、全く興味もないだろう。
だからあたしは2人が羨ましかった。そして昨日のテレビ電話で、その嫉妬はより強くなった。2人は親にいい姿を見せたいというモチベーションがあって、今日の本番をよりいいものにしようと努力している。
その点あたしはどうだ、親は両方音信不通で、アイドルをする理由もただの暇つぶし。あたしの気持ちが冷めているのは、あのステージにあたしは場違いで、カメラの前で踊るのもおこがましいという思いからでもあった。
もういっそ失踪してしまおうか、そう思った時、不意に暖かい手があたしを撫でた。
「どうしたの?」
お弁当を食べる手を止めて、あたしに微笑みかけるユズキ、その笑みはあたしの荒んだ心を癒すようで。
「……にゃはは♪ なんでもなーい、いつも通りのシキちゃんだよー♪」
「んなわけないでしょ、そんな顔して」
「…………ねぇ、キミの匂い嗅いでもいい?」
「……ったく、その言い方は私が臭うみたいであまり好きじゃないんだけど」
そう言いながら、ユズキは何も聞かずにあたしの頭を抱いた。彼女が進んで匂いを嗅がせてくれるのは初めてだ。彼女の匂いは朝とは違って冷や汗や焦りの匂いも混ざっていたが、今に限ってはそれがいいアクセントとなってあたしの鼻をくすぐった。
「……ユズキも緊張してる?」
「当たり前でしょ。……ってなんか臭う?」
「……大丈夫だよ、あたしの好きな匂い」
「そっか……」
あたしは緊張なんてしない、なんて思っていたけれど、期待してくれている人のために頑張ろうと決めた途端、感情が溢れ出してくる。
「……本番、楽しみにしてるよ」
追い討ちをかけるようにユズキが呟いた。人生一の緊張があたしを襲って、押しつぶされそうになりながら、ふつふつと湧き出す本番への意欲が混じりあって、結局電話をしに行った2人が帰ってくるまで、あたしはピクリとも動くことはできなかった。